社会

【閲覧注意】ナチス・ドイツで行われた人体実験15選

人体実験とは、医学や科学の分野で行われているヒトを対象とした実験・観察などの調査のことをいいます。

薬の治験のように、現代日本でも行われている行為ですが、対象が人間であるだけに倫理的な慎重さを求められる行為です。

しかし残念なことに、歴史上、倫理を無視した残酷で非人道的な人体実験が行われた例はたくさんあります。

なかでも、1930~40年代のドイツは独裁者ヒトラーを総統に掲げるナチス・ドイツの時代にあり、独自の優勢思想に基づいて劣等人種とみなしたユダヤ人などを主な対象として現代では考えられないような残虐な人体実験が野放図のように行われていました。

ここでは、ナチス・ドイツで実際にあった狂気の人体実験の数々を紹介していきます。

双子実験

引用:navione.seesaa.net

双子実験は、医師であり親衛隊大尉でもあったヨーゼフ・メンゲレによって、アウシュビッツ収容所で1943から1944年にかけて行われた人体実験です。

アウシュビッツ収容所は、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所とも呼ばれ、ドイツ占領下のポーランド南部に作られた施設で、多い時には20000人ほどの人々が収容されていたとされ、その90%がナチスの人種差別の対象だったユダヤ人でした。

双子実験は、数多くの人体実験のなかでもメンゲレが最も力を注いでいたもので、その目的はアーリア人の出生率の上昇を狙ったものでした。

アーリア人の家族が必ず双子を生むようになれば、人口の増加は単純計算で2倍ずつ増えていくことになります。

メンゲレは、双子の出生数を上げるために双子の遺伝子の類似性と相似性について研究を行い、双子を生むために人体を人為的に操作することができるかどうかを調べようとしたのです。

メンゲレの双子実験

引用:en.wikipedia.org

メンゲレの実験対象になったのはアウシュビッツにいた双子約1500組3000人で、実験対象を「モルモット」と呼んでいたメンゲレですが、この時はすぐに子供たちに手を出すようなことはしませんでした。

初めのうち、メンゲレは子供たちをとても親切に優しく扱い、音楽を聞かせたり、映画を見たり、一緒にドライブに連れていったり、とても収容所の囚人とは思えないような待遇を与えます。

その結果、メンゲレは子供たちからも信頼され、「メンゲレおじさん」と呼ばれるようになります。

しかし、それは狡猾なメンゲレの罠でした。

1944年から、タイミングを見計らったメンゲレは、本来の目的を実行に移します。

メンゲレは、双子の子供たちを実験室へと連行し、最初は体の違いの比較観察からはじめて、やがては異なる薬品を眼球へ注射して色の変化があるかどうかをみたり、正常な臓器の摘出といった非人道的なものへとエスカレートしていきました。

脊髄手術で体がマヒ状態になったり、性器を摘出された例もあったといいます。

双子たちは年齢と性別によって分類され、実験の合間はバラックに収容されていました。

狂気の結合双生児実験

引用:matome.naver.jp

なかでも、この実験のなかで最も狂気的といえるのが、双子の体をつなぎ合わせて人為的に結合双生児を作ろうとした実験でした。

結合双生児は、文字通り体がつながった状態で生まれてくる双子のことです。

シャム双生児とも呼ばれ、これは有名な結合双生児であるチャンとエン・ブンカーの兄弟がシャム(タイ)の出身であったことに由来していますが、特にタイで結合双生児の出生率が高いというわけではありません。

この実験は、双子の兄弟の体を引き裂いて1つに縫合して人為的に結合双生児を生み出し、臓器が正しく機能するかどうかを観察するというものでした。

執刀室ではメンゲレが、クラシックを口ずさみながら楽しげに子供たちの体を切り刻んでいく様子が見られ、彼はいつしか「死の天使」と呼ばれるようになりました。

しかし、このような実験は当然成功するはずもなく、子供たちは体をつなげられたまま地獄のような苦しみを味わうことになりました。

人工結合双生児たちは、あまりにひどい我が子の様子を見かねた親たちによって、殺されたということです。

この実験から生き残った双子はわずか180人ほどといわれ、その多くが深刻なトラウマや後遺症を抱えてその後も苦しむことになりました。

低温実験

引用:3rdkz.net

低温実験はもともと、戦争中にドイツ空軍のパイロットが撃墜された航空機から脱出したあと、長時間海に浸かることで体温が低下して死亡するという事故が多発していたことからはじめられた空軍医学実験です。

