社会

世界の少数民族10選

民族とは、ある文化的な特徴を基準にして他と区別される共同体のことで、少数民族とは、ある民族や国家、地域などが複数の民族から構成されている場合に、その中で少数派になる民族を指す言葉です。

少数民族といっても、あくまで相対的にみて少数派ということなので、その数は数百人のこともあれば数百万人のこともあります。

クルド人のように、国家をもてるほどの数の民族でも、ある地域では少数民族となっていることもあります。

少数民族の中でも先住民といわれる、古くからある国や地域で暮らしてきた民族には、保護が必要なほど数が少なくなっているものもいます。

ここでは、世界各地の様々な少数民族を紹介していきます。

ヒンバ族

引用:https://world-note.com/

ヒンバ族は、アフリカ南西部の国家ナミビアの北部にあるクネネ州に暮らす民族です。

クネネ州は、山がちでナミビアの他の地域と比べて開発もあまり進んでいません。

乾燥しているせいで農業もやりにくく、インフラや道路もほとんどありません。

この地域に暮らす先住民族ヒンバ族は、人口およそ2万~5万人といわれていて、牛や山羊の放牧、トウモロコシなどの栽培を行いながら生活を送っています。

ナミビア北部から隣国のアンゴラ南部に住み、農業中心の生活を行うヘレロ族とはもともとは同じ民族でした。

世界一美しい民族

引用:ikumen-smile.com

ヒンバ族の女性は「オーカ」と呼ばれる赤い泥と脂肪を混ぜたもの全身に塗る習慣があり、腰には皮の腰巻をつけ、髪もオーカを大量に塗り込んでドレッドヘアーのように固めています。

彼女たちは頭から足先まで全身が真っ赤に染まっているように見え、その特徴的な外見から、「世界一美しい民族」と呼ばれるようになりました。

乾燥したこの地域では水は貴重品のため、ヒンバ族には入浴の習慣がなく、女性たちは朝も夜もこの姿で暮らしています。

オーカには、酸化鉄を豊富に含んだ石を砕いた粉と、牛乳から作られたバターが含まれ、皮膚を保護する効果があるといわれます。

お風呂の代わりに、ヒンバ族は煙浴を行うことによって全身を清潔に保っています。

ヒンバ族の生活

引用:www.asahi.com

ヒンバ族では、男性よりも女性のほうが多くの労働をする習慣があり、女性たちは水を汲んだり、薪を集めたり、食事を作ったり、家畜の乳を搾ったりと家事から牧畜に至るまで非常に幅広い仕事を行い、生活を支えています。

ヒンバ族では、トウモロコシの粉を使ったお粥がよく食べられています。

男性は放牧のために家を離れることが多く、こうした作業ができないためです。

そのほかにも、部族長の集会や村内の議会など政治的な活動をするのも男性の役目です。

男性には体を赤くする習慣はなく、一夫多妻制でたいていが2人以上の妻と生活しています。

ヒンバ族の娘は、父親が決めた相手と結婚し、10歳くらいで嫁いでく少女もいます。

ヒンバ族は精霊を信仰していて、特に火に聖なる力が宿り、炎を通じて祖先たちからの加護が得られると信じています。

ヒンバ族の村は、聖なる火の焚かれる場所を中心として、円形に家々が並んでいます。

ヒンバ族の歴史

引用:ja.wikipedia.org

1904年には、ドイツの軍人ロタール・フォン・トロータにより、ナミビアでヘレロ・ナアマクア虐殺が行われ、ヒンバ族と同じ起源をもつヘレロ族が大量虐殺の憂き目に遭いました。

これは、20世紀最初のジェノサイドともいわれます。

1900年のナミビア独立以降は、ヒンバ族はナミビア政府の保護を受けるようになり、伝統的な放牧のほかに、野生動物の保護や観光客向けの自然保護などを行って生計を立てるようになりました。

セトゥ人

引用:natgeo.nikkeibp.co.jp

セトゥ人は、東欧のバルト三国の一番北に位置するエストニアの南東部からロシアの北西部にわたるセトマーと呼ばれる地域に暮らす先住民族です。

人口は1万~2万人とされ、その半数ほどが現在まで伝統的な暮らしを守っているといわれます。

おとぎの国の住人

引用:www.nationalgeographic.com

伝統的な民族衣装をまとい、歴史的な造りの建物で生活するセトゥ人はまるで、おとぎの国の住人のようだといわれます。

彼らの行う「リーロ」と呼ばれる詩の多声歌唱は、古代から伝わるもので、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されています。

