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【未解決】世界で起きた謎の失踪・行方不明事件12選

失踪事件とは、人が突然姿を消し、行方が分からなくなることです。

その原因は家出のような自発的なものから、誰かに誘拐されたりと様々で、事件や事故に遭って死亡してしまっているというケースもあります。

自分の家族がこうした事件に遭ったとしたら、とても不安で、どうか生きて帰ってきてほしいと思うことでしょう。

しかし、実際には捜索が行われても被害者を見つけることはできず、それどころか、生死すら不明のままになることもあります。

そして、失踪事件では失踪した人の身になにが起こったのかその原因が判明しないことも珍しくはありません。

ここでは、世界で起きた謎の多い12の失踪事件・行方不明事件をご紹介します。

アガサ・クリスティ謎の11日間

引用:http://olive.bz

アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティは、「ミステリーの女王」と呼ばれるイギリスの誇る女流推理作家です。

『そして誰もいなくなった』『オリエント急行殺人事件』など、皆さんも彼女の作品名を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

『スタイルズ荘の怪事件』でデビューしてから6年、推理作家としての名声を確立したアガサは、夫であるアーチボルド・クリスティ大尉との結婚生活は12年になり、公私ともに充実しているように見えました。

しかし、この頃アガサの夫婦生活はすでに破綻状態になっていました。

1926年12月3日、この日も夫の愛人のことで夫婦は激しい口論を起こし、アーチボルドは愛人ナンシー・ニールと週末を過ごすため家を出てしまいます。

その夜、アガサはヨークシャーに行くと秘書に言い残し、そのまま行方不明になります。

後に彼女の愛車が発見され、中からは運転免許証と何着かの服が残されていましたが、アガサの姿はありませんでした。

有名推理作家の、まるでミステリー小説のような失踪劇に、イギリス中の人々が関心を寄せました。

消えたアガサ・クリスティ

最初、アガサは自殺を図ったのではないかといわれ、次には夫のアーチボルドに殺人の疑いがかけられ大規模な捜索が行われましたが、収穫はありませんでした。

失踪から11日後の3月14日、ヨークシャー州の温泉地ハロゲートのホテルで、従業員が偽名を使って宿泊しているアガサを発見しました。

彼女は夫の愛人の名前を使い、ニール夫人と名乗っていました。

アガサ失踪の原因

世間は彼女の失踪事件の真相に興味津々でしたが、意外なことに、アガサは記憶喪失だと診断されました。

夫の愛人に対する大きなストレスを抱え、人気作家としての執筆活動による慢性的な過労に加え、つい最近母親を亡くしたことが重なってこんな事件が起こってしまったというのです。

しかし、人々はそれだけでは納得せず、売名行為ではないかとも疑われました。

アガサ自身は生涯この件に関して一切語ることはなく、本当の記憶喪失だったのか、それとも彼女の意思に基づく計画的な行動だったのか、謎の11日間は、ミステリーの女王が残した最大のミステリーとなっています。

フライト19の失踪

引用:http://www.nazotoki.com

バミューダトライアングルといえば、「魔の三角地帯」として、誰でも一度は耳にしたことのある場所でしょう。

このエリアは、バミューダ諸島、マイアミ、そしてプエルトリコの首都サンファンを結ぶ三角形の海域で、19世紀以降多数の船舶や航空機が良好な天候にも関わらず、跡形もなく姿を消すという事件が起こるという伝説があります。

