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【ミステリー】ケネディ大統領暗殺事件の謎と陰謀論

1963年11月22日12時30分。アメリカの若きリーダー、ジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスでのパレード中に狙撃され、衆人環視の元、暗殺されました。

このことは当然世界中の話題となりましたが、事件から半世紀余りが過ぎた2019年現在でも真犯人は不明であり、暗殺の真相も公表されていません。

ケネディ大統領暗殺に関しては機密文書が存在し、2017年にトランプ米大統領が、そのうちの88%となる2800件の公開を発表しました。

しかし、これについてFBIとCIAが一部情報の公開の取り消しを要請するなどの動きがあったことから、再び暗殺事件に対して注目が集まるようになったのです。

多くの謎があり、憶測が憶測を呼んでいるケネディ大統領暗殺事件について紹介していきます。

 

ケネディ大統領とはどんな人物だったのか?

ジョン・F・ケネディは、1960年に行われた大統領総選挙で対立候補のリチャード・ニクソンに勝利して、第35代アメリカ大統領となりました。就任時は43歳と若く、選挙を経て選出されたアメリカの大統領としては、これは史上最年少です。

1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで生まれた彼は、子供の頃は病弱で、特に生まれつき抱えていた背骨部分の障碍については生涯苦しめられたと言います。そのため青年期には、優秀でスポーツ万能であった兄のジョセフに激しい劣等感を持っていたそうです。

ハーバード大学に進学したケネディは、卒業後は軍への入隊を志願しました。しかし、陸軍・海軍士官学校ともに、健康状態を理由にケネディの入学を許可せず、父の口添えで海軍士官養成コースに入学を果たしたと言います。

そして、戦場には行かなくて済むよう、ワシントンD.Cにある海軍情報局に籍を置くことになりました。

しかし結局、第二次世界大戦時にはパトロール魚雷艇の艦長として海上に出て指揮をとることになり、ここで将来を想像させるようなリーダーシップを発揮したといいます。

日本海軍の駆逐艦によって搭乗する魚雷艇が大破した際、乗組員を小島に避難させ、救助隊が到着するまで守り切ったことから、ケネディは海軍・海兵隊勲章を受勲したのです。このことは『ニューヨーカー』や『リーダーズダイジェスト』といった雑誌で紹介され、ケネディは英雄視されるようになりました。

遭難事件の後、ケネディはマラリア感染と持病の背骨の痛みを原因として、名誉除隊しています。そして、下院議員選挙に立候補して、29歳の若さで当選を果たしたのです。

この背景には、実業家として裕福であったケネディの父や、母方の祖父でボストン市長を務めたことがあるジョン・F・フィッツジェラルドの力も働いていたとされます。

そして、下院議員を3期務めた後にケネディは合衆国上院議員となり、生涯の伴侶となるジャクリーンと結婚し、3人の子供をもうけました。(うち1人は生後2日で急逝)

 

ケネディ暗殺事件とは、どんな事件だったのか?

ケネディ大統領が暗殺された瞬間は、8mmフィルムに収められています。

撮影者の名前にちなんで『ザプルーダー・フィルム』と呼ばれているこの映像によると、ケネディはハイウェイの標識に車が隠れた時に一発目の銃弾を首に受け、標識の陰から再び車が姿を見せた時に、前方に座っていたコナリー知事が被弾したことが分かっています。

知事の体が倒れた次の瞬間に、ケネディの右頭部が吹っ飛んだことが確認できます。撃たれたケネディは、左に座っていたジャクリーンの方に倒れこんでおり、脳漿や耳、頭蓋骨の欠片も左後方に飛び散っていることから、弾丸はパレード車の右前方から発射されたと推測されます。