リーロのほとんどは長い年月の間に受け継がれてきたもので、リーロの歌い手は最大で2万もの詩を歌唱することができるといわれます。

セトゥ人の伝統的な民族衣装は白を基調としていて、まくり上げて着用する長い袖ついているのが特徴です。

未婚の女性は花輪をつけるか、ヘッドスカーフをかぶり、長く編んだ髪を外に向かって垂らします。

セトゥ人の女性は、伝統的な民族衣装を着るとき、必ず銀の装身具を着用し、裕福な家の女性ほど装飾の数が多くなります。

この装身具は彼女たちが歩くたびに金属音を奏で、セトゥ人には、「女性は姿を見られる前に音を聞かれなければならない」ということわざがあるそうです。

セトゥ人の女性の多くは古い民族衣装と新しい衣服との2種類をもっています。

セトマー王国

引用:www.thevintagenews.com

セトゥ人が暮らすセトマーは、第二次大戦中にソビエト軍によって占領され、現在も、セトゥ人は国境線によってエストニア側とロシア側とに分断されてしまっています。

ソ連時代からセトゥ人の伝統は徐々に衰退し、現在もロシア側にいくと、エストニア語を話すセトゥ人はほとんどいないなど、民族としても2つに分かれてしまうことが危惧されています。

1994年、セトゥ人は、自分たちの文化を守るために「王国」を作ると宣言しました。

これは本当に国としての独立を目指すというよりは、民族としての団結心を芽生えさせ、文化を守るための活動に近いようです。

セトゥ人の王国はセトマー王国と名付けられ、国王となったのはセトゥ人が信仰する豊穣と収穫の神であるペコ神です。

ペコ神は、ロシアのプスコフ修道院にある洞窟の中で、永遠の眠りに就いているといわれます。

セトマー王国では、毎年、副王と女王が選挙によって選ばれ、彼らは夢を通じてペコ神と交信することができ、神から与えられたメッセージをセトゥ人たちに伝える役割を担っています。

ゴロカ族

引用:www.redbull.com

ゴロカ族は、ニューギニア東部の山岳地帯、アサロ峡谷に暮らす少数民族です。

ゴロカ族は、神話や民話、ことわざ、呪文など多くの口伝えの伝承をもっており、物質的な文化は生活に必要最低限のものだけしかなく、今も電気やガスに頼ることはなく、かなり原始的な生活を送っています。

ゴロカ族の外見的な特徴として目立つのが、彼らの身に着けている独特な装飾品です。

ゴロカ族は、ジャングルの植物や鉱物を使って作られるカラフルな装飾品を、顔が分からなくなるほど身に着けており、他の部族にも見られない珍しいものです。

体に泥を塗りたくることで精霊のような姿になることを目的としていて、その様子からは彼らはマッドマンとも呼ばれます。

これは、現地では部族同士の争いが日常茶飯事だったために定着したもので、敵に対して強そうな印象を与えるためのものだといわれ、男たちはこのためにいかに化粧と装飾を行うかを常に磨き続けています。

といっても、ゴロカ族が好戦的な民族というわけではなく、戦いを避け、敵に襲われても戦わずに逃げていたといわれます。

このときも、役に立っていたのが彼らの装飾品で、あるゴロカ族が敵に捕まりそうになり、もう逃げられないと観念して姿を見せたところ、敵は彼らの外見をみてその恐ろしそうな姿に驚き、逃げてしまったといわれます。

その後も、ゴロカ族ではこの方法で敵を脅して戦いに勝つという風習が伝わっていきました。

彼らの装飾は、戦うためではなく、戦いを避けるためにこそ機能していたといえるでしょう。

ゴロカ族が発見されたのは、今からわずか75年ほどの前のことですが、現在では多くの観光客が彼らのもとを訪れ、パプアニューギニアを代表する民族となっています。

チンブー族

引用:www.redbull.com

チンブー族は、パプアニューギニアの1500m~4500m級の山々が広がる、チンブー、ワギ、コロニグルといった地域に暮らす少数民族です。

この山岳地帯一体は、気候が比較的温暖で、標高2400mくらいの場所まではサツマイモの栽培が可能です。

チンブー族にとってサツマイモは主要作物であり、サツマイモに関しては、かなり進んだ栽培技術をもっているといわれます。

換金作物としてコーヒーの栽培も行われ、これによって経済的に発展を遂げています。

ほかにも、ブタの飼育が盛んで、部族間で頻繁な取引が行われています。

かつて、入植してきたヨーロッパ人の営むプランテーションの労働者として出稼ぎに出た者が多かったため、西欧的な価値観や生活様式も根付いており、宗教はカトリックとプロテスタントがほぼ同数となっています。

