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【史上最悪】世界で最も残酷な殺人事件10選

世界では毎日様々な事件が起こっています。

殆どの事件は警察等によって解決されますが、中には同じ人間が起こしたとは思えないような残虐な殺人事件が数多くあります。

今回は世界で起こった史上最悪と呼ばれる10件の殺人事件を紹介していきたいと思います。

 

女子高生コンクリート詰め殺人事件


引用 https://blog.goo.ne.jp/

女子高生コンクリート詰め殺人事件 は1988年11月25日夕方に埼玉県三郷市内の路上で被害者女子高生(事件当時17歳)が不良少年グループに拉致された後、約40日間にわたってグループのたまり場だった東京都足立区綾瀬の加害者宅に監禁されて暴行・強姦を受け続け、1989年(昭和64年)1月4日に加害者グループから集団リンチを受けて死亡した事件です。

その後、犯行グループは遺体をコンクリート詰めにし、東京都江東区内の東京湾埋立地に遺棄しました。1989年3月以降、別の強姦事件で逮捕された加害者少年らが事件を自供したためにその全容が判明しました。

犯行グループはヤクザの幹部とのつながりをほのめかして被害者を連れ去り、まさに猟奇的とも言えるような暴行を繰り返してから殺害しました。

1989年3月29日、被害者の遺体が発見されたことから、事件が発覚しました。

警視庁は、前年12月に発生した別の婦女暴行事件及び、さらに別の婦女暴行1件・ひったくり20件の容疑で逮捕されていたA・B両名を少年鑑別所で余罪について取り調べたところ、供述通り江東区若洲の埋め立て地で発見したドラム缶の中から遺体を発見したため、翌30日に2人を殺人・死体遺棄容疑で逮捕しました。その後残りの犯人も相次いで逮捕されました。

裁判の結果主犯格の少年Aに対しては「主犯格で罪責は極めて重大」として懲役20年、

少年Bに関しては懲役5年以上10年以下の不定期刑、

少年Cに対しては「被害者を自宅に監禁し、手加減なく強度の暴行を加えた」として懲役5年以上9年以下の不定期刑、

少年Dに対しては「終始犯行に加わり、すさまじい暴行に及んだ」として懲役5年以上7年以下の不定期刑の判決がそれぞれ言い渡されました。

本事件は非常に残忍・凶悪な少年犯罪として日本社会に大きな衝撃を与えました。加害者少年宅に被害者少女が長期間監禁されていたにも拘らず、その加害者の両親も含めて少女の命を救えなかった点に激しい非難・疑問の声が上がりました。

名古屋アベック殺人事件


引用 https://summary.fc2.com

事件で殺害された理容師見習い女性Y子(当時20歳)は、1988年2月22日午後10時頃にいったん勤め先から帰宅し「女友達のところへ行くかもしれない」と家族に言い残し、父親所有の車で外出しました。

しかしY子はその女友達の家には立ち寄っておらず、同じ理容店に勤務する交際相手の理容師男性X(当時19歳)とともに愛知県営大高緑地公園にドライブに出かけました。

2月23日午前4時30分頃、県営大高緑地公園の第一駐車場でX・Yの男女2人が乗ったチェイサーを、Aを中心とする男女6人の不良少年グループが襲撃しました。

その際犯行グループは二人を滅多打ちにしてしまい、事件発覚を恐れて、拉致監禁しました。その後「顔も見られている。もう殺してしまえ」と相談し、まずたXの首にビニールロープを巻き付けて両側から綱引きの要領で徐々に引っ張るかたちで絞殺し、その翌日にはXにしたのと同様の方法で平然とロープで絞殺しました。

2人を殺害・遺棄した後、6人は名古屋市内のレストランでいったん別れ、昼には6人のたまり場だった名古屋市港区の市営南汐止荘にあるAの部屋に集結し、逃亡先を相談していたところを午後2時頃、特捜本部の捜査員に見つかり、逮捕されました。

裁判の結果Aの無期懲役、Bに対しては「本来ならば死刑を選択すべき」としながらも、犯行当時18歳未満の少年への死刑適用を禁じた少年法第51条の規定により、求刑通り無期懲役判決、Cに懲役13年、Dに対し懲役13年、E子・F子両名に対し、それぞれ求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決が下されました。

神戸連続児童殺傷事件

1997年5月27日早朝、神戸市須磨区の中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報しました。5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものと判明しました。

耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道されました。6月4日に犯人から第二の犯行声明文が神戸新聞社に郵送され、報道はさらに過熱しました。

警察の捜査により、6月28日に犯人を逮捕し、マスコミが報じていた推定犯人像(がっちり体型の30~40代)と異なり、犯人が14歳の中学生であったこと、連続殺傷事件であったことが判明しました。

