傭兵とは、金によって雇われ、自分とは直接関係のない外国の戦争などに参加する兵士のことです。
徴兵制や志願制によって国民軍が誕生するまでは戦争では傭兵が戦うことが普通でしたし、現在では傭兵は国際法上の正式な戦闘員とは認められていませんが、アフリカや中東の紛争地帯などでは、いまだに傭兵の姿が見られるといわれます。
金銭的見返りを求めずに戦う場合は義勇兵と呼ばれ、こちらは一定の資格を満たせば正規軍と同等に扱われることもあります。
傭兵という言葉には、映画やゲームなどの影響もあって、どこの組織にも属さず、愛国心とも関係のない、職業として戦闘を行う一匹狼のプロフェッショナルのようなイメージがあり、一種の憧れのようなものもあるのではないでしょうか。
ここでは、中世から現代まで、世界史の中に登場する傭兵たちの姿を紹介していきます。
フランス外人部隊
引用:http://legion84.blog.fc2.com
フランス外人部隊は、外国人志願兵によって構成されているフランス軍の正規部隊で、創設以来180年の歴史をもち、戦争の際にはフランス軍の尖兵として、フランスの国益を守るため、世界各地に派遣されます。
部隊の指揮はフランス人将校がとり、兵士にはフランスの法律によってフランス軍人と同じ地位が与えられているため、外国人ではあってもあくまでも正規軍であり、傭兵とは区別されます。
緑のベレーや白のケピ帽は彼らの象徴的なアイテムで、シンボルマークである「7つの炎の手榴弾」は隊旗にも描かれています。
フランス外人部隊の歴史
引用:http://legion84.blog.fc2.com
フランス外人部隊は1831年に創設されました。
当時のフランスではナポレオン戦争によって兵役につける若い男子が多く戦死していて、軍を維持するのが難しい状態になっていました。
さらに、1830年からのアルジェリア侵略戦争でもフランス軍は多くの死者を出しており、国民の非難を恐れた政府は外人部隊の創設を決定します。
ナポレオン戦争において、フランス国民で構成された国民軍は傭兵部隊に対し圧倒的な強さを発揮し、ヨーロッパ各国でも国民軍の創設に向けた動きが起こっていましたが、皮肉なことにその発端となったフランスでは兵士の不足を外国人傭兵によって埋めるという政策が採られました。
しかし、外人部隊といっても、ただの傭兵ではなく、士官はフランス人が務め、正規軍の地位を与えられた、フランス人の指揮する外国人部隊という体裁をとっていました。
フランス外人部隊は、設立当初はアフリカに駐屯し、フランスの植民地を守る役割を果たし、本部も長い間、アルジェリアのシディ・ベル・アベスにありました。
1962年にアルジェリアがフランスより独立してからは、コルシカに本部を移転しています。
クリミア戦争やフランス植民地での戦い、第一次・第二次大戦からインドシナ戦争まで、フランスの関わった多くの戦争で勇敢な活躍をみせています。
フランス外人部隊は、正規軍ではフランス国民の反対が起こりそうなダーティな任務や危険な任務にも投入されています。
フランス外人部隊の仕組み 入隊から訓練
引用:en.wikipedia.org
フランス外人部隊では、将校以外の入隊者は外国人に限るという規定がありますが、実際には多くのフランス人が志願してくるそうです。
入隊の際にはアノニマという制度によって名前を変え、偽名を使用するというのが特徴で、このためにかつては犯罪者が紛れ込むこともあり、「ならず者の集団」というイメージをもたれていましたが、現在では身辺調査が厳格化されているため、そういった人間は入隊できなくなっており、高学歴の入隊者も増えています。
日本人でフランス外人部隊に入隊した人もいます。
部隊の公用語はフランス語のみとされ、契約期間は5年で、これ以降は半年や1年半、2年、2年半というように半年ごとの単位で期間を決めて契約を延長できます。
初期の契約期間満了後、2~3年勤務を続けるとフランス国籍が取得でき、15年以上勤務すると軍人恩給の受給資格が得られます。
部隊構成者の出身国は時期によって異なりますが、80~130国以上におよぶといわれます。もし自分の出身国と交戦することになった場合は、戦闘を拒否する権利が与えられています。
新兵の訓練期間は4か月で、フランス語の習得や戦闘訓練が行われますが、内容は非常に厳しく、脱落する人間も多くいます。
かつては契約満了か、再起不能な負傷をした場合にしか除隊が認められなかったフランス外人部隊ですが、近年では、訓練期間中の自発的な除隊も認めています。
あるアメリカ人ジャーナリストによると、外人部隊に一番不向きなのは中国人で、アメリカ人やイギリス人も部隊での生活に慣れることができず、脱走しやすいそうです。
フランス人も軟弱で、セルビア人はすぐ揉め事を起こすといいます。