低体温症の予防や治療手段を発見し、寒冷化に晒された人体を蘇生、回復することができるかがこの実験の目的とされました。

1942年から、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊の将校でもあったジグムント・ラッシャーを中心にして行われ、ダッハウ強制収容所およびアウシュビッツ強制収容所で、主に東部戦線で捕虜となったソ連兵などロシア人を対象にして行われました。

引用:dirkdeklein.net

これは、ナチス・ドイツの上層部はドイツ人よりもロシア人の遺伝子は低温に対する耐性に優れていると考えていたためです。

当時、ドイツ軍は東部戦線で準備不足のためにロシアの強烈な冬の気候で苦しんでいたためナチスの最高司令部でも現地の気候をシミュレートした実験を行うよう命令が出されました。

低温実験の1つとして行われたのが、ダッハウ収容所の囚人300人を被験者としたもので、タンク一杯の氷水に被験者を浸け、4℃~12℃という温度で5時間もの間耐えることを強制し、極限まで体を冷やしたうえでどうすれば効率的に回復することができるか調べるというもので、この実験では囚人90人が死亡しています。

アウシュビッツ収容所で水桶に入れられた2人のソ連軍将校は、3時間が経過した頃、「同志、銃で殺してくれないか」と懇願したといいます。

見かねたポーランド人の実験助手が2人にクロロホルム麻酔をかけようとしますが、ラッシャーは拳銃でこれを制止しました。

アウシュビッツ収容所はダッハウ収容所よりも敷地面積が広かったために被験者が悲鳴を上げても目立ちにくいため、しばしばラッシャーは麻酔なしで実験を行わせていました。

5時間後に2人は死亡し、遺体は解剖のためミュンヘンに送られたということです。

ほかにも、-6℃の極寒の屋外に囚人を裸で何時間も放置して寒冷暴露状態での肉体的影響や生存者を復温する方法を調査する実験もありました。

さらに、冷えた体を温めるために人間の皮膚の接触が効果的であるのではないかと考えたラッシャーは、裸の女性2人を温めあわせるというものもありました。

もちろん、このような方法は非現実的で到底実用に耐えるものではありませんでした。

しかし、非人道的で到底科学や医療としても使用できるものではなかったこの実験ですが、低体温症に関する人体のデータとしては一定の価値があり、最近になっても低体温症の治療に関する論文などでこの低温実験の結果が引用されることがあります。

ラッシャーは、低温実験の結果を親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーに報告するとともに、1942年に『海と冬から生じる医学的問題』というタイトルの論文を発表しています。

この実験では捕虜約100名が命を落としたとされています。

ちなみに、ラッシャーには子供3人いましたが、ラッシャーの妻ニニーが4人目の子供を妊娠していたとき、突然ニニーが逮捕されます。

理由は彼女が実は妊娠していなかったというもので、なんとそれまでのラッシャーの子供たちは全員誘拐や買収によって連れてきたものだったことが明らかになりました。

これを受けてヒムラーは激怒し、夫妻は死刑判決を受けました。

1945年4月26日、ドイツ敗戦間際のこと、ラッシャーは自身が虐殺した多くの囚人たちと同じく、ダッハウ強制収容所で処刑されました。

超高度実験

引用:3rdkz.net

超高度実験も、ジグムント・ラッシャーによってダッハウ強制収容所で行われたもので、ドイツ空軍が開発した高度12000mまで上昇できるジェット機において、高高度環境が人体にどのような影響を与えるのかを調べることを目的にしていました。

親衛隊長官ヒムラーからダッハウ収容所の死刑囚の使用許可を得たラッシャーは、1943年から超高度における人体の観察やパラシュートなどを用いての脱出実験が行われました。

対象となったのはダッハウの囚人だったユダヤ人、ポーランド人、ソ連人の捕虜約200名でした。

彼らは一定の圧力空間を作り出すことのできる低圧チャンバーに入れられ、その中では高度20000mまでの環境がシミュレートできました。

被験者を超高度の酸欠状態においてどれくらいの時間で死亡するか、どのタイミングで処置を施せば回復、蘇生させることができるのかといった内容で、あらゆる場面や環境を想定しての実験が行われました。

