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世界で起きた歴史的有名人の暗殺事件10選

英語で暗殺者を表すアサシンという言葉は、11世紀後半に存在したイスラム教の暗殺教団ハッシャーシーンを語源にしているといわれます。

彼らは山中に拠点を作り、イスラム王朝や十字軍の要人たちを次々と暗殺していきましたが、最後にはモンゴル軍によって滅ぼされました。

この教団の存在がヨーロッパに知られることになり、暗殺を意味するアサシネーションという言葉も生まれたそうです。

暗殺とは、要人の殺害を秘密裏に計画し、不意打ちによって実行する行為で、その理由は政治的・宗教的なものから怨恨までさまざまで、人類の歴史では古今東西において実に多くの暗殺事件が発生してきました。

暗殺は決行まで秘匿されることが原則であるため全貌が見え辛く、いくつもの謎を残していくこともあります。

それがかえって暗殺という行為への人々の好奇心を呼ぶのかもしれません。

ここでは、紀元前から現代まで、世界中で起きた暗殺事件について紹介していきます。

ユリウス・カエサルの暗殺

引用:http://kyowanannohi.blog.fc2.com

ユリウス・カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)はローマ共和制期の政治家・軍人で、正式にはガイウス・ユリウス・カエサルで、父も祖父も曾祖父も同じくガイウス・ユリウス・カエサルを名乗っていました。

カエサルは紀元前100年の生まれで、幼いころは迫害を受け、シチリアなどに亡命して軍人をしていましたが、23歳のときにローマにもどると、弁舌の才能を活かして出世し、西ヒスパニア(現在のスペイン)の属州総督となります。

異民族の討伐や平定を行ったカエサルは名声を高め、ローマ最高の行政官である執政官に就任し、ポンペイウス・クラッススとともに三頭政治と呼ばれる政権を築きます。

その後、赴任したガリア(フランス)で異民族とのガリア戦争を戦い、2度のブリタニア(イギリス)遠征も実施し、最終的にはガリア平定を果たします。

カエサルの栄誉は頂点に達し、危機感を抱いた元老院とライバルであるポンペイウスはカエサルに軍団の解散を要求しますが、逆にカエサルはローマへと進軍を開始し、ポンペイウスを打ち破ります。

有名な「賽は投げられた」というセリフはこのときカエサルが軍を率いてルビコン川を渡ったときのものだといわれます。

ポンペイウスを追ってエジプトへ渡ったカエサルは、女王クレオパトラとのあいだでロマンスを演じ、最後にはポンペイウスを打ち破り、ローマの権力をほぼ手中に収めました。

カエサルは自らの支配権を確固たるものとするため、終身執政官への就任を計画します。

これに対して、カエサルの独裁と共和制の危機を感じた元老議員たちは、カエサル暗殺を決めました。

カエサルの最期

紀元前44年3月15日、元老院に出席するため、会場となっていたポンペイウス劇場を訪れたカエサルは、元老院の慣習に従い随行者を外で待機させ、1人になったところを襲われます。

「ブルータス、お前もか」という有名なセリフはこのとき発せられたもので、暗殺者たちのなかに腹心であったブルータスを姿を見たカエサルの言葉です。

カエサルの体には23もの刺し傷があったといい、うち2つが致命傷になったといいます。余談ですが、カエサルは大の女たらしとして有名で、幾人もの愛人がいたといわれ、元老院議員の近親者にも手を出しており、議員の3分の1がカエサルに妻を寝取られたという逸話もあります。

元老院議員が彼の暗殺に向けて結託したのにはこういった事情もあったのかもしれません。

結局、カエサル自身は独裁者にも皇帝にもなることはなく、その人生を終えましたが、「カエサル」はその後、ローマ帝国皇帝の称号となり、ドイツ語で皇帝を意味する「カイザー」やロシア語の「ツァーリ」も語源はカエサルからきています。

リンカーン大統領暗殺事件

引用:https://ja.wikipedia.org

エイブラハム・リンカーンは第16代のアメリカ合衆国大統領で、南北戦争を北部の勝利に導いてアメリカの分裂を防ぎ、奴隷解放宣言を行ったことで有名で、「奴隷解放の父」とも呼ばれます。

1865年4月14日の夜、ワシントンのフォード劇場での観劇中、リンカーンは熱狂的な南部独立派の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに後頭部を撃たれ、翌日の朝に死亡しました。