逮捕後、犯人が未成年であったことから神戸家庭裁判所はAを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移され2001年11月27日 - 治療が順調であるとの判断から、東北少年院に移されました。

その後、2004年3月10日 - 成人したAは少年院を仮退院し、2005年1月1日 -Aの本退院が認可されました。その後は社会に出て真っ当な生活を送っているとされています。

ハローキティ殺人事件


引用 https://www.youtube.com

被害者は当時23歳のナイトクラブの渉外役の女性で、1997年に祖母の医薬費を調達するため、ポン引きの頭であった被告(33歳)から数千元相当の香港ドルとその他の財物(一説には麻薬の借金)を受けとりました。

3人の男(33歳、26歳、19歳)は女性に借金の返済を強く求め、妊娠した後でも依然として客をとらせるなどしていたが、被害者は返済する力がないと知って腹を立て、アパートに監禁し、被害者は1か月に渡る暴行・拷問の末に死亡しました。

男(33歳)は被害者の死亡を確認すると、死体をバラバラにすることに決め、男らは死体を浴槽で解体し、プラスチック製の袋に入れるなどして捨てたほか、頭部をストーブで煮た後ハローキティ人形の頭に詰めて縫合しました。そのためハローキティ殺人事件と言われています。

事件から2か月後、男のガールフレンドだった少女が幽霊に憑かれるという絶え間ない夢を見ていると女児院で話したことから1999年5月24日に警察に通報され事件が発覚しました。

5月26日、少女を伴って警察が捜査を開始、法医学者により人形の中から被害者の頭部が発見されましたが、煮沸されていたためDNA鑑定を行うことが不可能でした。

警察側はすぐに男らを追跡し、5月27日に1人(33歳)を葵涌麗瑤邨の潜伏先で逮捕、1人は自主的に出頭、もう1人は中国広西に逃れたが偶然警察に発見され逮捕されました。

2000年10月9日、香港高等法院が開審し、3人の被告は殺人、死体遺棄などで告訴されました。警察は初期調査で証拠が足りず、少女の供述を足して3人の罪名を殺人として告訴しました。

3人は死体遺棄を認める一方で殺人については否認し、お互いに責任をなすりつけあい、特に他の2人はもう1人の男の指示で動いていただけだと主張しました。

2000年12月6日、6名による陪審団は証拠不十分により被告に殺人ではなく故殺の罪状が認められるとしました。

ゴードン・ノースコット事件

1926年、カリフォルニア州リヴァーサイド郡で養鶏場を営むゴードン・スチュアート・ノースコットは、カナダのサスカチュワンから当時14歳の甥のサンフォード・クラークを引き取っていました。

1928年2月にラ・プエンテの溝の中で、身元不明のメキシコ人少年の首のない死体が発見されました。

さらに近所の2人の兄弟がゴードンと一緒にいるところを目撃されたのを最後に行方不明になっていました。

9月にロサンゼルス市警察はゴードンの養鶏場を捜査のために捜索しましたが、そこでメキシコ人少年の頭部を発見しました。

警察がクラークを追及したところ、ゴードンが2人の少年を性的虐待したうえで撲殺したことを自白しました。

またゴードンが母親のサラ・ルイーズ の助けを借りて何人もの少年を誘拐しては、養鶏場に監禁し猥褻行為をした挙句に殺害した後、周辺に遺体を埋めていたことも判明しました。

警察が捜索したところ骨片しか発見できなかったが、これはクラークの証言では証拠隠滅のために生石灰で処分したためであるというものでした。

なお、当時21歳のゴードンは警察が養鶏場を捜索する前にカナダに逃亡していたが、ブリティッシュコロンビア州ヴァーノンで拘束され、カリフォルニアに送還され3人の殺害容疑で起訴されました。

ゴードンは、連続少年誘拐殺人犯であった。彼は少年を誘拐してきて養鶏場に監禁し、自己の歪んだ性的欲求の捌け口にしただけでなく、時には金銭目当てに身元不明の同様な性的嗜好を持つ顧客に「貸し出して」いたというものでした。

彼ら被害者の少年は飽きて必要がなくなれば撲殺して生石灰で肉を溶かし骨を養鶏場周辺の砂漠に遺棄されていました。この作業を手伝わされていたクラークが証言した遺棄現場からは大量の人骨が発見されました。

クラークは事件の重大な証言をしたことから、司法取引の見返りとして刑事裁判では起訴されませんでした。その後氏名の変更命令を出され少年院送致となり、その後カナダに強制送還されました。

彼は事件の関係者の中では最も長生きし家庭を構え1991年に死亡しました。

北九州監禁殺人事件


引用 http://okarutotougijou.com

北九州監禁殺人事件は、2002年3月以降に福岡県の北九州市小倉北区で発覚した監禁・連続殺人事件です。

主犯格の松永太と緒方純子2名が人の弱みにつけこんで監禁をして金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶつけさせることにより相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた犯罪史上稀に見る凶悪犯罪といわれています。

