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【怪奇】まだまだあった世界の失踪事件・行方不明事件10選

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失踪事件とは原因がわからないまま一定数の人がいなくなることを言います。

以前、世界で起こっている失踪事件・行方不明事件をご紹介しましたが、世界にはまだまだ多くの事件が謎となっています。

【未解決】世界で起きた謎の失踪・行方不明事件12選

今回は前回に引き続き、世界で起こった謎の失踪事件・行方不明事件をご紹介していきます。

涙のハイウェイ失踪事件


引用 http://syouji.blog.jp

2011年5月28日、マディソン・スコットという20歳の女性は、カナダのブリティッシュコロンビア州にあるホグスバック湖で友人たちとパーティーを楽しんでいました。

パーティー自体に特に異変はなく、彼女はその後テントに泊まっていました。

ところが、2日経っても帰宅しない娘を心配した両親が探しに向かうと、湖のほとりには彼女が使っていたテントと車が放置されており、マディソン自身の姿はどこにも見当たりませんでした。

放置された車の中には、マディソンの財布はありましたが車のカギや携帯は見つからず、結局マディソンの消息は不明のままです。

彼女が行方不明となった湖の近くにあるハイウェイ16号線は、近辺で失踪事件や殺人事件が多発することから“涙のハイウェイ(Highway of Tears)”と呼ばれています。

アイリーン・モア灯台失踪事件


引用 https://nazo.shakk.net/tag

1899年12月、フラナン諸島最大の島・アイリーン・モア島に灯台が建造されました。

古来からアイリーン・モア島には侵入者を歓迎しない妖精がいるという伝説が語り継がれてきましたが、この付近の海は難所として知られており、付近を航行する船の安全を確保するのが目的でした。

この灯台には3人の男、ジェームズ・デュカット、ドナルド・マッカーサー、トマス・マーシャルが灯台守として常駐していました。

しかし、1900年12月15日、ヘブリディーズ諸島の沖を航行していた貨物船アーチャー号が船の向きを変えようとして現在位置を確かめるべく、アイリーン・モア灯台の光を探したが、奇妙な事に光はどこにも見当たらず、応答もありましませんでした。

それから10日余り経った12月26日、定期的に食料等を補給していたヘスペラス号が島に到着、船長のジム・ハーヴィーは汽笛と大砲の音で灯台に呼びかけてみたが、何の応答もなく、船員達が調査のためボートに乗って灯台に向かったところ、灯台の中はきちんと整っており、灯台のランプにも何の異常もなく、いつもの灯台の光景でした。

しかし、そこからは3人の灯台守の姿だけがなくなっていました。

その後の調査の結果、島の西側に暴風雨の跡がある事、岩の割れ目に常備してあった道具箱が見当たらない事、そしてデュカットとマーシャルのオイルスキンがなくなっているという事が明らかになったため、デュカットとマーシャルが暴風雨の中、道具箱を使っての作業中に誤って海に投げ出されたように思えました。

しかし、何故マッカーサーまでいなくなったのか、何故彼のオイルスキンだけが残されたままなのかという謎が残りました。

3人のうちの誰かが足を滑らせて突堤から落ち、彼を助けるために残る2人も海に飛び込み死んでしまったとも考えられましたが、突堤にはロープやライフベルトも残されていたいました。

またそのほかにも誰か一人が他の2人を殺し、自分も海に飛び込んで死んだのではないか等、失踪について諸説ありますが、現在も真相は謎のままです。

キャロル・ディアリング号失踪事件

キャロル・ディアリング号失踪事件とは1921年にアメリカ合衆国ノースカロライナ州のハッテラス岬沖において座礁しているところを発見された事件です。

発見されたキャロル・ディアリング号は発見当時、この船には乗員が一人も乗っていませんでした。

そのため、メアリー・セレスト号と同じような航海史上の謎としてしばしば取り上げられます。このような状況となった原因として、バミューダトライアングルの犠牲となった、暴動が起こった、海賊に襲撃されたなどの推測がなされました。

