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【未発見】世界に隠された財宝・秘宝11選

みなさん、「宝探し」をした経験はありますか。

子どもの頃、遊びで宝探しゲームをしたり、宝の地図を作ってみたりした経験は誰しもあるかもしれません。

あくまでも、子どもの遊びであり、中身は宝物といっても大したものではなかったでしょう。

しかし、世界には発見すれば人生を変えてしまうような莫大な富をもたらしてくれる財宝の伝説がいくつもあります。

伝えられる財宝のなかには、本当にあるのか、それともただの言い伝えなのかわからないものもありますが、実際にそうした財宝を探しているトレジャーハンターも存在します。

この記事では、現在でも世界のどこかに眠っているかもしれない財宝・秘宝の数々についてご紹介します。

スペイン財宝船団「サンミゲル号」

引用:http://kabegami.org

サンミゲル号とはアメリカ大陸からスペインを目指し、フロリダ沖で沈没した船団の中の一隻で、莫大な財宝を積んでいたといわれる船です。

1714年、スペイン継承戦争によって、スペイン王室の国庫はすっかり底をついていました。

にも関わらず、スペイン王フェリペ5世は2人目の妃となるエリザベッタへの結婚の贈り物を早急に用意する必要に迫られていました。

そこで、船団を組織して、新大陸(アメリカ大陸)に蓄積されていたスペインの財産を本国へ輸送することにしました。

船団はスペイン船11隻とフランス船1隻の12隻からなり、金の延べ棒や銀細工、エメラルドに真珠、金貨、銀貨に宝石類などの財宝が満載され、現在の価値にすると数億ドルは下らないといわれています。

猶予がなかったため、すでにハリケーンのシーズンになっていたにも関わらず、財宝船団は7月24日、キューバのハバナを出港しました。

はじめの数日は何事もなく過ぎましたが、7月31日、ついに嵐につかまります。

船団は一夜にして壊滅し、粉々になって海の藻屑と消えました。

生き残ったのはフランス商船ただ1隻で、救助隊が派遣されたのは8月になってからだったため、総勢2500名の乗組員の約4割が命を落としました。

船団のことははその後長い間、人々の記憶から消え去っていましたが、20世紀になってサルベージ会社が沈没船の1隻を発見し、財宝探しブームに火をつけました。

いくつもの宝探し業者やアマチュアの財宝ハンターたちが捜索に加わり、7隻の沈没船と財宝が発見されました。

しかし、沈没した11隻のうち、エル・セニョール・サンミゲル号、マリア・ガランデ号、ノストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン号、エル・シエルボ号の4隻は未だ見つかっていません。

中でもサンミゲル号は船団中最速の船で、航海中もほかの船を引き離していたといわれ、天候の変化にも即座に対応でき、海賊船と出くわしても逃げおおせる可能性の高い高速船には、一番多くの財宝が積まれていたと考えられています。

史上最大の財宝船といわれるサンミゲル号は、今もどこかの海の底に沈んでいるのです。

徳川埋蔵金

引用:http://spi-con.com

徳川埋蔵金とは、大政奉還によって終焉を迎えた江戸幕府が、密かに埋めたとされる幕府再興のための軍資金です。

これは、1868年の江戸城無血開城の際に、当時財政難の喘いでいた明治新政府が、幕府の膨大な御用金を財源に流用できると当て込んでいたところ、城内の金蔵が空だったことに端を発した新政府による御用金探しが起源となっています。

下手人と目されたのは当時の幕府勘定奉行だった小栗忠順で、「小栗が幕府の金をもって逃げた」という噂が流れ、いつしか「利根川を遡ってきた船から誰かが赤城山になにかを運び込むのを見た」という証言まで出てきました。

小栗は江戸城開場に際して、幕府の人間の中で唯一斬首にされたことから、多くの人々が噂の信憑性は高いと考えるようになり、赤城山の各所で宝探しをはじめました。

埋蔵金の額は約360万~400万両の金塊または貨幣といわれ、これは勝海舟の日記にある幕府の軍資金として360万両の準備があるという記述が根拠になっています。

埋蔵金の隠し場所

赤城山での埋蔵金探しは失敗に終わっていき、人々はやがて、ここが本当の埋蔵金の場所を隠すための囮だと考えるようになりました。

その後、日光東照宮や奥日光、榛名山や妙義山、足尾銅山の坑道、久能山など様々な場所が埋蔵金の隠し場所にあげられ、多くの人が隠し場所に関する持論を展開するようになりました。