中でも、第二次大戦直後に起こった「フライト19」の失踪事件はその代表例として知られています。

テイラー中尉とフライト19

引用:https://www.findagrave.com

1945年12月5日午後2時10分、フロリダ州フォートローダーデールの海軍基地から、5機のTBMアベンジャー雷撃機の編隊「フライト19」が飛び立ちました。

ベテランのチャールズ・キャロル・テイラー中尉を教官とする通常の訓練飛行で、搭乗員は合計14名、2時間ほどで基地に帰還する予定でした。

この日、テイラーは理由も言わずに教官の交代を願い出て却下されており、「何かの予兆」を感じていたのかもしれません。

各機は出発前の点検は異常なく、燃料も満タンで、爆撃訓練自体は予定通りに完了し、基地への帰還の途に着きました。

しかし、3時45分ごろ、基地上空を飛行中の別の教官機がテイラー機からの通信を受け取りました。

「コンパスが2つとも狂ってしまった。コースを外れたようだ。基地へどう帰ればいいかわからない」

テイラーの声はひどくうろたえていて、通信もだんだんと途切れるようになっていきます。

基地の管制塔は編隊を無事帰還させるべく必死の努力をしましたが、

「白い水のようなものに突入した……完全に方向を見失った」

という無線を最後に、フライト19からの通信は途絶えました。

すぐに編隊を救助すべく、2機のPBMマリナー飛行艇が基地を離陸しました。

しかし、今度はそのうちの1機と搭乗員13人を乗せたまま通信を絶ち、未帰還となります。

アメリカ海軍はそれから数日に渡って多数の艦船と航空機を動員し、大西洋からメキシコ湾にかけて30万㎢の海域を捜索しましたが、フライト19の痕跡を見つけることはできませんでした。

海軍の調査委員会は「我々は何が起こったかについて推測することすらできない」と公式に発表しました。

編隊になにが起こったか

現在では、基地に赴任してきて間もなかったテイラーが、誤ってフロリダ半島まで飛行してしまったと思い込み、その後も見当違いな方向に飛び続け、間違いに気づいた時にはすでに基地に帰還できるだけの燃料がなくなっていて、全機が海に不時着したのだと考えられています。

また、飛行艇については空爆発を起こしたらしく、付近を航行中のタンカーが火の玉が海に向かって落下するのを目撃したという証言があります。

フロリダ沖では、現在までフライト19の機体は見つかっておらず、あの日、編隊になにがあったのかは今も謎のままです。

消えたイヌイットの村 アンジクニ

引用:http://travelpress.jp

カナダ北部ノースウェスト準州(現在のナブート準州)、北アメリカ大陸最北のこの場所は氷原に覆われ過酷な自然環境が広がっています。

罠猟師とは、毛皮を求めてこの地域を罠を仕掛けて旅する猟師たちのことで、ジョー・ラベルもその1人でした。

彼らにとって、いざというときに身を寄せられる付近の集落の場所を把握しておくことは自身の生命線になります。

カザン川のほとりにあったイヌイットの村アンジクニは、村人25人ほどの小村ですが、この辺りでは数少ない集落の1つでした。

1930年のある夜のこと、いつものようにこの村のお世話になろうと立ち寄ったラベルが見たのは異様な光景でした。

村人たちが1人残らず姿を消していたのです。

それだけでなく、炉の上に食べ物がかけられたままだったり、繕いかけの服が針を刺したまま放り出してあったり、貴重品や必需品も放置されたままで、まるでさっきまで人がいたかのようだったのです。

さらに、外には犬7頭の死体が残されていました。

ラベルは慌てて王立カナダ騎馬警備隊(RCMP)にこのことを報告し、捜索がはじまりましたが、消えた村人たちの行方も、その手がかりも見つけることはできませんでした。

この事件は当時の新聞では大きく取り上げられず、1959年にアメリカの作家が著書の中で紹介したことで広く知られるようになりました。

村人の行方を巡ってはさまざまな憶測が飛び交い、吸血鬼に殺されたとか、宇宙人に誘拐されたという説まで出てきました。

村は存在しなかった!?