事件の内容

キャロル・ディアリング号は、1919年に貨物船として建造されました。

1年間何事もなく運用された後、ヴァージニア州ノーフォークからリオ・デ・ジャネイロまで石炭を載せて出港しました。

しかし航海中にメリット船長が病に倒れてしまい、デラウェア州ルイスで息子とともに下船しました。

彼に代わる船長を急いで探した結果、66歳の古参で一度は引退していたW.B.ワーメルを船長として、チャールズ・B・マクレランを一等航海士として採用して航海を再開しました。

その後ディアリング号は9リオ・デ・ジャネイロに到着し、無事に貨物を引き渡すことができました。

その後、補給を終えてリオデジャネイロを出港したディアリング号ですがその数ヶ月後、ノース・カロライナ州ハッテラス岬沖で座礁しているところを発見され、数日後に沿岸警備隊が乗り込んで調査を行いました。

その結果、ワーメル船長以下全乗組員が姿を消しており、航海日誌と航海道具、乗組員たちの身の回りのもの、ボート2隻も見当たりませんでした。

船の厨房には食品が残されており、食事を準備中に乗組員が行方不明となる何らかの要因が発生したと推測されました。

座礁原因1 ハリケーン説

事件当時、過去二十年間で最大と言われるハリケーンが発生していました。

そのハリケーンに巻き込まれたとする説です。しかしディアリング号は当時、嵐の海域から遠ざかりつつあったことが判明しました。

それでも幾人かの作家の調査により、ディアリング号の乗員はパニックを起こしたというよりむしろ整然と船から避難していったと主張しています。

座礁原因2 海賊説

ディアリング号は海賊に襲われ、乗員は全員攫われたとする説です。

ワーメル船長の未亡人は、この説の特に強い擁護者で、一団の海賊がさまざまな失踪の原因であると信じられていました。

しかし物的証拠は現われず、海賊の被疑者は捕えられませんでした。

座礁原因3 共産主義者説

ニューヨークにあるロシア連合労働者党の本部にたいする警察の強制捜査の結果、組織の構成員にアメリカ船を差押え、ソ連まで航行させるように呼びかける文書が発見されたとする説です。

この説についてソ連邦崩壊によりロシア側において多くの秘密情報が明らかになった後もこの計画が実行されたという決定的な証拠は見つかっていません。

座礁原因4 ラム酒密輸説

海賊説と似た説として、バハマで活動している一団の酒類密輸犯が、ラム酒の密輸船として用いるために船を奪取したとする説です。

この事件が発生した当時は禁酒法時代のことであるため、支持者も一定数存在します。

しかし他方、このように目立って容易に区別できる比較的低速の船が、密輸犯の選ぶ標的になるかどうかは疑わしいとも言われています。

座礁原因5 暴動説

乗組員の一部が船長のワーメルに対して反乱を起こしたとする説です。

ワーメルと一等航海士との関係は悪く、リオ・デ・ジャネイロ寄港中にワーメル船長は乗組員に対する酷い評価を下し、愚痴を言っていたとされているため、船長と乗組員たちとのあいだで、航海中に深刻な不和が起こっていたかもしれないと言われています。

