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神隠し実話!日本で起こった不思議な未解決事件10選

現代の日本では捜査技術が向上し、多くの事件が解決されています。

科学技術の発展はもちろん、現場捜査官の努力があってのことです。

しかし一方で、まるで神隠しに遭ったかのような事件や、未だに不思議な点を残し解決の目途の立っていない事件が存在することも事実です。

今回はそんな日本の、思わず考え込んでしまうような、謎の多い不思議な事件をご紹介します。

神隠しとは


神隠しとは、人間が突然消えてしまう現象です。

昔は神域などで発生する現象と考えられていましたが、現代でも突然失踪してしまうことがあります。

日本では年間8万人も行方不明になっているといわれており、その中には神隠しとしか言えないようなものも見られます

例えば1989年に発生した「松岡伸矢くん行方不明事件」では父親が目を離したわずか40秒の間に松岡伸矢くんが失踪しています。

しかしこの事件はそれから29年後の2018年に大きく進展します。

記憶喪失で軟禁されていた和田竜人と名乗る男性が松岡伸矢くんであるという可能性が、「TBS公開大捜索18春」という番組で浮上したのです。

他にも2001年に発生したバイトへ向かう予定の女子高生がバイト先より向こうのバス停で降りてから行方不明になった室蘭女子高生失踪事件や肝試しに行くと言ったまま行方知れずになった坪野鉱泉肝試し失踪事件など、大した足取りもないままふらりと失踪してしまう、神隠しとしか言えないような事件は数多くあります。

行方不明になる原因としては、常識的なものでも迷子や家出、誘拐、殺人など多岐にわたります。

しかしまったく痕跡を残さない失踪事件も世の中には数多く例があるのです。

それでは、具体的に日本で起こった不思議な未解決事件をご紹介していきましょう。

プチエンジェル事件


プチエンジェル事件は2003年7月に起きた、小学校6年生の少女4人の誘拐・監禁事件です。

プチエンジェルとは事件の犯人である吉里弘太郎が経営していた児童専門のデートクラブの名前です。

吉里は誘拐する少女たちと事前に連絡先を交換し、7月13日に渋谷駅前へ呼び出し、赤坂のマンションへ連れていきます。

そして少女たちを一室に監禁したという事件です。

プチエンジェル事件自体は7月16日に吉里が自殺、17日に少女が逃げ出したことで発覚し解決します。

しかしこの事件には不可解な点が多く残っています。

まず吉里の行動が明らかに不自然です。

吉里は事件前の7月11日に愛車であるフェラーリを売却し、12日に監禁に使うポリタンクや鉄アレイ、自殺に使う練炭や七輪を購入しています。

このことから吉里の自殺は計画的なものだと思われますが、あらかじめ死のうと思っていた人間がフェラーリを売却して大金を作るでしょうか。

また吉里はビニールシートをテントのように広げて目張りし、中で練炭自殺を遂げました。

しかし練炭の温度によってビニールが溶けてしまうことで失敗する可能性もあり、自殺として選ぶにはやや不自然です。

加えて吉里がなぜ少女を誘拐したのかも不明です。

吉里は少女たちに暴力や性的虐待を加えることもなく自殺を遂げました。

自殺する前には少女たちの前で性行為を行って欲しいと風俗に頼み込んでいたほか、監禁していた少女のひとりに何度もATMでお金を下ろさせるなどの奇妙な行動も目立ちます。

このほかにもプチエンジェル事件には押収されたプチエンジェルの顧客リストが偽名と言うことでほとんど捜査に使われることがなかった、事件現場は赤坂なのに最初は渋谷と報道されていた、当時衆議院議員だった鴻池祥肇議員が「少女4人は被害者か加害者か分からない」などという発言をするなど不可解な点が数多くあります。

