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発見された!世界の財宝・秘宝11選

日本には、徳川埋蔵金をはじめとする埋蔵金伝説があるように、世界中にも未だ見つかっていない宝の伝説がたくさん存在しています。

そうした言い伝えの多くはただの伝説に過ぎす、財宝が見つかるということもありません。

しかし、なかには実際に財宝が見つかった例もあります。

それらは、日常のふとしたきっかけや考古学の発掘調査、トレジャハンターの好奇心の結果であったりします。

ここでは、世界中で実際に見つかった財宝の数々を紹介していきます。

ホクスンの財宝

引用:en.wikipedia.org

1992年11月16日、イギリスのサフォーク州南西部にあるホクスンでのこと。

農場でハンマーをなくしてしまった農夫のピーター・ワットリングは、元庭師の友人エリック・ローズに協力を頼みました。

エリックの金属探知機で、ハンマーを探していた2人は、銀のスプーンや宝石、金貨、銀貨のたくさん入ったオーク材の箱を見つけました。

2人はすぐに地主と警察にこのことを連絡し、考古学者のチームによる発掘作業が実施されました。

半径30mのエリアの捜索が行われ、他にもひしゃくや食器など一帯に埋められていた他の財宝の入った箱も発見されました。

財宝は、ひしゃくが互いに積み重ねられるなど種類ごとにまとめて箱のなかに収められていました。

一部は動物などによって損傷していたものの、全体としてはとても良い状態で発掘され、財宝は大英博物館へと送られました。

ホクスンの財宝は、4~5世紀ごろのローマ帝国時代のもので、現在の価値にすると3億8000万円ほどの価値になると見積もられています。

財宝を収得した大英博物館では、あまりにも高価だったためにナショナル・アート・コレクション・ファンド(芸術作品を取得するための資金援助をしてくれるイギリスの慈善団体)と共同で支払いを行いました。

ホクスン財宝は主に金貨と銀貨、装飾品から構成されており、合計で金3.5kg、銀23.75kgにもなります。

ほとんどはオーク製の箱の中に収められていましたが、イチイや桜の木で作られた箱や、ウールの布、干し草に詰められたものもありました。

金貨、銀貨、青銅のコイン、銀のスプーンとひしゃく、銀のボウル、銀の花瓶、象牙のパイク(円筒形の容器)、金のネックレス、ブレスレットなどがありました。

なかでも有名なホクスンの銀製胡椒入れは、女性の彫刻が施されており、底の部分に故障の出る量を調節する仕組みがあります。

引用:history2701.fandom.com

当時、ローマ帝国では胡椒は大変な貴重品で、たった1ポンド(45g)が兵士の給料2週間分に相当しました。

この胡椒入れは、作られた当初は全体が金箔に覆われていたと見られていて、現在は大英博物館に保管されています。

ちなみに、財宝発見のきっかけとなったワットリングのハンマーですが、こちらも財宝の発掘調査中に発見されて寄付され、大英博物館で所蔵されることになりました。

スタッフォードシャーの財宝

引用:natgeo.nikkeibp.co.jp

中世や古代の財宝がたくさん眠っているといわれるイギリスでは、個人で金属探知機を使ってトレジャーハンティングを行うという少し変わった趣味をもつ人々がいます。

2009年7月、イギリス中部のスタッフォードシャー、ハマーティック近郊で無職のテリー・ハーバート(55歳)が自分の畑で金属探知機を使っていました。

18年もあいだトレジャーハンティングを趣味にしている彼の使う金属探知機も14年間愛用している品でした。

ハーバートの金属探知機が反応し、彼の人生最高となる大発見を知らせました。

彼が地中から発見したのは、3500点を越える金銀細工の財宝で、今から約1400年前、7世紀のアングロサクソン王家のもので、その多くは武具の飾りで他にも宗教的な装飾品もありました。

