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【実話】悪魔憑き・悪魔祓い事件4選

1973年に映画『エクソシスト』が公開されて世界的なヒットを記録して以降、広く存在が知られるようになった悪魔祓いの儀式。

フィクションの存在という印象の強いエクソシストですが、現代のローマにおいても悪魔祓いの儀式は存在しており、ローマ法王のヨハネ・パウロ2世は在職中に3度、悪魔祓いの儀式を行い「悪魔は実在する」と公言しています。

しかし、悪魔祓いというのはどのように行われているのでしょう。現実にあった悪魔憑き・悪魔祓い事件の中から特に有名なものと、現在のバチカンにおける悪魔祓いの実態を紹介していきます。

 

セントルイスの悪魔祓い事件

悪魔憑きや悪魔祓いが広く知られるきっかけとなった映画、小説『エクソシスト』。この話は1949年に連続して起こった憑依事件に基づいて作られています。

関わった悪魔祓い師の日記が映画にもなったという最も有名な悪魔祓い、セントルイスの悪魔祓いとはどのような事件だったのか紹介していきます。

 

悪魔に憑りつかれた少年

引用元:http://captainhowdy.com/

1949年1月、ワシントンDCの郊外のメリーランド州コテージ・シティに暮らすロビー・ドウ(仮名)という13歳の少年の暮らす家で、天井や壁を引っかくような異音が聞かれるようになりました。

ロビーの家族は鼠の仕業だと考えて駆除業者を呼んだのですが、鼠はもちろん野生動物が入り込んだような形跡はなく、これを機に更に怪奇現象が起きるようになり、人が革靴で天井を歩くようなキーキーと軋む音や、皿や家具が勝手に移動するようなことまで見られるようになったといいます。

さらにはロビー本人に危害が及ぶようになり、彼が眠っていると激しくゆすぶられる、寝具を引きはがされて床に投げ出されるといった現象まで起こるようになったのです。

同月26日、これらの怪奇現象についてロビーの相談に乗っていたおばのティリーが亡くなると、ロビーはウィジャ盤と呼ばれる日本のこっくりさんのようなものに嵌り始めたといいます。ウィジャ盤は悪霊を呼ぶ原因になるとしてキリスト教会の権威者からは危険視されており、ロビーは夜だけではなく昼間にも奇妙な物音に悩まされるようになっていきました。

ロビーの母親は熱心なルター派であったため、家に邪悪な霊がいるのだと考えてルター派の聖職者、ルター・シュルツに相談をして悪魔祓いを行ったものの異変は収まりません。

2月に入るとシュルツは自分の家でロビーを預かることにして同じベッドで眠るようにしたのですが、夜中に2人が休むベッドに何かが訪れ、ベッドが小刻みに揺すられるような異変が発生。ロビーを肘掛椅子に避難させると、今度は重たい椅子が後ろに数cm動いたかと思うとロビーごと壁に激突し、ひっくり返ってロビーを床に投げ出したのです。

この時のロビーはトランス状態で普通ではなかったため、シュルツはロビーの両親に相談をして彼をジョージタウンにある精神病院に贈りました。

そして2月28日から3月3日までの5日間、病院でロビーは精神鑑定を受けたのですが、この時に彼は激しく暴れて腕に血のような赤い文字で「セントルイスに行け」というメッセージが突然浮かび上がったそうです。

 

大司教による悪魔祓い

ロビーの両親は彼をセントルイスの親戚の家に連れていき、イエズス会士に彼のことを相談しました。そしてレイモンド・ビショップ神父が彼を清めたものの効果がなく、神父は同僚のウィリアム・ボウダーン神父を伴って大司教ジョセフ・リッターの元を訪れてロビーの悪魔祓いを依頼しました。

そして3月16日に親戚の家でリッター大司教による悪魔祓いが行われたのですが、やはり効果はなく、それどころかロビーは血交じりの痰や咳をするようになっていきます。そして13歳の子供とは思えないような力で周囲の大人に掴みかかるようになり、体にも不可解なみみずばれやひっかき傷が多数浮かび上がるようになったのです。

ボウダーン神父はロビーをアレクシアン・ブラザーズ病院に連れていき、監視付きの病棟に入れて悪魔祓いを開始しました。そして4月1日にカトリックの洗礼を受けさせるためにロビーを聖フランシス・ザビエル教会に連れて行ったのですが、この途中にロビーは激しく暴れたため神を冒涜する恐れがあるとして牧師館で洗礼に着手。