南軍のリー将軍が降伏し、南北戦争が実質的な終結をみてからわずか6日後のことでした。

この暗殺事件は衆人環視のもとでの犯行だったため、犯人がブースであることについては間違いないのですが、いくつかの謎があるといわれています。

ブースは逃走のあと、事件から12日後に納屋に潜んでいたこと頃を見つかり、撃たれて死亡し、共犯とされた4人が絞首刑となりました。

しかし、この事件の黒幕はリンカーンの穏健な南部への戦後政策に反対していたエドウィン・スタントン陸軍長官ではないかという説があります。

捜査を指揮したスタントンは、目撃者多数にも関わらずなぜかブースを犯人と認定するのに5時間もかかり、さらに手配写真が別人のものと間違えられたため、逃走を手助けする結果となりました。

スタントンはリンカーンが信頼するトーマス・エッケルト少佐を護衛として同行させようとしたのを拒否したり、実際の警備には酒飲みの警官ジョン・パーカーを配置し、パーカーが持ち場を離れて酒場にいっていたことに対してもお咎めなしで、さらにブースの死体を秘密裏に処理するように指示したため、殺されたのは本当にブースだったのか、などいくつもの疑惑があります。

本当に暗殺がスタントンの陰謀だったのかは定かではありませんが、非業の死を遂げたリンカーンには思い残すことがあったのか、ホワイトハウスには、リンカーンの亡霊を見たという目撃談が数多くあります。

坂本龍馬暗殺事件

引用:https://ja.wikipedia.org

坂本龍馬といえば、日本人なら知らない人はいないのではないかという幕末の有名人で、薩長同盟の成立をはじめ、海援隊の設立など多方面にわたって活躍した人物です。

歴史上の人物として人気も高く、なにより、その謎に満ちた暗殺の真相が多くの人を引き付けているのではないでしょうか。

龍馬が暗殺されたのは慶長3年(1867年)10月9日夜8時ごろ、京都の近江屋に滞在していた龍馬のもとへ、陸援隊隊長の中岡慎太郎が訪れ、談じ込んでいました。

当時の龍馬は幕府のお尋ね者であり、近江屋にも潜伏しているというのに近い状態でした。

そこへやってきたのが見廻組の与頭・佐々木只三郎で、彼は松前藩と書かれた名刺を差し出し、龍馬に面会を求めました。

そして、只三郎ら見廻組の3人が階段を駆け上がり、2階にいた龍馬と中岡を斬りつけました。

龍馬は即死で、中岡は重傷でも息はありましたが、6日後の17日に絶命し、龍馬の従僕だった山田藤吉も巻き添えを食って殺されました。

現在、龍馬暗殺の実行者は見廻組の佐々木只三郎とされており、これは佐々木と一緒に暗殺を行った見廻組の今井信朗が戊辰戦争後に行った証言によるもので、これが定説となっています。

しかし、本当に見廻組の犯行だったのか、やったのは見廻組だとして、本当に単独犯だったのか、背後で指図した黒幕はいなかったのか、など龍馬暗殺にはいくつもの真犯人説が存在します。

1:新選組犯行説

今井が犯行を自供するまで、龍馬暗殺は新選組の仕業とされていました。

当時、新選組は京の町で派手に暴れまわっており、龍馬暗殺についてもさもありなんと思われたのです。

さらに、中岡が襲われた際に聞いた「コナクソ」という声が、この言葉が方言として使われる伊予出身の新選組隊士・原田佐之助のものと考えられたことも理由の1つです。

2:薩摩藩陰謀説

これは、これまで小説やテレビドラマなどで多く採用されてきた説で、龍馬暗殺の黒幕としてもっとも人口に膾炙している説かもしれません。

西郷隆盛・大久保利通を中心とした薩摩藩の武力討幕派が、大政奉還による穏便な新政府の樹立を目指し、新政府に徳川慶喜を加入させることを主張していた龍馬を、自分たちの考える幕府勢力の一掃に邪魔になると考えたというもので、資料によっては逃走する犯人たちが鹿児島弁で話していたとするものもあります。

3:紀州藩士報復説

当時、海援隊が借り受けていた「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突し、いろは丸が沈没するという「いろは丸事件」が起こっており、この訴訟が海援隊側の勝利に終わったため、紀州藩士が報復のために龍馬を殺害したとするものです。

4:外国人陰謀説

薩長討幕派に武器の売り込みをはかっていた武器商人のトーマス・ブレーク・グラバーやイギリス外交官パークス、アーネスト・サトウらが邪魔になった龍馬を始末させたというもので、グラバーがフリーメイソンの一員であったといわれることから、フリーメイソンの陰謀という説もあります。

