社会

世界一危険なスラム街10選

普段、日本に暮らしていると想像が難しいかもしれませんが、世界にはわずかな収入で寄り集まって暮らす貧しい人々が大勢います。

現在、世界人口のおよそ半数以上が都市部で生活をしており、更にその3分の1がスラム街で生活していると言われています。

つまり現在、およそ10億人がスラム街で生活をしているのです。

今回は世界の危険なスラム街を紹介します。

 

ダラヴィ地区/ムンバイ(インド)

引用元:https://indiamatome.com/

ダラヴィ地区は、インドでも屈指の経済都市ムンバイにある、世界最大のスラム街です。

わずか2.1㎢から2.5㎢ほどの空間に、およそ30万人から100万人ほどが住んでいると言われており、世界でも最も人口密度が高い地域です。

イギリスの統治時代、ムンバイは大きな経済発展を遂げました。

ダラヴィ地区には皮なめし工場や、カースト最下層の人々や少数派のイスラム教徒などが進出していたのですが、ムンバイが経済発展を遂げる中で地価が著しく向上、多くの移住者がムンバイへの移住が困難となり、ダラヴィ地区へたどり着きます。

インド独立後もムンバイが発展する中で、産業廃棄物が集まり、ダラヴィ地区も成長しました。

スラム街というと、仕事がない、経済が停滞しているというイメージがありますが、ダラヴィ地区は伝統的な陶器産業や織物産業に加えてムンバイ市内の廃棄物のリサイクル産業、更にアクセサリーの製造など多くの産業が栄えています。

各地の旅行会社では、ダラヴィ地区を案内するツアーが企画されています。

 

スモーキーマウンテン/マニラ(フィリピン)

引用元:https://gloleacebu.com/

スモーキーマウンテンは、フィリピンの首都マニラの北部のトンドという地区にあったスラム街です。

元々は小さな漁村でしたが、1954年に廃棄物の集積場となると廃棄物を拾って売ることで日銭を稼ぐ「スカベンジャー」と言われる人々が表れ、スラム街を形成しました。

時折ゴミの山が自然発火し、煙が上がることからスモーキーマウンテンと言われるようになりました。

生ごみなどが太陽光によって化学変化をし、絶えず火がついていたのです。

スカベンジャーは不衛生で危険物も多いゴミの山で暮らし、常に住宅が自然発火による火災で燃える危険と隣り合わせになりながら暮らします。

食事もマニラで出た生ごみを加熱した「パグパグ」というものを食べているそうです。

スモーキーマウンテンの存在は、1980年代後半からフィリピンのイメージを貶めるものとして認知され、1994年には閉鎖、住民は公共住宅があてがわれ強制退去されました。

しかし多くの住民はまともな職に就くことができず、パヤタス・ダンプサイト(スモーキーヒル)など別の廃棄物処理場に移って、再びスカベンジャーとして生活しているようです。

 

九龍城砦/香港(中国)

引用元:https://www.businessinsider.jp/

九龍城砦は香港の複雑な歴史事情のうえに成立したスラム街です。

1898年、イギリスは当時の清朝から香港島と周辺の島嶼部を99年間租借しました。

後に九龍城砦の作られる地区は例外として清朝の飛び地となり、管理のままならない無法地帯となってしまいます。

太平洋戦争や国共内戦を経る中で中国大陸からの難民が押し寄せ、当時の城塞に住み着き、九龍城砦というスラム街を形成するに至りました。

当初は元々あった城塞に住み着いていましたが、人口が増えることで無秩序に増築を開始していきます。

最盛期には日当たりの悪いわずか0.03㎢の空間に3万人以上が居住し、学校や美容院、劇場や病院などあらゆる施設がありました。

無秩序な増築が繰り返された九龍城砦は迷路のように複雑な作りとなっており、「一度入ると出られない」、「三不管(中国語で「無法地帯」)」などと呼ばれました。

建物内部では賭博や薬物売買などの違法行為が繰り広げられたほか、中国の反社会的集団「三合会」の拠点も置かれました。

1993年から1994年にかけて取り壊しが行われ、跡地にはスポーツ施設などが建てられています。

 

ホシーニャ/リオデジャネイロ(ブラジル)

引用元:https://mainichi.jp/

ブラジルの都市部の郊外には「ファべーラ」と言われるスラム街が数多くあります。

元々カヌードス戦争を戦った兵士たちがリオデジャネイロ郊外に作った住居群で、奴隷制度下で逃げ出した黒人の作ったキロンボと言われる住宅群などと合流することで規模を拡大させました。