その後、ロビーが鋭い剣を持った天使が悪霊を立ち去らせる夢を見たことをきっかけに一切の怪奇現象はなくなり、悪魔祓いの成功が宣言されました。

 

ルダンの悪魔憑き事件

ルダンの悪魔憑きは1630年から1634年にかけて起こった、ウルスラ修道会修道女の集団悪魔憑き事件です。史上最も有名な集団悪魔憑きとされるこの事件は、1952年に『ルーダンの悪魔』というタイトルで書籍に、1971年には『肉体の悪魔』というタイトルで映画にもなっています。

1人の神父が原因となって合計で27人もの修道女が悪魔に憑りつかれ、魔法をかけられたと訴える大事件となったルダンの悪魔憑きとはどのような事件だったのでしょう。

 

事件の舞台となったウルスラ修道会とは?

ウルスラ修道会は1626年に17人の修道女によって作られた修道院でした。修道女は高貴な出身の女性ばかりでしたが、彼女達は特に信心深いわけではなく、身分相応の結婚相手を惹きつけるだけの持参金を実家が用意できなかったため、婚期を逃した女性達が集まって暮らす場所として修道会は存在していました。

彼女らが借りることができたのは幽霊が出るという噂のある陰気な建物で家具もなく、修道女たちは単調な作業をしながら床で寝るという退屈な生活を送っていたといいます。

つまり家に居場所がない名士の家の妙齢の女性を閉じ込めておく場所がウルスラ修道院だったのですが、地元の人々が彼女らの出自を知ると、土地の名士に取り入るために自分の娘たちを積極的に修道院に入れるようになり、徐々に修道院は栄えていくようになったのです。

1627年、ウルスラ修道会は新しい修道院長としてジャンヌ・デサンジュという女性を任命しました。男爵の娘として生まれた彼女のことを、周囲の人々は「生ける聖女」とも「変わり者の野心家」とも称したといいます。ジャンヌは修道女になる前は贅沢に育ち、傲慢で意地の悪い性格をしていたのですが、背中が曲がっていて容姿が醜く、結婚の見込みが無かったために修道院に入れられたのです。

そのような事情から修道院に入った際に既に彼女の性格は屈折しており、敬虔さを装いながら心の中には憎しみが渦巻いていたものと考えられています。

 

ユルバン・グランディエ神父

ユルヴァン・グランディエは1617年にフランスのポワティエの町、ルダンのサン=ピエール=デュ=マルシェの聖堂区の主任司祭に任命された人物です。

上の肖像画からも分かる通り、グランディエは非常に人目を引く洗練された外見を持っており、裕福で弁説にも長けたために有力者からも支持を得る程の人物だったといいます。

グランディエは自分の人気を良いことにしばしば傲慢に振舞い、敵も多く存在しました。ルダンの人々は彼が町の初裁判審判検事の娘の子供の父親は彼なのではないか、町会議員の娘とも愛人関係なのではと噂しました。

聖職者は独身を貫くことが義務付けられていることに対して反対する論文を発表するなど、グランディエの周囲ではスキャンダラスな噂が後を絶たなかったといいます。

そんな彼の初めての挫折は1630年。不道徳行為のために逮捕され、敵対していたポワティエの司教に有罪と判断されたのですが、要領よくツテを頼ることでその年のうちに聖職者として復職したのです。

これを面白く思わなかったポワティエの司教らはウルスラ会修道女の聴罪司祭であったミニョン神父に近づき、ウルスラ修道会の修道女たちがグランディエに魔法をかけられたと偽証させて悪魔憑きを装わせ、彼の失脚を狙う計画を立てました。

これに修道院長であったジャンヌは賛同し、ひきつけと痙攣を起こし、しゃがれた声で話す演技を始めたのですが、彼女はじきにグランディエに性的に執着するようになってしまったのです。

 

演技のはずが集団悪魔憑き事件に…

グランディエに執着したジャンヌの妄言とヒステリーはどんどん酷くなり、つられるように多くの修道女たちが幻覚や悪夢に苦しめられるようになっていったといいます。

これを見たミニョン神父はグランディエを失脚させる機会がやってきたと考え、ウルスラ会の修道女たちがグランディエによって悪魔憑きにされてしまったという噂を流し始めました。

