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【実在】世界の超巨大兵器13選!威力も最強!?

大きいということは、それだけで見る人にインパクトを与えます。

特に兵器の世界では、巨大なものはそれだけ威力もすごくて強そうに見え、まさに秘密兵器と呼ぶにふさわしい存在に思えます。

長い世界の兵器の歴史では、私たちの常識を破るような巨大な兵器が計画されたり、作られたりしてきました。

こうした巨大兵器には、作る側も大きな期待を寄せていましたが、実際にはどれほど活躍することができたのでしょう。

ここでは、世界の超巨大な兵器たちをご紹介します。

パリ砲

引用:https://togetter.com

パリ砲とは、第一次大戦でドイツ軍がフランスの首都パリを攻撃するために使用した超巨大砲(スーパーガン)のことです。

第一次大戦で使用された最大の砲であり、第二次大戦で巨大列車砲が登場するまでは世界最大の砲でした。

1904年からはじまった日露戦争で、日本軍が旅順要塞攻撃に使用した28センチ榴弾砲が大きな活躍をみせたのを見て、各国では大口径砲の開発や研究が盛んに行われるようになりました。

砲弾を空気の薄い高空まで撃ち上げると、空気抵抗の影響を受けることなく、射距離が飛躍的に伸びることがわかり、要塞などを攻撃することを目的に巨大な大砲が製造されるようになります。

ドイツでも、リエージュ要塞攻撃に活躍し「太っちょベルタ」と呼ばれた大ベルタ榴弾砲をはじめとして、いくつもの巨大砲が生み出されました。

なかでも、ドイツが開発したパリ砲は当時のドイツ皇帝の名前をとってヴィルヘルム砲と呼ばれ、ライフリングが施された砲口によって、口径21㎝で94kgの砲弾を130㎞も飛ばすことができました。

パリ砲の砲弾は人類が作り出した物体として初めて成層圏に到達しました。

パリ砲は重量256tにおよび、移動のために鉄道レールの上に載せられていました。

このように巨大な砲ですが、陸軍ではなく海軍の指揮下に置かれ、80名の海兵によって操作されていました。

周囲には他の砲が無数に配備され、発射音によってパリ砲の存在をカモフラージュしました。

1発発射するたびに砲弾によって砲内部が削られるため、砲弾は1つ1つ大きさが違い、発射の順番が決められて番号が振られていました。

65発を発射するごとに砲口内部のライフリングの切り直しが行われるため、次は口径24㎝というように、だんだん口径が大きくなっていきました。

パリ砲はカイザーシュラハト(皇帝の戦い)と呼ばれる1918年春のドイツ軍による大攻勢に用いられ、パリから120㎞の場所にあるクシーの森に置かれましたが、その後の連合軍の進撃とドイツ軍の撤退により、ドイツの手によって破壊されたといわれています。

ツァーリ・プーシュカ

引用:https://jp.rbth.com

ツァーリ・プーシュカは、1586年にロシアの鍛冶職人アンドレイ・チョーホフによって製造された世界一の大きさを誇る榴弾砲です。

ツァーリとはロシア語で皇帝を指し、ツァーリ・プーシュカとは「大砲の皇帝」という意味です。

ソ連時代に開発された世界最大の核爆弾ツァーリ・ボンバ(核爆弾の皇帝)の名称は、このツァーリ・プーシュカからきています。

榴弾砲とは、火砲の一種であり、同口径のカノン砲と比較して、砲身が短く、短射程・低威力ですが、コンパクトで使いやすく高い仰角をとれる砲のことをいいます。

その後の大砲の進化により、現在では榴弾砲とカノン砲の区別はほぼ意味のないものとなっていますが、榴弾砲は今も使われています。

ツァーリ・プーシュカは、全長5.34m、重量18t、89㎝という世界最大の口径をもっており、中に子弾を詰め込んだ「ぶどう弾(キャニスター弾)」を撃ち出し敵を攻撃します。

ツァーリ・プーシュカはロシアの首都モスクワのクレムリン宮殿に置かれ、敵がモスクワに攻めてきたときには、その威力によってクレムリンを守るという役目をもち、まさにロシアを守る最終兵器でした。

しかし、実戦で使用されたことはなく、ロシアの軍事力を周辺国に誇示するために造られたのではないかとも見られています。

現在、ツァーリ・プーシュカは、クレムリンの大聖堂広場に展示されていて、前には砲弾もおかれていますが、実はこの砲弾はツァーリ・プーシュカの口径よりも少し大きく、展示用に作られたものではと言われています。