大半のものには宝石が散りばめられていて、使用されている金の量は5kg、銀の量は1.3kgにも上ります。

多くの装飾品が故意に曲げたり、折られたりした状態で埋められていましたが、正確な理由はわかっていません。

アングロサクソン時代の工芸品としては最高級のものも含まれていて、質・量ともに史上最大級の発見でした。

この発見は、アングロサクソン時代のイングランド史研究にも影響を与えました。

財宝の価値は328万5000ポンド(4億7000万円)といわれ、バーミンガム博物館と陶器博物館により共同購入され、一部は大英博物館でも展示されました。

バクトリアの黄金

引用:apanese.korea.net

バクトリアの黄金と呼ばれるこの財宝は、現在のアフガニスタン北部ティリヤ・テペ遺跡から発掘された20000点以上にも及ぶ黄金の装飾品の数々です。

この宝は、1978年にソ連とアフガニスタンの合同調査団によって発見されました。

バクトリアとは、現在のアフガニスタン北部から、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イラン東北部を含む地域を指す古い名称で、紀元前6世紀ごろから使われていました。

そのころのバクトリアは、シルクロードの交易拠点として栄え、ヨーロッパからアジア、さらには中東、インドともつながっていたといわれます。

さまざまな国や地域の富や文化が流入し、多種多様な人種・民族が行き交う、まさに文明の十字路と呼ばれるにふさわしい場所でした。

バクトリアの黄金は、ティリヤ・テペ遺跡の6つの墓所に副葬品として納められていたので、墓の中には5人の女性と1人の男性が埋葬されていました。

この宝は、それぞれの墓に埋葬されていた人物の生前の愛用品だったと考えられています。

バクトリアの黄金は、紀元前1世紀~1世紀にかけてのもので、おそらくは遊牧民の王子と彼の5人の妻たちのものと推定されています。

出土品には中国、インド、ギリシャなど様々な地域のものがあり、国際色豊かです。

黄金の冠や、女神アフロディーテの装飾板、金の襟飾り、ドラゴンを従えた男性のペンダントなど、どれも精巧な意匠を施したものばかりで、金だけでなくこの地方の特産品だったラピスラズリや、トルコ石、ガーネット、カーネリアン、真珠など、様々な宝石類があしらわれ、その価値は算定不能といわれます。

バクトリアの黄金は、発見されてから現在までに様々に所有者を変えており、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻の際には、国立博物館の所蔵品まで盗難に遭いました。

宝は数年後には無事に回収され、現在では世界各地の博物館で展示されていて、なかには日本で回収され、保管されているものもあります。

カアーデールの財宝

引用:en.wikipedia.org

1840年5月15日、イングランドのランカシャー州プレストン近くのカアーデールと呼ばれる地域に流れるリブル川の堤防を修理していた工夫のグループが、鉛の箱に入れられた財宝を発見しました。

箱の中からは、銀貨や、ブローチといった宝飾品、銀塊(インゴット)など8600点以上の品々が出てきたことが記録されています。

この事件はすぐに地元の警察に通報され、発見された宝はヴィクトリア英国女王に献上されました。

発見した工夫たちにもそれぞれひと掴み分の硬貨が与えられたということです。

これらの財宝は10世紀ごろにヴァイキングの埋めたものだと考えられていて、現在の価値になおすと3億2000万円ほどになり、ヴァイキングの宝としては史上最大級のものです。

宝の大部分はイングランド東部のヴァイキング王国を由来とするものですが、イタリアやスカンディナビア、ビザンチン、イスラムなどのものも含まれており、多数の人間によって集められたものだと思われます。

プレストンには、その昔ヴァイキングがこの地で活動していたことをうかがわせる痕跡が多くの地名に残されています。

地元のプレストンには、この宝のことを指すと思われる「リブル川の南岸に立って上流のリブチェスターのほうを見た者は、イングランドで最も豊かな財宝を手に入れることができるだろう」という言い伝えが残されていました。