第一審で検察側は「鬼畜の所業」と被告人男女を厳しく非難しました。

1年には主犯格2名には無期懲役刑が確定した。非情な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件に報道規制がかけられたとされ、事件の知名度は高くありません。当初は地元の報道機関を中心に報道をしていたが、途中から報道機関が自主規制して報道量が少なくなり、全国の報道機関での集中報道に結びつかなかったといわれています。

報道量が少なくなった理由としては「あまりにも残酷な事件内容のため表現方法が極めて難しいこと」「家族同士が殺しあった事件の性格から被害者遺族がメディアに積極露出をして被害を訴えづらいこと」があるとされています。

尼崎事件

尼崎事件とは、2012年10月に兵庫県尼崎市で発覚した連続殺人死体遺棄事件です。

1987年頃に発生した女性失踪事件をきっかけにして、2012年10月に発覚した連続殺人遺棄事件のことを尼崎事件と呼ばれています。記憶に新しい変死事件として有名です。

この主犯格とされた角田美代子は、少なくとも25年もの間、血縁関係にない人物を集めて疑似家族を作りながら共同生活を送っていました。

その事を長らく隠し続けてきましたが、2011年11月、角田美代子一家に監禁された40代女性が抜け出して警察に駆け込んだところから尼崎事件の全貌が発覚します。

尼崎事件の特徴は、角田美代子ファミリーによる監禁状態から生まれたとされます。その内容はかなり劣悪な環境の中で、トイレを我慢したり、食事を制限されたりといった出来事があったことで、家族が苦しんでいく姿が見えます。

さらに、物まねを命令することを強要は日常茶飯事。歌を歌わせてまるでキャバレーのような行動をとるようにとの命令もしていました。

また、尼崎事件の特徴的な出来事として、角田美代子本人の怒りに触れたものは物置で監禁されていたことが明らかです。

物置での監禁生活はある日突然終わることがあったことも証言がされています。これを複数の家族が行っていました。

その後、これらの行為がエスカレートし、角田美代子の指示により、殺人が横行し、遺体処理などまで全て角田美代子に操られるかのような形で乗っ取られた家族の人達が行うこととなりました。事件発覚までに10名以上を超える人が殺害されました。

その後、角田美代子は逮捕されますが、2012年12月12日午前6時20分頃、兵庫県警本部の留置所にて、主犯女Xが布団内で長袖Tシャツを首に巻きつけ、自殺を図っているのが発見され、判決を待つ事なく死亡しました。

この一連の事件では、被害者やその親族、近隣住民など、合計約50件にものぼる警察への通報や相談があったが、その多くは、身内同士の金銭トラブルや暴行などの事案ということで、事件性がない、などとして適切な対応がとられることはありませんでした。

一連の事件発覚後にその点が問題視され、香川県警と兵庫県警が当時の警察対応について検証し、不適切なところもあったことを認め、関係者に謝罪しています。

通州事件

通州事件は、1937年7月29日に中国の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件です。

通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われました。

通州は、明朝時代に城壁が築かれた街で、天津からの集荷の拠点として栄えた運河の街です。

この街には日本軍が駐屯しており、規律正しく公正さを重んじていた日本軍は、当時の支那にあって、どこの街でも庶民から歓迎されていました。

ところが、治安の良いはずのその通州で、昭和十一(1936)年頃から不穏な空気が漂いはじめました。

朝鮮人達が日本の悪口や、日本人の悪口を言いふらすようになりました。

彼ら朝鮮人はしきりに「日本は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしている」、そして「今度は支那を領土にして支那人を奴隷にしようとしている」などと根拠のないデタラメを半ば公然と吹聴しはじめました。

悪口はだんだんにエスカレートしていき、昭和十二年頃になると「日本軍と日本人を追い出さなければならない。いや日本人は皆殺しにしなければなない」と主張しました。

そうした情報はもちろん現地に駐屯していた日本軍にの耳にも入りました。

けれど、現地の日本軍は「そのような根も葉もない噂など相手にする必要はない」と、まるで問題にしませんでした。

事件当日、通州にいた冀東防共自治政府の保安隊(「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊)合わせて三千人が、通州にいた日本軍を襲撃しました。

このとき、通州にいた日本人は僅か380名です。このうち軍関係者は110名。残りは全員が女性でした。

不意をつかれた日本軍はそれでも獅子奮迅の防戦をしましたが3000名対110名では勝負になりません。

襲撃開始と同時に日本兵30名が死亡しています。その後、日本人居留民260名を、一夜のうちに極めて残虐な方法で殺害しました。

この事件は東京裁判でも証言され、歴史的事実として世界に衝撃を与えました。

「恐怖の館」殺人事件


引用 https://mnsatlas.com

「恐怖の館」殺人事件はフレデリック・ウォルター・スティーヴン・ウェストが、妻のローズとともに若い女性を惨殺し遺体を自宅の庭などに埋めた事件です。

逮捕後、自宅は「恐怖の館」と呼ばれ世界中に報道され注目されました。彼は12件を認めたが何人の女性が彼によって殺されたのか、その正確な総数はもはや知りようがないと言われています。