被験者たちは弱って死んでいく過程を観察され心電図のデータを取られた上、死んだあとの遺体は解剖されて肺や心臓、脳の血管の状態などが記録されました。

実験の結果は逐一、ラッシャーからヒムラーへと報告されていました。

このような過酷な実験は、当然のように多くの死者を出す結果となり、80名の被験者が実験によって死亡し、生き残った捕虜たちも全員処刑されました。

海水実験

引用:listverse.com

海水実験は、低温実験と同じく航空機から脱出した空軍のパイロットたちを救出することを目的とした実験です。

飛行機からパラシュートで脱出して海の上を漂流することになったパイロットたちにとって、当然食料や水の不足は大きな問題になってきます。

そのため、海水を飲用できるようにしようとしたのがこの実験で、2人の科学者によって海水を飲用するための方法が考案されました。

1つはシェーファー教授が考案した海水から塩分を分離する設備ですが、これには多額の費用がかかり実用性がないと判断されていました。

もう1つが空軍の技術者だったベルカによって開発されたベルカティカという薬品です。

これは海水の味を飲めるように変えることができるというもので、コストパフォーマンスに優れていたため大量生産されました。

しかし、この薬は味を変えているだけで、ベルカティカを入れた海水は大量の塩分を含んだままでした。

そのため、これを飲むとより渇きが増すといわれ、ひどい場合には下痢を引き起こすことになりました。

どちらの方法も一長一短であったため、収容所の捕虜を被験者として、人体実験が行われることになりました。

ハンス・エッピンガー博士をリーダーとして、ヨーロッパで差別の対象になっていた放浪者の集団であるロマ約90人がブーヘンヴァルト収容所から被験者として連れてこられました。

彼らは実験の詳細について事前に説明を受け、実験の10日前から3000kcalの空軍航空兵糧食を与えられ、完璧な栄養管理・健康管理を行った状態で実験に投入されました。

被験者たちは食べ物を一切与えられず、実験の内容は、数日間海水だけを飲むというものや、ベルカ方式を一日500cc~1000cc飲むというもの、シェーファー方式で精製した飲料水を飲むものなどがありました。

しかし、海水だけを飲むという実験は肉体的に過酷で、被験者はひどい脱水状態になってしまい、中には飲み水を求めて掃除用バケツの水を飲んだり、モップ掛けした床を舐めたりする人も出るほどでした。

こうした状態で、囚人たちが6~12日以内に重度の身体障害を引き越したり、死亡するかをみるのが海水実験の目的でした。

当然こうした海水実験は、非人道的なものとみなされ、戦後に行われた裁判では実験に関わった研究者は禁固15年から終身刑の判決を受けました。

実験の主導者だったエッピンガーは、戦後服毒自殺しています。

ただ、海水実験は被験者の体を衰弱させたものの、重篤な後遺症や死亡者はいなかったとされています。

マラリア実験

引用:www.cnn.co.jp

マラリア実験は、1942年2月から1945年4月までダッハウ強制収容所で行われたもので、伝染病であるマラリアの免疫調査を目的とした実験です。

1941年末、イタリアでマラリアワクチンの開発を行っていたベルリンのロバート・コッホ研究所所長兼熱帯医学部門長クラウス・シリング博士は、内務省保険衛星事業担当官のレオナルド・コンティ博士から収容所でのマラリア研究を勧められ、この実験の指揮を執ることになりました。

引用:dirkdeklein.net

シリング博士は、健康な被験者を蚊によって直接、またはメスの蚊の粘膜腺からの抽出物を注射する方法によってマラリアに感染させていきました。

マラリアになった被験者は、薬剤の効果を評価するために様々な薬を投与されました。

マラリア事件は、1945年3月にヒムラーによって中止が命じられるまで続けられ、1000人の被験者のうち約半数が死亡したとされています。

骨の再生および移植実験

引用:3rdkz.net

骨移植実験は、1942年9月から1943年12月ごろまで行われ、負傷したドイツ兵のため骨や筋肉、神経の再生を目的として他人に骨を移植するという実験です。

主に女性の囚人を収容していたラーフェンスブリュック強制収容所に収容されていた精神病患者の女性を被験者として実施されました。

この実験では、なんと被験者は一切麻酔を使わずに骨、筋肉、神経を部分的に切除され、激しい痛みや苦痛を味わわされ、生涯にわたる身体的障害を負うことになりました。

ある女性は肩甲骨を抜き取られた挙句に薬殺され、この肩甲骨はガンを患って肩甲骨を失っていた若者に移植され、若者はその後ガンが再発することもなく生きながらえたということです。