逆に、優秀なのは、アジア人のなかでは韓国人で、最も優秀なのはブラジル人とのことです。
フランス外人部隊の編制
フランス外人部隊は、第1外人連隊・第2外人歩兵連隊・第3外人歩兵連隊・第4外人連隊・第1外人騎兵連隊・第2外人パラシュート連隊・第1外人工兵連隊・第2外人工兵連隊・第13外人准旅団・マヨット分遣隊で構成され、総数は8000名ほどです。
第2パラシュート部隊は外人部隊のなかでも一目置かれるエリート部隊で、24時間以内に世界のどこへでも展開することができます。
多くはフランス国内に駐屯していますが、第3歩兵連隊の南アメリカのギアナ、第13准旅団のアラブ首長国連邦のアブダビ、マヨット分遣隊のアフリカのコモロ諸島など世界各地にも駐屯地をもっています。
スペイン外人部隊
引用:https://elpais.com
フランス外人部隊よりはマイナーですが、スペインにも外人部隊が存在しています。
そのマイナーさからか、日本人がフランス外人部隊と間違えて入隊し、訴訟に発展したこともあります。
スペイン外人部隊は1920年、フランス外人部隊を手本としてモロッコで創設されました。
1986年には一旦外国人隊員の募集を停止しましたが、2000年代に入ってスペイン国内での徴兵が廃止されると、再び外国人隊員の入隊を許可されました。
カーキ色のギャリソンキャップと、胸元の大きく開いた水色の開襟シャツがトレードマークです。
スペイン外人部隊は、1936年からのスペイン内戦では反乱軍のフランコ将軍側で戦い、第二次大戦後には、アフリカの植民地紛争やユーゴスラビア紛争の平和安定化部隊参加などを経験し、アフガン、イラクでの多国籍軍にも参加しました。
スペイン外人部隊の編成と特徴
スペイン外人部隊はスペイン軍の伝統的な部隊編成であるテルシオを基幹単位としており、部隊規模は連隊と旅団の中間ほどです。
第1テルシオ、第2テルシオ、そして、第3テルシオと第4テルシオで第2外人旅団を編成しています。
スペイン外人部隊の兵士たちは勇敢で知られ、仲間のことは決して見捨てず、仲間の死体は何があっても回収するといわれます。
スペイン外人部隊の兵士は、男性は「Caballero Legionario」、女性は「Dama Legionario」と呼ばれ、これは「外人部隊兵殿」という意味です。
外人部隊はパレードなどで行進するときの歩調が他の部隊と違っていて、他部隊が毎分88歩なのに対し、外人部隊は毎分140~160歩とスピードが速く、小幅で両腕を激しく振りながら歩くのが特徴です。
外人部隊はマスコットとして動物を飼う伝統があり、代々ニワトリや犬、オウム、サル、猪、クマなど様々な動物が飼っていて、これはもともと非常食としての役割もあったといい、現在はヤギを飼っていてパレードなどにも一緒に登場します。
スイス傭兵
引用:https://sekaishilibrary.com
スイスといえば、アルプスの雄大な自然や時計、スイス銀行などが有名です。
なかには、永世中立国ということを思い浮かべる人もいるかもしれません。
永世中立国とは、戦争が起こった時にもどの国の味方になることもなく、中立を維持することを宣言し、他国にもそれを認められていることをいい、この場合、中立であることは国際法上の義務でもあります。
こうしたスイスのポジションが、私たちがスイスという国に穏やかで平和な国としてイメージをもっている理由ではないでしょうか。
永遠に中立というからにはさぞかし平和な国のように思えますが、実はスイスこそ、歴史的に国家政策として傭兵稼業を行い、ヨーロッパ中に兵士を送っていた傭兵国家だったのです。
もともと、スイスはドイツ・オーストリアを中心にヨーロッパで大きな勢力をもっていたハプスブルク家の領土でした。
13世紀末に、ハプスブルク家がスイス各州(カントン)に与えられていた自治権を奪って支配を強化しようとすると、これに反発したウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3州を中心にハプスブルク家の軍を破って独立を果たします。
しかし、独立はしたものの、スイスは山がちな地形で農作物があまり採れず、めぼしい産業もありませんでした。
そこで、考えられたのが、スイス兵を傭兵として世界に輸出することでした。
ハプスブルク家を破ったスイス兵の強さはヨーロッパ中で認められるようになり、その後のヨーロッパの戦争でも主力として活躍するようになっていました。
兵隊を主力産業にすると試みは成功をおさめ、スイスはやがてヨーロッパ随一の傭兵国家となっていきました。
スイス傭兵の特徴
スイス傭兵は個人ではなく、各州政府が雇用主と契約を結ぶ点が特徴です。
貴族が治める各州の政庁が地元の若者たちを部隊単位で各地に派遣するという、兵士の人材派遣業で、現在のPMC(民間軍事会社)の走りのようにも思えます。