財宝の一部は、現在も大英博物館に所蔵されています。

パナギュリシテの財宝

引用:en.wikipedia.org

この宝は、1949年にブルガリア南西部の町パナギュリシテで発見されたものです。

パナギュリシテの財宝は、総重量6kgで9つの純金製の容器からなっており、現在の価値には算定不能とされています。

タイル工場で働くパヴェル、ペトコ、ミハイルの3兄弟が粘度を掘っていた時に、偶然笛のようなものを見つけました。

3人がさらに掘り進めると、この笛は純金製であることがわかり、市役所にこのことを届け出て、調査の結果、この場所からは最終的に6kgにもおよぶ大量の金製品が出土したのです。

これらの財宝はいずれも、古代トラキアの王たちが行っていた宗教的な儀式に使用されていたもので、それぞれに精巧な意匠が施されています。

財宝の中でも最も大きなものは、1.6kgのリュトンで、兄弟が最初に笛だと思っていたのはこれでした。

引用:archaeologyinbulgaria.com

リュトンとは、古代ペルシアからギリシアなどバルカン半島一帯で使用されていた角笛のような形の器のことです。

このリュトンは取っ手の部分に弓矢を掲げたケンタウロスの装飾が施されています。

発見されたリュトンのうち、3つには女神ヘラ、アフロディーテ、アルテミスの首がついていて、残りのものは雄ヤギの半身をかたどった動物の形をしています。

リュトンには、ディオニュソス神、アポロン神、アルテミス女神などが登場するギリシア神話の場面が描かれています。

他にも儀式で液体を注ぐために使用されていた重量844gのフィアラ(お盆)、アンフォラ(陶器の壺)、金の皿や花瓶、デキャンターなどが出土しています。

ブルガリアには、数多くの遺跡や共同墓地が存在し、ほかにも1972年には北東部のヴァルナで3000点以上に及ぶ世界最古の黄金の財宝がみつかっています。

シロダの財宝

引用:en.wikipedia.org

1985年、ポーランド南西部のシロダ・シロンスカで電話局の建設のために取り壊された古い建物の基礎部分から壺が発掘されました。

壺の中からは、14世紀ごろのものとみられる、3000枚にもおよぶ銀貨が発見されます。

3年後の1988年に、付近で別の建物が解体されたときにも、その下から金貨や銀貨、宝飾品などが大量に掘り出されるという出来事が起こります。

発掘品の中には、黄金の王冠や宝石で飾られた金の留め金、サファイアの指輪、月の星や竜の頭があしらわれた指輪などがありました。

この財宝は、ルクセンブルク家の当主で後に神聖ローマ帝国の皇帝になったシャルル4世のものとされ、資金を必要とした彼がこの町に住むユダヤ人銀行家に自分の財宝を質入れしたと考えられています。

シロダの財宝は総額120億円にもなるといわれており、現在はその大部分が地元の地域博物館に所蔵されています。

港湾遺跡カイサリアの財宝

引用:www.nationalgeographic.com

イスラエル北部に位置するカイサリア(カイサリア・マリティマ)は、紀元前25年ごろに建造されたといわれる古代都市です。

カイサリアの街は、ユダヤ人やギリシア人など多くの人や民族でにぎわい、海上交易の拠点として栄えました。

その後、イスラム教徒の征服や十字軍による再征服を経て、1800年ごろには街はすっかりさびれてしまいましたが、1940年になって再開発が行われます。

現在もイスラエルには同名のカイサリアという街が存在していますが、古代都市のあった辺りは国立公園の一部になっています。

2015年、港湾都市カイサリアの遺跡にある港付近で潜水していたダイバーグループが、水中にある金貨を見つけました。

ダイバーたちは最初、これを子どものおもちゃだと考えました。

しかし、金貨の量があまりにも多かったため、イスラエル考古学庁に問い合わせてみたところ、とんでもない大発見であることがわかりました。

金属探知機で辺りの捜索を行ったところ、付近から2000枚にもおよぶ硬貨が発見されたのです。

硬貨は10~12世紀にかけての、異なる時代に鋳造されたものでした。

さらに、2016年5月16日、またも2人のダイバーが偶然の大発見をします。

彼らが偶然に見つけたのは約1600年前の古代ローマ時代に沈没した船でした。

この船は、カイサリアに入港する前に、嵐に巻き込まれて積んでいた財宝もろとも海に沈んだのです。

沈没船からは、金貨の他にも、太陽神ソル・月の神ルナの神像や、アフリカ人奴隷の頭を模したランプ、イノシシやクジラなどの工芸品、古代ローマの紙幣など様々な遺物が発見されました。