マレット臼砲

引用:ja.wikipedia.org

臼砲とは、火砲の一種で曲射砲と呼ばれ、肉厚で短い砲身をもち、高い仰角をもっていて、冶金技術が未発達だった時代に城壁などを破壊するための大重量の砲弾を撃ち出すために使われていました。

現代では臼砲は使われず、英語で臼砲のことを指すmortarという単語は、迫撃砲のことを指しています。

マレット臼砲はロバート・マレットによって設計され、1857年にイギリスで製造されたもので、臼砲としては世界最大のものです。

口径91.4㎝、重量は40tで、砲弾の重量は1.2~1.3t、射程は2.5kmにも及びました。

当時、イギリスはロシアとの間でクリミア戦争を戦っており、ロシア黒海艦隊が立て籠もるクリミアのセヴァストポリ要塞を攻めあぐねていました。

マレット臼砲はこのセヴァストポリ要塞を攻撃するために造られたもので、砲身は複数のリングによって分割可能となっており、分解して運搬することができました。

しかし、マレット臼砲が完成する前にセヴァストポリ要塞は陥落し、それどころか戦争そのものも終わってしまいました。

マレット臼砲は、一度もその威力を発揮することなく、現在ではイギリス国立武器防具博物館で記念品として飾られています。

ツァーリ・タンク

引用:allthatsinteresting.com

ツァーリ・タンクは、第一次大戦時にロシア帝国で開発された巨大戦車のことで、別名レベデンコ・タンクとも呼ばれます。

第一次大戦でイギリスが戦車を生み出し、その活躍が知られるようになると、各国でもそれに続こうと戦車開発が行われるようになります。

その多くは、イギリスと同じようにキャタピラと厚い装甲をもった陸上の軍艦となるような車両を開発しようとしましたが、ロシアでは少し変わったコンセプトに基づいた戦車が作られました。

それがツァーリ・タンクで、戦車の皇帝という名前の通り、二つの巨大な車輪をもった威風堂々とした外見で、57㎜砲や76.2㎜砲を装備していました。

これは、大砲は高いところから撃ったほうが有利という考えによって設計されたもので、9mにおよぶ巨大な車輪は不整地を乗り越えられるようするためのものでした。

しかし、普通の大砲なら高所に置いても周囲の植物や障害によって隠蔽することができますが、ツァーリ・タンクのような目立つ乗り物では敵からの格好の目標になってしまいます。

その上、巨大な車輪は塹壕や窪地に嵌って動けなくなることもあり、被弾や衝撃で車輪が歪んだりすると直進できなくなってしまいました。

他にも、バランスが悪く傾斜がきついところでは横転してしまうなど問題も山積みで、計画は中止とされ、試作車が完成していたものの、最終的にはスクラップになりました。

リトル・デーヴィッド

引用:www.quora.com

リトル・デーヴィッドは、第二次大戦中にアメリカ軍が開発していた迫撃砲で、世界最大の口径を誇ります。

制式化はされなかったため、開発時のコードネームであるリトル・デーヴィッドという名前で呼ばれています。

迫撃砲とは、高射角をとることができる砲で、曲射弾道によって遠くの敵を攻撃することができます。

命中率は低いものの、破壊力が大きく、簡単な構造に加えて軽量で持ち運びもしやすいため、少人数でも運用できる火砲として最前線で戦う歩兵の良き相棒となっています。

リトル・デーヴィッドは、アメリカ軍が日本本土上陸作戦に備えて開発していたもので、太平洋における島嶼戦で日本軍の強固な陣地によってアメリカ軍が少くない損害を出したことから、日本の防御陣地を粉砕することを目的としていました。

リトル・デーヴィッドは、迫撃砲であるため前装式ですが、普通の迫撃砲と違って砲脚と底板をもたず、使用するには地面を掘って箱型の砲台座を埋める必要があり、設営・撤去には12時間を要しました。

他にも、砲の運搬用の牽引車や各種重機、作業員も必要で、砲弾を運ぶにも専用のトレーラーを使わなければならず、兵器として使い勝手の良いものとはいえませんでした。

しかし、ひとたび砲撃可能になればその威力は絶大で、砲弾は最大12km飛翔し、3mの鉄筋コンクリートを貫通し、舗装されていない地面に着弾した場合には、直径約10m、深さ約5mの大穴を開けることができました。

対日戦用に作られたといわれているリトル・デーヴィッドですが、一部にはヨーロッパ戦線末期にドイツ国境のジークフリート防衛線で「爆弾試験装置」の秘匿名称で使用されたという説も存在します。