国内に大した働き口もないため、若者たちはこぞって傭兵に応募し、その様子は「血の輸出」と呼ばれました。
傭兵産業はまた、スイス自身の安全保障という面でも効果があり、スイスは山の多い地形で攻めにくい上に、大量の傭兵という軍事力を保有することになり、きわめて侵略の難しく、侵略しても割に合わない国家となったのです。
スイス傭兵は雇い主からは規律正しさを高く評価され、勇猛さで敵に恐れられました。
それまでの戦争においては、敵を捕虜にとって身代金を要求することが常識で、捕虜は金に化ける人質として大事にされていましたが、敵を一切に捕虜にせず、徹底的に殲滅するのもスイス傭兵の特徴でした。
スイス傭兵は特にフランスを大口の顧客としており、1516年に協定が結ばれてからスイス傭兵はギャルド・スイス(スイス衛兵隊)と呼ばれて国王護衛の任務を受け、フランス革命が起こった時も最後まで国王を守って戦いました。
1874年の憲法改正で、傭兵の輸出が禁じられ、1927年にはスイス国民の外国軍への参加も禁止され、約300年におよぶスイス傭兵の歴史は幕を閉じました。
スイス傭兵の末裔 バチカンのスイス衛兵隊
引用:http://japanese.china.org.cn
バチカン市国では、国家とローマ教皇の護衛として現在でもスイス傭兵を使用しています。
スイス衛兵隊の歴史は、1505年に教皇領の常備軍としてスイス傭兵が採用されたことに端を発し、傭兵を禁じているスイスも、これに関しては儀礼的な要素が強いことから例外として認めています。
青と黄色、赤、オレンジの縦縞という特徴的な軍服は、16世紀にミケランジェロによってデザインされたといわれています。
手に斧槍をもち、兜を被ったスイス衛兵は、一見すると、まるで仮装行列のようですが、教皇の身辺警護を任された歴とした護衛兵で、軍服のポケットには催涙スプレーを隠し持ち、短機関銃やアサルトライフルを扱う訓練も受けています。
採用には、19歳~30歳までのカトリック系のスイス市民で、身長は174㎝以上、独身であることといった条件があり、3個グループ計110名が任務についています。
鉄腕ゲッツ
引用:ja.wikipedia.org
ゲッツ・フォン・ベルリヒンデンこと本名ゴットフリード・フォン・ベルリヒンデンは忠誠ドイツにおいて活躍した騎士で、鉄でできた義手を着けていたことから、鉄腕ゲッツとも呼ばれます。
ゲーテの戯曲である『鉄の手のゲッツ・フォン・ゲルリヒンデン』で有名になったゲッツですが、この作品のなかでは彼はかなり美化されていて、実際には私闘(フェーデ)や強盗を繰り返し、盗賊騎士とさえあだ名された人物です。
フェーデとは、ヨーロッパの中世歴史学の用語で、暴力など自らの力によって自分のトラブルを解決することです。
司法制度が未発達だった中世においては、日常の揉め事から国家同士の領土争いまで、すべては自分の力で解決するしかなく、貴族から平民まで、自分の権利が侵害されたときにはフェーデに訴えるということが行われていました。
この頃には、騎士道精神が説く弱者の保護や信仰心などを守らない騎士も多くなり、ゲッツもその一人でした。
鉄腕の騎士
引用:http://www.aixifan.com
ゲッツの生きた時代、ドイツでは皇帝の権力が弱体化し、国内は有力貴族や教会など様々な勢力がはびこる群雄割拠の様相を呈していました。
ゲッツのような下級騎士は、自分のもつ領土からの収入ではやって行けず、傭兵として君主に仕えることで生活を成り立たせていました。
この時代の騎士は複数の君主と契約を結ぶのが普通で、契約期間は40日という不安定雇用で、君主との契約だけでは食べていけない騎士は君主の下の貴族である諸侯たちとも契約を結ぶことがありました。
ブランデンブルク辺境伯のもとで騎士修行を行ったゲッツは、1504年、バイエルンで起こったランツフート継承戦争に皇帝側に雇われて参戦します。
この時、戦闘において敵の砲弾に当たったゲッツは、砲弾の破片によって右腕を失います。
しかし、血気盛んな性格のゲッツにとって戦いの世界に生きる騎士は天職といえる仕事で、騎士をやめることなど考えられなかった彼は、特別製の精巧な義手を作らせました。
この鉄製の義手は、きちんと剣を握れるように指関節が作られており、ボタン操作でばね仕掛けによって、瞬時に手が開くようにできていました。
ボタンを押しながら、手首の関節を角度調節もすることもでき、これを装備したゲッツは再び戦場に赴きます。
盗賊騎士
その後のゲッツは人から依頼されたフェーデを請け負ったり、自らもフェーデを起こすようになります。