古代には、金属製の像は再利用のために溶かされてしまうことが多かったため、こうして完全な形で残されているのは貴重な事例です。

カイサリアの海の底には、まだ日の目を見ない財宝が眠っているのかもしれません。

セント・オールバンズの金貨

引用:en.wikipedia.org

イギリスのハートフォードシャー南部にあるセント・オールバンズで、2012年10月ウェズレー・キャリントンは大量の金貨を発見しました。

初心者用の金属探知機を購入したウェリントンは、私有地でそれを使っていきなり財宝を発見したのです。

最初に40枚ほどのコインを見つけたウェリントンはさらに捜索を続け、最終的に合計159枚もの金貨を発見します。

これらは、ソリドゥス金貨と呼ばれ、ローマ帝国で使われていたもので、今回発見されたのはローマがイギリスを支配化に置いていた4世紀後半のものだと考えられています。

ソリドゥス金貨は裕福な商品や地主、上級の軍人など社会的・経済的エリートの間で流通していた貨幣でした。

このコインは額面の価値が高いために通常実際に使用されることはあまりなく、宗教的な儀式や供え物として使用されることが多かったため、このように大量に発見されるのは珍しいことです。

見つかった金貨は、約2600万円で売却され、現在は地元セント・オールバンズにあるヴェルラミウム博物館に展示されています。

クリスタル・スカル

引用:www.nazotoki.com

クリスタル・スカル(水晶髑髏)は、マヤ、アステカ、インカといった中南米の古代文明から発掘されている水晶で作られた人間の頭蓋骨の模型で、世界中で十数個が発見されています。

映画インディ・ジョーンズのモチーフとしても使われました。

クリスタル・スカルは1つ1つ大きさや形が異なっていて、実際の人骨サイズのものもあればミニチュアサイズのものもあります。

とても精巧に作られているものもありますが、多くは非常に荒い造りで、使用されている水晶の質もピンキリで、純度の高いものが使われていることもあれば、くすんだり薄い色がついていたりするものもあります。

なかに1つだけ稼働するクリスタル・スカルが存在しています。

クリスタル・スカルがヨーロッパの収集家たちの間に渡ったのは19世紀後半のことで、当時は新大陸の古代文明ブームが起こっていました。

クリスタル・スカルには、「水晶髑髏は全部で13個あり、すべてが再び1か所に終結したとき、宇宙の謎が暴かれる」「2012年までに1か所に集めないと世界は滅びる」などという言い伝えがあります。

1970年代にカリフォルニア州のヒューレット・パッカードの研究所で行われた分析によると、道具による加工痕がなく、ひびが入っていないなどの精巧な造りで、製作年代も不明であることから長い間オーパーツではないかといわれてきました。

しかし、2008年にアメリカのスミソニアン研究所で行われた電子顕微鏡による精密調査によると、この髑髏が製作されたのはそれまで考えられていたよりもずっと新しく、19世紀末以降の製作物であることが分かりました。

大英博物館所蔵のアステカで発掘されたとされるブリティッシュ・スカルは19世紀後半の作であることが判明し、フランスのパリ人類学博物館に所蔵されているパリス・スカルもブラジル産の原石を使って19世紀後半にドイツで作られたものだということが分かっており、スミソニアン博物館所蔵のカース・スカルもX線調査によって1950年以降の作だと考えられています。

誰がなぜこのような髑髏を製作したのかというはっきりとしたことは未だわかっていません。

ただ、クリスタル・スカルの多くは、19世紀のヴィクトリア朝時代にウジェール・ボバンという名のパリの古物商経由で市場に持ち込まれたらしいということがわかっています。