パレードのルートであったヒューストン通りとエルム通りが交差する角にあるTSBDビルの6階から、ケネディを狙撃したとされたのが、リー・ハーベイ・オズワルドです。

しかし、TSBDビルはケネディが被弾したポイントの後方にあるうえ、このビルからパレード車を狙撃するには僅か6分の1秒以下の時間に狙いを定めなければいけません。

これは世界トップクラスの狙撃手であっても難しい仕事となるため、オズワルドにそんなことができる訳が無いと多数の反論が寄せられました。

それでも事件解明のために組織されたウォレン委員会は、オズワルドの単独犯行として、ケネディ暗殺事件に幕を下ろそうとしました。しかし、大統領に不満を持った1人の国民の犯行だったとすることで、暗殺の裏にあった陰謀をもみ消そうとしていると考えた国民は、これに猛烈に抗議。

また、オズワルドの単独行動としながら、ケネディ亡き後の次期大統領となったジョンソンは、暗殺事件に関する重要書類や写真は2039年までは公開してはいけないと指示を出していました。

 

オズワルドは囮だったのか?

リー・ハーベイ・オズワルドは、ニューオリンズで産まれました。暗殺事件が起こる2年前にCIAは、キューバから亡命してきた人々の諜報活動を警戒して、マイアミからニューオリンズへと本拠地を移転しています。

はっきりとした時期は不明ですが、1959年の時点ではオズワルドがCIAの下級情報員であったことが判明しています。1959年に彼は、CIAの命を受けたソ連へ渡っているのです。

この時にオズワルドは、CIAのスパイ飛行機U-2の飛行スケジュールやフライト・プログラムをソ連に提供したとされます。CIAが自らの情報をオズワルドに流させた背後には、当時のアメリカとソ連の蜜月状態がありました。

両国のトップであった、アイゼンハワーとフルシチョフの間に雪解けムードが漂い始めたことで、諜報活動やアメリカの防衛問題を飯のタネとしていた人々、例えば軍やCIAは危機感を感じていたのです。

CIAはアメリカとソ連の関係を壊すための芝居を、オズワルドに演じさせたと考えられています。

その後オズワルドはソ連でマリナという女性と結婚し、1962年にはアメリカに戻ったことが分かっています。この頃のアメリカのFBI長官は反共犯主義思想の急先鋒として知られた、J・エドガー・フーバーです。

ソ連に渡航した人間は帰国者は厳しくチェックされ、細部にわたる質問を受けたとされます。しかし、オズワルドに関してはFBIもCIAも何のアクションも起こさず、それどころかその後、国防省関連の仕事をする会社で働き始めているのです。

オズワルドにはケネディ暗殺の他にも、もう一件殺人の容疑が掛けられています。ケネディが狙撃された45分後、ダラス警察のJ・ティピット巡査が何者かに撃たれて死亡。これも、逃走中のオズワルドによる凶行とされたのです。

しかし、ケネディ大統領同様にティピット巡査に関しても、オズワルドによる犯行であったのか、疑わしい部分が多々あります。

まず、当時のダラス警察とダラス郡シェリフ事務所のラジオ会話記録によると、巡査を撃った犯人はウェーブのかかった黒い髪の男であったとされます。しかし、オズワルドの髪色は茶色で、額の方が薄くなっているのです。

更に、巡査の殺害の凶器となったのは38口径のオートマティック銃だったのですが、オズワルドが逮捕時に所持していたのは38口径のスミス&ウェッソンの回転式の拳銃(上の写真のもの)でした。

事件現場にいた目撃者達も、犯人はオズワルドではなかったと口を揃えて証言したのですが、彼らはウォレン委員会から無視をされ、証人として扱われることはありませんでした。

大統領を殺害した後に、警官まで殺している。この一件は、オズワルドが狂暴な殺人鬼であるというイメージを国民に植え付けるのに役立ったと考えられています。

ケネディ暗殺事件が発生してから1時間23分後、オズワルドはテキサス劇場で逮捕されます。そしてダラス警察で取り調べを受けたのですが、奇妙なことにこの取り調べは、調書がとられていないのです。

