スナイパー(狙撃手)とは、軍や警察において狙撃銃とスコープを使い長距離から目標を狙撃することを専門とする人間のことで、スナイパーという単語はもともと狩猟の名人として使われていました。
スナイパーは第一次大戦ごろから狙撃の名手という意味で定着していきます。
狙撃手は個人で行動することもあれば、狙撃に集中するため、周囲の状況確認などを行う観測手とペアを組むこともあります。
特殊な訓練を受け、敵を待ち伏せる忍耐力と狙撃の際の集中力、そして孤独な任務にも耐える精神力をあわせもち、近代の戦争において、たった1人で数十人からときには100人を超える敵を倒すことのできるスナイパーという存在は兵士の中でも特別な存在で、味方からは頼りにされるとともに敵からは畏怖されました。
撤退の時には殿をつとめて敵を食い止めたりすることも多く、また敵の恨みを買いやすいため見つかったときには虐殺やリンチの対象となることもあり、スナイパーは常に危険の中に身を置いていました。
しかし、そのような危険も顧みず勇敢に戦うスナイパーのなかからは様々な伝説や偉業を残す英雄たちがあらわれました。
この記事では、世界の著名なスナイパーたちと彼らの残した伝説の数々を紹介します。
【ホワイト・フェザー】 カルロス・ハスコック
引用:http://cartoonandcompany.blogspot.com/
カルロス・ハスコックはベトナム戦争に従軍したアメリカ海兵隊の狙撃手です。
相棒である観測手のジョン・バーク伍長とともに93人の北ベトナム兵を狙撃したエーススナイパーで、映画『山猫は眠らない』の主人公のモデルとなった人物です。
ハスコックはいつも愛用の迷彩帽に白い鳥の羽をつけており、ここから「白い羽の戦士(ホワイト・フェザー)」の二つ名で呼ばれるようになりました。
この鳥の羽はチキンの羽で、狙撃兵が臆病者(チキン)と呼ばれることを皮肉ったもので、ハスコック自身は狙撃兵は臆病といわれるほど慎重であるべきだと考えていましたが、やがてこの羽は敵であるベトナム兵にとって臆病者ではなく恐怖の象徴となっていくのです。
ハスコックは、17歳の時に子どもの頃からの憧れだったアメリカ海兵隊に入隊しました。
狙撃兵訓練課程では課題の1つである250ポイント中248ポイントという現在も破られていない記録を残し、23歳のときにはアメリカでもっとも権威のある1000ヤードハイパワーライフル選手権で優勝するなど、狙撃手としての才能を開花させていきました。
アメリカは、1965年から南北に分裂したベトナムでの戦争に南ベトナムを支援して本格的な介入をはじめ、ハスコックもベトナム戦争に派遣されます。
彼はここでもその能力を如何なく発揮し、2300mの距離からべトコンの兵器運搬係を狙撃して長距離狙撃の世界記録を打ち立て、敵である北ベトナム軍から3万ドルと破格の懸賞金が懸けられました。
ハスコックは敵からは「白い羽毛」を意味する「ロン・チャン」と呼ばれ畏怖されており、遂に北ベトナム軍は「ロン・チャン」を仕留めるために12人もの腕利きの狙撃兵を送り込みました。
ハスコックは刺客たちを次々と仕留めていきましたが、ある日、第55高地と呼ばれる場所で、「コブラ」と呼ばれる北ベトナム軍最強のスナイパーと対決することとなったのです。
コブラはハスコックをおびき出し、一対一の戦闘に持ち込むため、海兵隊員数人を狙撃していました。
仲間を何人もやられ、敵が自分を狙っているとわかっていても、逃げるわけにはいきません。
しかし、敵も凄腕のスナイパーです。
ハスコックはなかなか相手の位置を発見することができません。
先に相手の姿をとらえたのはコブラのほうでした。
彼のスコープにはすでに、銃を手に辺りの様子を探るハスコックの姿が映し出されていたのです。
コブラは落ち着いた動きでライフルをもちあげると、目を凝らし、スコープ内部の先の尖った照準に神経を集中させました。
しかし、その時、西に傾きつつあった亜熱帯の太陽がハスコックに味方しました。
眩しい陽光にコブラは一瞬目標を見失い、銃を傾けたのです。
ハスコックは、陽光を受けたコブラのスコープの一瞬の煌めきを見逃しませんでした。
スコープの中、遠くで光った何か。
敵だという確信もないまま、イチかバチかでハスコックは引き金を引きました。
峡谷に響き渡る銃声がハスコックの勝利を告げ、戦いは終わりました。
コブラの死体を確認しに行ったハスコックは驚愕の光景を目にしました。
彼の放った弾丸はちょうど敵のスコープを貫通し、眼球を射抜いていたのです。
これは、敵も同時にハスコックの姿をスコープにとらえていたことを意味します。
二人の生死を分けたのは、ただ、ハスコックのほうが一瞬はやく引き金を引いたということだけでした。
この戦いは通称「cat and mouse」の戦闘と呼ばれ、今でも語り継がれる伝説の狙撃兵対決となっています。
スティーブン・スピルバーグ監督は、映画『プライベートライアン』のワンシーンに、このエピソードをモデルとして取り入れました。
ハスコックの公式戦果は93人ですが、ベトナム戦争はゲリラ戦のため、確認されていない戦果も多く、実際には300人近くの敵を仕留めたといわれています。
ハスコックは、地雷で炎上する車両から仲間を助ける際にやけどを負って前線を離れると、その後は狙撃手の教官に就任し、1979年に除隊するまで、後進の育成に励みました。
【ガリポリの暗殺者】 ビリー・シン
引用:https://www.scmp.com/