考古学者としてメキシコ王室に滞在していた経験もあり、南米の文化に造詣の深いボバンが古代文明ブームを利用して作り出したというのもありえる話です。

言い伝えでは髑髏12個を集めるとされていますが、クリスタル・スカルは偽物であることが判明しているものを含めて現在までにすでに19個が見つかっています。

さらに、2012年を過ぎても人類が滅亡していないことはみなさんもご存じのとおりで、髑髏に関する言い伝えも、クリスタル・スカルの神秘性を高めるために誰かが作り出したものかもしれません。

ガリラヤのコイン

引用:www.sci-news.com

普段の何気ない行動が思いがけない大発見につながることもあります。

2016年、イスラエル北部のガリラヤへハイキングにきていた女性が偶然に2000年前の金貨を拾うという事件がありました。

発見者のローリー・ライモンは、この金貨を土の中から掘り出したというわけではなく、草の間から顔をのぞかせていたのを見つけたものです。

見つかったのは金貨1枚だけですが、この金貨はローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスを讃えて2代皇帝トラヤヌスが紀元前107年に作らせたもので、同じ金貨はこれまでに大英博物館で所蔵されている1枚しか発見されていないという希少品です。

ただ、これまでにガリラヤ地方で金貨が発掘された例はなく、どうしてここにあったのかは謎とされています。

1つの仮説として、ローマ帝国時代にガリラヤではユダヤ人によるバル・コクバの反乱が起こっており、この地で戦ったローマ兵への褒賞金として支払われたものではないかと考えられています。

ほかにも、銀貨や銅貨が不足したときに兵士への給料として金貨が渡されることもあり、その1枚ではないかという説もあります。

いずれにしろ貴重なものに変わりのないこの金貨は、発見者によってイスラエル考古学庁へと寄贈されています。

ガロウェイの財宝

引用:www.artfund.org

これは、2014年9月、宝探しを趣味にしているデレク・マクナレン氏がスコットランドのある教会の所有地で金属探知機を使っていたところ発見された財宝です。

見つかったのは、銀や銅の合金で作られた宝の箱や銀のブローチにベルト、十字架、腕輪、金のペンダントに金の鳥型ピン、王族や高位の聖職者が使用していた金糸を使った高価な絹織物などで、いずれも装飾の施された金属製の箱の中に、丁寧に隙間なくぎっしりと収められていました。

ガロウェイの財宝は、10世紀初めにヴァイキングによって埋められたものだと考えられています。

地元ガロウェイにはヴァイキングの軍隊がガロウェイでスコットランド軍に敗れる様子が謳われた民謡も残っています。

財宝が入れられていた箱も貴重なもので、中世に現在のフランスとドイツを版図に収めていたフランク王国カロリング朝の金属細工師によって作られた精巧なものだということが分かっています。

カロリング朝のこうした宝物入れはこれまでに6つしか見つかっていません。

こうした箱はカトリックの重要な儀式で使用されていたもので、ヴァイキングたちが裕福な修道院を襲った時に手に入れたものだと考えられています。

ほかにも、宝のなかには七王国時代のアングロ・サクソン人の熟練金属細工師によって作られた宝飾品のようにイギリスのものだけでなく、古代ゲルマン人が使っていたルーン文字が刻まれた腕輪などドイツやスカンディナビア由来のものから、ビザンティウムやスペイン、北アフリカで作られた織物などもあり、ヴァイキングたちがヨーロッパの広い地域を股にかけて活動していたことをうかがわせます。

ヴァイキングたちは民謡にあるように、この地でスコットランド軍によって滅ぼされたという説や、この地に根付いて徐々に現地の人々と同化していったという説もあり、なぜこの場所に宝が埋められたのかはいまだにわかっていません。

まとめ

以上、世界中で発見された財宝の数々を紹介してきました。

中東やヨーロッパなど古代から文明が発達していた地域には、遥か昔の人々が残した財宝が埋められていることがあるということです。

世界には、まだまだ多くの宝が地中に埋まっていて、それがいつの日かふとしたきっかけで日の目を見ることもあるかもしれません。



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