さらに奇妙なことにRCMPは失踪事件自体を否定する公式見解を発表しました。

そもそもアンジクニなどという村は最初から存在しておらず、RCMPが捜索を行ったという事実も存在していないというのです。

しかし、1931年1月には当時のRCMP長官がこの事件に対する報告を発表していて、その中で確かに失踪事件自体は「大げさな作り話」だとされているのですが、それはJ.ネルソンという警官が行った「調査の結果」だとされていて、発表と矛盾しています。

なぜRCMPが事件を隠蔽するような発表を行ったのかは不明で、そこには公表できないような恐ろしい事実が存在していたからだという憶測もあります。

1930年代の事件の真実を今から解明するのは不可能に近く、今となっては本当にそんな村があったのかどうかさえ定かではありません。

バレンティッチ事件

引用:https://www.dailytelegraph.com.au

1978年10月21日、フレデリック・バレンティッチは自身の操縦するセスナ182L型機でメルボルン郊外のモラビン空港を発ちました。

彼は新米のパイロットで、出発したのは日没直後でしたが、天候は良く、タスマニアの手前にあるキング島まで1時間程度の飛行の予定でした。

ところが、午後7時過ぎ、バレンティッチから管制塔に奇妙な無線が入ります。

国籍不明の飛行機が彼の機体の上方約300mのところを通過したというのです。

しかし、管制塔では付近を飛行中の他の飛行機を確認できませんでした。

なおもバレンティッチが通信を寄せてくるところによれば、緑色のライトを点灯した金属製の輝く飛行物体が自身の機体をからかうように飛行しているというのです。

さらに、セスナのエンジンまでがおかしくなってきたというバレンティッチの報告に、管制塔がその飛行機を特定するように連絡したところ、

「航空機ではない、あれは……」

それを最後に彼の声は途絶え、数分後、金属がぶつかりあうような音とともに、通信も完全に途切れてしまいます。

すぐに捜査が開始され、2500㎢におよぶ海域を4日間にわたる捜索が行われましたが、バレンティッチもセスナ機も何一つ発見できませんでした。

運輸省は失踪原因を特定できないまま、バレンティッチは死亡と推定と発表します。

UFOが連れ去った?

当時から、多くのUFO研究者たちが失踪の原因は敵意あるUFOからの攻撃を受けたために違いないという推測を出し、バレンティッチは宇宙人に誘拐されたのだという説まで飛び出しました。

さらに、バレンティッチ自身が大のUFO信奉者だったことから、事件は彼自身による狂言ではないかまで言われるようになりますが、1983年にバレンティッチのものと思われるセスナの残骸が発見されたことから、事故自体は本当に起こっていたということがわかりました。

バレンティッチは方向感覚を失って気が付かないうちに機体を上下反転させてしまったか、もしくは墓場行きスパイラルといわれる螺旋降下の状態に陥り、海面に反射したセスナの機影や星の煌めきをUFOと錯覚したのではないかといわれていますが、あの日バレンティッチの身になにが起こったのか、彼はどこに行ってしまったのか、はっきりとしたことはわかっていません。

事件後に公表された当時の運輸省の報告書によると、当時、この事件にUFOが関係した可能性についてイギリス国防省が調査しようとしていたといいます。

バレンティッチが失踪した10月21日に日没時、失踪地点に近いケープ・オトウェイの灯台でロイ・マニフィールドという人物が奇妙な写真を撮影していました。

引用:https://www.heraldsun.com.au

その写真には、まるで雲のように見える奇妙な飛行物体が映し出されています。

彼によると、その物体は水中から高速で飛び出してきたのだそうです。

バレンティッチが行方不明になったのは、彼がこの写真を撮影してからわずか20分後のことでした。

メアリー・セレスト号の消えた乗組員

引用:http://toshidensetsu-ikki.com

メアリー・セレスト号は、全長31mの2本マスト帆船で、1872年ポルトガル沖で無人で漂流しているところを発見されました。

よく「マリー・セレスト号」と呼ばれることもありますが、これは、シャーロック・ホームズで有名なコナン・ドイルがこの事件を題材にして書いた短編小説に出てくる船の名前で、実際の船名はメアリー・セレスト号でした。

メアリー・セレスト号は11月7日にニューヨークを出港し、イタリアのジェノバへアルコールを運ぶ予定で、船にはベンジャミン・スプーナー・ブリッグズ船長と彼と7人の乗組員、そして船長の妻と2歳になる娘が乗っていました。