極めつけは、プチエンジェル事件を追っていた染谷悟(柏原蔵書)さんが東京湾で死体となって発見されたという点です。

プチエンジェル事件は不可解な点が多く存在していることから日本のヤクザや中国、はたまたユダヤ人など様々な陰謀論が囁かれています。

しかしいずれにせよ解決したと見るには色々な点が中途半端に打ち切られた、不思議な事件であることは間違いありません。

三重小2女児失踪事件


三重小2女児失踪事件とは1991年3月15日、三重県四日市市富田の富田海水浴場で小学校2年生の賀茂前ゆきちゃんが失踪した事件です。

最後に目撃証言があったのは失踪当日の14時のことで、ゆきちゃんの友達が友達と別れて自宅へ戻るときでした。

このときいつも承諾していた遊ぶ約束をゆきちゃんが断っていたと言います。

ゆきちゃんは自宅へ戻り、15時半にゆきちゃんの姉が自宅へ戻った際には既に失踪していました。

このときゆきちゃんが外出する際に愛用していたジャンパーや自転車が自宅に置いてあったほか、ゆきちゃんの好物であるホットココアが飲みかけのまま残されていました。

このように、失踪自体も不思議な事件ですが最も不思議なのはゆきちゃんが疾走してから3年後に賀茂前家に届いた手紙です。

手紙は「ミゆキサンにツイテ ミユキ カアイソウ カアイソウ」で始まり、ひらがなとカタカナと漢字が混ざっているうえ乱雑に書き殴られており、内容も暗喩が織り込まれた非常に複雑なものでした。

手紙を読み解くとゆきさんを誘拐したのは「富田の股割れ(=売春婦のことか?)」であり、事件にロシアンマフィアが関与している可能性も示唆されています。

三重県にはかつて買春が盛んだった渡鹿野島があり、関与している可能性もあります。

また手紙が届いた後には緒方達生という自称霊能力者が捜査協力を申し出、ゆきちゃんは既に他界しており、誘拐犯はゆきちゃんの知る男女2人であると述べました。

緒方はダウジングで遺体を探すと言いだしましたがその3日後には、別の霊から妨害されたとして捜査を中断しています。

このように不思議な要素は数あれど、確たる証拠がないためにゆきさんの失踪事件は未だに解決されていません。

長岡京殺人事件


長岡京殺人事件は、1979年に京都府長岡京市で発生した殺人事件です。

当時地元のスーパーでパート仲間だった水野恵子さんと明石英子さんがパートの帰りに近くの山へワラビ採りへ行ったまま消息不明となり、2日後に遺体となって発見されました。

このことから「京都長岡ワラビ採り殺人事件」とも呼ばれています。

水野さんは胸を刺されたことで、明石さんは首を絞められたことで亡くなっており、それぞれに数十か所も殴打された跡や皮下出血が見られたことから武術の心得のある者による犯行ではないかと見られています。

2人が訪れた山林は山菜採りのシーズンだったため入山者も多く、付近で宅地造成を行っていたことから作業員も出入りしていましたが誰ひとりとして事件の目撃証言や不審な人物を見ていませんでした。

また性的暴力のあとこそ見られましたが金品は盗まれておらず、代わりに明石さんの履いていたジーンズのポケットから「オワレている たすけて下さい この男の人わるい人」と走り書きされたレシートが発見されました。

しかし2人はレシートに走り書きをした鉛筆を持っておらず、警察も捜索の末鉛筆の先端部分だけは見つけましたが鉛筆本体を見つけることはできませんでした。

レシートに文面をつづった理由も不明であり、証拠もほとんど見つからなかったため捜査は難航し、時効を迎えています。

福島女性教員宅便槽内怪死事件


引用元:http://know-how-tree.com/archives/tag/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E6%95%99%E5%93%A1%E5%AE%85%E4%BE%BF%E6%A7%BD%E5%86%85%E6%80%AA%E6%AD%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1989年2月28日、福島県田村郡都路村(現・田村市)の教育住宅のトイレで、女性教育が靴らしきものを発見、外へ回り、汲み取り口を見ると人間の足が見えたために警察へ通報したことでこの事件は発覚しました。

なんと便槽(汲み取り式便所で排せつ物を溜めておく場所)で男性の遺体が見つかったのです。

見つかったのは村内に住む菅野直之という男性で、福島第2原発の作業員をしていました。

発見当時、菅野さんは真冬にも関わらず上半身裸で、着ていたであろう衣類を胸に抱え、三角座りの要領で膝を折っていました。

死因は「凍え兼胸部循環障害」、つまり狭い場所で圧迫され凍死したということです。

発見された場所が場所と言うことで、覗き目的で便槽へ忍び込みそのまま出られなくなって凍死したという事故死で事件は処理されます。

しかし事故で片付けるにはこの事件は不思議な点が多いです。

まずひとつに、覗き目的とは言え便槽に侵入するのが非常に難しい点です。

菅野さんが亡くなっていたのは高さ47㎝、奥行き125㎝の便槽の空間内であり、かなり窮屈であることは間違いありません。

また便槽の汲み取り口の直径はわずか36cmほどとかなり狭いです。

菅野さんの身長が仮に170㎝だったとするなら肩幅は平均で39.8㎝、160㎝でも36.9㎝とギリギリになってしまいます。

菅野さんには侵入時にできたと思われる擦り傷以外の外傷は見つかっていないようですが、自分から好んで入りたがるような空間ではないように思われます。

また菅野さんは覗きに手を染めるような人間ではないと専らの評判でもありました。

事件の裏側には菅野さんが応援演説と言う形で関わっていたと言われている村長選挙や、菅野さんが解決に努めていたという、発見者の女性教員へのイタズラ電話問題が関与していたのではないかと考えられています。