最初の依頼は、ケルン市の射撃大会で優勝した人物に賞金が払われなかったため、なんとかこれが払われるようにしてほしいというもので、ゲッツはケルンの商人たちを襲撃したり、人質に取って身代金を要求したりして調定にもっていき、莫大な金を支払わせることに成功します。
ゲッツはその後も次々とフェーデを引き受けるだけでなく、自分でも積極的にフェーデを起こして利益を上げ、盗賊騎士の名の通り、傍若無人に暴れました。
ドイツ農民戦争
引用:https://twitter.com
1525年、ゲッツは当時ドイツで起こっていた農民戦争と呼ばれる農民たちの反乱で、農民側の隊長になることを依頼されました。
ゲーテの戯曲では農民のために戦った英雄として描かれているゲッツですが、この依頼にはあまり乗り気ではありませんでした。
最終的には1か月という条件付きでこれを引き受けたものの、農民たちも一枚岩ではなかったため、ゲッツの命令を聞かない者も多く、連携不足の反乱軍は各地で鎮圧されていきます。
南部ドイツで10万人の犠牲者を出したといわれる農民戦争は農民側の敗北に終わり、この責任を取らされたゲッツはその後10年近く、自らの居城であるホルンベルク城での軟禁生活を余儀なくされました。
1495年に出されたラント平和令によってフェーデは完全に禁じられ、ゲッツのような盗賊騎士たちは消滅していくこととなります。
傭兵隊長ヴァレンシュタイン
引用:de.wikipedia.org
アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタインは、ドイツ三十年戦争で活躍したボヘミア(現在のチェコ)の傭兵隊長です。
三十年戦争とは、ボヘミアでのプロテスタントの反乱をきっかけに当時のドイツであった神聖ローマ帝国で勃発したカトリックの皇帝軍とプロテスタントの反乱軍による宗教戦争のことです。
ボヘミアの小貴族の家に生まれたヴァレンシュタインはこの戦争のなかで頭角を現し、資金難に喘いで兵の徴募もままならなくなっていた皇帝に変わって、ユダヤ人資本家やオランダの銀行家から融資を集めて30000人の傭兵部隊を整えました。
ヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官に任命され、1626年のデッサウの戦いでプロテスタント軍を打ち破り、勢いに乗ったヴァレンシュタイン軍はユトランド半島まで進出します。
それまでの傭兵は占領地での略奪をもっぱらの収入源としていましたが、ヴァレンシュタインは別のやり方を考案します。
その方法は、占領地や駐留地で軍のための臨時税を取り立てるというもので、軍事税徴税権としてこれを皇帝に認めさせました。
これによって安定して戦費を調達できるようになったヴァレンシュタイン軍では、給料の未払いなどもなくなり、傭兵たちも規律正しく命令に従うようになりました。
ヴァレンシュタイン軍は最盛期には15万人にもおよびました。
しかし、自らの領地で勝手に税を徴収されるヴァレンシュタインのやり方は領主たちには不満で、もともとボヘミアの小貴族に過ぎないヴァレンシュタインの出自も帝国諸侯たちの反感を買うことになりました。
皇帝にも警戒されるようになったヴァレンシュタインは孤立し、皇帝軍総司令官も罷免されてしまいます。
それでも、1630年スウェーデン王グスタフ・アドルフが参戦すると、ヴァレンシュタインは再び総司令官に任じられます。
しかし、今度は皇帝が軍事税徴税権を握り、ヴァレンシュタインはただの雇われ指揮官になってしまいます。
ヴァレンシュタインはグスタフ・アドルフを破ることに成功しますが、そのことで逆にヴァレンシュタインの存在価値がなくなり、今度こそ皇帝から危険視されるようになります。
1634年2月、皇帝への反逆を疑われたヴァレンシュタインは、居城で皇帝軍の将校たちによって殺害されます。
彼の死後、傭兵の時代は終わりを告げ、今度は国王自身が軍事税によって強力な軍隊を作り上げるようになり、国王が絶大な権力をもつ絶対王政の時代へと向かっていくのです。
山田長政
引用:https://asianwaker.com
1590年、豊臣秀吉による天下統一が達成され、戦国時代が終わりを告げると、それまで戦場で活躍していた多くの兵たちが職を失います。
その大半は足軽や雑兵と呼ばれる下級の武士たちで、この後は秀吉の朝鮮出兵など一部の例外を除いて、日本国内で活躍の場はなくなってしまいます。
新しい稼ぎ先を探す彼らは、日本を離れ海外へと渡るようになりました。
海を渡った日本人傭兵
当時の日本はアジア各国と盛んに貿易を行っており、アジア各地には外国人街である日本街がいくつも形成されていました。
この時代には数多くの日本人傭兵がアジアで活動していたのです。