伝統的には、氏族ごとに集落を作り、男は男だけで男子集会所を作り、男女が別々に暮らすのが一般的ですが、最近では家族で暮らす人も増えてきています。

彼らの特徴的な文化として、体中に骸骨のような模様を描いて行うダンスがあります。

これは、もともと部族間の対立が激しいニューギニアで、敵部族を脅すために行われていたもので、最近は観光客の流入に伴い、都市部でのダンスショーも行われるようになっています。

ネネツ族

引用:world-note.com

ネネツ族は、ネネツ人とも呼ばれ、ロシアの極北地域に暮らす先住民族です。

人口は、45000人ほどといわれ、その多くがヤマロ・ネネツ自治管区に住んでいます。

ネネツ族は、もともと「自己を食べる者」という意味をもつサモエードと呼ばれていましたが、この呼び方には侮蔑的な意味があるため、20世紀に入ると使われなくなっていき、代わりにサモエードの一部族だったネネツの名前が民族全体を指す呼称として用いられるようになりました。

ネネツ族は、ロシア北西部の北極海に面したカニン半島からタイミル半島にかけてのフランスの国土の1.5倍という広大な地域で、小さな村落を形成、農業や狩猟、トナカイの遊牧によって生活しています。

ネネツ族のキャラバン

引用:world-note.com

周辺の気温は-50℃になることもあり、ネネツ族はその中をキャラバンを組んで、数百頭のトナカイ、数十頭の犬、50~80台のソリとともに1000㎞以上を移動します。

大きなキャラバンでは、縦に1㎞以上広がることもあります。

キャラバンの間、ネネツ族はチュームといわれる円錐形の伝統的なテントで暮らします。

チュームは25~60本の支柱で支えられ、夏は涼しくなるよう樺の樹皮を、冬は熱を逃がさないようトナカイの皮で覆われ、中には人間7人と犬10匹が入れ、真ん中には鉄製のストーブが置かれています。

ネネツ族は、トナカイやホッキョクギツネ、アザラシ、リスなどの毛皮で作ったパルカと呼ばれる2層のコートを着用しています。

ヨーロッパ人の北極探検にもよく利用された犬の品種であるサモエード犬(シベリアン・スピッツ)なども育てています。

ネネツ族の信仰

ネネツ族は、精霊崇拝や自然崇拝を主とした宗教を信奉しています。

シャーマンはタディビャと呼ばれ、木製の偶像に宿る精霊のため、魚やトナカイの肉を捧げます。

季節は善の力をもつ空の神ヌンと悪の力をもつ地下の神ンナの戦いによって移り変わると考えられ、ヌンのほうが勝っているときは夏になり、ンナの力が強いと冬になるとされます。

ネネツ族の歴史と現在

ネネツ人は、14世紀頃までロシア人との交流をもたず、ロシアの支配下に入ったのは17世紀のことでした。

現在は、彼らの暮らす地域でも石油や天然ガスが発見され、外部からも多くの人間がやってくるようになりましたが、その中でもネネツ族は伝統的な独自の暮らしを守っています。

しかし、今では彼らもロシア国民の一員として選挙権が認められており、投票日にはヘリコプターを使って投票箱や用紙、インクが凍らないよう保温対策がなされた特別なペンが運ばれ、即席の投票所が開設されます。

ピグミー

引用:www.summitdaily.com

ピグミーは、アフリカの赤道付近の熱帯雨林地帯に住む狩猟採集を営む先住民族です。

ピグミーには「小さい」という意味があり、その名の通り、彼らの平均身長は1.5m未満と非常に身長が低いことが特徴の民族です。

ピグミーの語源になったのは古代ギリシャの詩人ホメロスの抒情詩『イーリアス』に登場する小人属ピュグマイオイといわれています。

しかし、彼ら自身は自分たちのことをピグミーと呼ばれるのをあまり好ましいとおもっておらず、「バヤカ族」という呼び名のほうが好まれています。

ピグミーの中には、ピグミーといわれることすら侮蔑的だと受け取る人々もいるので、できれば、それぞれの部族の名前で呼ぶのがいいでしょう。

ピグミーの部族

引用:world-note.com

ピグミーには、大きく分けて、中部アフリカの大湖沼地域に住むトゥワ、コンゴ盆地の頭部イトゥリの森に住むムブティ、カメルーンやコンゴ北部に住むアカやバカといった部族集団があり、そのほかにも、ビンガ、エフェ、バボンゴ、バベンゼレ、ウォチュアといった少数のグループもたくさん存在します。