逮捕された瞬間に、ワシントンが暗殺は陰謀ではない、という発表を自発的に行っていたり、何故か操作管轄外のはずのFBIが突然取り調べに加わっていたりと、オズワルドの逮捕とその後の捜査については不審な点が多く見られます。

しかし、彼が真犯人であったのかどうか、明かされることはありませんでした。事件が起きた2日後である1月24日の午前11時過ぎ、2人のシェリフに伴われて警察の地下室へとやって来たオズワルドオズワルドは、突然目の前に躍り出てきた男に銃で撃たれ、間もなく息を引き取ったのです。

 

オズワルドを撃った男、ジョン・ルビーは何者なのか?

オズワルドを襲った犯人の名前は、ジャック・ルビー。ナイトクラブの経営などをしている男でした。彼はオズワルドを殺した理由について、自分はケネディの熱狂的な支持者であり、夫の死を嘆き悲しむジャクリーン夫人の様子を見て、居ても立っても居られなくなった、と述べています。

しかし、後にこのルビーという男にも裏の顔があったことが判明します。彼は組織犯罪と深い繋がりを持っていたのです。

ルビーはシカゴの中でも、最も荒っぽいとされるウェストサイドで生まれ、15歳の時には既に犯罪組織の使い走りをしていました。

この時の仲間には、マフィアのヒットマンとして名をあげたデイヴ・ヤラスやレニー・パトリックらがいます。彼らはアル・カポネの使い走りなどをしながら力をつけ、ケネディ暗殺事件の頃には、シカゴのドンであったサム・ジアンカーナお抱えの殺し屋にまでのし上がっていました。

長距離通話記録からは、逮捕される直近まで、ルビーとヤラスらが連絡を取り続けていたことが分かっています。そして、ケネディ暗殺事件の直前にルビーがCIAのバーニー・ベイカーと連絡を取っていたこと、更に暗殺事件の直後にはベイカーがルビーに連絡をしていたことが分かっているのです。

また、オズワルドの第二の犯行とされたティピット巡査殺しですが、これについて目撃者の証言に沿った相貌や体格を装丁してみると、ルビーに酷似した姿が浮かび上がってくるとも言われています。

警察署内でオズワルドを殺害したルビーは、当然そのまま逮捕されて死刑判決を受けることとなります。獄中でルビーは自分は何者かに癌細胞を注射されたなどと、不可解な発言を繰り返しており、精神に異常をきたしていたとも考えられています。

そして死刑の執行を待たずに、肺癌により死亡しました。ルビーがオズワルドを殺害した真の動機は不明のままですが、ケネディ亡き後、アメリカ合衆国36代大統領の座についたリンドン・ジョンソンが、事件の黒幕であるという文書をルビーが残していることが分かっています。

しかし、これについてもウォレン委員会は追求せず、政府お抱えの精神科医から異常者の妄言という見解がつけられただけでした。

 

ケネディ暗殺事件にまつわる陰謀説とは?

大統領就任時、ケネディの周囲には彼の政治方針と敵対する組織が多数存在しました。

そしてそのような組織が暗殺事件の前後に不審な動きを見せていることから、ケネディ暗殺事件の背後には国家的な陰謀が働いていたのではないか、と考えられるようになっていったのです。

多数語られていう陰謀説の中から、代表的なものを紹介していきます。

 

陰謀論①CIA黒幕説

ケネディ暗殺事件の黒幕は、CIAだったという説が存在します。

大統領に就任したケネディは、それまでの米国社会内での力関係や、価値観を根底からひっくり返しにかかったとされます。このような急進的政策は、国内外に敵を作っていったのですが、その代表的なものがCIAだと考えられているのです。

大統領選挙があった当時、革命が起きたばかりのキューバのリーダーであったフィデル・カストロに対して、アメリカは警戒心を抱いていました。カストロは共産主義で、キューバが共産主義国家になるのではないかと、危機感を持っていたのです。