例えば、1623年、植民地競争でイギリスとオランダが一触即発となったアンボイナ事件では、イギリスに雇われていた日本人傭兵がオランダの城塞の構造を調査していたことをオランダ側が不審に思ったことが事件の発端となっていて、傭兵を含めて日本人9名、イギリス人10名などがオランダに殺害されるという事件に発展しています。
1595年にはスペイン領ルソンのマニラに1000人の日本人傭兵が居住していたという記録もあり、スペイン軍がフィリピンで400人の日本人傭兵を使って中国人の暴動を鎮圧したこともあります。
ほかに、1612年オランダの東インド会社が幕府に許可を受けて日本人傭兵300名を折ら弾の海外拠点に送り出したというものや、1616年に日本人59名と3年の傭兵契約を結んだという記録もあります。
戦国時代の日本の鉄砲保有量は世界一だったともいわれていて、武器の扱いに長け、長い戦乱の中で鍛え抜かれた日本の武士たちは、世界でも一級の精鋭だったのです。
アユタヤの傭兵隊長 山田長政
そうした海を渡った日本人傭兵のなかで最も有名で成功をおさめた人物が山田長政です。
長政は現在の静岡県にあたる駿河国の生まれで、大久保忠佐に仕えていたといいますが、1612年ごろ、長崎から台湾経由でタイのアユタヤに渡ります。
当時、タイにはアユタヤ朝という王朝があり、中国や東南アジアとの貿易で繁栄していました。
長政はアユタヤ朝で、津田又左右衛門の部隊に属し、24代国王であるソンタイ王に仕え、頭角を現していきます。
アユタヤでは、日本人傭兵をはじめ、中国人の貿易担当者やポルトガル人の鉄砲隊、インドからの移民など多くの外国人が国王に雇われ、専門職部隊を構成していました。
国王から厚い信任を得た長政は日本人義勇兵局(クロム・アーサー・ジープン)の指揮官に任命され、「オークヤー・セーナーピムック」というアユタヤ朝で序列3番となる高位の官位・欽賜名を与えられるまでになりました。
長政は長崎に商船を送ったり、マレーシアのマラッカに米を輸出したりといった商売も行い、アユタヤの王女と結婚したともいわれますが、これは伝説のようです。
しかし、1628年ソンタイ王が死ぬと、新国王プラーサートトーンは、日本人勢力を警戒し、長政の権勢も揺らぎ始めます。
長政はアユタヤを追い出され、地方の太守に任じられますが、王の放った刺客によって暗殺されてしまいます。
アユタヤの日本人たちにも反逆の疑いがかけられ、日本人町も焼き払われました。
長政は、日本やオランダの記録にはその名が登場するものの、肝心のタイの記録にはそれに該当する人物が見当たらず、謎の多い人物でもあります。
やがて、江戸幕府による鎖国政策がはじまると、日本からの海外渡航者も消滅し、アジア各地の日本人町も衰退し、やがて消滅していきました。
フライング・タイガース
引用:ja.wikipedia.org
フライング・タイガースは、日中戦争において蒋介石の国民党軍を支援したアメリカ人による義勇兵パイロット部隊のことです。
正式名称は、「アメリカ合衆国義勇軍(AVG:America Volunteer Group)といいます。
義勇軍という名前はついていますが、実際のところは義勇軍の名を借りたアメリカによる航空部隊の中国への派遣であり、100機にのぼる戦闘機やパイロットはアメリカ政府が用意していました。
シェンノートとAVG
引用:www.historynet.com
フライング・タイガースは、中国空軍の顧問として雇われていた元アメリカ陸軍航空隊大尉クレア・L・シェンノートによって創設されました。
当時、中国は首都を重慶に移転して日本軍への抵抗を続けており、日本軍の航空攻撃に対して中国側の航空部隊も奮戦していましたが、1940年から日本がゼロ戦こと零式艦上戦闘機を投入するようになると、形成は一気に不利になりました。
そこで、シェンノートは中国が日本に対抗するためには100機の戦闘機と優秀なパイロットが必要と考え、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに働きかけ、フライング・タイガースが誕生します。
フライング・タイガースの誕生
引用:http://efgf.blog.fc2.com
このとき、日本とアメリカはまだ中立を保っていたため、参加するパイロットは義勇兵という位置づけにし、いったん軍を退役することになっていました。
しかし、参加者は一時金500ドル、月給600ドル、1機を撃墜するごとに500ドルが支給され、中国での任務が終了した後は元の階級で軍に復帰することができることになっており、実質は金で雇われるという側面が強く、傭兵のようなものでした。
腕のいいパイロットだけを集めるつもりでしたが、結果的には未熟な者や戦闘機経験のない爆撃機のパイロットも多く集まり、面接官の中には「日本人は眼鏡をかけているから操縦適性がない」などと適当なことをいって募集を行う者もいました。