ピグミーは、身長の小ささから1つの民族だとみなされてきましたが、実際には、別々の言語を話したり、その信仰など異なる部分もたくさんあります。

ただ、彼らの生活には共通点も多く、もとは1つの起源をもつ民族だったものが、熱帯雨林という周囲との交流が難しい環境のなかで生活していくうちに、それぞれ独自の文化をもつようになったのではないかといわれています。

ピグミーの生活

引用:world-note.com

ピグミーは10代のはじめになると、身長の成長が鈍化する傾向にあり、これは密林のなかで生活するうちにこのように進化したものとみられています。

ピグミーの部族は、それぞれに、即興の複雑な多声音楽の文化があり、民族楽器なども使用され、ピグミー音楽として知られています。

ピグミーの社会は平等社会といわれ、問題の解決などを行うときには人々の総意によって決定されるといいますが、これはヨーロッパ人によって、空想的、理想的に描かれたものともいわれています。

ピグミーは15人~60人ほどの小規模な集団で生活していますが、部族によっても様々です。

バカ族のモングルのように木と葉っぱを使った伝統的な住居を作る部族もいます。

男性は弓を使った狩りを行いますが、網を使って行う狩りには女性や子供も参加して、部族の全員が食糧の調達に携わります。

部族同士での物々交換も行われています。

ピグミーの信仰

ピグミーは、遊牧民のようにキャンプ地を移動しながらの生活を行っており、乾季のあいだに定住地の移動を行います。

ピグミー族のなかのムブティ族は、自分たちを森の子供だと考えていて、森の歌(モリモ)と呼ばれるものが非常に大切にされています。

モリモは、音であり、精霊のようなもので、なにかの音が鳴ったときには、その音を発するのはモリモであり、モリモは木の中や食べ物、水の中などにあるといわれています。

ムブティ族では、モリモを介して人間と森との交渉が行えると考えられています。

一方、カメルーンやコンゴにするバカ族の場合は、森の守護精霊ジェンギを信奉しています。

バカ族では、ジェンギによって森の力で男性が守られ、その男性が女性を守るものと考えられています。

サンブル族

引用:ja.wikipedia.org

サンブル族は、ケニアの北部丘陵地帯のサンブル地区と呼ばれる半砂漠地帯に住んでいる少数民族です。

サンブル族は、ウシ、羊、ヤギなどを飼い、主食となっている乳製品の生産を行います。

1つの村は小さく、家は5~6件で、24人ほどの集団で生活しています。

毛布を体に纏い、赤っぽい黄土で体を装飾する風習があり、ネックレスやブレスレット、アンクルといった装飾品もつけられます。

サンブル族では男女問わず割礼を行っており、男子は10代で、女子は結婚前にこの儀式を行います。

サンブル族は、人間の年齢を重要視しており、年齢別の集団組織を作ることでも知られます。

サンブル族では老人など年長者が重んじられ、彼らが村人の結婚相手の決定など重要事項を決める権限をもっています。

サンブル族ではンカイという神聖な力によって自分たちの生活が守られていると考えています。

老人には、わがままを言う人間をンカイの力によって呪う神秘の能力があるといわれており、これがサンブル族における老人の発言力を大きくし、社会の秩序を維持する原動力となっています。

しかし、老人がむやみやたらと若年者をののしったり、厳しく当たるようなことはありません。

サンブル族の多くはキリスト教徒になっていますが、伝統的な信仰も残っており、ロボノクといわれるシャーマンが存在し、占いや預言などを行います。

ドゴン族

引用:www.redbull.com

ドゴン族は、アフリカのマリ共和国南部、ニジェール川の流域に面した、バンディアガラの断崖と呼ばれる険しい崖に暮らしている民族です。

バンディアガラの断崖は、高さ500m、幅150㎞におよび、世界遺産にも登録されています。

ドゴン族は、断崖や裾野の部分に約700の村落を作って生活しています。

ドゴン族は雨季に、トウジンビエやトウモロコシ、イネ、フォニオ、タマネギなどを育てているほか、バオバブの樹皮を編んだロープを使って断崖をよじ登り、ハトやコウモリの糞を集めて肥料として売ったり、工芸品を作って観光客に販売したり、人工池を建設したりして生活しています。