現在ではブラジルの25%がファべーラに住んでいると言われています。

ブラジルは貧富の差が非常に大きく、国民の上位10%が国の総生産の50%以上を占めています。

ファべーラに住む「ファヴェラドス」と言われる人々は非常に貧しく、経済的な差別を受けるケースが非常に多いです。

ファべーラはコロンビアなどから密輸入される麻薬などが集まり治安が非常に悪く、映画『シティ・オブ・ゴッド』などの作品の題材となっています。

このファべーラの中で最大のものが、リオデジャネイロの郊外にあるホシーニャです。

ホシーニャは人口7万人から30万人ほどと言われ、水は無料ですが電気は有料であるため、各家庭から盗電をするために電線が無数に伸びています。

近年では安定していますが、麻薬取引などは依然行われており、危険なことに変わりはありません。

 

ラ・ペルラ/サン・フアン(プエルトリコ)

引用元:http://wikimapia.org/

プエルトリコはカリブ海北東部に浮かぶ、アメリカの自治連邦区(コモンウェルス)のひとつです。

プエルトリコ本島に加え、ビエケス島、クレブラ島などの島嶼部によって構成されますが、すべてを合わせても四国の半分ほどと非常に小さな地域です。

首都はプエルトリコ本島にあるサン・フアンです。

サン・フアンはスペインからの開拓者が拓いた「ビエホ・デ・サン・フアン」と言われる地域と20世紀以後に発展した地域とに大きく分かれ、ビエホ・デ・サン・フアンは「ラ・フォルタレサとプエルトリコのサン・フアン歴史地区」として世界遺産にも登録されています。

ラ・ペルラはビエホ・デ・サン・フアンの中にあるスラム街で、都市部から城壁によって区切られています。

19世紀に成立し、元々は非白人や元奴隷、ホームレスなどの住居や墓地が置かれました。

この地域は主要な都市部から離れていたために家畜の屠殺場として利用されており、農家や労働者の一部がラ・ペルラに定着しています。

ラ・ペルラは非常に治安が悪く、観光マップからも除外されています。

特に薬物売買が盛んに行われており、南米からのヘロインの集積場となっています。

 

シウダー・フアレス(メキシコ)

引用元:https://sdofmylife.exblog.jp/

シウダー・フアレスはメキシコのチワワ州北部、アメリカとの国境付近にある都市です。

メキシコで8番目に大きな都市です。

元々「エル・パソ・デル・ノルテ」という名称でしたが、フランス軍の侵略に対してこの都市を拠点に抵抗を行った当時のメキシコ大統領ベニート・フアレスに敬意を表して、現在の名前となりました。

この都市はアメリカ合衆国テキサス州のエルパソと川を隔てて隣接しており、昔から犯罪組織の温床となっています。

アメリカの禁酒法時代には、シウダー・フアレスから盛んに酒が密輸入されました。

禁酒法がなくなった後はヘロインなどの密輸入に使われ、「フアレス・カルテル」と言われる麻薬カルテルが成長します。

2005年にはフアレス・カルテルとメキシコで最大の麻薬カルテルであるシナロア・カルテルとの間で「メキシコ麻薬戦争」と言われる抗争が勃発、シウダー・フアレスは戦場となってしまい、治安が極端に悪化します。

カルテルの抗争に加えて抗争を終息させようとする地元の警察や軍隊も駐留し、さながら内戦状態となりました。

メキシコ麻薬戦争は2016年に終息、現在は治安を取り戻しています。

 

ブラウンズビル/ニューヨーク(アメリカ)

引用元:https://www.skylinescenes.com/

スラム街というと、中南米やアジアなどの発展途上国にあるものだと思うかもしれません。

ですがあのアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市、あの世界経済の中心地であるウォール街のすぐ近くにも危険なスラム街があるのです。

ブラウンズビルは、ウォール街から北東へわずか2㎞先に行ったところにあるスラム街です。

わずか3㎢ほどの土地に、58000人もの人が住んでいます。

元々、ブラウンズビルは1858年にユダヤ人の工場労働者が暮らすための住宅地として整備されました。

1950年代にアフリカ系アメリカ人とヒスパニックが流入することで大きく人口が増加、同時にニューヨーク市内で最も高い貧困率と犯罪率を記録するようになります。

ユダヤ人とアフリカ系アメリカ人、ヒスパニックは決して融和することはなく、対立を深める中で1960年までに主流派はアフリカ系アメリカ人となりました。

貧しいアフリカ系アメリカ人が中心となったためにこの地域は周辺住民から「ゲットー」と言われるまでに著しく治安が悪化、たびたび暴動が起きるようになります。

1980年代から90年代をピークに、現在ではかつてほどの犯罪率は記録していません。

しかし現在でも国際輸送サービスのUPSは、配達員がブラウンズビルに荷物を届ける際に武装した警備員を配置しているなど、危険で治安の悪い区画であることは確かです。

 