座礁原因6 超常現象説

ディアリング号の乗組員の失踪は、異常現象によるものだとする説です。

ディアリング号がいわゆるバミューダトライアングルと見なされる海域を航行したため、バミューダトライアングルにて起こる超常現象に巻き込まれたと言われています。

中国兵士集団失踪事件


引用 https://matome.naver.jp/

1939年12月10日、日中戦争真っ只中の中国大陸で事件は起こりました。

この日、中国軍は日本軍に攻勢をかけるため、南京付近に集結していました。

日本軍は南京を既に南京を占領し、戦局は日本軍の圧倒的優勢でした。

そのため、攻勢をさらに加えるため、援軍が要請され、約3,000人の兵員が現地に到着、夜のうちに2マイルにわたって前線に展開しました。

この軍の司令官は援軍の配備状況を確認し、1マイル後方の司令部に戻りました。

ところが数時間後、司令部のもとに、部隊が無線に応答しないとの一報が入ります。不審に思い、司令官が前線に視察へ向かいました。

しかしそこは既にもぬけの殻と化していました。

大砲は所定の位置に配備されたまま、野営の火は燃えたままであったにも関わらず、肝心の兵士達が一夜のうちに一人残らず姿を消していました。

突発的な戦闘が起きたのであれば1マイル後方の司令部も気付いた筈であり、日本軍側にもそれらしい捕虜の記録は残っていません。

前哨点に駐屯していた兵士達を取り調べても、何の物音も聞いていないと言います。

兵士の集団脱走説などがとなえららましたが、兵士達の行方は、今現在もわかっていません。

マレーシア航空370便墜落事故


マレーシア航空370便墜落事故はマレーシアのクアラルンプールから中華人民共和国の北京市に向かっていたマレーシア航空の定期旅客便であるマレーシア航空370便が2014年3月8日に消息を絶ち、その後、インド洋に墜落したと推定された事故です。

事故後1年以上にわたって行方が分からなくなっていたが2015年7月29日、フランス領レユニオンにて、同機の一部とみられる航空機の残骸が発見され、8月5日370便の一部であることが判明しました。

機体が発見されるのに先行する形で2015年1月29日、マレーシア政府はマレーシア航空370便は消息を絶った後に墜落して搭乗者は全員死亡したと正式発表しました。

失踪とその後の流れ

マレーシア航空370便は、2014年3月8日午前0時41分に12人の乗員を含む239人を乗せてクアラルンプール国際空港を出発しました。

370便は同日午前6時30分に北京首都国際空港に着陸予定でした。

370便は離陸の約50分後、ベトナム南部の海岸近くの海上を航行中の午前1時30分にクアラルンプールの西南西約15kmにあるスルタン・アブドゥル・アジズ・シャー空港の管制当局との正常交信終了後、次の予定飛行空域を担う管制当局とは交信を開始せず、以後口頭無線通信に依る管制当局との交信を絶ちました。

またこの時点では救難信号などは出されていませんでした。

墜落原因1 機体トラブル説

航空機事故として一番最初に考えられる原因です。

しかし今回のマレーシア航空370便は通信途絶後も一定時間は飛行していたことや、上記のように意図的に通信の途絶が図られたことから単なる機体トラブルではないと考えられています。

墜落原因2 ハイジャク犯によるテロ行為説

事故でないとすれば次に考えられるのはテロリストによるハイジャク、テロリストによっては自爆テロとして通信等は全て遮断して何処かに墜落させようとするかもしれません。

そうすれば通信が意図的に切られていたことや、レーダーから逃れる危険な飛行も納得がいきます。またハイジャク犯に対して乗客が抵抗し、墜落させたという例は9.11の際も起こっています。

しかしこの説については搭乗者に怪しい人物がいないことや、テロであれば外部への連絡があってもおかしくないことから、証拠もないため疑問視されています。

墜落原因3 米軍による撃墜説

370便はハイジャクされディエゴ・ガルシア島の米軍基地を狙ったテロに利用されたため、米軍はやむなくこれを撃墜、それを隠蔽したと言うものです。

この説の根拠とされているのがモルディブからの目撃情報です。370便が行方不明になった3月8日の早朝、南部の環礁にある島の複数住民が「マレーシア航空機らしき機体を見た。北から来て南東に向かった」と証言しています。

モルディブから南東に700キロ行けば、ディエゴ・ガルシア島にたどり着きます。

ディエゴ・ガルシア島は英国領ですが、ほぼすべてを米国第7艦隊が使用し、民間人が住まない要塞島です。

中東と西アジア地区における対テロ戦争において爆撃機の出撃拠点となっている基地であり、インド洋、アラビア海における中国艦艇を監視する拠点。米国の戦略上、絶対に手放せない軍事拠点として使われています。