過去にはTV番組で発掘プロジェクトが行われたこともありますが、徳川埋蔵金は現在まで発見されていません。

末期の江戸幕府は財政的には大赤字になっていて、埋蔵金を作るだけの財産があったのかどうかも定かではなく、埋蔵金の存在自体を疑問視する説もあります。

もしも、埋蔵金を見つけたら

ちなみに、もし徳川埋蔵金を発見した場合には、勝手に発掘をすることはできません。

文化庁への届け出が必要となり、その後は許可がなければ発見者は埋蔵金に触ることもできなくなります。

発掘調査によって、本物の徳川埋蔵金だと特定されれば、大政奉還の取り決めで江戸幕府の財産は明治政府のものになっており、イコール現在の日本政府の財産と認定されるため、発見者には報労金5~20%が支払われることになっていて、残りは国庫に帰属します。

キャプテン・キッドの財宝

引用:http://archaeo-news.blogspot.com

キャプテン・キッドという名前の海賊を、みなさんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

伝説的な海賊であるキッドはスチィーブンソンの小説「宝島」や映画パイレーツ・オブ・カリビアンなどさまざまな海賊作品のモデルになったといわれます。

キッドの本名はウィリアム・キッドといい、1645年頃スコットランドに生まれたといわれますが、彼が記録に登場するのは50歳を過ぎてからです。

独り立ちできる年齢になると、キッドはすぐにアメリカに渡り、ニューヨークに移住しました。

その後、彼はブレスト・ウィリアム号を指揮して西インド諸島やカリブ海を荒らしまわる有名な海賊(バッカニア)になります。

私掠船海賊キッド

1695年、キッドはロンドンで英国政府から私掠免許状を受け取り、政府のために敵国であるフランスの船や東インド会社の航路を荒らす海賊たちを襲撃する役目を仰せつかります。

この頃、大英帝国は通商路を荒らす海賊に手を焼いていましたが、世界各地で戦争をしていた英国はその対処まで手が回らず、キッドのような海賊を使っていたのです。

キッドはすでにアメリカ沿岸を襲撃したフランス海賊を撃退してニューヨーク議会から特別褒章をもらうなど、名の知れた存在でした。

キッドのバックにはイギリスの有力な貴族や政治家たちがいて、彼を推薦していました。

キッドはウィリアム3世から他国商船拿捕免許状を直に受け取り、略奪した戦利品の10%をイギリス王室におさめることを約束します。

1696年、287トンの船体に34門の砲をもつ乗組員150人の新しい船、アドベンチャー・ギャレー号を手に入れたキッドはアフリカ大陸の喜望峰を目指して出港します。

しかし、順風満帆の航海になるはずが、このときは獲物となる船にはほとんど出会えず、乗員の間でコレラや壊血病が流行ります。

マダガスカルへ向かう頃には船が不調になった上に物資も不足しだしました。

イギリスへの反逆

乗員の反乱を恐れたキッドは、偶然みつけたイギリスの護衛艦に守られた船に手を出します。

護衛艦に撃退されて略奪は失敗したものの、イギリス船舶に手を出したキッドは、本物の海賊となりました。

1698年にはインド南の沖合でクエダ・マーチャント号を襲撃し、キャラコやアヘン、大量の貴金属を手に入れます。

この船をアドベンチャー・プライズ号と改名し、さらなる航海を続けたキッドですが、彼はすでにイギリスにとって敵となっており、「東インドの疫病神」と呼ばれ、指名手配されていました。