80㎝列車砲 グスタフ ドーラ

引用:http://blog.livedoor.jp

列車砲とは、陸上で運用するのが大変な大口径砲を列車に搭載し、鉄道網を通しての迅速な移動することができるようにした兵器です。

かつては、敵の強大な要塞や防衛線を攻撃するために使われていましたが、巡航ミサイルのような長射程・大威力の兵器が発達した現在では、その意義を失いすっかり廃れてしまいました。

空襲などで鉄道網が損害を受けた時、移動させるのが困難になるのも列車砲の弱点です。

世界最大の口径を誇る80㎝列車砲のドーラとグスタフは、ドイツのクルップ社によって開発されたもので、人類の歴史において実戦投入された最大の火砲とされています。

この2両は、クルップ社の会長であるグスタフ・クルップと設計主任の妻の名前からそれぞれの名が採られました。

砲身は32m、車両部分を含めると重量1500tにもなり、まさにモンスターというべきこの砲は、80の車輪をもつ台座の上に載せられてレール上を移動し、高さは11.6mにもなりました。

長距離の移動時には25の構成部分に分割して搬送する必要があり、組立には設置要員1420名によって4~6週間かかり、弾薬装填要員500名が必要で、ほかにも護衛として常に専用の高射砲部隊が着き従っていました。

グスタフ、ドーラは、大量の人員と手間を必要とする兵器でしたが、その威力は絶大で、実戦では砲弾で30mの岩盤を突き破りました。

もともと、ドイツがこのような超巨大な列車砲を開発しようとした理由は、フランスとの戦争になったときに、当時のフランスが国境付近に築いていた強大なマジノ線を攻撃するためでした。

しかし、80㎝車砲が完成したときにはすでにドイツはフランスに勝利していたため、当初の目的は失われていました。

その後、80㎝列車砲は、ソ連との戦争に投入され、レニングラード包囲戦やセヴァストポリ要塞攻略戦に参加し、セヴァストポリ要塞ではソ連軍の巨大なマキシム・ゴーリキー砲を破壊し、その威力を存分に見せつけました。

60㎝自走臼砲 カール

引用:http://fhpubforum.warumdarum.de

カールは、第二次大戦でドイツ軍によって使用された60㎝という超巨大砲を搭載した自走砲です。

80㎜列車砲と同じく、フランスのマジノ線攻略のため、1937年から開発が開始されました。

カールの名称は開発に関わったカール・ベッカー将軍にちなみます。

カールは全長11.15mという巨体をもち、重量は120tに及び、自走砲という名前がついていますが、速度は10km/hほどしか出せませんでした。

カールは試作車を含めて計7両が生産され、最初の1両はアダムと名付けられ、後の6両はそれぞれヴォータン・オーディン・トール・ロキ・ツィウ・フェンリルと北欧神話の神々の名がつけられました。

操作には指揮官と、射手18名、運転手、副運転手の21名のほか、運用するのに総勢153名が必要で、弾薬運搬車13両が随伴しました。

砲弾の重量は1.2t~2.1tで、命中すればコンクリート製の強固な防御施設も粉砕する威力をもっていましたが、発射速度は1時間に6発が限界でした。

射程は最大でも10㎞程度で歩兵の装備する迫撃砲程度しかなく、移動速度も遅いことから長距離移動時には鉄道が使われました。

不用意に撃つと敵の反撃を受ける恐れがあり、味方が優勢かつ攻勢をかけているときという限られた状況でしか使えない兵器でした。

カールは主に独ソ戦に投入され、ブレスト・リトフスク要塞やセヴァストポリ要塞などロシアの強大な要塞を相手に戦い、ポーランドでワルシャワ蜂起が起きた際には市街戦に投入されました。

現在でも、1号車のアダムがロシアのクビンカ戦車博物館に保管されています。

巨大戦車 ラーテ P1500

引用:news.militaryblog.jp

第二次大戦中、ドイツは「マウス」と呼ばれる巨大戦車を開発したことで知られています。

しかし、ドイツにはそれを越えるさらに巨大な陸上兵器の開発計画が存在していました。

ラーテ、P1500は第二次大戦中にドイツで計画されていた超巨大戦車で、完成すれば現在も含めて世界最大の戦車となっていたものです。

ラーテとは、「Landkreuzer(ラントクロイツァー:陸上巡洋艦) P1000」に与えられた秘匿名称で、ドイツでドブネズミやクマネズミを意味します。

ラーテは、全長35m、重量1000tという破格のサイズを誇り、搭乗員は40名になります。

主砲にはシャルンホルスト級戦艦の主砲として用いられている28㎝3連装砲から一門をとった2連装砲を搭載する予定でした。

装甲は最大で350㎜に達し、通常の大砲や航空攻撃で破壊することは不可能と考えられていました。

P1500

 