確かにディエゴ・ガルシア島ならばテロの標的にされてもおかしくありません。しかしこの説も証拠不十分です。

墜落原因4 ロスチャイルド家陰謀論説


引用 https://unscenesgoodoldays.blogspot.com
370便の失踪と共に、イルミナティ(秘密結社)のメンバーの一人と噂されるユダヤ系大富豪「ジェイコブ・ロスチャイルド」が、重要な半導体特許の唯一の所有者となるために、370便を利用したのではないかとの疑惑が持ち上がっています。

実は重要な半導体の特許の所有者5人のうちの4人が370便に搭乗していました。もし5人の特許所有者のうち4人が死亡すると、生き残った特許所有者がその特許の100%を得られます。

これが目的で370便ごとロスチャイルド家が消し去ったのではないか?と言われています。しかしこれは証拠が全くないため、陰謀論の域を出ません。

墜落原因5 パイロットによる故意の墜落

この説はザハリエ機長が機体を自ら沈めた殺人事件ではないかと言う説です。

370便は通信装置が何者かによって故意に切られた後、針路を変更していたことが明らかになっています。

一連の行為には高度な知識と高い操縦技術が不可欠でると考えられます。それらの要素を兼ね備えていたのはザハリエ機長です。

ザハリエ氏は1981年から同航空に勤務するベテラン。試験官の資格も持ち、不明となったボーイング777型機や管制に精通しています。

ファリク副操縦士は同型機に乗ってからまだ日が浅かったといいます。

ザハリエ氏の自宅からは、フライト・シミュレーターが押収されました。

ソフトは市販されており、多くのパイロットが自宅での訓練などに使っています。

しかし、航空でシミュレーター試験も主導するザハリエ氏は、会社の機器を自由に使えたはずで、わざわざ自宅にそろえる必要があったのかという疑問が浮上しています。

通信装置が切られたマレーシア機は突然、高度を上げた後に急降下、さらにレーダーを避けるように低高度を飛んだともみられています。

ザハリエ機長が関与していたと仮定した場合、問題となるのは動機です。

敬虔なイスラム教徒のザハリエ氏について、マレーシア警察は過激な原理主義との接点の有無なども調べましたが、特に過激な思想は持ち合わせていませんでした。

地元メディアは、ザハリエ氏がマレーシアの野党連合を率いるアンワル元副首相の支持者だった点を指摘していますが、これも証拠に欠けていますが、かなり有力視されている説です。

ジム・トンプソン失踪事件

第二次世界大戦中、ジム・トンプソンはCIAの前身であるOSSの諜報員として活躍し、引退すると静かな暮らしを求めてタイに移住し、そこでタイの絹産業を復興させてファッション界のカリスマとなりました。

そのため、一般大衆からも、政府からも尊敬される存在でした。

1967年3月29日、ジムは休暇として別荘があった高原を訪れ、そこで散歩に出かけました。

しかしこれ以降彼は行方不明になりました。ジムが有名な実業家であったことから、タイ空前の捜索が行われました。

ジャケットとタバコが置きっぱなしだったことから、それほど長く外出するつもりでなかったと考えられ、諜報員時代に培ったサバイバル技能を考えると、ちょっとした散歩で遭難する可能性も考えにくいとされています。

彼の行方は未だに謎のままです。

マレーシア共産党(CPM)関与説

ネーションの記事によると、謎解きを続けているプロデューサーらが2013年に探し当てたシンガポール人の知人経由でテオ・ピン氏という人物に行きつきました。

このテオ・ピン氏が「実の父親が死の床で自分は昔マレーシア共産党(CPM)の幹部で植民地政府や英軍とも戦ったこと」などと告白したということです。

その告白で「ジム・トンプソン氏がCPMの最高幹部で当時最重要指名手配されていた人物との接触、面会を試みていた」ことを明らかにしたといいます。

ジム・トンプソン氏が失踪当時滞在していたキャメロン・ハイランドはCPMの主要潜伏地域で、月光荘は一時CPMの司令部が置かれていたこともあり、スタッフにはCPMシンパが残っていたといいます。