キューバを牽制する必要があると感じたアメリカ政府は、キューバからの砂糖の輸入をストップ。キューバからの避難民はマイアミに押し寄せ、その数は10万人にまで膨れ上がっていました。

ケネディの先代、第34代アメリカ合衆国大統領であったアイゼンハワーは、キューバとの関係について楽観的な見通しを発表していました。しかし、副大統領であったニクソンはカストロを警戒し、軍事的解決の必要性を主張したとされます。

そして、CIAもまた、ニクソンと同様に軍事的解決を支持していました。ケネディが大統領に選出されると、CIAはキューバに対して軍事的介入をするように持ちかけたと言います。

引用:https://newsela.com/

ケネディの人生の中で、最初で最後の失敗と称されるのが1961年4月に行われたピッグスワン上陸作戦です。この作戦は、カストロ軍の空襲が手薄と言う情報があったピッグス湾から、亡命キューバ人達で組織した軍隊を上陸させ、キューバ侵攻を計るものでした。

しかし、蓋を開けてみるとピッグス湾にはソ連の協力を得たカストロ軍の空軍が待ち受けており、上陸を試みた部隊の敗北は時間の問題となります。

この事態を受け、亡命キューバ人部隊を援護するB26を補佐するためにアメリカ海軍のジェット機が出撃させることを、ケネディは決定しました。これは、CIAからの要請によるものでした。

しかし、何故かB26は予定していたよりも1時間も早くニカラグア基地を出発。アメリカ海軍のジェット機が到着する前にカストロ軍に撃墜されてしまったのです。

空からの援護を受けられなかった上陸部隊もあえなく全員捕らえられ、ハバマへと連行されていったのです。

ピッグス湾上陸作戦の後、カストロはソ連と急速に近づき始めていました。そして、カストロの右腕であったチェ・ゲバラはキューバ革命が共産主義、マルキシズムを土台としていると宣言したのです。

アメリカの失態は国際社会からも厳しく糾弾されることとなり、ケネディとCIAの間には互いに対する不信感と、大きな溝が生じたとされます。

ケネディは、上陸作戦の最高責任者であったCIA長官のアレン・ダレスと、副長官のチャールズ・カベルを解雇しました。

しかし、アレン・ダレスはケネディ暗殺後、ニクソン政権で国家安全保障会議のメンバーとして返り咲き、ウォレン委員会にも名を連ねています。

また、チャールズ・カベルは、ケネディ暗殺の現場となったダラスの市長であった、アール・カベルの実の兄であることが判明しています。

このような点からも、ケネディ暗殺とCIAは関係があるのではないか?という説が囁かれているのです。

 

陰謀論②マフィア黒幕説

CIAとマフィアが手を組んで、ケネディを暗殺したのではないか?という説も存在します。

1920年代から30年代にかけて、マフィアはアメリカで急激に力を伸ばしていきました。しかし、この頃のマフィアは多くのファミリーに分かれていて、横の繋がりはなく、抗争も絶えなかったとされます。

この古い型から脱却して、マフィア、ユダヤ系ギャング、アイルランド系ギャングを一纏めにして組織化したのが、世界の組織犯罪の帝王と呼ばれたマイヤー・ランスキーです。

1940年代になる頃には、ランスキーはアメリカ政府さえ認めざるを得ないほど、権力を持っていました。第二次世界大戦の時には、OSSと海軍情報部はランスキーに協力要請を出したと言われています。

ランスキーの仲間には、ラッキー・ルチアーノ、カルロス・マルセロ、サントス・トラフィカンテなど暗黒社会の帝王とされる超大物人物が、数多く存在しました。

そして、彼らは犯罪組織の投資先としてキューバに目をつけたのです。1953年には多数のカジノがランスキーの支配下に置かれ、次いでマフィアの大物達もハバナへ乗り込んでいったとされます。

更にランスキーとルチアーノは、ヘロインを輸入する際の中継地点としてもキューバを活用しようと考えました。こうして1955年の時点で、ハバナの賭博、麻薬、売春は、ランスキーにより牛耳られていったのです。