AVGは中国の故事からその名をとって飛虎と呼ばれ、隊員たちのフライトジャケットには現地で被撃墜や不時着したときのために「来華助戦洋人 軍民一体救護(この者は中華民国軍を援助するためにきた西洋人である。軍・民無関係にこの者を支援すべき)」と書かれた「ブラッドチット」と呼ばれる認証が縫いつけられていました。
フライング・タイガースの戦い
フライング・タイガースはカーチスP40ウォーホークを使用し、この機体は低速で運動性が悪いなどと指摘されることもありましたが、経験豊富なパイロットにとっては頑丈で扱いやすい機体でした。
AVGの任務はアメリカ・イギリスによる援蒋ルートの制空権を確保することでしたが、一部は日本軍からビルマを防衛するためイギリス軍に貸し与えられ、加藤隼戦闘隊とも激しい戦闘を繰り広げました。
日本とアメリカが戦争状態になると、義勇軍の体裁をとるフライング・タイガースを存在させておく意味もなくなり、部隊は1942年7月に解散します。
戦後、元隊員たちが「フライング・タイガース」という社名で貨物航空会社を設立しています。
ナチス・ドイツの外国人兵士
引用:http://praxis-mag.blogspot.com
ナチス・ドイツといえば、第二次大戦やユダヤ人のホロコーストなど、今では悪の象徴のようにも語られる存在です。
しかし、このナチス・ドイツの時代にドイツの軍隊に参加した外国人の数は数十万人ともいわれ、その中には自らの意思で志願した人も大勢いました。
今から考えると驚くような数ですが、どうしてこれほどの人々がナチスに協力していたのでしょうか。
武装親衛隊外国人義勇兵部隊
外国人兵士の多くは、ヒトラーの私兵であり、ドイツ第4の軍隊と呼ばれた武装親衛隊(SS)に配属され、武装親衛隊にはいくつもの外国人部隊が存在しました。
外国人兵士がドイツ兵として志願した理由の1つは、ナチスの考えに共感したというものがあります。
ドイツの他にも、ヨーロッパ各国にはナチスを模した政党が存在していて、特に共産主義を悪とする反共イデオロギーは、共産主義を嫌っていた当時のヨーロッパでは共鳴する人が一定数いました。
この理由で志願した兵士は西ヨーロッパに多く、彼らはドイツとソ連の戦いを反共十字軍と考え、自らもそれに加わろうとしました。
ドイツも西ヨーロッパの人間はナチスの理想とするゲルマン人に近い存在と考え、積極的に徴募を行いました。
フランスや、オランダ、ベルギーなど、それぞれの国の兵士で構成された部隊が創設され、フランス人で構成された第33SSシャルルマーニュ師団などが有名です。
ドイツによって侵攻された東ヨーロッパやソ連でも、ソビエト政権に対する不満をもっていた人々がドイツ軍へと参加を希望しました。
ナチスの考えでは、東ヨーロッパのスラブ人は劣った人種だと考えられていましたが、ドイツの兵力が不足してくるとそうも言っていられなくなり、ロシアやウクライナの人々で構成された部隊も創設されました。
コサックなどソ連において弾圧されていた少数民族なども進んでドイツ軍に協力を行いました。
大戦末期にソ連軍が東ヨーロッパのドイツ占領地に侵攻してくると、これらの国々の国民も自分の国がソ連に占領されるくらいならと、ドイツに協力するため志願しました。
ハンガリーのような東ヨーロッパのドイツ同盟国では、民族ドイツ人と呼ばれたドイツ系住民の徴募が行われました。
もちろん、中には半強制的に徴兵された人々も存在しています。
第二次大戦で戦った武装親衛隊兵士90万人のうち、半数近くが外国人の志願兵や徴募兵でした。
ドイツ軍には第13SSハントシャール師団や第23SSカマ師団のように、イスラム教徒で構成された部隊もあり、世界大戦の名の通り、この戦争には多くの国の人々や民族が参加していました。
外国人義勇兵の戦い
外国人義勇兵部隊の中には、第5SSヴィーキング師団のように勇名を馳せた部隊もありましたが、多くの部隊はドイツ側に戦力として低く見られ、主に後方での治安維持任務などを行っていました。
ロシア人やソ連領内からの志願兵は、ソ連に不満をもっていて、共産主義政権を打倒すために戦うことを望んでいましたが、ドイツは彼らが再びソ連に寝返る危険性を恐れ、これらの部隊をソ連と関係のない西ヨーロッパに配置したため、兵たちはすっかりやる気を失ってしまい、連合軍がノルマンディに上陸してくると、ろくに戦わずに降伏してしまいます。
戦争末期になると訓練も不十分なまま戦線に投入される部隊も出てきて、外国人部隊の多くは目立った活躍も上げられずに壊滅していきました。
1945年、ソ連軍がベルリンに攻め入った時、市内で戦っていた兵士の多くは外国人義勇兵たちでした。
ノルウェー、デンマーク人で構成された第11SSノルトラント部隊やフランス人の第33SSシャルルマーニュ部隊などで、もはやヒトラーはドイツ人からも半ば見捨てられていました。