このほかにも、骨、筋肉や神経の切断やそれを再生するための実験など被験者を苦しめる非人道的な実験が多数行われたとされますが、その実態についてはっきりとしたことはわかっていません。

飢餓実験

引用:ja.wikipedia.org

ナチス・ドイツがユダヤ人を差別していたことはよく知られていることです。

ナチス時代にはドイツや占領地の各所にいくつもの強制収容所が建設され、ナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)における犠牲者は一説には600万人ともいわれます。

飢餓実験も、そうしたナチスによるユダヤ人殺害計画のなかで生まれてきたもので、どうすればより効率的に彼らを強制労働させながら餓死させることができるかを調べるというのがこの実験の目的であり、ただただ虐殺の効率性のみを追い求めた恐ろしい非人道的な実験であるといえます。

飢餓実験は、親衛隊上層部とドイツ医師会の協力によって行われ、どれほどのカロリーを与え、どのようなメニューで、どのような栄養素を与えなくすればいいのか、などが研究されました。

その結果得られた結論は、囚人たちに対してタンパク質を与えないようにし、ジャガイモやパンといった食事によって少量の炭水化物のみを与えるのが最も効率的というものでした。

飢餓実験の対象はユダヤ人だけでなく、ナチスが「スラブの犬」と呼んで差別していたソ連人の捕虜に対しても行われ、ハンブルク大学のハインリヒ・ベルニング博士指揮のもと、ハンブルク・ヴァンツベックには専用の実験施設まで作られました。

ベルニングは捕虜のタンパク質摂取量は長期間にわたって1日30g以下という低水準に抑えることで、栄養失調の症状である飢餓水腫(下腹部の膨張)を人為的に作り出すことに成功し、観察を行っています。

ベルニングは戦後も偉大な医学博士として評価を受け、戦中の人体実験に対する裁きを受けることもありませんでした。

こうした飢餓実験は、表面上捕虜にもきちんと食事を与えているように見えるため、諸外国も捕虜虐待として批判し辛く、ナチス上層部が目指したような無駄のない合理的な殺人の方法として機能しました。

マスタードガス実験

引用:eritokyo.jp

マスタードガス実験は、皮膚をただれさせるびらん性の毒ガスであるマスタードガス(イペリッドガス)の効果や最適な治療法を調べるために行われた実験で、例によって強制収容所の囚人たちが被験者にされました。

この実験は、親衛隊長官ヒムラーの命令によってはじめられたもので、ストラスブール国立大学教授アウグスト・ヒルト博士の指揮の下、ザクセンハウゼン強制収容所、ナッツヴァイラー強制収容所、シュトルートホーフ強制収容所などから囚人たちが集められました。

彼らは実験室に集められ、腕に10㎝ほどの大きさの液体を塗られます。

この液体はマスタードガスやルイサイトなどのびらん剤で、その後囚人たちは腕を広げたままで立たされ、彼らの体にはだんだんと毒物の効果によるひどい化学火傷が起き始めます。

10時間ほどたつとヤケドは全身に広がり、とても耐えることのできない苦しみを味わうことになり、なかには失明する人もいました。

彼らは体中にできたヤケドの跡を写真に撮られて観察され、毒ガスに対する効果的な治療法を見つけるための実験を受けました。

実験から5~6日たつと死亡する被験者も出始め、毎回に実験ごとに7~8名の死者が出ましたが、実験は何度も続けられました。

そして、生き残った被験者も重度の後遺症を負った上、アウシュビッツやベルゲンベルゼンといった他の強制収容所へ移されたため、彼らのほとんどはおそらく生きて再び収容所を出ることはできなかったと考えられます。

硝酸アコニチン弾丸実験

引用:ja.wikipedia.org

同じく、毒物を使った人体実験の例として、硝酸アコニチンを使った毒の弾丸を被験者に向けて発砲するという実験があります。

アコニチンは、トリカブトに含まれる成分で猛毒のため劇薬扱いとなっていて、嘔吐や痙攣、呼吸困難、新造発作などを引き起こします。

この実験は、親衛隊大佐で主席衛生官だったヨアヒム・ムルゴウスキー博士らによって極秘に行われたもので、5人の死刑囚に対して硝酸アコニチンの結晶を入れた弾丸を太ももに撃ち込みました。