ほかにも、犯人の狙いは実は中岡慎太郎のほうであったという説など、龍馬の暗殺に関しては実に様々な説が流布しています。

しかし、犯人の手掛かりは今井の証言などごくわずかしか存在せず、その真相を完全に解き明かすことは難しそうです。

龍馬暗殺は、今後も多くの謎を残した日本史の一大事件として様々な推測をよんでいくことでしょう。

ヒトラーの死刑執行人 ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件

引用:https://www.dw.com

ラインハルト・ハイドリヒはナチス・ドイツのSS(武装親衛隊)大尉にして諜報部署である国家保安本部(RSHA)長官を務めた人物で、金髪碧眼というナチスの理想とするゲルマン人の典型的な特徴をもったハイドリヒは、親衛隊長官ヒムラーに気に入られていました。

1942年9月27日、ハイドリヒはチェコの首都プラハへと赴任します。

チェコは、ドイツの領土的野心によって、1939年にドイツに併合され、ベーメン・メーレン保護領と呼ばれていましたが、当時のチェコではドイツへの抵抗運動が発生しており、これを弾圧し、チェコの治安を管理するのがハイドリヒに与えられた任務でした。

ハイドリヒは役職としては保護領の副総督に任命されていましたが、就任するとすぐに総督を「病気療養」の名目で休職させ、自らが実権を握ります。

そして、プラハでも諜報部長官として培った辣腕を振るい、ドイツに対するレジスタンス活動やサボタージュ、デモ行為は首謀者をはじめ参加者や支援者までが死刑とされ、実際にそれらに関与した多くの人々が逮捕、処刑されました。

ハイドリヒはチェコの人々から「金髪の野獣」「死刑執行人」と呼ばれ恐れられました。

アンスロポイド作戦

これに対して、当時、チェコ亡命政府が樹立され、チェコ国内の抵抗運動を支援していたイギリスのSOE(特殊作戦執行部)により、ハイドリヒの暗殺が計画されました。

暗殺要員にはヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチクの二人のチェコ人が選ばれ、彼らは闇夜に紛れてチェコ領内にパラシュート降下しました。

ハイドリヒ暗殺には、「アンスロポイド(類人猿)」という作戦名が付けられました。

ヒトラーの人種差別的な考えと、それを象徴する風貌のハイドリヒに対する皮肉として、人間より下等な類人猿という単語が選ばれたといわれます。

ハイドリヒは毎日オープンカーのメルセデスに乗って通勤しており、大胆な性格の彼は護衛をつけずに運転手と二人だけということもしばしばあり、このタイミングを狙うこととなっていました。

暗殺実行

引用:http://blog.livedoor.jp

1942年5月27日、よく晴れた春の日、プラハ市内を走っていたハイドリヒの乗るメルセデスは、ヘアピンカーブのような急なカーブに差し掛かりました。

車が減速したそのとき、ガブチクが車道に飛び出し、隠し持っていたサブマシンガンの引き金を引きました。

が、セーフティの故障が起こったらしく、銃弾は発射されません。

通常、要人が乗車中に襲撃された場合は可能な限り車のスピードを上げ、速やかにその場を離れるのがセオリーです。

しかし、このときハイドリヒは自ら銃を構え、ガブチクを狙い撃とうとし、メルセデスもそれにあわせてスピードを落としました。

その時、隠れていたクビシュが後方からメルセデスに向かって対戦車用の特殊手榴弾を投げつけました。

凄まじい爆発により破砕物が車のシートを貫通し、ハイドリヒは重傷を負いました。

ハイドリヒはすぐに近くの総合病院に運び込まれましたが、シートや衣服の切れ端といった異物が傷口に突き刺さっており、摘出手術は成功したものの、敗血症を起こして高熱と激痛に苦しみながら、一週間後に息を引き取りました。

過酷な報復

暗殺に対するドイツ側の報復は苛烈を極めました。

リディツェとレジャーキという無関係の2つの村が捜査線上の名前が浮かんだというだけで住民らが完全に抹殺され、村は跡形もなく破壊しつくされました。

報復により無関係な人間を含め約13000人が処刑されたといわれ、実行犯のクビシュとガブチクも隠れ家にしていたプラハ市内の教会を包囲され、催涙ガスなどで攻撃を加えられ、最後には自決しました。