1604年に「妖術禁止法」という法律が改正されたフランスでは、呪術や妖術、悪魔との契約を行った者は死刑にされることになっており、修道女を悪魔憑きにさせたという容疑を着せられたグランディエは、極刑に処される恐れがあったのです。

2人の司祭が修道院に悪魔祓いにやってきたところ、演技と現実の区別がつかなくなっていたのか、ジャンヌは自分と他の修道女たちはアスモデウスとサブロンという悪魔に憑りつかれていて、これらはグランディエ神父が修道院に投げ込んだバラの花束に隠されていたと証言しました。

危機を感じたグランディエはボルドーの大司教に手紙を書いて身の潔白を訴え、大司教が派遣した医師によって修道女たちに悪魔憑きの事実が無いことを証明。1633年の3月には様子がおかしい修道女を隔離することで騒動は収まると見られたのですが、その年の11月にミニョン神父らによってグランディエはアンジェ城牢に投獄されてしまいます。

神父らはグランディエの身体には魔王の印があると主張し、悪魔憑きが本物だと信じ込ませるように修道女たちにラテン語やギリシャ語の指導まで行い始め、さらに現実には悪魔に憑かれていないために空中浮遊や透視といったことができなかったために、修道女たちは体をよじって服をはだけさせるようになり、このことが原因で見物人を多く呼び込みました。ルダンの悪魔憑き事件は宗教的な恐怖とはまた別の意味で、町の人々からも注目されるようになったのでした。

 

グランディエの処刑と呪い

当初は仕組まれたものであった修道女たちの悪魔憑き事件でしたが、集団催眠のような状態にあった修道女たちだけではなく、かつての彼の愛人たちまで裁判に姿を見せてはグランディエの姦通や近親相姦、神聖冒涜などの罪を訴えるようになり、裁判には証拠としてグランディエが魔王と交わしたという血判付きの契約書まで提出されたといいます。

この文章はジャンヌの文字で書かれていたとされますが、度重なる裁判の結果、遂に1634年8月にグランディエは生きながら火刑に処されることになったのです。

グランディエは拷問の最中も無実を主張したために、彼に恨みを持つ神父に両足を砕かれ、火刑の前に温情で絞殺される約束だったに関わらず、首絞めの縄を適当に絡めただけでお茶を濁され、最終的に生きて意識があるまま火あぶりにされたと記録されています。

グランディエは死ぬ間際に自分を陥れた司祭の1人に対して「お前は30日以内に神を見る」と言い残したとされます。そしてその予言通りに言葉を投げかけられたラクタンス神父は「グランディエ、お前の死は私のせいではない」と叫びながら絶命。

他の神父も5年のうちに気が狂って死亡、またグランディエに魔王の印があると偽証した医者も精神錯乱に陥って間もなく死亡したとされます。

そしてグランディエの後釜として派遣されたスリン神父はルダンで悪魔祓いをするうちに幻覚に悩まされるようになり、服を着ることも歩くことも、食事をとることもできないような鬱状態に陥り、1645年には自殺を図りました。

一方でウルスラ修道会は悪魔祓いに対する民衆の興味の大きさから、観光の呼び物として悪魔祓いの芝居を続行。当時の資料には「フランスの最下層の売春婦さえ驚く」ような下品な見世物が行われていたとのことですが、1637年にリシュリュー枢機卿がこれを禁じたことで、やっとルダンの悪魔憑き事件が終了したと言われています。

 

イアリングの悪魔憑き事件

イアリングの悪魔憑きは、20世紀において最も詳しい記録の残る憑依事件の1つです。この事件の被害者となったアンナ・エクランドはア、メリカの中西部で産まれた女性で、信心深い敬虔なカトリックとして育てられました。

彼女は14歳の時に初めて悪魔に憑りつかれ、教会に入れなくなる、神聖なものを嫌うといった変化が見られるようになりました。後にベネディクト修道会に残されたアンナの憑依事件の記録によると、彼女が悪魔に憑りつかれた原因は魔女だと噂されていた彼女の叔母であるミナが、アンナの食事に呪文をかけた特殊なハーブを混ぜ込んだためだと綴られています。