引用:ja.wikipedia.org

5人のうち2人は特段の症状は出なかったために実験から取り除かれましたが、3人は20分ほどで泡を含んだよだれを垂らし始め、吐き気、嘔吐といった症状が出て、2時間もたつと白目をむいたり、運動不穏や失禁といった重度の中毒症状が現れたということです。

発疹チフス感染実験

引用:www.healthline.com

発疹チフス感染実験は、東部戦線のドイツ兵や各収容所の囚人たちの間で流行していた発疹チフスに対する治療法の解明を目的とした人体実験です。

発疹チフスはシラミやノミを媒介とする感染症で、頭痛、高熱、悪寒などの症状が起こります。

不衛生な環境で発生し、戦争や牢獄、収容所でよく見られるため「戦争熱」と呼ばれることもあります。

冬期や寒冷地で流行することが多く、ナポレオンのロシア遠征の際にも猛威を振るいました。

それまでの発疹チフスワクチンは症状を軽減させることはできても免疫を作ることはできませんでした。

そのため、親衛隊上層部の医師たちを中心として、人体実験によって真の発疹チフスワクチンを開発するべきであるという声が上がりました。

被験者としてドイツ国内の犯罪者やポーランド人、ソ連兵の捕虜、ジプシーなどがナッツヴァイラー強制収容所、ブーヘンヴァルト強制収容所に集められました。

被験者は、数十種類のワクチンを接種したうえで数週間の間隔を置き、その後人為的に発疹チフスに感染させられます。

一つのグループはその後ワクチンの投与を受けることができますが、もう一方はワクチンを接種したグループとの比較のため、単にチフスに感染させられるだけでした。

ワクチンの効果も十分とはいえず、多くの被験者が高熱や頭痛の症状に悩まされました。

実験は1943年4月から1945年にかけて行われ、ブーヘンヴァルトでは481人が感染しそのうち97人が死亡、ナッツヴァイラーでは感染した111人中41人が死亡しました。

終戦間際に自殺したブーヘンヴァルトの医師であったシューラーSS大尉の残した業務日誌によると、チフスのほかにも、黄熱病、コレラ、ジフテリアといった各種感染症のワクチン実験が行われ、800人以上の囚人が被験者になっていたとされます。

スルフォンアミド実験

引用:ailovei.com

スルフォンアミド実験は、スルフォンアミドによる人口の抗菌剤であるサルファ剤の効果を調査するために行われた実験です。

1942年5月にプラハでチェコの副総督だった国家保安部(RSHA)長官のラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて暗殺されるという事件が起こりました。

このとき、ラインハルトは負傷したものの一命をとりとめますが、傷口から細菌が入ったことで敗血症を起こして死亡しました。

このとき、もしもスルフォンアミドによる治療法が確立されていれば、ハイドリヒは助かったかもしれません。

スルフォンアミド実験を指揮したのはこの時ハイドリヒの治療にあたった親衛隊の顧問外科医カール・ゲープハルト博士でした。

引用:ja.wikipedia.org

ゲープハルトはハイドリヒの死をドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北だったと語っており、この実験が実施されたのはゲープハルトに汚名挽回の機会を与えるという側面もありました。

実験は、ラーフェンスブルック強制収容所で行われ、ここに収容されていた女性囚人のほかザクセンハウゼン収容所から連れてこられた男性囚人が被験者になりました。

彼らは故意にケガをさせられたうえ、連鎖球菌やガス壊疽の原因であるウェルシュ菌、破傷風を引き起こす破傷風菌といったバクテリアに感染させられました。

この実験では通常の傷のほか、当時はまだわからないことの多かった体組織の腐敗であるガス壊疽の症状分析も目的にしていました。

ある時、この実験場を視察した親衛隊医学総監のエルンスト・ロベルト・グラヴィッツは、被験者のなかに死者が出ていないことを見て、実験が生易しいと考え、本物の銃を使って負傷させるように命令したといいます。