その関係でCPM側に幹部との面会を求めるジム・トンプソン氏のことが即座に伝わり、人物照会、身辺調査の結果「元米情報機関員」であることが判明したとされています。

その結果ジム・トンプソン氏は「スパイの可能性がある」としてCPMの監視下に置かれたのち、1人で山中に入ったところを殺害されたというのです。

当時CPMの末端組織と中央組織の連絡は伝令と精度の低い無線しかなく、殺害はCPM本部ではなく、月光荘周辺の末端組織の判断だった可能性がある、と証言を聞いたプロデューサーは記事で推測しています。

このCPM元幹部の証言を裏付ける資料も傍証もないとしているが、さらにジム・トンプソン氏と親しかった当時中国で活動していたOSS幹部の息子の証言も記事では明らかにされています。

 

D.Bクーパー失踪事件

1971年11月24日、オレゴン州ポートランドからワシントン州シアトルに向かうノースウェスト航空11便が、D.Bクーパーと名乗る男にハイジャックされました。

男はブリーフケースの中にダイナマイトを仕込んでおり、身代金20万ドルとパラシュート4つを要求。

1時間後の5時45分に飛行機は、シアトル・タコマ国際空港に到着。要求の現金とパラシュートを手にすると、乗客全員と乗員2名を解放し、犯人は機長にネバダ州リノに向かうよう指示。途中の8時11分ごろ、犯人は飛行機後部の昇降用階段を空中で開け、現金と共にパラシュートで落下し逃亡しました。

犯人が落下した場所はポートランドの北50キロの地点で、警察はその後必死の捜索をしたにも関わらず犯人の足取りはまったく掴めず、結局迷宮入りしてしまいました。

犯人はその後の行方はいくつかの説があり、主に逃亡し完全犯罪を成し遂げた説と、パラシュートが開かずに墜落死した説(コロンビア川のそばで身代金の一部が見つかった)がありますが、いずれも決定的な証拠ではなく、謎に包まれています。

 

消えたヒッピーグループ事件

消えたヒッピーグループ事件は、ストーンヘンジという世界7不思議に数えられるイギリスの世界遺産で起こった不可解な事件です。

ストーンヘンジは、昔は誰でも自由に入ることができ、昔は中でテントを張って泊まることもできたそうです。

1971年、ヒッピーのグループがストーンヘンジの中にテントを張って、輪になってキャンプファイアを炊き、ハッパを吸ってくつろいでいました。

夜中の2時頃、突然雷鳴が轟きサリスバレー草原に落下。地元警察と農夫によると、この瞬間、辺り一面が青白く光り、目の前が真っ白になって何も見えなくなりました。そして遠くでヒッピーたちの叫び声が聞こえてきました。

目撃者は急いで駆けつけました。ここまで大きな雷を受けたら、死亡者も出ているだろうと思っていました。

ところが、ヒッピーのグループがいた痕跡はどこにもなく、焼けたテントとキャンプファイアがあるのみで、誰もそこにはいなかったそうです。

ヒッピーのグループのメンバーはいまだに行方不明のままです。

現在では都市伝説に近い扱われ方をしており、多くの人の間で意見が分かれています。

 

ヘール・ボッグズ失踪事件


引用 https://www.google.co.jp

1972年10月16日アラスカ旅行中に2人の大物政治家、アメリカ下院・院内総務のヘール・ボッグズと共和党のニック・ベギーチが行方不明になりました。

彼らはアンカレッジからジュノーへの飛行中、補佐官とパイロットとともに忽然と姿を消してしまいました。

パイロットは経験豊富な技術には定評のある人物で、彼から問題の報告はありませんでした。

捜索のために、軍用機40機と民間機20機のほか、沿岸警備隊のヘリコプターや空軍のスパイ機までが動員され、あらゆる線が検討されましたが、今日に至るまでその手がかりは一切発見されていません。