引用:weaponsandwarfare.com

ラーテだけでも常識はずれな巨大さですが、ドイツではさらに上をいく、「Landkreuzer P1500 Monster(モンスター)」という超重戦車が計画されていました。

P1500は、巨大列車砲として知られるドーラの主砲である80㎝砲を搭載した戦車で、全長42m、重量1500tと文字通り桁違いの兵器でした。

現在でも、これほど巨大な戦車が実現されたことはありません。

P1500はあまりに大きすぎるため、砲を旋回させることは不可能で、戦車といっても自走砲のようなものでした。

Uボート用ディーゼルエンジン4基を搭載し、搭乗員は100名と戦車とは思えないほどの人数です。

ラーテ、P1500は、その重量のためにたとえ完成したとしても使える場所が限られ、通れる橋なども少なく、鉄道の利用も難しいことから、移動や輸送が困難と考えられました。

その上、その巨体は連合軍の航空機にとって格好の目標になると思われ、完成したとしても大きな活躍はできないとみられ、1943年最終的に開発計画はキャンセルされました。

大和級戦艦

引用:www.jiji.com

戦艦大和いえば、日本海軍によって建造された世界最大の戦艦で、日本人なら誰でも一度はその名を聞いたことがあるでしょう。

今でこそ、広く知られるようになった大和ですが、戦時中はその存在を徹底的に秘匿され、国民には全く知られていませんでした。

大和の主砲は当時、艦砲としては世界最大だった46㎝砲で、これを3連装で3基、合計9門装備しています。

大和型の2番艦武蔵は長崎で建造されましたが、46㎝砲は呉の工廠でしか製造できなかったため、呉から長崎まで砲塔を輸送するためだけに専用の輸送艦「樫野(かしの)」が建造されました。

樫野は3番艦信濃の主砲を運搬するためにも使用される予定でしたが、信濃は空母に改装されたため、結局、樫野は武蔵の主砲を運んだだけで終わりました。

大和自身も自らの主砲と同じ46㎝砲に耐えられる装甲をもち、特に主砲の装甲は56㎜ととても厚く、空襲を受けた際には米軍機の爆弾を弾き返したこともあります。

火力、装甲ともに最強の戦艦と呼べる大和ですが、海軍ではこれをさらに上回る戦艦の建造が計画されていました。

超大和級戦艦

引用:global.rakuten.com

超大和級戦艦は、大和型をさらに上回る50.8㎝砲を搭載し、50㎝砲に対する装甲を備えるというもので、日本海軍の巨大戦艦に対する飽くなき渇望を象徴するような存在です。

1942年の太平洋戦争勃発によって、状況が一変したため超大和級は計画のみに終わりました。

同じ頃、アメリカでも大和級に対抗するため、大和と互角の性能をもち、全長では大和を上回るモンタナ級の建造が計画されていいました。

モンタナ級は主砲こそ40㎝砲ですが、全長は大和を上回る280mにもおよび、こうした諸外国の動向を見れば、日本海軍の超大和級計画もただやみくもに巨大兵器だけを追い求めたものとはいえません。

ですが、日本海軍には明治末期に、ある技術将校が50万t戦艦という途方もない大きさの戦艦をもつことを提案したという話もあります。

これは、実現すれば全長1㎞を越える船というより、島のような巨大艦だったともいわれます。

これは実現可能性も低い思いつきのような単なる構想でしたが、日本のような資源の少ない持たざる国はなにか巨大ですごい兵器を持たなければ強大な列強には対抗できないという思想は、日本海軍の伝統的な考えとして受け継がれ、大和のような巨大戦艦の開発にも影響したといえるでしょう。

報復兵器V3砲

引用:www.pinterest.jp

V3砲は、第二次大戦中のドイツで研究・開発されていた兵器で、V1・V2兵器に続く報復兵器第3号(Vergeltungswaffe 3)と呼ばれました。

弾道学者コンダー博士によって考案されたV3砲は、砲の両側に28個の多連補助薬室が設けられ、最低部から発射された砲弾が薬室を通過する際に順次薬室で爆発を起こし、次々とガス圧をかけていくことで、砲弾を高速化する仕組みで、射程は約150kmにもなります。