岡山地底湖行方不明事件


2008年1月5日、岡山県新見市にある「日咩坂鍾乳穴(ひめさかかなちあな)」を探検に訪れた高知大学の探検サークル13人のうち、1人が洞窟の最奥にある地底湖で溺れて行方不明になる事件が発生しました。

地元警察らの捜査もむなしく、行方不明になった男子学生が見つかることはありませんでした。

探検サークルの面々は午前11時半ごろに洞窟に侵入し、午後2時半ごろ着衣で遊泳していたところ行方不明者が出たということです。

一見すると学生の集まりが羽目を外した結果の事故に思えますが、不可解な点がいくつか見られます。

まず日咩坂鍾乳穴は非常に深く、曲がりくねった構造をしており最奥部まで1600m、片道3時間もかかると言われています。

非常に危険であり、入るには入洞届が必要なのですがこのサークルは入洞届を提出していませんでした。

またこのサークルはメンバーのひとりが溺れたにも関わらずすぐに脱出し、引き上げるのに必要なロープなどを撤去してしまいました。

加えて洞窟内は声が反響し、洞窟の反対側の壁に触れた際に叫ぶ「タッチ」という声が聞こえたそうなのですが、だとしたら溺れたメンバーの助けを呼ぶ声が聞こえてもおかしくはありません。

そのうえ責任を取るべき隊長は逃げ回り、ホームページからも記載がなくなりました。

行方不明になったメンバーのmixiのページにもログインがあり、個人情報が明らかになる部分が改ざんされることがありました。

探検サークルの行動は、全てがパニックであったり未熟さゆえのことかもしれません。

しかしそのいずれもが行方不明になったメンバーを追いつめ、その証拠を隠ぺいするようなものだったことも確かです。

行方不明に何らかの他意があった可能性は否定できません。

風船おじさん


風船おじさんとは冒険者を自称するピアノ調律師・鈴木嘉和さんの愛称です。

鈴木さんはヘリウム風船を用いた気球「ファンタジー号」で琵琶湖湖畔から太平洋を横断することを目標に飛行を開始しました。

鈴木さんの飛行の目的は抱えてしまった借金の返済と鳴き砂の保護であり、その試みの奇妙さから注目を集めました。

試験飛行で民家に墜落するなどのアクシデントもありましたが、1992年11月23日にファンタジー号で飛行を開始します。

鈴木さんは無線免許を持たず、携帯電話で23日の夜10時から1時間置きに連絡をしていましたがそれも翌24日の午前6時に途絶えてしまいます。

最後に飛行を確認したのは11月25日の午前8時35分のこと。

ファンタジー号からのSOSを受信した海上保安庁の捜索機「おおたか」がファンタジー号を監視していましたが、荷物を下ろして上昇するなど飛行の意思を示したため、3時間の監視の後に帰還しました。

12月2日には捜索願が出されましたが、依然として見つかっていません。

鈴木さんの飛行は計算が狂い、予定の10分の1も進んでいませんでした。

そのうえ風船は高度が上がるに連れてヘリウムが抜けるようになっており、早々に着水するだろうと有識者は結論を出していました。

気流などを計算した結果、カムチャツカ半島付近の海に着水しているのではないかと考えられています。

赤城神社主婦失踪事件


赤城神社主婦失踪事件は、1998年に、群馬県在住の主婦が行方不明になった事件です。

被害者となった主婦は、家族と群馬県宮城村三夜沢(現前橋市三夜沢町)にある「赤城神社」へツツジ見物に来ていました。しかし、あいにくその日は雨で、神社へ行く一部の家族以外は駐車場の車の中で待つことになります。

しばらく経つと、主婦は折角来たのだから、せめて賽銭だけでもあげてくると家族に言い、神社へと続く参道を登り始めました。

その時の主婦は赤い傘を差し、着衣はピンクのシャツに黒いスカートと目立つ姿でした。

車内に残った娘は、母である主婦が境内とは違う方向にある場所で佇む姿を目撃しています。そしてそれが、主婦が目撃された最後の姿になってしまったのです。

主婦を心配した家族は警察に通報し、10日間で延べ100人あまりが神社付近を捜索するも、その姿は発見されませんでした。

行方不明当日はゴールデンウィーク中ということもあり、多数の人が神社を訪れており、また参道は整備しており、道に迷う余地はほぼ無かったのにも関わらず、主婦は忽然とその姿を消してしまったのです。