ウォーレン報告書とヘール・ボッグズ

ケネディ大統領暗殺事件の報告書であるウォーレン報告書を作成したウォーレン委員会の報告書に疑問を持っていたヘイル・ボックス議員(ウォーレン委員会メンバー)は「委員会が出した結論の【一発の弾丸理論】は、完全なでっち上げだ!」と追求しました。

一部からはケネディ大統領暗殺事件の真相を隠蔽しようとする何者かによりヘイル・ボックス議員は消されたのではないかとささやかれています。

ハーメルンの笛吹き男

ハーメルンの笛吹き男は、ドイツの街ハーメルンにおいて1284年6月26日に実際に起きたとされる出来事についての伝承です。

グリム兄弟を含む複数の者の手で記録に残され、現代まで伝わっています。

伝承の内容

1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていました。

ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら街を荒らしまわるネズミを退治してみせると持ちかけたました。

ハーメルンの人々は男に報酬を約束しましな。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきました。

男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させました。

しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払いませんでした。

笛吹き男はいったんハーメルンの街から姿を消しましたが、6月26日の朝に再び現れました。

住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていきました。

130人の少年少女たちは笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にあるほら穴の中に入っていきました。

そして穴は内側から岩でふさがれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかっ来ませんでした。そして盲目と聾唖の2人の子供だけが残されました。

実話である根拠


引用 https://tabinosikata.com

この物語への最初の言及は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスに見られます。

14世紀から17世紀にかけての複数の記録がこのステンドグラスについて述べています。

このステンドグラスは1660年に破壊されてしまいましたが、残された文献に基づいて、現在のステンドグラスが復元されています。

このステンドグラスは、色鮮やかな衣装を纏った笛吹き男と、白い着物姿の子供たちを特徴としています。

このステンドグラスには以下に記す説明文が添えられていましな。

「1284年、聖ヨハネとパウロの記念日
6月の26日
色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に
130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され
コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった」

このステンドグラスは、ハーメルン市の悲劇的な史実を記念して制作されたと一般には考えられています。

また、ハーメルン市の記録はこの事件から始まっています。

何世紀にもわたる調査にもかかわらず、笛吹き男の物語に隠された歴史的な出来事についての明確な説明は与えられていません。

笛吹き男の正体1 マグス(魔法使い)説

これはハーメルンの新門にあるラテン語の碑文に男はマグスであると記載されています。

またいくつかの説では、子供たちは何らかの自然的要因により死亡したのであり、笛吹き男は死神の象徴であったとされています。死神はしばしば笛吹き男のようなまだら模様の衣装を身にまとった姿で描かれます。

この説に関連付けられる類似のテーマとして、子供達の行進は中世の基本的な美術様式である死の舞踏の表現であるとの説があります。

自然要因説に含まれるいくつかの説として、子供たちはヴェーザー川で溺死したとする説、土砂崩れにより死亡したとする説、流行病により病死したとする説がります

笛吹き男の正体2 リクルーター説

この説は子供達は何らかの巡礼行為か軍事行動、あるいは新規の少年十字軍運動の一環として街から去り、二度と両親の元へ戻らなかったとする説です。

笛吹き男の正体3 開拓のリーダー説

この説は子供達は東ヨーロッパの植民地で彼ら自身の村を創建するために、自らの意思で両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説です。

この時代に創建された幾つかのヨーロッパの村と都市は、ハーメルンの子供達による開拓者としての努力の結果であると考えられます。

この説は最も多く支持されている説です。

まとめ

失踪事件は未解決事件でもあります。

特にマレーシア航空370便については乗っていた人の安否はもちろん、なぜ失踪したのかすら分かっていません。

残された人の事を考えると一刻早く真相究明がなされることを願います。




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