引用:ja.wikipedia.org

さすがにゲープハルトはこの命令を拒否しましたが、その後、女性被験者3人がガス壊疽のまま何日も何の処置もされずに放置されて死亡したとされます。

被験者たちは、傷口の両端の血管を結ばれて血の巡りを悪くさせられたり、木片やガラス片を傷口に練り込まれたりして、戦場での負傷と似通った状態を作り出すことを強いられ、感染症はどんどん悪化していきました。

被験者のなかにはただ傷を負わされただけでほとんど治療を受けられずに放置される者もいました。

肝炎ウイルス実験

引用:ja.wikipedia.org

東部戦線において多くの発病者が出ていた伝染性肝炎ウイルスのワクチンを開発するために行われていた人体実験で、1943年7月から1945年1月にかけてザクセンハウゼン強制収容所で実施されました。

伝染性肝炎ウイルスは黄疸症状を引き起こし、致死性は高くありませんが、多くの罹患者がでることで軍の作戦機能を低下させる脅威だと考えられました。

軍事医学大学校校長のクルト・グートツァイト博士指揮のもと、細菌学者で伝染性肝炎ウイルスの発見者でもあったアルノルト・ドーメン軍医大尉らが囚人に対して人為的に肝炎ウイルスを感染させるという実験で、親衛隊の医学総監だったグラヴィッツの強い意向が働いたものとされますが、ドーメン自身が良心の呵責を感じていたため、実際に実験が開始されたのは1944年9月頃からのことでした。

T4作戦

引用:ja.wikipedia.org

T4(ティーフィア)作戦は、1939年10月から1941年8月にかけて行われた、ナチスの優生学思想において劣等分子とみなされた人々に対する安楽死による抹殺作戦です。

第二次大戦前から水面下において行われていたこの作戦は、ドイツ民族の血の純潔を守るため、身体障害者や精神障害者、発達障害者、遺伝病患者、さらには労働能力の欠如した者、夜尿症の者、同性愛者など「民族の血を劣化させる」とされた「劣等分子」を「断種」することが目的でした。

ナチス政権では、障害者に対する国庫負担の軽減などを理由にこうした政策が正当化されていました。

1939年9月1日にヒトラーが発した秘密命令書により、ナチ党指導者官房長フィリップ・ボウラーと親衛隊軍医でヒトラーの主治医でもあったカール・フランツ・フリードリヒ・ブラントの2人が計画の全権委任者として責任を与えられました。

引用:ja.wikipedia.org

引用:ja.wikipedia.org

T4組織はいくつかの部門に分かれており、財政部門や移送部門、実施部門があり、「労働共同体」というカモフラージュのための擬装名称がつけられていて、移送部門は「公益患者輸送会社」という秘匿名を名乗っていました。

ドイツ全土の精神病療養施設などから提供された患者のリストに基づいて処分すべき対象者が決定され、郵政省から譲渡され灰色に再塗装されたバスに乗せられて「処分場」と呼ばれる施設に移送されました。

「処分場」として、専門の安楽死施設が、ハルトハイム城、ブランデンブルク、ベレンブルク、ピルナ=ゾンネンシュタイン、ハダマーなどに設置され、内部にはガス室も作られ、近隣住民もそこでなにが行われているかうすうす気づいていました。

引用:ja.wikipedia.org

収容所へ向かうバスのなかでは温かいコーヒーやサンドイッチが振る舞われましたが、この中には毒物が混ぜられていることがあり、殺害方法の1つでした。

このほかにも、飢餓による殺害方法も実施され、T4作戦はドイツ国内での批判の高まりによって1941年8月に「中止」されますが、その後も秘密裏に作戦は続けられ、毒殺や餓死といった殺害方法がメインになっていきました。

障害者等の安楽死はドイツの占領地でも行われ、1945年4月までに7万人以上が殺害されたといわれています。

プファンミュラーの飢餓セラピー

引用:allthatsinteresting.com

T4作戦においても、飢餓実験に似た実験が行われていました。

ミュンヘンのハール州立精神病院内にあったエグルフィング施設の施設長であったヘルマン・プファンミュラー博士はナチ・イデオロギーの信奉者で劣等分子の排除に強く賛同していました。