しかし、マフィアのシンジケートの繁栄も、長くは続きませんでした。彼らの栄華に影を落としたのが、当時キューバで革命を進めていたフィデル・カストロと、組織犯罪の捜査に乗り出していた、アメリカ上院議会のマクレラン委員会です。

そして、マクレラン委員会の中でも特に積極的に動いていたのが、当時、上院議員で会ったジョン・F・ケネディと、委員会の首席顧問として司法省から派遣されていたロバート・ケネディ(ケネディ大統領の弟)だったのです。

キューバ革命の後、カストロは国内におけるアメリカ人の財産の没収を始め、マフィアのシンジケートも国外に締め出されました。

更にアメリカでは、ロバートが犯罪組織壊滅の総指揮をとり、大統領の兄の支持を後ろ盾に強硬手段でマフィアを検挙していました。

後に大物マフィアの1人であったマルセロが、国中のマフィアをニューオリンズに集めて、ケネディ兄弟を暗殺する計画を進めていたことが、明らかになっています。

また、以前政府が公開した機密情報によると、CIAがマフィア達にカストロを暗殺するように依頼していたことが分かっています。

このことから、マフィアとCIAが手を組んでケネディを亡き者にした、という説が囁かれているのです。

 

陰謀論③副大統領黒幕説

数ある陰謀論の中で、最も最悪なケースとされるのが、ケネディ政権下で副大統領を務めたリンドン・B・ジョンソンが黒幕であったという説です。

ジョンソンは1964年の大統領選挙の前、所属する民主党からの候補を決める選挙で、ケネディに敗れています。敵が多かったケネディを支えた誠実な人物として考えられていたジョンソンですが、暗殺事件前後に不審な行動をとっていたことが明るみに出てきたのです。

まず第一に、ジョンソンは事前にケネディ暗殺を知っていたという疑いがあります。1992年、シカゴマフィアのドンであり、ケネディと確執のあったサム・ジアンカーナの弟であるチャック・ジアンカーナと、その息子サムによる共著『ダブルクロス』が刊行されました。

『ダブルクロス』は、サム・ジアンカーナの生涯を弟の視線で描いたもので、後半には、ケネディ暗殺、マリリン・モンロー殺害についての記述があります。

本書によると、ジアンカーナは暗殺決行直前にダラス市でニクソンとジョンソンに会っていたとされます。そして、ニクソンやCIAと共に、暗殺計画を了承していたと言うのです。

それを裏付けるような奇妙なジョンソンの行動が、暗殺の前日には見られています。彼は暗殺決行の前の晩にケネディを訪ね、同じパレード車に乗るはずのジョン・コナーを後続の自分の車両に移し、政敵のラルフ・ヤーボローをケネディの車に同乗させるように打診していたのです。

この不可解な提案をケネディは訝しく思い、2人が激しく口論をしていたことが分かっています。

更に、犯行当日もケネディに向けて一発目の銃弾が放たれる30~40秒前から、身をかがめて車両の中に身を隠しているのが確認されています。

また、大統領秘書であったイブリン・リンカーンによると、ケネディはジョンソンの更迭を計画していたとされます。

これらの不審な点から見て、ケネディ暗殺にジョンソンは関わっていたのではないか?という疑惑が持たれているのです。

 

陰謀論④ロシアのKGB黒幕説

キューバを巡っても、衝突が懸念されたアメリカとソ連。当時、ソ連の共産党第一書記であったニキータ・フルシチョフがKGBに命じて、ケネディを狙撃したのではないかという説も存在します。

オズワルドがケネディ暗殺の2ヶ月前にメキシコシティでKGBの職員と会っていたという事実が、2017年に公開された機密文書から明らかにされたことから、この説は注目を集めました。