150mにもおよぶ長い砲身を中心に、むかでの足のように薬室が設けられているため、「むかで砲」とも呼ばれます。

V3砲はV2ロケットに比べて炸薬量は少ないものの、照準精度が高く、ロンドンのバッキンガム宮殿や議事堂など重要施設を狙い撃つことも可能でした。

V3砲は、当時ドイツの占領下にあったフランス沿岸のミモイエークに建造され、直接ロンドンを砲撃することが可能な長距離砲になる予定でした。

しかし、弾丸が所定の速度に達する前に高圧によって砲身が破壊されてしまうため、なかなか実用砲が完成しませんでした。

そのうち、連合軍がノルマンディーに上陸し、ミモイエークも危険になってきた上、V3の存在を察知していたイギリス軍の空襲により、大きな損害を受け、施設は放棄されました。

伊400型潜水艦

引用:thetv.jp

伊400型潜水艦とは、太平洋戦争中に日本海軍が建造した大型の潜水艦で、全長で見ると現在でも通常動力潜水艦として世界最大の大きさを誇ります。

伊400型は、全長122mにもなり、特殊攻撃機「晴嵐」を3基搭載(うち1機は普段使用しない補用機)できるため、「潜水空母」と呼ばれることもあります。

引用:2chlog.com

伊400型は地球を一周半できる長大な航続力を持ち、日本から世界のどこへでも攻撃をかけて、戻ってくることができたのです。

搭載機の晴嵐は爆弾や魚雷を搭載でき、最高速度は559km/hという高速機でした。

この伊400型潜水艦を使って、日本海軍ではアメリカ本土やパナマ運河への空襲が計画されていました。

特に、パナマ運河の水門を破壊できれば、アメリカ海軍は大西洋から太平洋へ軍艦をもってくることができなくなってしまいます。

潜水空母とはいうものの、たった3機の飛行機しか搭載できないのでは、大した戦力にならないように思うかもしれません。

ですが、伊400型潜水艦の最初の計画建造数は18隻で、これが実現すれば、これによって潜水機動部隊が編制できれば、36機の晴嵐が一度に攻撃をかけることができるはずでした。

潜水空母の建造が計画されたのは、戦争序盤の日本が連戦連勝を重ねていた時期で、それまでなんの計画もなかった伊400型の建造が決定したのも、日本海軍にも余裕があったためでした。

しかし、その後日本は劣勢に陥り、伊400型の建造数も10隻、5隻と減らされていき、最終的には4隻になってしまい、そのうち完成したのは伊400と伊401の2隻だけでした。

攻撃の対象も、最初はパナマ運河への空襲が計画されていたのが、戦局の悪化によって不可能と判断され、アメリカ海軍の泊地であるウルシー環礁に変更されました。

2隻は終戦直前に出撃したものの、目的地に着く2日前に日本が降伏したため、晴嵐は海中に投棄され、潜水艦はアメリカ軍によって調査を受けた後、他の潜水艦と一緒に海没処分にされました。

R-36M

引用:http://www.thefringenews.com

R-36Mはソ連が開発した大陸間弾道ミサイルで、ソ連の切り札とされた巨大ミサイルです。

原型のR-36はNATOコードネーム「スカープ(Scarp:断崖絶壁)」と呼ばれ、派生型であるR-36Mには「サタン(Satan;魔王)」の名がつけられました。

R-36Mは全長36.6m、重量211tで、弾頭には750000tの威力をもつ核弾頭10基を搭載することができ、弾頭には炭疽菌を詰めた生物兵器弾頭も存在していました。

R-36はアメリカの大陸間弾道ミサイル計画ミニットマンに対抗するために作られたもので、射程は11500kmにもおよび、西側諸国にとって大きな脅威でした。

R-36Mは、直径5.9m、深さ39mのサイロに格納され、配備されると10年間は整備不要とされていました。

ミサイルはグラスファイバー製のキャニスターに入れられ、核爆発の衝撃からも守られるようになっていました。

R-36Mは、最盛期には308基が配備されていましたが、ソ連崩壊によって、ロシア領内のサイロは204基となり、残り104基の配備場所は独立したカザフスタン領となりました。

その後も冷戦の終結とともに、R-36Mも寿命を過ぎたものから退役していったため、配備数を減らしていきいきましたが、現在でも50基程度が配備されているとみられます。