彼は、特に子供を「無駄飯ぐらい」と考え、飢餓によって子供たちを殺すための方法を研究していました。

プファンミュラーは、1~5歳くらいの子供たちを集めた病棟をつくり、彼らをベッドに寝かせて徐々に与える食事の量を減らしていきました。

この病棟には大人も収容され、食事は野菜やジャガイモ、1日一切れのパンしかもらえず、1943年以降は肉や脂肪を与えることも禁止されました。

この病棟では大人、子供あわせて約444人が餓死に追い込まれたとされます。

引用:allthatsinteresting.com

戦後、米軍に逮捕されたプファンミュラーは、障害者の殺害は昔からあった考えで安楽死作戦は合法だった、と訴えました。

断種実験

引用:en.wikipedia.org

断種実験は、ナチスの思想によって劣等人種と見なされていたロシア人、ポーランド人、ユダヤ人に対して本人たちに気づかれないような方法で不妊化処置を施し、断種できる方法を開発するために行われた実験です。

1941年から独ソ戦が開始されると、ナチスの考える、スラブ人など東方民族の絶滅が現実味を帯びてきました。

1941年3月ごろから1945年1月ごろまでに数千人に対して、X線の照射や薬剤の投与、手術といった方法による不妊化が実施されました。

断種の方法は大きく分けて3タイプあり、その1つが薬物によるものです。

カラジューム・セグイヌムといわれるサトイモ科の観葉植物を摂取することで、特に男性が生殖不能になることがわかりました。

しかし、この植物は大量に栽培するとなるとコストがかかりすぎて実用性がなく、他の砲補が優先されました。

帝国公衆衛生局のヴィクトル・ブラック博士の主導によって行われたのが、放射線による断種実験です。

ブラック博士は障害者に対する断種計画にも関与していた人物です。

アウシュビッツやラーフェンスブリュックの収容所から、なにも知らない若い男女が集められ、性器や子宮、睾丸にX線を照射されました。

彼らは性器等に火傷を負い、傷口はやがて膿み、そのようなままで重労働を強いられて、働けなくなった者は処刑されました。

実験から数週間後、放射線の効果を確かめるため男性の被験者は睾丸を摘出され、局部に重傷を負ってその多くが死亡しました。

最後の1つが手術による不妊化で、卵管閉鎖による不妊の治療法を開発したことで有名だった婦人科医で医学博士のナチ党員カール・クラウベルク教授の指揮によって行われました。

アウシュビッツ強制収容所の中にクラウベルク専用の実験施設が作られ、ここでは外科手術ではなく、卵管にホルマリン溶液を注射するという方法で不妊化するという人体実験のため、約500人の女性囚人が連れてこられました。

クラウベルクの実験はとてつもない苦痛を伴うもので、彼女たちの悲鳴は収容所中にとどろき、驚いた看守がいったい何をしているのか確かめようと飛んでくるほどでした。

この実験により、少なくとも7名の女性が死亡したとされています。

クラウベルクは1945年にラーフェンスブリュック強制収容所へと移り、ここでも35人の女性に対して人体実験を行いました。

レーベンスボルン

引用:ja.wikipedia.org

ナチス・ドイツでは、劣等人種と見なされた人々を安楽死や不妊化によって抹殺しようとしましたが、逆に自分たちが理想とする最高の民族を繁栄させるための計画も同時に進めていました。

それが、「生命の泉(レーベンスボルン)」と呼ばれる優等人種の生殖を目的とした交配実験プロジェクトです。

ナチス・ドイツにおいて最高の人種とはアーリア人とされました。

引用:kurokiyorikage.doorblog.jp

インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使うすべての民族はアーリア人を祖先としているという学説のことをアーリアン学説といい、ヒトラーもこれを信奉しており、最上位の人種はアーリア人であると『我が闘争』のなかでも述べています。

ヒトラーは、アーリア人のなかでも交雑していない、ドイツ人を構成しているゲルマン民族こそが世界で最も優れた民族であると考えていました。

ナチス・ドイツでは、非アーリア人とされたユダヤ人たちを強制収容所に送って排除すると同時に、アーリア人の増殖計画が立てられました。

生命の泉と名付けられたこのプロジェクトは、1972年までにアーリア人のみで編成された軍隊を600個師団創設するという壮大な目標をもっていました。

生命の泉

引用:ja.wikipedia.org

生命の泉は、ヒトラー直属の組織として創設され、1936年にバイエルンのシュタインへーリングに開設されたのを皮切りに、1940年までにドイツ国内に15か所の産院施設が作られました。