11月25日早朝の最後の航海日誌には悪天候に悩まされている様子が記されていますが、船に異常が起こったという記述はありません。

それから2週間後、メアリー・セレスト号はイギリス船デイ・グラチア号によって発見されました。

船には誰も乗っておらず、無人の状態で数百㎞も漂流していたらしく、乗組員は持ち物を諦めて1隻の救命ボートで慌てて脱出した様子でした。

船倉にはいくらか水が溜まっていたものの、船と積み荷に特に問題はなく、数か月分の食料が手つかずのまま残されていました。

どうしてブリッグズ船長たちが、大海原の真ん中で公開可能な船を捨てて脱出しなければならなかったのか、たしかなことは分かっていません。

作られた伝説

この話でよく言われる、船内には直前まで人がいたような痕跡が至るところに残されていて、「食卓には手つかずの食事やまだ温かいコーヒーがあった」、「鍋が火にかけられたままだった」というのは後世に作られた物語で、船内には食料は残されていましたが、当時の報告では食卓や船室には食べ物はなかったとされています。

そのほか、「発見当日の航海日誌の記述があった」、「航海日誌の最後に『我が妻マリーが』という走り書きがあった」というのも創作で、実際には日誌は2週間前のものしかなく、ブリッグズの妻の名前はサラでした。

船員たちになにが起こったか

当時はブリッグズが保険金詐欺を企てたのではないかともいわれましたが、現在では乗組員が犯罪を行ったという説は支持されず、彼らの身になにか重大な事件が起こったのではないかと考えられています。

漏れて気化したアルコールに引火が起き、ブリッグズが緊急避難を指示したという説もあります。

ブリッグズはアルコールを輸送するのが初めてで、この航海に不安をもっていたともいわれます。

また、当時メアリー・セレスト号に密航していたというフォスダイクという人物が、乗組員たちが海水浴をしているとき、1人がサメに襲われ、その様子を確認しようと他の乗員たちが船の特別デッキに集まったため、特別デッキが壊れ、全員が海に投げ出されたと証言しています。

しかし、フォスダイクが本当にメアリー・セレスト号に乗船していたという確証もなく、乗組員全員が海に落っこちるという内容も疑わしいものです。

そのほか、恐ろしい海の怪物や海賊に襲われたという荒唐無稽な説も存在します。

いずれにしても、広い海の真ん中でたった1つの救命ボートに身を任せた乗組員たちのその後については、決して明るいものではなかったでしょう。

【謎の海難事故】実在した世界の幽霊船15

ハロルド・ホルトの失踪

引用:https://www.theaustralian.com.au

ハロルド・ホルトはオーストラリア自由党の党首で、1966年1月に、第17代オーストラリア首相となりました。

冷戦下で同盟国であるアメリカやイギリスとの密接な関係を築き、ベトナム戦争を熱心に支持しました。

就任から2年が経とうとする1976年12月17日、ホルトはビクトリア州ポートシーのビーチで友人たちと週末を過ごしていました。

潮の流れが速い場所でしたが、水泳が得意だったホルトは、「この海のことは知り尽くしているよ」と言い残し、海に入っていきました。

しかし、海に飛び込んだままホルトの姿は消えてしまいます。

慌てた友人たちが通報し、救助隊が懸命な捜索を行いましたが、首相を発見することはできませんでした。

2日後、オーストラリア政府は首相が死亡した可能性があることを発表しました。

ビクトリア州の規定では、死因は遺体がなければ確定できないことになっていて、それがホルトの死因に関して様々な憶測を生み出す結果となりました。

ホルトは仕事のストレスからうつ状態になっていて自殺したのではないかというものから、事故に見せかけ愛人と駆け落ちしたのだという話もあり、なかには、ホルトは実は中国の二重スパイとして活動していて、溺れたようにみせかけて中国の潜水艦に乗り込み、アジアで第2の人生を送っているのだという説まで飛び出しました。

2005年、ホルトの死についての最終的な判断が出されました。

当時、ホルトは健康状態が悪く、議会で倒れることもあり、医者には水泳を止められていました。

それを無視したため、彼は波に飲まれてしまった、という平凡な筋書きが彼の死に対する結論となりました。

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