マンシェット・ナセル/カイロ(エジプト)

引用元:https://alchetron.com/

エジプトは国民のほとんどがイスラム教を信じるイスラム教国家のひとつです。

しかしわずかですが「コプト教」と言われるキリスト教を信じている人がいます。

このコプト教徒が住んでいるのが、首都カイロ市の郊外、モカッタムという地区にあるマンシェット・ナセルという居住区です。

マンシェット・ナセルは「ザッバリーン」と言われるゴミ収集人によってカイロ市中で出るゴミが集められる区画で、住人は廃棄物の分別やリサイクルで生計を立てています。

昔、カイロ市はコプト教徒の街だったのですが、時代の中でイスラム教徒が多数派となり、コプト教徒は現在のマンシェット・ナセルに追いやられてしまいます。

コプト教徒はイスラム教においてタブーとされている豚の飼育を行っており、当時のカイロでは豚を飼うことが黙認される代わりに豚の餌となるような生ゴミが与えられるようになりました。

マンシェット・ナセルには、かつてモカッタムで生活をしていたサイモン・ザ・ターナーという聖人を記念したケープ・カセドラル教会があります。

この教会は座席数15000を誇る、中東でも最大の教会です。

 

キベラ/ナイロビ(ケニア)

引用元:https://rotarypeacecenternc.org/

キベラはケニアの首都ナイロビの南西部に位置する、アフリカでも最大級のスラム街です。

面積は2.5㎢で、人口は不明ですが、60万人から120万人ほどだと言われています。

この数は、ナイロビ市内の人口の約3分の1から半数ほどとなります。

キベラという名前は、エジプト南部からスーダンにかけてのヌビアと言われる地域で話されるヌビア語で「森、ジャングル」を意味する「kibra」という言葉に由来しています。

キベラの始まりは1918年、第一次世界大戦に参加したヌビアの兵士への褒章として与えられた居住区でした。

1963年のケニア独立後、キベラに貧しい人々が一気に流入し、多数派もケニア国内と同様にキクユ族となりました。

現在もケニアの農村部を中心に多くの人がキベラに移り住んでおり、極めて人口は流動的に推移しています。

電気や水道、医療などの公共サービスはまったく通っておらず、住民は厳しい貧困にあえいでいます。

キベラは国連の関心も非常に高いスラムのひとつで、人間の居住空間についての研究を行う国連の機関のひとつ国際連合人間居住計画(UN-Habitat)の本部はナイロビ、キベラの近郊に置かれています。

 

ソウェト/ヨハネスブルク(南アフリカ)

引用元:https://www.enca.com/

南アフリカのヨハネスブルクといえば、世界でも犯罪率の高い都市のひとつとして有名です。

その中でも特に有名なのがソウェトです。

「ソウェト」という名前は英語の「South Western Townships(南西居住地区)」を省略したものに由来しています。

ソウェトや周辺地域の住人はソウェトを「So Where To(それで、どこへ)」と呼んでいます。

ソウェトの歴史は、悪名高きアパルトヘイト政策を抜きに語ることはできません。

1886年、ヨハネスブルクで金鉱が発見され、各地のアフリカ系住人が仕事を求めてヨハネスブルクに集まるようになりました。

1913年に制定された「原住民土地法」などによって、アフリカ系住人がソウェトに移り、バラックを建てて暮らすようになります。

1948年からはアパルトヘイトが本格化し、アフリカでも最大級のスラム街となってしまいました。

1976年には後に「ソウェル蜂起」と言われる学生デモがソウェルの学校で勃発し、アパルトヘイトの実態が世界で知られるようになり、1993年にアパルトヘイトが全廃されています。

アパルトヘイト後も治安は悪いままですが、BEE政策などと言われる政策によって産業が発展しています。

 

まとめ

今回は世界の危険なスラム街を紹介しました。

今回紹介したものの中にはツアーなどで行くことができるものもありますが、それはイコール安全だということにはなりません。

ガイドの言うことをよく聞かないと、麻薬の密売や窃盗などの犯罪に巻き込まれるおそれもあります。

スラム街は、日頃の私たちの生活からはまるで想像のできない別世界です。

興味本位で行くのは避け、どうしても行きたいときには最新の注意を払うようにしてください。



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