2018年現在、ロシアでは後継ミサイルRS-28が開発が進められていて、NATOでは「Satan2」のコードネームがつけられています。

バビロン砲

引用:en.wikipedia.org

バビロン砲は1988年、イラクで開発が計画されていた超巨大砲で、実現すれば人類史上最大級の火砲となるはずでした。

バビロン砲は、ある一人の科学者によって生み出されたものです。

弾道学者ブル博士

引用:gosint.wordpress.com

彼の名前はジェラルド・ヴィンセント・ブルといい、1928年カナダのオンタリオ州ノースベイに生まれました。

子どもの頃から模型飛行機造りに熱中していたブルは、16歳でトロント大学の航空工学部に入学し、1951年には23歳で博士号を取得しました。

これは、トロント大学での史上最年少記録で、現在でも破られていません。

1949年からブルはカナダ国防省国防研究評議会から資金提供を受けてトロント大学に設立された航空工学研究所で超音速機用実験風洞の研究に参加しており、カナダの国産兵器である短距離ミサイル「ベルベット・グローブ(Velvet Glove)」の開発にも参加しています。

やがてブルの関心はミサイルよりも大砲に寄せられるようになっていき、大砲を使ってミサイルの模型を発射するという研究に邁進していきます。

カリブ海にあるイギリス領のバルバドスに作られた施設でも実験を行い、現地の住民には変わり者の研究者と思われていました。

HARP計画

引用:www.excite.co.jp

この頃、カナダを訪れていたアメリカ軍のアーサー・トルドー将軍がブルの研究に興味をもち、これをきっかけにアメリカにも人脈を作るようになったブルは、弾道学の権威として様々な兵器の開発に携わるようになります。

HARP(High Altitude Research Project)は、ロケットよりも安価に人工衛星を打ち上げる手段として代わりに大砲を使おうと考えられたもので、戦艦用の42㎜砲を繋ぎ合わせた全長40mもの砲で、宇宙空間まで物体を打ち上げることには成功したものの、衛星の打ち上げには失敗し、計画は中止になりました。

フセイン大統領のスカウト

ブルは、カナダのケベックにスペースリサーチコーポレーション(SRC)という会社を設立し、火砲の設計を請け負うようになり、アメリカだけでなく、オーストリアや南アフリカ、イスラエル、中国などと顧客として兵器を売り歩きました。

そんなブルに目をつけたのが、当時イラクの独裁者だったサダム・フセイン大統領でした。

フセインはブルのHARP計画を上回る大砲の開発を依頼し、ブルはイラクへの技術提供などを含めた開発契約を交わします。

この超巨大砲は、全長150m、口径は1mにもおよび、核砲撃も可能で、イラクの宿敵であるイスラエルはもちろんのこと、理論上はアメリカ本土までを射程に収めるはずでした。

この構想は、かつてイスラエルを征服した新バビロニアの王ネブカドネザル2世にちなんで「バビロン計画」と呼ばれました。

博士の死と計画の終焉

しかし、1990年3月22日、ブルがベルギー・ブリュッセルの自宅扉前で何者かに背後から銃撃されて死亡するという事件が起きてしまいます。

この暗殺事件は、ブルとイラクの接近に危機感をもったイスラエルのモサドやイランの諜報機関によるものではないかとみられています。

バビロン計画はすでに動き出しており、イラクはブルの死亡後も開発を続けようとしました。

しかし、石油パイプラインの一部という名目でイラクに輸入されるはずだった部品がイギリスの税関で摘発されてしまったため計画が発覚し、開発継続は困難となります。

建造途中だったバビロン砲も、1991年の湾岸戦争の戦後処理の際に破壊され、独裁者の野望は未完のままに消え去りました。

押収されたバビロン砲の一部は、現在でもイギリスの武器防具博物館で保存されています。

まとめ

以上、世界の超巨大兵器を紹介してきました。

巨大な兵器は一見強力そうにみえますが、見た目のわりにあまり活躍していないことがわかります。

巨大兵器は日本やドイツ、ソ連、イラクなど、軍事的に劣勢な国が開発することが多く、その背後にはものすごい兵器を造り出すことで、不利な状況を覆し一発逆転を狙いたいという考えがあります。

ロボットアニメなどでは主人公の乗る機体に人類の存亡がかかっていたりということがよくありますが、実際の戦争においては、ただ1つの兵器だけで戦局や国家の命運が決まってしまうということはそうそう起こりません。

そのため、こうした秘密兵器たちも実際に完成したものも期待ほどの活躍はできず、計画のみのものがもし実現していたとしても、同様の結果に終わっていたことでしょう。



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