フレデリック・ウォルター・スティーヴン・ウェストは幼い頃から両親らによって性的虐待を含む体罰や虐待を受けており、成長すると性的倒錯者となりました。1964年にパキスタン人の妻の友人を殺害、ここから彼の連続殺人が始まったと見られています。

彼は1968年に2番めの妻であるローズマリー・ウェストと出会い、パートナーにしています。ローズマリーもまた自分の父親に性行為を強要されるなど性的虐待を受けており、成長すると売春を生業にするようになりました。

フレデリック・ウェストは彼女を2番めの妻にした頃から強姦殺人を繰り返すようになり、遺体を徹底的に破壊する事を好んだといいます。

またウェスト夫妻はローズマリーの売春を主な収入源にしていました。

ローズマリーはフレデリック・ウェストとの間の子以外にも3人以上出産しており、フレデリック・ウェストは自らの子も強姦、うち一人を殺害したとされています。

1992年になって夫妻の娘の友人が巡査に話した事で犯行が公になりました。

一時は証人である夫妻の子供が証言を拒んで無罪になったまのの、1994年に警察の捜査によっておぞましい犯行と遺体を自宅の庭に埋めていた事等が発覚します。

彼らの手による被害者は12人とされていますが、フレデリック・ウェストに虚言癖があったり、ローズマリーが黙秘していたこともあって正確な被害者の人数は分かっておらず、まだ見つかっていない被害者が多数いるのではないかと考えられています。

一連の犯行が行われ、被害者が埋められた夫妻の自宅は「恐怖の館」と呼ばれていたが、周辺住民の希望により現在は取り壊されて歩道になっています。

金海女子高生殺人事件


引用 https://japaneseclass.jp

金海女子高生殺人事件とは、2014年4月に大韓民国金海市の高校1年生の女子生徒が、犯人にそそのかされて家出した後、売春を強要された上、集団暴行を受けて殺された事件です。

犯人として20代の男と女子中学生3人が逮捕されました。また共犯とされる男と女子中学生が別件で逮捕されました。

被害者の父親50歳によると、被害女子生徒は、父親が酒好きの母親と離婚した後、父と娘の二人で金海へ引っ越してきたが、金海では方言を使わないという理由で日常的にいじめを受けていたといいます。

被害者は、熱心に教会へ通い友達をたくさん作るという希望を抱いて高校に進学した矢先、いじめグループにより釜山のホテルに滞在させられて、強制的に売春させられました。

被害者の父親が心配して家出人捜索願を出すと、いじめグループはこれを知り、いったん父親のもとへ被害女子生徒を帰します。

被害者は父親に売春をさせられていたことを告白し、警察に被害届を出す途中、釜山蓮堤区にある教会へ立ち寄ったが、ここで加害者らに拉致されました。

加害者らは被害女子生徒を以後一ヶ月にわたって監禁し、凄惨な暴行を加えて死に至らしめました。

被害者の父親は警察に捜索願を出そうとしたが、釜山の警察署と金海の警察署はそれぞれ管轄が違うとしてなかなか受理しようとしなかったと報道されています。

犯人たちは立ったり座ったりを100回も強要したり、九九を覚えさせて正答しないと殴打を繰り返したりし、4月10日に被害者が乗用車の後部座席で急性心停止のため死亡すると、翌日には山林に遺体を運んで、顔が分からないようにするために顔にガソリンをかけて火を付けたうえ、セメントをかけて石や土をかぶせて埋めました。

犯行態様の悪質さと犯人グループに女子中学生が含まれていたことから韓国社会に大きな衝撃を与え、未成年者の量刑が注目されていましたが、2015年7月13日に大法院第3部判決で未成年の一人16歳の女子中学生に6年から9年の不定期刑が言い渡され、確定しました。

被害者の殺害と遺体遺棄を主導した主犯格の男女には、未成年者を売春した40代男性をゆすったうえに殺害した別件の事件と合わせて、一審と二審ともに無期懲役が宣告されています。

同様に、別の共犯者の24歳には、一審二審ともに懲役35年が宣告されています。

 

まとめ

今回は世界で発生している事件の中でも特に残虐性の高い事件を厳選してご紹介しました。

戦争がない平和な国においてもこのような残虐な事件は無くなることがありません。

誰もが安全に暮らすことができる平和な世の中になることを願うばかりです。



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