外国人兵士たちは、すでに祖国ではナチスに協力した裏切り者となるのが目に見えていて、帰るところもなく、最後まで戦うより外に道はなかったのです。
ロス・セタス
引用:www.pinterest.jp
傭兵の雇い主は国や軍隊、民間軍事会社だけとは限りません。
それ以外の個人や組織に雇われる、私兵といわれる者もいます。
なかには、過激派や非合法組織、犯罪組織によって雇われ、私設軍隊を構成する傭兵たちもいます。
メキシコの麻薬カルテル「ロス・セタス」の傭兵たちは、そのなかでも最強クラスといえる実力、装備をもっており、アメリカ政府によって「メキシコで最も危険な麻薬カルテル」といわれています。
メキシコには、アメリカへの麻薬密売によって収益を上げる非合法組織である麻薬カルテルが20ほど存在しているとされます。
ロス・セタスはその中でもトップクラスの有力カルテルで、他のカルテルに所属していた元メキシコ陸軍特殊部隊隊長アルトゥーロ・グスマン・デセナ大尉によって結成されました。
初期の構成員たちはデセナ大尉の人脈を生かし、彼の元同僚や部下などエリート兵士30人からなり、その他にもグアテマラの特殊部隊カイビレスの元隊員やアメリカ・イスラエル・コロンビアなどの傭兵を雇い入れて組織を拡大しました。
初期メンバーの中には、アメリカで対麻薬カルテル用の戦闘訓練を受けた者もいたといいますが、彼ら自身が麻薬カルテルの一員になるという皮肉が結果になりました。
ロス・セタスは実力者を高級優遇するという広告を出し、独自に設立した特殊部隊式の基地で軍事訓練を施しました。
彼らは普通の銃器はもとより、ボディアーマーや重機関銃から対空ミサイルや攻撃ヘリ、独自の通信網まで整備し、軍隊並みの装備をもち、警官や軍隊をはじめ、麻薬栽培を拒否した農民など一般人までも容赦なく拉致・拷問・殺害しました。
2011年のモントレイカジノ襲撃事件では、みかじめ料を拒否したカジノへの報復に、4台の車から自動小銃を乱射し、52人もの一般市民を殺害する事件を起こしています。
そのほか、警察や政治家の買収なども行い、支援を受けているといわれます。
現在、初期メンバーは全員死亡しており、組織はいくつかの勢力に分かれて対立を繰り返しているとされますが、彼らが危険な存在であることに変わりはありません。
伝説の傭兵 マイク・ホアー
引用:www.socialmatter.net
マイク・ホアーは、20世紀の有名な傭兵として必ず名前の上がる人物で、アフリカで活躍した彼と彼の率いた傭兵部隊「ワイルド・ギース」は伝説的な存在として語り継がれています。
彼とその部隊をモデルにした映画『ワイルド・ギース』では、ホアー自身もミリタリーアドバイザーを務めています。
アイルランド人のマイク・ホアーは、1919年イギリスの植民地だったインドに生まれました。
第二次大戦では士官教育を受けてロンドン・アイリッシュ・ライフルズ連隊に任官し、ビルマで日本軍と戦った経験をもちます。
戦後、ホアーは南アフリカに移住し、アフリカ各地で冒険旅行を行いながら、非正規雇用の兵士となって働いていました。
傭兵部隊 ワイルド・ギース
引用:https://laststandonzombieisland.com
ホアーがその名を知られるようになったのは、コンゴ動乱での活躍がきっかけです。
1960年にベルギーから独立を果たしたコンゴでしたが、反政府勢力の活動が活発化し、政府の力だけではこれを抑えるのが難しくなっていました。
そこで、ベルギーとアメリカの承諾を得て、白人による傭兵部隊の創設が決定されます。
指揮官には、元イギリス軍将校だったホアーが選ばれました。
ホアーはそれ以前にコンゴのカタンガ州で行方不明になっていた白人の捜索を行い、カタンガ州で編成された傭兵部隊にも参加していて、その実績を買われての抜擢でした。
コンゴ政府から1000規模の部隊を作るようにいわれたホアーは、短期間に隊員を集めるため、自分のコネクションではなく、新聞広告を通して募集を行いました。
契約条件は、月収100ポンド(約50万円)、勤務期間は6か月とされ、3週間後には南アフリカやローデシアを中心に、1000人以上の志願者が集まりました。
この部隊は第5コマンドと名付けられ、部隊の愛称は18世紀のアイルランド人傭兵部隊の名前から「ワイルド・ギース(灰色雁)」とされ、「空を飛ぶ雁」が部隊マークでした。
ワイルド・ギースの行った作戦の中で最も有名なのが、1964年11月の「ドラゴン・ルージュ作戦」です。
コンゴのスタンレービル、ヴィクトリアホテルで反乱軍に監禁されている欧米人の人質救出を目的とした作戦で、ホアーはベルギー空挺部隊やCIAと協力し、多数の人質を救出することに成功します。