キッドはかつての仲間の助けを求めるためにニューヨークへと向かいますが、アメリカに着いたとたんに逮捕され、イギリスに送られました。

取り調べにも応じようとしなかったキッドですが、かつて彼の後ろ盾だった貴族たちからもすでに見放されており、ニューゲート監獄に送られます。

さすがにこのままでは命も危ないと感じたキッドは、監獄から下院の議長へ宛てて手紙を書きます。

そこには、寛大な措置をとってもらえるなら、10万ポンドに相当する自分の略奪品の在り処を教えると書かれていました。

しかし、キッドの命乞いのようなこの手紙も功を奏さず、1701年5月23日、キッドはテムズ川沿いの死刑台で絞首刑になりました。

財宝の在り処

キッドが本当に手紙に書いていたように、自分の財宝をどこかに隠していたとしたら、その在り処はキッドの死とともにわからなくなってしまったことになります。

実際に、ニューヨークに戻る途中のガーディナーズ島からはキッドの隠していたある程度の財宝が発見されましたが、それがたったの1万ポンドしかなかったため、どこかにさらなる宝の隠し場所があるのではないかといわれるようになりました。

最初はガーディナーズ島の別の場所にあるといわれていた財宝ですが、時代が下ると、アメリカのニュージャージー州やコネチカット州、西インド諸島、インド洋からベトナム、日本の南西諸島までキッドが足跡を残していた世界各地の場所がその候補として挙げられるようになりました。

日本のトカラ列島にある宝島にもキッドが残したという財宝の言い伝えがあるそうです。

1920年代と30年代には宝の在り処を示しているとされる何枚かの地図が発見されていますが、これが本物かどうかも定かではありません。

キッドに関する伝説や言い伝えはいくつもあり、どれが真実なのか見極めるのは難しく、財宝自体が存在しているかすら、はっきりとしたことは分かっていません。

キリストの聖杯

引用:https://vasi.net

手に入れられないものの代名詞といわれる聖杯とは、一般にはキリストが最後の晩餐のときに使った器とされます。

聖杯は、中世にケルト神話との融合によって、キリストの聖遺物として様々な奇跡をもたらす神秘的な杯として、様々な詩や物語に登場するようになり、その行方が注目されるようになりました。

聖杯の行方のついては数えきれないくらいの説があり、聖杯はアルマタヤのヨセフによってイギリスに持ち出され、ウェールズにある「ナンテオス聖杯」だという説や、エルサレムの「神殿の丘」に隠されていてテンプル騎士団の財宝になったという説のほか、1911年にトルコで発見されてニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されている「アンティオキア聖杯」やイタリアのサンロレンツォ教会にある「ジェノバ聖杯」、スペインのサンタマリア大聖堂にあり教皇の聖体拝領の儀式にも使用される「バレンシア聖杯」がそれであるという説など、北アメリカからアフリカ、チベットまで世界各地に「本物の聖杯」の言い伝えが存在します。

そもそも、聖杯の存在すら疑問視されることもあります。

有名なレイオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」には聖杯らしきものが描かれていません。

しかし、聖杯とは特別な杯ではなく、普通の食器のカップのようなものだったともいわれます

現在本物だといわれているもののなかに、本当の聖杯があるのか、それともどこか他の場所に隠されているのか、もしくは聖杯など最初から存在しないのか、いくつもの選択肢があることが却って聖杯の発見を困難にしているといえます。

琥珀の間

引用:https://www.russia-ex.com

「琥珀の間」とは、ロシアのサンクトペテルブルクになるエカテリーナ宮殿の一室のことで、その名の通り、部屋全体の装飾が琥珀でできている世界で唯一のものです。

琥珀とは植物樹脂が何千万年もかけて地中で化石となった宝石で、琥珀の間は時価400億円ともいわれ、経済的価値はもちろんのこと、歴史的・文化的にみてもはかりしれない価値をもっています。

琥珀の間の歴史

琥珀の間は、もともとプロイセンの初代国王フリードリヒ一世の命により1701年から政策がはじまったもので、最初は「琥珀の部屋」と呼ばれていました。

琥珀の部屋は宮殿内の20㎡ほどの部屋の壁を琥珀によって覆い尽くすというもので、琥珀を大量に集めては削って細工を施し着色するという独創的な工芸装飾をフリードリヒ一世は大変気に入っていましたが、彼はその完成を目にすることなくこの世を去ります。

琥珀の部屋は次代のフリードリヒ・ウィルヘルム一世に引き継がれ、ベルリンを訪問したロシアのピョートル大帝がそれをいたく気に入り、彼の要望により1976年未完成のままロシアに贈与されました。