1912年、アンナが30歳の時にはウィスコンシン州のマラトンにある聖アントニオス修道会から来たテオフィルス・リージンガー神父が悪魔祓いに成功しましたが、アンナの父親がアンナに呪いを投げかけたことで彼女は再び悪魔憑きの状態になり、46歳の時に再度テオフィルス神父が悪魔祓いを試みました。

テオフィルス神父はアンナのことを知る人がいないところに彼女を連れていかないと、再び同じように魔王の餌食になると考え、1928年8月に彼女を伴ってアイオワ州イアリングへ移動。

フランシスコ修道会で悪魔祓いを行おうとしたのですが、到着したその日に食事に聖水がかけられていたことでアンナが発作を起こし、聖別されていない食べ物しか口にしなかったそうです。

 

テオフィルス神父による悪魔祓い

テオフィルス神父による悪魔祓いが始まると、彼女は空中浮揚や扉の上に猫のように飛び乗ってぶらさがる、悲鳴や唸り声をあげるといった不気味な行動を見せました。修道会側としては秘密裏に悪魔祓いを行いたかったのですが、異様な叫び声を聞いた近隣の人々が修道院に集まり、アンナの悪魔憑きは周囲に知れ渡ることとなります。

近隣の人の不安を煽りながら悪魔祓いは23日間も続き、その間にアンナの容態は瀕死にまで悪化したそうです。彼女は少量のミルク水しか口にしないにもかかわらず得体のしれない吐しゃ物を大量に吐き続け、顔も醜く歪み腹は膨れ上がり、全身が血まみれであったといいます。

そして千里眼のような能力を持ち、周囲にいる人々の秘密を暴くようになっていったため、尼僧や神父たちは彼女の近くにいることに苦痛を訴えるようになり、テオフィルス神父以外は短時間で交代してなんとか平静を保っていました。

 

アンナにかけられた呪いの正体

悪魔祓いの結果、アンナに憑りついていたのは下級の悪魔と復讐霊の群れであることが分かりました。蚊の大軍のように彼女にまとわりついていた悪霊のうち、もっとも彼女を苦しめていたのがベルゼバブとユダ、そして父親のジェイコブと彼と不貞関係にあった叔母のミナだったのです。

ジェイコブは近親相姦の誘いを断ったためにアンナを呪い、叔母のミナは不倫相手のジェイコブの娘であるアンナを逆恨みして、死んだ後も彼女に憑りついていたのだといいます。

アンナに憑りついているものの正体が分かった後もテオフィルス神父は根気強く悪魔祓いを続け、1928年の12月23日21時頃、遂にアンナが「ベルゼバブ、ユダ、ジェイコブ、ミナ」と自分を苦しめたものの名を絶叫して、悪魔祓いが完了しました。悪霊が去った後の部屋には悪臭が立ち込め、まるで悪魔たちの置き土産のようであったそうです。

 

現代の悪魔祓い・バチカンのエクソシスト事情

聖書によると最初に悪魔祓いを行ったのはイエス・キリストであり、ローマ・カトリック教会は儀式を推奨した時代もあれば、懐疑的に見た時代もあるものの、悪魔祓いの儀式を公式に容認してきました。

無神論者が多い私達日本人からすると時代錯誤に感じられる悪魔祓いですが、カトリック教会のお膝元であるローマでは祈りの力で人間を悪の道に進ませることを止められ、悪魔を撃退できると現在も信じられているのです。

引用元:https://www.afpbb.com/

アモルス神父(1925年~2016年)は長年にわたってローマのエクソシスト長として君臨してきた人物で、国際エクソシスト協会の発足者でもあります。

彼は週に数回悪魔祓いを行ったとされますが、自分自身や家族のために何千人ものイタリア人がエクソシストを探して修道院を訪れるものの、本当に悪魔に憑かれている人間は非常に少ないと語っていました。

アモルス神父によるとイタリアのカトリック教徒の中には美容師を探すような気軽さでエクソシストを求め、自分のちょっとした不調は悪魔祓いで解消されると信じている人も少なからず存在するのだそうです。

そのためイタリアでは悪魔祓いを求める人は多く、現在のカトリック教会では慢性的なエクソシスト不足に陥っているのだとか。イタリアは世界のどの国よりも聖職者の志願者と就職者が多い国として知られていますが、エクソシストになりたいと考える人は圧倒的に少ないのだといいます。