ドゴン族の村はホゴンと呼ばれる首長を頂点に、仮面結社や年齢集団といった政治組織が作られ、村の運営が行われます。

ドゴン族では大家族と呼ばれる同じ祖先をもつ血縁組織が集団の最小単位になっています。

仮面は、ドゴン族の特徴的な文化で、祭りや舞踊などにも使用されています。

乾季には多くの祭りが行われ、先祖を讃えるもの、氏族のトーテムを祀るものなど様々です。

そのなかでも、60年に1度実施される、祖先の霊力を宿した蛇の大仮面を奉納するシギの祭りは特に有名です。

ドゴン族は天文学の知識に長けており、ドゴン神話と呼ばれる独自の神話をもっています。

ドゴン神話には、世界の創造主アンマやそれに反抗した最初の意志をもつ存在のユルグなどが登場します。

ドゴン族では現在も男女問わずに割礼が行われていますが、これも、神話のなかで原初において両性をもっていた人類を神が割礼によって男女に分けたためとされています。

ドゴン族の神話が、もともとドゴン族のなかで生み出されたものなのか、それとも外部からの文化の接触によって生まれたものなのかについてはわかっていません。

ムスタン族

引用:yuuma7.com

ムスタン族は、現在のネパールに2008年まで自治王国として存在していたムスタン王国の民です。

ローマンタンを首都とするムスタン王国は、現在はネパールのムスタン群になっています。

ムスタンとは、チベット語で「肥沃な平原」を意味し、ネパール中西部のガンダキ川の上流に位置し、チベット高原、中央アジアとインド平原とを結ぶ回廊にあたるため、とても重要な地域となっています。

ムスタン王国は1350年に建国されたもので、人口約9000人ほどでした。

長い間、外国人立ち入り禁止で、「禁断の王国」と呼ばれていました。

ムスタン族はチベットに近い文化をもっており、1951年にチベットが中国による侵略を受けた際にも、併合を免れたため、「チベットの外のチベット」「古き良きチベット」とも呼ばれます。

2008年のネパール政府による藩王国制度廃止の決定により、ムスタン国王ジグメーパルバス・ビスタは退位を決め、王国の歴史に幕が降ろされました。

サンカ

引用:http://blog.livedoor.jp/

サンカとは、かつて日本に存在したとされる放浪民の集団のことで、本州の山奥に住んでいたとされます。

サンカについては実態のわかっていない部分も多くあり、貧困層の集団であったという見方もあります。

サンカという名称も日本の警察が使っていたもので、現在は差別用語にあたるとされています。

サンカは定住することなく、山で狩猟採集を行って生計を立て、穀物を脱穀するときに使用される箕を生産し、交易のために村に降りてくることもあったといいます。

サンカのなかにも職業によっていろいろな種類があり、「ポン」といわれるサンカは、川漁を行いながら竹細工を作り、「ミナオシ」「テンバ」といわれるサンカは、箕や箒の製造や修繕などを行っていたとされます。

サンカは洞窟や小屋、テント、古寺、遺跡などを住居にしており、戸籍などは持っていないことがほとんどでした。

サンカには私的所有という概念があまりなかったため、勝手に人のものを盗っていったり、他人の土地に勝手に入ったりと、いさかいの種になることもあったようです。

サンカには、サンカ言葉といわれる日本語を変化させた独自の言葉遣いがあったといわれます。

サンカには「山窩」や「山家」、「三家」、「散家」、「傘下」などの漢字が使われますが、いずれも当て字です。

明治時代には20万人、終戦時も1万人ほどのサンカがいたとされますが、なにしろ人口統計などもとられていなかったため、あくまで推測に過ぎません。

サンカという言葉は幕末の文書に初めて登場していますが、第二次大戦ごろには公文書にはほとんど現れなくなり、戦後は昭和30年代ごろを境にして、自然に消滅していったものとみられます。

まとめ

以上、世界の少数民族を紹介してきました。

少数民族の中には、人口の減少や外部との同化によって、彼らのもっている文化や生活様式が失われようとしている民族もあります。

1つの民族の歴史が終わってしまうということは人類にとっても損失でしょうし、こうした民族に対する保護は必要といえるでしょう。

やはり、世界には様々な民族の多様な文化や価値観が共存していることが理想的といえますね。



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