ピョートル大帝の死後も制作は続けられ、新たな琥珀やイタリア製のモザイク画4枚も加えられ、完成したのは1770年のエカテリーナ2世の時代でした。

サンクトペテルブルクの南にある夏の離宮であるエカテリーナ宮殿の一室に設えられた琥珀の間は、100㎡を精巧な琥珀工芸が埋め尽くす祝典応接室でした。

ドイツによる略奪

時は流れ、1941年6月、当時ソ連となっていたロシアに侵攻してきたドイツ軍は瞬く間に各地を席捲し、9月にはレニングラード攻略を目指すドイツ軍がこの宮殿を占領しました。

占領地で幾多の美術品を略奪していたドイツ軍によって、琥珀の間は解隊され、いくつかのパネルに分けられて東プロイセンのケーニヒスベルク城に搬入され、博物館を兼ねた城内に展示されました。

しかし、ドイツ軍の敗勢が濃くなってきた1944年8月、イギリス軍の空爆によって城は破壊され、その冬からソ連軍に包囲されたケーニヒスベルク翌年4月に占領されました。

消えた琥珀の間の謎

ソ連はただちに琥珀の間の捜索を開始しましたが、廃墟となった城からそれらしき痕跡は発見されませんでした。

城の博物館長だったアルフレート・ローデは「琥珀の間は燃えてしまった」というばかり。

美術の専門家であるローデは琥珀の間を分割してどこかに隠したという噂もありましたが、その後急死してしまいます。

ローデとも接触していたというプロイセン大管区長官エーリッヒ・コッホは、大量の略奪美術品を私物化していた人物ですが、彼は死ぬ前に「私のコレクションがあるところに琥珀の間はある」という謎の言葉を残しました。

戦後も琥珀の間の捜索は続けられ、「城から大量の木箱を運んでいた」という住民の証言をもとにKGBや東ドイツの秘密警察まで捜査に乗り出し、民間の研究家や財宝ハンターたちもそれに加わりました。

その範囲はドイツやチェコの廃坑や掩蔽壕などの地下施設跡にまで及び、隠し場所を示唆するような匿名の電話や脅迫、関係者の不審死などもあったといわれます。

ドイツ統一やソ連崩壊を経て、1997年には琥珀の間に飾られていたモザイク画1枚と収蔵品であったタンスがドイツにおいて発見されましたが、琥珀自体はいまだ発見されていません。

ロシアではサンクトペテルブルク建都300年にあわせて琥珀の間を復元し、1979年から開始された修復作業は資料不足から困難を極めましたが、2003年5月に完成し、披露されました。

しかし、オリジナルの琥珀の間は現在でも行方が知れず、いまも捜索が続けられています。

契約の箱(アーク)

引用:https://style.nikkei.com

「契約の箱」とは、旧約聖書に記されている、モーセの十戒が刻まれた石板が収められたという箱のことで、「証の箱」「掟の箱」「聖櫃(せいひつ)」「約櫃(やくひつ)」といった呼び方もあります。

契約の箱は、モーセが選んだベツァルエルが神の指示通りに製作したもので、長さ1m、幅と高さが70㎝で、金箔の貼ったアカシアの木でできており、運ぶときには金箔で覆われた2本の棒を使い、蓋の上で2体の天使が箱を守っています。

契約の箱は紀元前597年のバビロン捕囚といわれる、ユダヤ人のバビロニア地方への強制移住に伴って行方不明となりました。

契約の箱の行方を巡っては様々な説があります。

侵略者によってバビロンに持ち去られたという説から、襲撃を知らせる神のお告げがあったため、ヨルダンのネボ山に隠され、それが後にここを拠点としたテンプル騎士団の手に渡って騎士団の財宝になったという説、ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ聖堂に保管されていたのが14世紀の火災によって消失したという説があります。

中でも一番有力なのが、エチオピア北部の町アクスムにあるというもので、ソロモン王とシバの女王の息子といわれるエチオピア王メネリク1世によって紀元前10世紀に持ち込まれ、現在アクスムのシオンにある聖マリア教会に隣接する礼拝堂に保管されているのが本物だという説です。

ナチスの黄金列車

引用:https://www.worldwarphotos.info/

「黄金列車」とは、ナチス・ドイツが略奪した財宝を隠したといわれる軍用列車です。

第二次大戦中、ナチスはヨーロッパ中から大量の財宝を奪い集めました。

それらはドイツの占領地や弾圧していたユダヤ人から奪った金塊や宝飾品、絵画や彫刻などの美術品で、これまで発見されたものもありますが、いまだ行方不明のものもたくさん存在します。