ところで、プラハ城内にある聖ヴィート大聖堂にはボヘミア王の王冠が保管されており、この王冠には「もし王にふさわしくない者がこの王冠を被ると死が訪れる」という伝承がありました。

ハイドリヒは以前、ふざけてこの王冠を被ってみせたことがあったといいます。

言い伝え通り訪れた死に、オカルト信仰の強かったナチス関係者たちは戦慄したといわれます。

連合艦隊司令長官山本五十六暗殺作戦

引用:http://norenjapan.jp

1943年4月3日、ニューブリテン島ラバウルに日本海軍連合艦隊司令長官である山本五十六大将が降り立ちました。

この時期、ガダルカナル島や東部ニューギニアをアメリカ軍に奪取されていた日本軍は、ソロモン諸島やニューギニア方面での劣勢を挽回するため、乾坤一擲の航空作戦「い」号作戦を計画しており、その陣頭指揮を執るためでした。

「い」号作戦が一応の成功をおさめたと判断した山本長官は、本拠地であるトラック島に帰る前に、最前線を視察することを決めました。

一方、アメリカ軍ではこの頃すでに日本海軍の暗号解読に成功しており、日本側が絶対の自信をもっていた暗号情報は敵に筒抜けとなっていました。

山本長官の動きをキャッチしたアメリカ軍ではこの機会に日本海軍の最高指揮官を暗殺するという計画が持ち上がりました。

敵の将官を謀殺した例はアメリカ史上にいまだかつてなく、倫理的な観点からもアメリカ軍内では議論が交わされましたが、最終的に太平洋方面司令長官であるチェスター・ニミッツ海軍大将によって承認されました。

デリンジャー作戦

引用:https://ja.wikipedia.org

山本長官一行は2機の一式陸攻に分乗し、零戦6機が3機ずつに分かれて護衛につくことになっていました。

アメリカ軍の計画は、空路移動中の山本長官を襲撃し、乗機ごと撃墜してしまおうというものでした。

作戦に使用されるのは、ガダルカナル島に進出していた戦闘機のうち、もっとも航続距離の長いP-38ライトニング戦闘機(現在のアメリカ軍で使用されているF-35 ライトニングⅡの名称はここからきています)が選ばれ、18機の選抜飛行隊が編成され、このうち「キラー編隊」と名付けられた4機編隊が、敵の護衛戦闘機に一切かまうことなく、ひたすらに「アドミラル・ヤマモト」を乗せた一式陸攻だけを狙えという特別な命令を与えられていました。

作戦名はデリンジャーと名付けられ、これは、リンカーン大統領の暗殺に使用された銃の名からとられています。

暗殺実行に際しては、暗号解読を悟られないよう、あくまでも偶然の遭遇を装えるような飛行経路が選択されました。

4月18日、2機が故障により離脱し、16機となった選抜飛行隊は7時34分に山本長官らの乗る一式陸攻と遭遇しました。

空戦がはじまりましたが、まったくの奇襲攻撃を受けたため、護衛の零戦は適切な迎撃行動をとれず、一式陸攻は2機とも撃墜され、山本長官の乗機は高度を下げて飛行しているときに被弾し、そのままジャングルへと墜落しました。

海軍甲事件とその影響

山本長官の死はラバウルへと伝えられ、日本軍に大きな衝撃を与えました。

この一件は「海軍甲事件」と呼ばれ、偵察のために1日1機程度しか飛来していなかったP-38がいきなり16機もあらわれ、山本長官機と遭遇したという事実に、さすがに日本側でも不審に思い、暗号が解読されているのではという疑念が上がりました。

そこで、日本軍では真偽を確かめるための囮を用意します。

同じように南東方面艦隊司令長官である草鹿中将による前線視察を行い、その電報を各地に発信しました。

しかし、アメリカ軍はこの餌には食いつかず、視察は何事もなく終了しました。

結局、日本側では暗号解読の恐れなしという結論を下し、海軍の暗号は終戦まで使い続けられました。

山本長官はラバウルで火葬に付され、戦艦「武蔵」に乗せられて本土へと運ばれました。

国民には、長官の死は1か月以上秘匿されていました。

ヒトラー暗殺 ワルキューレ作戦

引用:https://s.webry.info

第二次大戦勃発から5年が経過した1944年、ソ連との戦いは泥沼化し、フランスには西側連合軍が上陸し、東西から挟撃されることとなったドイツの敗勢は誰の目にも明らかとなっていました。