この施設はナチスによって運営され、ゲルマン民族の子女を育てるための行き届いた設備が設けられ、食料や衣料品も豊富にそろっていました。

入所するには、子供の父親が親衛隊員であることなど特別な条件があり、ヒトラーがアーリア人の定義としていた「金髪、碧眼、高身長」の子供たちを数多く生み出すための場所でした。

こうした特徴を備えた子供を産むには北欧系の人種の遺伝子が必要で、そのために、第二次大戦開戦後にドイツの占領地となったノルウェーから金髪碧眼の女性が半強制的に連れてこられ、レーベンスボルンで同じく金髪碧眼の外見をもつ親衛隊の隊員と子供をもうけることを強いられました。

このようにして誕生した子供たちは1944年までに12000人あまりにのぼるとされます。

レーベンスボルンは「親衛隊の売春宿」と揶揄されることもありましたが、隊員たちに子供を作らせているだけでは、一人前の兵士になるまでに十数年の月日がかかります。

国家保険指導者のレオナルド・コンティは、人工授精によって優勢人種を次々と生み出す人種工場の創設を提唱しましたが、これはさすがにヒムラーの反対によって実現しませんでした。

そこで、ナチスではさらに速効性の高い別の方法が実行に移されました。

それが、占領地における子供たちの拉致です。

占領地のフランスやチェコ、ポーランドのドイツ系住民のなかから金髪碧眼の特徴をもつ妊婦や新生児が連れ去られ、レーベンスボルンの施設に入れられました。

その後、彼らはドイツ国内の子供のいない家庭に養子として斡旋されました。

誘拐された子供の数はポーランドだけでも数万人とされ、総数は20万人以上もいわれます。

もし、成長段階で子供の身体的特徴が変化し、金髪やブルーの瞳でなくなるようなことがあれば、そうした子供は容赦なくガス室で殺処分にされました。

独裁者の夢の終焉

1943年ごろから、戦況が徐々に悪化していき、各地の戦場においてドイツの劣勢が明らかとなってきました。

これをみたヒトラーはレーベンスボルンの夢も実現不可能と悟ったのか、手の平を返したようにレーベンスボルンで生まれた子供たちをガス室送りにして、全員抹殺するよう命令を出します。

これにはさすがに父親であった親衛隊の隊員たちから猛反発が巻き起こり、実行に移されることはありませんでした。

戦後、連合軍がレーベンスボルンの施設に踏み入った時、そこにいたのは放棄されて飢えかけた子供たちだけでした。

父である親衛隊員も母であるノルウェーの女性たちにも捨てられたレーベンスボルンで生まれの子供たちは、自分の家族や母国がどこであるかもわからず、どこにも行き場がない状態でした。

子供たちの多くは、アメリカやイギリスなどの家庭に養子として引き取られましたが、なかには孤児になってしまった子供もいました。

さらに、戦後、レーベンスボルンにいた女性は祖国に置いて裏切り者の烙印を押されて国籍を剥奪されたり、レーベンスボルンで生まれた子供たちは「ヒトラーの落とし子」といわれ、知的障害者だなどといわれてひどい差別を受けることになりました。

成長した子供たちのなかにも、自分の親であるナチスの親衛隊員が起こした犯罪行為の数々を知り、複雑な思いを抱く子もいたといいます。

優秀な人間ばかりを作り出すというレーベンスボルン計画は、ヒトラーの夢とは真逆の結果を生み出し、次の時代に大きな負の遺産を残したのみで終焉を迎えました。

まとめ

以上、ナチス・ドイツで行われた残虐かつ非人道的な人体実験の数々を紹介してきました。

普段の状況なら絶対に実行できないような驚くべき内容の実験ばかりですが、ある人種や民族を劣等種族とみなすナチスの優生思想と、ドイツが軍事力によってヨーロッパを席捲していた当時の国際情勢がそれを可能にしました。

こうした実験に関わった人物のなかには、本当に医師や科学者なのかと疑いたくなるような行動や言動をしている者もいます。

しかし、このような悪魔の実験といえるもののなかにも、現代の医療や科学の発展に貢献しているものもあるのが、科学と倫理のあいだのジレンマといえます。

現代の私たちは、こうした実験が平然と行われるようなことのないよう、科学・医学が健全に発展していく社会を築いていきたいものです。



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