ロシアの「琥珀の間」もその代表的なもので、ナチスはこうした財宝を運ぶために編成した専用の列車が存在していたといわれ、大戦末期にはソ連軍の侵攻から逃れるために財宝を避難させようとしたといわれています。

そうした財宝列車が逃げきれずにやむを得ずに、もしくは事前の計画によって、ドイツや東欧の地下施設やトンネル、坑道などに隠されているのではないかと噂されてきました。

一説による黄金列車には300トン、推定200億円の財宝が満載されているといわれます。

これは、東欧一帯に伝わる都市伝説のようなもので、信憑性については疑問視する声もあります。

黄金列車発見!?

しかし、2015年8月、ポーランド南西部のヴァウブジフ市で黄金列車が発見されたというニュースが伝えられました。

発見者はドイツ人のリヒター氏とポーランド人のコペル氏のチームで、住民の証言をもとに地中探査用レーダーを用いた調査を行い、地下8~9mに長さ100m近い列車上の存在を確認したというのです。

この地はドイツ軍により「リーゼ計画」という地下基地建設が行われていた場所で、これは本物ではないかとメディアの注目を集めました。

ポーランド当局の発掘許可が降りた8月からブルドーザー、ドリルを使った発掘作業が開始され、発見した場合には報奨金として10%が受け取れるよう当局と契約を行ったともいわれました。

しかし、8月下旬、2週間掘り続けたがなにも見つからなかったとして、発掘チームは作業を断念しました。

専門家による検証では頭上を通る電力ケーブルのせいで最初の測定が間違っていた可能性があると指摘されています。

発掘チームは捜索を続行するとしていましたが、いまだに発見のニュースは聞こえてきません。

果たして、ナチスの黄金列車はこの場所に存在しているのか、それとも、世界のどこかで今も眠り続けているのでしょうか。

テンプル騎士団の財宝

引用:http://www.gregorius.jp

テンプル騎士団とは、中世ヨーロッパにあった、キリスト教巡礼者の保護を目的とする騎士修道会という組織の1つです。

正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」といい、第1回十字軍によって確保された聖地エルサレムへ巡礼する人たちを保護するため、1119年に設立されました。

エルサレム王の許しを得て、騎士たちはかつてソロモンの神殿があったといわれる神殿の丘を拠点に活動していました。

騎士団がローマカトリック教会の正式な許可を受けるとヨーロッパの富裕層から多くの資金援助を受けるようになり、そのうち、聖地を訪れる人々が安心して巡礼できるように彼らの資産を預かるという銀行のような財産管理の活動も行うようになります。

騎士団はヨーロッパから中東にかけて広大な土地を買い占め、農業や産業によって莫大な収益を上げていたといわれ、最盛期にはキプロス島全域を保有していました。

13世紀になり、聖地がイスラム勢力に奪回されると、騎士団の役目もなくなり、軍事活動も行われなくなりますが、莫大な富だけは残りました。

テンプル騎士団の最期

パリにあった騎士団の支部はフランス国王の非公式な国庫と呼ばれるほどの規模になり、たびたびフランス政府に経済援助を行っていました。

騎士団からの多額の借金に喘いでいたフランスにとって、やがて騎士団は邪魔な存在になっていきます。

13世紀末、フランス王フィリップ4世は騎士団に異端の罪をかぶせ、フランス全土で一斉に騎士団員を逮捕しました。

数百人の騎士たちが濡れ衣を着せられて処刑され、騎士団総長ジャック・ド・モレーも火炙りにされます。

フィリップ4世は騎士団を解散に追い込むと、その財産を我がものにしようと部下たちにパリの騎士団の金庫を捜索させました。

しかし、フィリップの兵士たちがついた時には金庫は既にもぬけの空になっていました。

ある騎士の証言によると、一斉逮捕の情報を事前に掴んでいた騎士団は3台の荷馬車に金銀財宝という騎士団の宝を積んで運び出し、騎士団の船に積み込んだというのです。

財宝はどこへ消えたか

宝がいったいどの船に乗せられたのか、目的地はどこだったのか、すべてが謎に包まれています。

スコットランドに向かったという説もあれば、地理的に見てスペインやクロアチアではないかというもの、コロンブスより先にアメリカ大陸へと渡り、カナダのノバスコシア州の沖合に浮かぶオーク島に隠したという話まであります。