もともと、ドイツの高級軍人は、元貴族の出身者が多く、代々軍人という家系に生まれた人間が多く、庶民の出身であり、軍隊でも伍長という階級だったヒトラーが政権をとったことに対して、「成り上がり者」と反感をもつ者もいました。

しかし、いざ戦争が始まり、ドイツが連戦連勝の快進撃でヨーロッパの大部分を支配するようになると、彼らもヒトラーを軍事的天才と賞賛するようになります。

戦況が悪化すると、再び反ヒトラーに転じる者が増え、ドイツ軍内に「黒いオーケストラ」と呼ばれる反ヒトラー将校のグループが形成されていきます。

彼らはヒトラーを排除し、連合軍と早期講和を目指そうと考え、ヒトラー暗殺計画がもちあがり、クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐が実行役に選ばれました。

シュタウフェンベルクと7月20日事件

シュタウフェンベルクは元ヒトラー信奉者で、北アフリカの戦いで右手首から先と左手の薬指と小指、左目を失っていて、彼に対してはあまり警戒心を持たれず、ボディーチェックも緩いというメリットがありました。

シュタウフェンベルクは、ドイツ本土が敵の奇襲を受けた時に予備役を動員するためにドイツ軍が策定していた緊急計画「ワルキューレ」を改竄して、ヒトラー暗殺後の国内平定に利用できるようにし、同時にこれが暗殺計画の名称になりました。

1944年7月20日、ラステンブルク郊外の総統大本営ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)で暗殺は決行されました。

シュフェンベルクは予備軍幕僚として、ここでの作戦会議に参加することになっていました。

作戦会議室にはヒトラーを含め13人の軍人らがおり、入室したシュタウフェンベルクはヒトラーの右側に立ち、作戦机の下に爆弾入りの書類鞄を置きました。

このとき、2発の爆弾を用意していたのに関わらず、なぜかシュタウフェンベルクはそのうちの1本しか使いませんでした。

しばらくするとシュタウフェンベルクは急用の電話があるといって退出し、脱出用の車と落ち合った直後、爆発が起こりました。

暗殺失敗とヒトラーの報復

引用:http://www.kk-bestsellers.com

しかし、爆発がこもらない木造の建物で、爆弾を1本しか使わなかったうえ、頑丈な作戦机が爆風除けとなり、爆発直前に書類鞄の位置を会議出席者の一人がずらしたことなどにより、数人の死者が出たものの、ヒトラー自身は軽傷を負っただけでした。

その日のうちに犯人の捜索がはじまり、シュタウフェンベルクも逮捕され、翌早朝に銃殺刑により処刑されました。

「神聖なるドイツよ、不滅なれ!」

撃たれる直前、シュタウフェンベルクはこう叫んだといいます。

その後のヒトラーによる報復は熾烈を極め、暗殺に加担した者、そうでない者を含め、逮捕者約1500名、処刑されたものは約200名に及びました。

ヒトラーはこの後、軍を信用しなくなり、戦争指導においてもこれまで以上に自分の考えに固執するようになります。

その結果、ドイツ軍の指揮系統は硬直的になり、かえって敗北を早めることになったともいわれます。

ヒトラーを狙った暗殺計画は単独犯から組織的なものをあわせて計42回にも及んだといい、このすべてから生き延びたヒトラーはかなりの強運の持ち主といえますが、ドイツやドイツ国民にとっては不幸なことだったといえるかもしれません。

ケネディ大統領暗殺事件

引用:http://www.gibe-on.info

ジョン・F・ケネディは第35代のアメリカ合衆国大統領であり、アメリカの歴史上、選挙によって選ばれた最も若い大統領です。

ケネディは在任中、キューバ危機やベルリンの壁崩壊、ベトナム戦争への介入といった歴史上の重大事件に際してアメリカの舵取りを行いました。

就任時からアメリカ国民に期待され、人気も高かったケネディは今でもアメリカ人の好きな大統領ランキングでは上位にランクインしています。

1963年11月22日、遊説のためテキサス州ダラスを訪れたケネディは、市内をパレード中に狙撃され、死亡しました。

その日、オープントップに改造したフォードのリンカーン・コンチネンタルに乗ったケネディは、空港をスタートして約16km/hのスピードを保ったままダラス・トレードセンターに向かってゆっくりと進んでいました。