また、ザプルーダー・フィルムを始めとする、ケネディ暗殺にまつわるフィルムに写りこんでいる、頭にスカーフを巻くというロシアの高齢女性の伝統的な格好をした女性、通称“バブーシュカ・レディ”の存在も、暗殺にはソ連が関わっているという憶測を呼んだ一因と考えられます。

彼女は、ケネディを狙撃した真犯人の姿が目撃できた可能性がある唯一の人物であり、FBIも身元判明に乗り出していました。

1970年には、自分がバブーシュカ・レディだと名乗る女性が名乗り出ましたが、彼女の供述にはあやふやな点が多く、結局バブーシュカ・レディの正体は分かっていません。

謎が多いことから、バブーシュカ・レディはKGBのスパイだったのではないかと噂されるようになり、彼女の存在からも、暗殺の陰にはソ連の陰謀があったと考察されるようになったのです。

 

陰謀論⑤ニビルエイリアン黒幕説

少々突飛な説ではありますが、ケネディは宇宙人に殺されたという説も存在します。

狙撃される10日前、ケネディはCIAに対してUFOに関しての資料を送ってほしいと要請していたとされます。

引用:http://www.invasionealiena.com/

ケネディは、アポロ計画を進める上で宇宙人の存在を意識するようになったと言います。また、1947年にはニューメキシコ州ロズウェルに墜落したUFOが、米軍によって回収されたいうロズウェル事件もあったことから、アメリカ政府の中では地球外生命体についての調査や研究が進められていたのだそうです。

これらのことを受けてケネディは、暗殺される前に宇宙人とUFOについての情報を国民に公開しようと計画していたと言います。

そして、演説の下書きとなるメモの中には、ロズウェル事件以降アメリカ政府が宇宙人とコンタクトを取ってきたことなどが記されていたとされます。

これを公開することをよしとしなかった宇宙人(ニビルエイリアン)に、ケネディは暗殺されたのだというのが、宇宙人黒幕説です。

イギリスのタブロイド紙『EXPRESS』紙は、宇宙人とケネディに繋がりがあった証拠として、ケネディ追悼のモニュメントとして造られた“ケネディ・グローブ”の存在に触れています。

ケネディ・グローブは、上の写真のような円筒型のモニュメントなのですが、これについてYOU TUBEチャンネル『gollira199』が、下のような加工をしたことが、同紙では紹介されているのです。

『gollira199』によると、ケネディ・グローブは、UFOのランディングとして造られたものなのではないかと推測されています。そして、内部に高温で焼かれたような黒い跡が見られるのは、既にここにUFOが着陸したからではないかと続けているのです。

この説自体の根拠は弱く感じられますが、アメリカではケネディの死の真相には宇宙人が絡んでいるという説は根強く存在し続けており、これは真相解明が混迷を極めていることの証拠とも考えられるでしょう。

ケネディ暗殺は謎の多い事件であることから、他にも様々なリード説が発生しています。

一時期は、オズワルドはルビーの息子であり、息子の不始末の責任を取るためにルビーはオズワルドを殺害した、という説から、ケネディ暗殺に関わった人間の中にホモセクシャルが数人いたことから、ケネディ自身もゲイで痴情のもつれで殺されたという説まで、まことしやかに流れていたそうです。

 

まとめ

ケネディ暗殺事件を取り上げた、オリバー・ストーン監督の映画『JFK』

この作品の主人公のモデルとなったジム・ギャリスン氏は、ケネディの死の真相が解明されることは無いのではないか、と語っているそうです。

その理由として彼は、事件の証人となる人物の大半が死んでしまっていることや、CIAや政府は核心に触れる情報を公開する気が無いことなどを挙げています。

ケネディの死後、彼の数少ない味方であった弟のロバートも暗殺されており、こちらの事件に関しても真相は分かっていません。

ギャリスン氏の予想通りに、2039年以降に公表される可能性がある機密文書も意味の無いものなのか、それとも事件の真相に関わるものなのか。その公開が待たれます。



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