この成功により、ホアーはコンゴ軍の中佐になり、第5コマンドは2個大隊に拡張されました。
その後も、ワイルド・ギースは反政府組織への武器流入阻止作戦や、都市や人質の奪還作戦などを行いました。
この頃、コンゴで放送されていた東ドイツのプロパガンダ放送で、ホアーのことを「血に飢えた狂犬マイク・ホアー(verrückten Bluthund Hoare)」と呼んだことから、ホアーは「マッド・マイク」と呼ばれるようになりました。
その後、マイク・ホアーはワイルド・ギースの隊長職を引退し、それからコンゴに戻ることはありませんでした。
コンゴでは1966年に傭兵部隊の反乱が起こり、ワイルド・ギースもその後解散しています。
最後の戦い セーシェル諸島クーデター計画
引用:http://www.stampmates.sakura.ne.jp
その後、ホアーに傭兵としての大きな仕事が舞い込んできたのは、それから16年後のことでした。
マダガスカルの北、インド洋に浮かぶセーシェル諸島のセーシェル共和国で、1977年クーデターが発生し、社会主義政権が誕生しました。
それまでの政府関係者たちは祖国を追い出されましたが、再び実権を取り戻したい彼らは、抵抗組織MPRを組織し、今度は社会主義政権を倒すためのクーデターを計画しました。
この計画の実行者として依頼を受けたのが、マイク・ホアーでした。
アメリカ政府や南アフリカもこのクーデターを支援することを決め、ホアーは南アフリカで隊員の募集を行うとともに、現地調査も実施しました。
ホアーが当初に立てた計画は、まず隊員たちが旅行客を装い航空機でセーシェルに入り、武器は海路を使って極秘に現地に運び、大統領がフランス訪問でセーシェルを離れている間に計画を実行に移すというものでした。
しかし、南アフリカ情報部から海路での武器の輸送はできないといわれ、仕方なく、武器は荷物に紛れ込ませて直接現地に持ち込むことになりました。
隊員も最初は150名を集める予定でしたが、最終的には48名で作戦が決行されることになりました。
このように問題が多い状況でホアーが計画の実行を決めた背景には、ホアーと同じくコンゴで活躍した傭兵のボブ・ディナールが1977年にコモロでクーデターを成功させていて、ホアーがそのことをライバル視していた影響があったといわれます。
当時、ディナールの部隊は後方地域での治安維持を主な任務にしていたため、派手な活躍はあまりなく、そのためホアーはディナールのことを無能な指揮官と見下していて、自分より格下と思っていたディナールの成功に対する焦りもあったのでしょう。
一方、ディナールのほうはホアーのことを慎重さを欠いていて、そのせいで彼の部隊が多くの犠牲者を出していると考えていたようです。
危険な作戦
クーデター計画「アンビル作戦」は1981年11月14日、実行に移されました。
ホアーの部隊は団体旅行客に成りすまし、セーシェルの首都ビクトリアのあるマヘ島のマヘ国際空港に降り立ちました。
彼らの持っている鞄は二重底になっていて、底には自動小銃が隠されていました。
しかし、税関職員が部下の一人の荷物を検査しようとしたことから、隠してあった武器が発見されてしまいます。
このメンバーは、当時まだ17歳の少年でした。
ホアーたちはすぐさま銃を取り出し、空港警備員と銃撃戦を行い、空港を占拠します。
空港と隣接していた軍の施設をも制圧し、重火器を奪取しようとしたホアーでしたが、セーシェル軍の反撃に遭い、失敗します。
作戦の失敗を悟ったホアーは、セーシェル当局に電話して休戦交渉を行い、滑走路にあったエア・インディアの旅客機をハイジャックして脱出しました。
南アフリカに到着したホアーたちは、すぐに逮捕され、ハイジャックの罪で有罪判決を受けたホアーは、1988年まで服役することになり、その後、ホアーが傭兵として戦うことはありませんでした。
ホアーの最後の戦いが終わったこの頃から、それまでの個人を隊長として傭兵部隊が戦う時代が終わりを告げたといわれています。
その後、傭兵たちは個人ではなく、民間軍事会社(PMC)のような巨大な企業によって雇われ、戦争そのものが企業のビジネスの一部となる時代が訪れます。
まとめ
以上、世界の傭兵たちを紹介してきました。
金を貰って戦争を行う傭兵という行為は、一般的にあまりよく思われないものです。
1989年、国連では傭兵行為を禁じる国際協定が採決され、これにより、現在は国際的に非合法な存在になっています。
しかし、アメリカやロシアなどの大国、そして日本もこの協定に批准していません。
さらに、抜け道もあり、民間軍事会社(PMC)のような企業による傭兵行為は取り締まりの範囲外となっています。
傭兵は人類にとって最も古い職業の1つといわれ、人類社会の成立とともに生まれたもので、形を変えてこれからも存続していくものと思われます。