警察とシークレット・サービスからは「バズルトップ」と呼ばれる透明な防弾カバーをつけることを提案されましたが、その日の天候がよかったために装着されませんでした。

12時30分ごろ、ケネディを乗せた車がヒューストン通りを抜けてテキサス州学校教科書倉庫ビルの前を通過しようとした時、ケネディは狙撃を受けました。

ケネディには少なくとも、2発の銃弾が命中し、頭部への銃弾が致命傷になりました。

時間にしてほんの10秒ほどのことでした。

犯人は元海兵隊員のリー・ハーヴェイ・オズワルドで教科書倉庫ビルの5階の窓からケネディを狙撃したとされています。

オズワルドを巡るいくつもの謎

引用:https://jp.sputniknews.com

しかし、彼が本当の犯人だったのかについては、今でも様々な疑惑や謎が残されています。

オズワルドは、逮捕された当初から、「自分は嵌められた」「身代わりだ」などと語っており、狙撃があったころには教科書倉庫ビル2階の食堂で昼食をとっている姿を目撃したという証言もあります。

また、海兵隊時代のライフルの腕前も2級射手の資格のみで、1級射手はもっていませんでした。

オズワルドは暗殺にイタリア製のカルカノM1938ライフルと通販で購入した日本製のスコープを使ったとされていますが、彼の腕前とこの装備で移動するケネディを正確に狙うことができたかどうかは疑問視されています。

なにより、オズワルドは群刑務所へ移送されるときに、ダラス警察の地下駐車場で車に乗る直前、テキサス州の実業家だったジャック・ルビーによって銃撃され、死亡したことがさらに謎を深めています。

ルビーはオズワルドとは面識がなかったといっており、なぜ彼がオズワルドを殺す必要があったのかも不明で、背後に誰か黒幕がいたのではともいわれています。

果たして事件はオズワルドの単独犯だったのか、そもそも本当にオズワルドがケネディを撃ったのか、なぜルビーに殺されなければならなかったのか、などいくつもの謎は人々の興味と憶測をかき立て、その悲劇的で衝撃的な最期とともに、ケネディをアメリカ大統領のなかでも特別な存在にしているといえるでしょう。

モサドの報復

引用:https://alchetron.com

暗殺は時として、国家により、組織的かつ大規模に行われることがあります。

1972年、開催中だったミュンヘンオリンピックでパレスチナ武装組織「黒い九月」が襲撃を行い、イスラエルの選手ら11名が殺されるというオリンピック史上最悪の悲劇といわれる事件が起こりました。

イスラエルは報復としてPLO(パレスチナ解放機構)の基地に爆撃を行い、200名近い死者を出しましたが、これくらいで怒りを鎮めるほどイスラエルは甘くありませんでした。

イスラエルの女性首相ゴルダ・メイアはイスラエル諜報特務庁(モサド)に対して報復とさらなるテロの防止を目的に、「黒い九月」メンバーの暗殺を指示しました。

この秘密作戦は「神の怒り作戦」もしくは「バヨネット(銃剣)作戦」と呼ばれました。

神の怒り作戦

最初に暗殺されたのはPLOの指導者アラファト議長のいとこで黒い九月のメンバーだった翻訳家のワエル・ズワイテルで、1972年10月ローマの自宅アパートで射殺されました。

12月には黒い九月のブレーンであるマフムド・ハムシャリ博士がパリのアパートに仕掛けられた爆弾で負傷し、1973年1月にはPLOとソ連のKGBとの連絡役だったフセイン・アバト・アッシルがキプロスのホテルで爆殺され、4月には黒い九月幹部らが宿泊していたベイルートのホテルを襲撃し、幹部3名の殺害に成功します。

露呈した暗殺

しかし、1973年7月21日、ノルウェーでミュンヘンオリンピック事件の黒幕と考えられていたアリ・ハッサン・サラメを暗殺しようとしたモサドは人違いでまったく関係のないモロッコ人の男性を殺害してしまいます。

このときモサド工作員ら5名がノルウェー警察に逮捕され、工作員が暗殺計画を自白したため、モサドによる秘密作戦が世に知られることとなりました。

しかし、それでもモサドは諦めず、サラメがベイルートにいることを突き止めると、工作員を派遣し、爆弾を仕掛けた車をおいて待ち伏せ、通過したサラメの車ごと爆破して殺害に成功します。