フランスのラングドック地方にあるレンヌ・ル・シャトーにあるという話もあり、この説はベストセラー小説「ダ・ヴィンチ・コード」にも影響を与えています。

いずれにしても、騎士団の莫大な財産は忽然とどこかへ消えてしまい、現在もまだ発見されていないのです。

テンプル騎士団にはそのほかいくつもの伝説めいた話が残っていて、騎士団がキリストの聖杯やモーゼの十戒が納められた「契約の箱(アーク)」など、なにかとてつもない価値のあるものを隠し持っていたともいわれています。

山下財宝

引用:http://au79.hatenablog.com

フィリピンで一番有名な日本人は「ヤマシタ」だそうです。

このヤマシタとは、太平洋戦争中、フィリピン防衛を担った第14方面軍の司令官だった日本陸軍の山下奉文(ともゆき)大将のことです。

フィリピンには、フィリピンの人々が「ヤマシタ・トレジャー」と呼ぶ伝説が今も語り継がれています。

山下大将が戦争中、アメリカ軍に降伏する前に隠した莫大な財宝がフィリピンのどこかに眠っているというもので、その金額は10兆円から600兆円までという途方もない数字が伝えられており、現在も多くの財宝ハンターたちがこの山下財宝を探し求めています。

山下財宝の二つの伝説

引用:http://r-net.work

山下財宝の伝説には2つのパターンがあります。

1つ目は、ビルマの連合軍植民地に放置されていた金塊を日本軍が接収して、本土に運ぼうとしたものの、連合軍の潜水艦や航空機により海上輸送が難しくなったため、これをフィリピンに隠しておき、敗戦直後に密かに回収する計画だったものが、関係者が戦犯として処分されたために隠し場所の情報が失われた、というもの。

2つ目が、フィリピン防衛線を前にした日本軍が、現地の華僑たちから物資を調達するために製造した「マル福」と呼ばれる円形の中央に福が印字された特製の金貨だというのです。マル福金貨は、25000枚が日本本土から空輸され、そのうち未使用の15000枚が日本軍の撤退に伴って北部の山中に移送されたといわれていますが、関係者が全滅していてその後の詳細が明らかでなく、これがフィリピンのどこかの山中に埋められているのではないかというのです。

マルコス大統領と山下財宝

1992年、フィリピンの大統領だったフェルディナンド・マルコスが不正蓄財の疑惑を掛けられた時、大統領夫人だったイマルダ・マルコスが「夫は山下財宝を発見して、それをもとに財をなした」と主張しました。

しかし、当時の国民はみな、これは不正蓄財に対するただの言い逃れのでたらめだと考え、フィリピン政府もこの件について肯定も否定もしていません。

財宝探しの法規制

フィリピンでは、現在でも多くのハンターたちによって財宝探しが行われていて、他人の土地を勝手に採掘するなどトラブルが多発していました。

そこで、2007年からフィリピン政府は財宝探しの規制を強化しました。

それまでの届け出制から手数料の発生する許可制に変更して、財宝発見時の取り分に関しても、公有地の場合は政府75%・発見者25%、私有地の場合は政府30%・発掘者と土地所有者70%としました。

しかし、政府の目を盗んでの違法発掘もあとを絶たず、山下財宝を求めるハンターたちの熱は冷めることを知りません。

ちなみに、日本と同じ敗戦国のドイツにも同じような埋蔵金の伝説があり、ドイツ軍が進出していた北アフリカで親衛隊がユダヤ人から奪った財宝を、コルシカ島沖に沈めたというもので、北アフリカで活躍したドイツ軍のロンメル将軍の名をとって「ロンメル財宝」と呼ばれています。