教皇庁立のレジーナ・アポストローム大学にはエクソシストになろうとしている司祭のための講座があり、この講座では精神的な病気と悪魔憑きをどのように見分けるのかについて詳しく学びます。

現在では悪魔憑きというのは精神的な不安などが生んだパニックや人格障害の一種だと指摘する声も多数あがっていますが、教会としても悪魔祓いを行う前には依頼人が必要としているのは神なのか医療なのか、きちんと見極める必要があるとエクソシストに指導しているのです。

祈祷や悪魔祓いは有害な儀式ではないのだから、望む人間には全て手を差し伸べるべきとして、このことについて異を唱えるエクソシストも存在するといいます。しかし、カトリック教会は本来は医学でないと救済できない場合などにおいても、常に悪魔祓いや祈祷に助けを求めるようになることや儀式へ依存してしまうことを警戒しており、悪魔祓いの乱用は魔術の使用と同じくらい有害だと主張しています。

 

サタンの獣事件と加害者への悪魔祓い

サタンの獣事件は1998年に始まった悪魔崇拝者の若者たちによる連続殺人事件で、手口の残虐さからイタリア全土で大きな話題となりました。

この事件は最初、サタンの獣と自称するグループの中心メンバーであるアンドレア・ヴォルペと共犯者が、同じグループに所属していた19歳の女性を聖母マリアの生まれ変わりだと思い込んで殺害する計画を立て、この計画に反対した16歳の少年とこの女性を身の毛もよだつような手酷い拷問の末に殺害し、森の中に遺体を埋めたことから始まりました。

そしてその後、2004年にウォルペは恋人と共に元恋人の27歳の女性を山小屋に呼び出し、彼女の顔面を銃で撃ったうえ生きたまま穴に投げ込んでシャベルで撲殺するという殺人を犯しました。

この殺人が発覚してヴォルペは逮捕され、1998年の殺人も明るみに出たのですが、先に殺された2人の遺体は白骨化していたものの暴力と拷問の跡がハッキリと分かる程、骨にまで傷が見られたといいます。

カトリック教会は現在の悪魔崇拝者に悪魔祓いをする必要があるとは考えておらず、神父の中には悪魔セクトにとって五芒星や逆十字、そして悪魔といったものはファッションに過ぎず、彼らは単なる犯罪者集団もしくは社会不適合者の集まりに過ぎないとの見解を示す者もいます。

しかしサタンの獣のメンバーの中には直接殺人に手を出したわけではないものの死体遺棄に関与し、それが原因で精神を病んでしまった若者も存在し、このような悪魔セクトに利用されてしまった若者のセラピーのための悪魔祓いを専門に行ってる神父も存在するのです。

イタリア国内で悪魔セクトに関わってしまう若者の中には家庭の結びつきが弱く、心の拠り所を求めて悪魔崇拝を始めたものの、その異常さに気付く前に強制的に麻薬をやらされる、レイプされるなどの被害に遭って弱みを握られ、犯罪集団の駒として利用される者も数多く存在すると言われています。

そして彼らにとって悪魔祓いという名目で神父によって行われるセラピーは、立ち直って社会復帰するために有効な手段だと考えられているのです。

 

まとめ

中世に行われた悪魔祓いの中には、明らかに誰かを陥れるために悪魔憑きをでっちあげたものや、心身の病気で医療的な対処が必要なのにもかかわらず、悪魔のせいと信じ込んで行ったものなど、効果や意義を疑わずにはいられないものも複数見られます。しかし現代でも、当時の悪魔憑きは本当に悪魔が仕組んだ悲劇だったと信じている人もカトリック教徒の中には存在するそうです。

日本にもカトリック教会はあるものの、国内にエクソシストは存在しません。これは日本の風土と関係があり、神と悪魔の2者の絶対的な対立という構図が根付かずに付喪神的な混沌とした存在を身近に感じている人が多く、何か不調が起きた時に悪魔のせいだと考える習慣が全く無いからだと指摘されています。

そのためか中世に起きたものや映画のモデルとなったもの、そしてより現実的な手段として行われている現在の悪魔祓いに対しても、どこかフィクションのような印象を受けてしまうのでしょう。

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