これにより作戦は終結し、一連の神の怒り作戦でモサドはパレスチナ武装組織の人間を20人以上殺害したといわれています。

オサマ・ビンラディン暗殺作戦

引用:https://blogos.com

オサマ・ビンラディンはテロ組織アルカイダの首領であり、アメリカにとっては2001年の9・11同時多発テロを起こした憎むべき仇敵です。

アメリカはビンラディンを指名手配し、10年以上にわたってその行方を追い続けていました。

2003年3月、パキスタンでアルカイダのナンバースリーの作戦指揮官、ハリド・シェイク・ムハンマドが捕まりました。

アメリカはムハンマドからの尋問で、ビンラディンの連絡役の偽名を聞き出すことに成功します。

ビンラディンは非常に用心深い男で、自分の近くでは電話やコンピュータを使わせないよう徹底させており、アルカイダとの連絡事項は少数の信頼できる連絡役を介してすべて手渡しの文書か口頭で伝えられていました。

アルカイダの最高幹部でさえ、ビンラディンの居場所を知らされていませんでした。

アメリカのCIAは連絡役への盗聴によって、ビンラディンがパキスタン北部のアボッターバードにあるワジリスタン邸宅(ハヴェリ)と呼ばれる屋敷に潜んでいる可能性があることを突き止めます。

その屋敷は、三階建てで周囲の家の7倍の面積をもつという潜伏というには少し目立ちすぎる建物で、アメリカもその存在は知っていたものの、ひとりの護衛もいないこの屋敷にビンラディンがいるなどとは思っていませんでした。

しかし、調査するとこの屋敷には電話線が引かれておらず、ゴミはすべて屋敷内で始末しているなど不審な点があり、8か月に及ぶ監視の結果、CIAは潜伏の可能性は大という結論を出しました。

ネプチューン・スピア作戦

100%の根拠はありませんが、これはオサマ・ビンラディンを殺害するまたとないチャンスです。

大統領の命令のもと、ビンラディン暗殺「ネプチューン・スピア(海神の槍)」が立案され、ビンラディンには「ジェロニモ」というコードネームがつけられました。

2011年5月1日、79人の特殊部隊隊員と探知犬1匹を乗せた4機のヘリがアフガニスタンから飛び立ち、国境を越えてパキスタンを目指しました。

このうち突入部隊は2機のブラックホークに乗り込んだ24人のネイビーシールズチーム6の隊員で、DEVGRUの名で呼ばれ、最高機密として、この事件の前には公式には存在しないものとされていました。

各隊員は暗視ゴーグル、レーザー照準搭載のM4アサルトカービン、拳銃を装備していました。

友好国であるパキスタン政府にもこの作戦は伝えられておらず、探知されて不必要な交戦が起こるのを避けるため、ヘリはレーダーに引っかからないようヒンドゥークシ山脈スレスレの高度を飛びました。

「ジェロニモ、EIKA」

三角形をしたワジリスタン邸宅は高さ5.5mの塀に囲まれており、敷地内には2棟の建物があり、ブラックホークの1機が中庭に、もう1機が母屋の屋上にホバリングし、ロープで降下する突入チームがビンラディンを始末することになっていました。

しかし、2機目が屋敷の塀にこすってローターを破損してしまい、2機とも中庭に着陸しなくてはならなくなりました。

第1チームは客用の離れを襲撃し、中にした連絡係を射殺し、第2チームは地上から母屋に乗り込み、1階にいた連絡係の兄弟を殺害し、2階では隊員たちに向かってきたビンラディンの息子であるハリド・ビンラディンを仕留めます。

3階に上がった隊員たちは居室の扉の前に立つビンラディンを発見し、ビンラディンは部屋に逃げ戻りました。

こうした状況での退却は、部屋の中に武器や爆弾を隠しているかもしれず、攻撃の意思ありと判断されます。

シールズが部屋に入ると、ビンラディンの妻の一人が前に立ちはだかってきたので、隊員は彼女の足に1発撃ち込み座らせました。

そして、ビンラディンに向けて、胸と頭に立て続けに2発、「ダブル・タップ」と呼ばれる射撃で敵を仕留めました。

シールズはすぐに無線で「ジェロニモ、EIKA(enemy killed in action戦闘にて殺害)」を報告しました。

約40分の強襲作戦でした。

ビンラディンの遺体は空母カール・ヴィンソンに運ばれ、DNA鑑定によって本人と確認されたのち、イスラム教の最期の儀式を行い、海中に葬られました。

大統領が見届けた暗殺

この作戦で特徴的だったのは、襲撃の様子の一部始終が各隊員のヘルメットに装着されたカメラによってホワイトハウスの危機管理室に送られ、バラク・オバマ大統領やヒラリー・クリントン国務長官など政府や軍の高官たちが固唾を飲んで見守っていました。