死海文書「銅の巻物」の財宝

引用:https://world-note.com

死海文書はヘブライ語で書かれた聖書と聖書関連の文書からなる写本集で、その存在は「20世紀最大の考古学的発見」といわれます。

1947年にヨルダンの死海北西にあるヒルベト・クムラン遺跡で初めて見つかり、その後付近の洞窟群から972の文書の断片が発見されています。

死海文書のなかには、「銅の巻物」と呼ばれる文書が存在しており、多くの文書が宗教や歴史について書かれているのに対して、これには宝の在り処が記されています。

銅の巻物は、1952年にフランスの考古学者アンリ・コンタンソンによって発見されたもので、「3Q15」という識別番号がつけられています。

元は長さ2.4m、幅30㎝の巻物でしたが、触れた時に破損してしまっています。

銅の巻物は、他の文書とは異なる古代ヘブライ語に、ところどころ不規則にギリシャ文字が混ぜられていて、これまで幾度も解読が試みられたものの失敗に終わっています。

銅の巻物は、64か所におよぶ財宝の保管場所が記されており、財宝は貴金属から宝石類、香水、宗教儀式の装束など、古代の単位が使われているため正確には断定できないものの、現在の価値にすると数十億ドル相当に上るとされます。

これまでに財宝の捜索も行われましたが、失敗に終わっています。

財宝の在り処と目録は、どれも同じパターンで書かれており、特定の地名・その場所の詳細・財宝の内容という順番になっています。

銅の巻物の最期には「コーリットの乾いた井戸の中」にすべての宝の目録があると書かれており、第2の文書といわれるこの目録を見つけることで銅の巻物の内容が解明できるともいわれています。

黒ひげの財宝

引用:https://matome.naver.jp

「黒ひげ」とは、本名エドワード・ティーチもしくはエドワード・サッチといい、カリブ海や大西洋を荒らしまわった海賊です。

黒ひげは船を襲うとき、何本ものナイフやピストルを身に着け、名前の由来となった黒ひげに麻の切れ端や火のついた導火線を編み込んでいたといわれ、この黒ひげの姿が映画や小説に登場する海賊の典型例になりました。

もともとバハマの海賊ベンジャミン・ホーニゴールドの一味であった黒ひげは、自分を凶悪に見せるため、幾束もの髭で顔の周りを覆い、その恐ろしげな風貌から人々は彼を「黒ひげ」と呼ぶようになります。

1717年、フランスの巨大奴隷船「ラ・コンコルド号」を襲撃した黒ひげは、船名を「クイーン・アンズ・リベンジ(アン女王の復讐)号」に改めました。

いよいよ自分の船を手にした黒ひげは付近を通る船を次々と襲撃し、金銀財宝を蓄えていきます。

1718年、サウスカロライナ州チャールストンを襲撃し、町を海上封鎖した黒ひげでしたが、クイーン・アンズ・リベンジ号が座礁してしまい、ロバート・メイナード大尉率いる討伐船団に捕えられてしまいます。

捕まった黒ひげは、25回以上も剣で刺され銃で撃たれた上に最後は首を斬りおとされ、黒ひげの首はメイナードの船の船首から吊るされました。

悪魔だけが知る宝の在り処

しかし、このとき、黒ひげの船団からはなんの財宝も発見されませんでした。

黒ひげはすでに略奪した財宝を別の場所に隠してしまっていたのです。

死の直前、黒ひげはどこかに莫大な量の宝を隠してきたと言い残したといわれます。

黒ひげが宝を隠した場所は、オクラコーク島のどこかの木の根元に埋めたという話や、隠れ家だったバース近郊に隠されているという説もあります。

実際にバースでは、1930年代に地元の漁師によって、金貨がぎっしりと詰まった3つの釜が発見されたという話があります。

この釜はあとで取りに来るつもりで埋め戻したところ、洪水であたりの地形が変化し、どこにあるのかわからなくなってしまったということです。

果たして、黒ひげの財宝は実在するのか、それとも死ぬ間際にとっさに出た嘘だったのか。

略奪品の隠し場所について聞かれた黒ひげは、次のように言ったといいます。

「それを知ってるのは俺様と悪魔だけさ。どっちか長生きしたほうが手に入れるってことよ」

まとめ

以上、未だ発見されていない世界の財宝・秘宝についてご紹介してきました。

どれも夢のような金額の宝物ですが、なかには本当にあるのかどうか疑わしいものもあります。

それでも、ただの作り話と思うより、世界のどこかに今もこうした財宝が眠っているかもしれないと考えるほうが、夢やロマンがかきたてられるのではないでしょうか。



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