嵐真由美さん失踪事件


1994年9月2日午後7時ごろ、東京都墨田区で嵐真由美さんが学生時代の友人に会うと言ったきり行方不明になる事件が発生しました。

真由美さんの学生時代の友人は会っておらず、会う約束もなかったと証言しています。

行方不明になった後、洋服ダンスから真由美さん名義のメモが見つかり、真由美さんが夫とは違う男性と会っていたこと、裏切られたことが明らかとなりました。

会っていた男性は事件発覚後、缶ジュース2本を持って山に登るという不可解な行動を取っています。

真由美さんは不倫相手の男性に金銭を貢いでいたことがあるなど、痴情のもつれによる失踪なのではないかと考えられます。

しかしこの事件で最も奇妙なのはとある張り紙です。

事件の発覚後、ワイドショーのインタビューで真由美さんの父親が発言していたのですが、その映像の背後に「洋子のはなしは信じるな」という張り紙が映し出されていたのです。

洋子というのは、真由美さんの姉である洋子さんのことだと思われます。

洋子さんは真由美さんの失踪後に積極的に証言しています。

それらの証言を「信じるな」ということなのでしょうか。

謎は深まるばかりです。

田畑作之介ちゃん轢き逃げ連れ去り事件

1978年、大阪の自宅付近で当時3歳だった田畑作之介ちゃんが近所に住む5歳の男児と遊んでいたところ、走ってきた自動車に撥ねられるという交通事故が発生しました。

作之介ちゃんは顔から血を流しぐったりとしており、作之介ちゃんを撥ねた加害者が、「救急車を待っている余裕はないので、自分が車で病院に搬送する」と、作之介ちゃんを車に乗せて走り去りました。

一緒に遊んでいた男児は、すぐに作之介ちゃんの家に行き母親に事故が起こったことを伝えました。

そして、母親と男児は急いで事故現場に戻りましたが、すでに犯人が作之介ちゃんを連れて走り去ったあとでした。

母親は近くの病院に問い合わせましたが、どこの病院にも作之介ちゃんは運び込まれておらず、不審に思った母親は警察に通報しました。

翌日になっても、作之介ちゃんらしい男児が病院で治療を受けた記録は確認できず、警察は本件を誘拐事件として、捜査本部を設置しました。

目撃者の証言から犯人は中年の男性であり、モンタージュ写真も作成され、本格的な捜査が開始されましたが、現在と違い監視カメラやNシステムがまだまだ未整備だったという時代背景もあり、犯人確保にいたらず、5年後の1983年3月3日に業務上過失致死及び略取誘拐罪などの時効が成立しました。

この事件の犯人は、作之介ちゃんが車で轢かれた時はまだ生きていたと考えられることから殺人罪には問われておりません。

大阪府警は今もまだ専従捜査員15名を配置し、捜査を継続しています。

パラコート連続毒殺事件


パラコート毒殺事件は1985年4月30日から11月17日にかけて発生した、パラコートを用いた無差別毒殺事件です。

パラコートは日本で一般的に使われた除草剤です。

毒性が強く、人体に入ると消化器系の粘膜をただれさせ、内臓の機能障害や肺出血を起こして死に至ります。

この当時、パラコートの毒性は認識されていましたが、薬局で氏名、住所、職業を書けば誰でも購入ができました。

また濃度の低い、園芸用のパラコートであれば記載事項も必要ありませんでした。

手口としては自動販売機の商品受け取り口に、農薬であるパラコートを混入したジュースを置いておき、誤嚥を誘うというものです。

この事件が起きる前、1977年に青酸コーラ無差別殺人事件と言う、同じく迷宮入りをした無差別毒殺事件が発生しており、その反省から瓶飲料は今日のように開封した前と後とで区別が付くようになっていました。

しかし当時はまだ開封の区別を付ける必要性が浸透しておらず、再度の事件を引き起こしてしまいます。

そしてこの事件も、物証がほとんど見つからなかったこと、監視カメラがなく証拠映像も撮れなかったことから未解決事件として時効を迎えてしまいました。

被害は全国に及んでおり、犯人が単独犯か、それとも集団による犯行かも判明していません。

 
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まとめ

この記事では奇妙な点がいくつも見られる日本の不思議な事件を紹介しました。

どうしてそうなったのか、被害者はどうなったのか、考えるだけでもぞっとします。

なぜそうなったのかは全く不明ですが、少なくともこのような事件が起きてしまったことだけはどうやら確かなのです。

次はあなたの番、とならないよう、普段から気をつけて生活をしたいものです。



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