「ジェロニモ、EIKA」の無線が入ると、一同は胸を撫で下ろし、オバマ大統領は「これでやつも終わりだ」と言ったといいます。

軍の最高指揮官が実際の襲撃現場の様子をリアルタイムで見るなどということは、これまでは考えられなかったことであり、技術の進歩によって戦争が新たな形態へと変化したことをあらわしているといえます。

金正男暗殺事件

引用:https://www.bbc.com

金正男は北朝鮮の第2代最高指導者である金正日総書記の長男であり、現在の最高指導者である金正恩の異母兄にあたる人物で、北朝鮮ではコンピュータ委員会の委員長としてIT政策の最高責任者を務めていました。

しかし、北朝鮮の後継者問題を巡り、西側諸国に対して北朝鮮批判を発信したことから、次第に北朝鮮にとって疎ましい人間となっていきます。

2017年2月13日午前9時ごろ、「キムチョル」という偽名でマレーシアのクアラルンプール国際空港からマカオへの出国手続きを行っていた金正男に、ベトナム人とインドネシア人の2人の女が襲い掛かり、一人がハンカチで顔を抑え、もう1人が顔にスプレーを吹きかけました。

直後から、金正男は体調不良を訴え、空港の医務室から病院への搬送中に死亡しました。

この暗殺に使われたのはVXガスで、日本でもかつてのオウム真理教が殺人などテロ行為に利用していた毒ガスです。

神経剤 VXガス

引用:https://withnews.jp

VXは生物の神経伝達システムを破壊する神経剤といわれる毒ガスで、サリンなどもこれにあたります。

VXは無味無臭で琥珀色に近い褐色をした液体で、エンジン・オイルと形容されるほど粘性が高く、揮発性が低く蒸発密度が高いため、蒸発しにくく、蒸発しても気体が空気より重いため拡散しにくく、一か所に滞留する性質があります。

しかし、少量でも人間を殺傷できる高い毒性をもち、呼吸不全や意識喪失、痙攣、失禁、瞳孔の縮小などの症状が起き、最悪の場合は死に至ります。

神経剤は、粘膜から吸収されると脱力感や痙攣、気分の悪さなどを引き起こし、皮膚に大量に付着した場合は数分間で死亡することもあります。

このVXの特徴は、金正男が死ぬ直前に体調不良を訴えたり、搬送中に急死したという暗殺の状況とも一致しています。

金正男は「目が痛い」と訴えていたといいますが、これはVXにより瞳孔が痛みとともに縮小する縮孔という症状が出ていたからだと考えられます。

VXは拡散性が低いとはいえ、猛毒のガスであり、これを至近距離で使えば暗殺者も危険に晒されることになります。

実行時の女2人は防毒装備などなにもつけない状態だったため、1人が事件後に嘔吐していたという話もあり、彼女自身もVXを吸い込んだ可能性があります。

犯人の女2人は逮捕されましたが、北朝鮮は公式には暗殺の実行を認めていません。

しかし、実行班の訓練を行い、暗殺を指示したのは、北朝鮮の諜報機関で毒殺が専門の朝鮮人民軍偵察総局19課とみられています。

拡散しにくいとはいえ、不特定多数の被害が出るかもしれない空港内で毒ガスを使用し、実行犯にまで危害が及ぶこともやむなしと考えるようなやり方は、北朝鮮諜報機関の冷酷さと、独裁国家における権力闘争の熾烈さを物語っています。

まとめ

以上、世界の暗殺事件をご紹介してきました。

暗殺というと、私たちの社会とはどこか遠くの世界の出来事のように思えますが、昔は日本でも総理大臣や政治家、有力者の暗殺が頻繁に発生していた時代もありました。

金正男の暗殺事件はまだ記憶に新しいところでしょうし、最近でもサウジアラビアの皇太子が黒幕といわれるジャーナリスト殺害事件がニュースになりました。

権力者が邪魔な人間を暗殺したり、反対に権力者が暗殺されたりと、相手を無き者にする暗殺という行為は、暴力的ではあるものの、邪魔者を排除するには最も確実な手段であり、これからも人間の社会からなくなることはないかもしれません。

しかし、私たちの生活や政治がこのような行為で変わってしまうことのないように、平和な社会を築いていきたいものです。



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