ビリー・シンは近代戦争の幕開けとなった第一次世界大戦で活躍し、公式記録150人(非公式200人以上)を狙撃し、「ガリポリの暗殺者」の異名をとったスナイパーです。
シンはオーストラリア出身で、中国人の父親とインド人の母親の間に生まれ、子どもの頃からカンガルーハンターとしてライフルの扱いや狙撃の能力を磨いていきました。
1915年、母国オーストラリアが第一次大戦に参戦すると、シンは当時のオーストラリアに常備軍としての戦力がほとんどなかったため、義勇兵として大戦に参加しました。
1915年4月、イギリス軍によって、敵であるオスマントルコ帝国の領土であるガリポリ半島への上陸作戦が始まりました。
オスマントルコの首都イスタンブール占領を目標としてはじまったこの作戦ですが、上陸軍は序盤から苦戦を強いられ、戦線は膠着してしまいます。
ヨーロッパへ渡ったシンは連合軍の損害補填兵としてガリポリ半島へと投入されました。
シンはここで多数のオスマントルコ兵を狙撃する戦果を上げ、敵をおおいに悩ませました。
業を煮やしたオスマントルコ軍はシンを仕留めるためにアブデュルという名の腕利きの狙撃手を送り込みました。
アブデュルは「恐るべきアブデュル」という異名で連合軍兵士の間で恐れられており、オスマントルコの皇帝から勲章を授けられたこともありました。
アブデュルはオーストラリア軍陣地を観察し、行動パターンから狙撃手チームの居場所を特定し、ある朝、遂にシンを殺すために狙撃の準備をはじめました。
しかし、偶然にもシンの観測手がアブデュルの姿を発見。
このときアブデュルもシンに照準をあわせていましたが、シンは素早くライフルを構えると、わずかな差でアブデュルの眉間を射抜いたのです。
いくつもの勲章を授与されたシンでしたが、戦後は故郷で肉体労働に従事するなど細々とした生活を続け、亡くなったときにはわずかな財産と粗末な小屋しか残されていなかったといいます。
【ナチス・ドイツ軍の最強スナイパー】 マティアス・ヘッツェナウアー
引用:https://www.youtube.com/
マティアス・ヘッツェナウアーは第二次大戦中、ドイツとソ連の戦いが行われた東部戦線で戦い、ドイツ軍最多の345名という戦果をあげたエーススナイパーです。
ヘッツェナウアーは1924年、オーストリア・チロル州で生まれました。
1938年、オーストリアはナチス・ドイツに併合されたため、ヘッツェナウアーは17歳のときドイツ国防軍に入隊しました。
19歳までオーストリア・アルプスの演習場柄狙撃兵として訓練を受けたのち、第3山岳師団に配属され、東部戦線へと向かいました。
オーストリア・アルプスに位置し、全域が山地で構成されるチロル州出身のヘッツェナウアーは山岳地帯での戦闘でその能力を思う存分発揮し、多くの戦果をあげると、一級十字章、狙撃手章金章、騎士十字章などいくつもの勲章を受勲しました。
戦時中のインタビューでは400mで65%、600mでも30%の命中率があったと語っています。
終戦も間近の1945年5月、ヘッツェナウアーはソ連軍の捕虜となり、ドイツ敗戦の報を聞いたのは収容所の中でした。
5年に及ぶ抑留生活ののちに帰国。
2004年、数年の闘病生活ののちに79歳で死去しました。
【スターリングラードの英雄】 ヴァシリ・ザイツェフ
引用:https://www.descopera.ro/dexcopera/
ヴァシリ・ザイツェフは第二次大戦時のソビエト連邦の狙撃兵で、スターリングラード攻防戦で活躍し、わずか1か月強のあいだに225人もの戦果をあげました。
ジュード・ロウ主演の映画『スターリングラード」で主人公として描かれています。
ヴァシリ・ザイツェフは1915年生まれで、ウラル山脈で育ち、狩猟によって射撃技術を培いました。
1936年に海軍に入隊し、1942年からは狙撃部隊に配属され、スターリングラード攻防戦に参加しました。
彼はこの戦いでソ連邦英雄章、レーニン勲章、赤旗勲章、一等祖国戦争勲章など数々の勲章を授与されています。
また、ザイツェフは後進の育成にも力を入れており、彼が教えた28名の生徒はザイツェフがロシア・ウサギを意味することから、ロシア語で子ウサギを意味する「ザイシャ」と呼ばれ、3000人以上の敵兵を狙撃により仕留めたといわれています。
ソ連屈指の英雄であるザイツェフを始末するため、ナチス・ドイツが送り込んだのが、武装親衛隊の狙撃兵学校教官で、これまで数百人の戦果をあげてきたエルヴィン・ケーニッヒ少佐でした。
ザイツェフにもケーニッヒ少佐を仕留めるよう命令が下され、二人の戦いが始まりました。
ザイツェフは観測手とともにスターリングラードの街でケーニッヒ少佐を探し求め、追跡戦は数日間にも及びました。
そして、ついにケーニッヒ少佐の居場所を突き止めます。
敵は戦車とトーチカの間に置かれた鉄板と崩れたレンガの小山の後ろに隠れていました。
ザイツェフはヘルメットを囮にして相手に発砲させると、一緒にいた観測手が悲鳴を上げ、狙撃が成功したと思い込ませました。
勝利を確信したケーニッヒ少佐が鉄板から顔を覗かせた瞬間、ザイツェフはその頭部を精確に撃ち抜いたのです。
これが、「スターリングラードの戦い」と呼ばれ語り継がれる狙撃手対決です。
実は、ケーニッヒ少佐なる人物がスターリングラードで従軍していたというドイツ軍の記録はなく、当時のソ連の戦闘日誌などにもこの戦いの記録がないことから、このエピソードは英雄ザイツェフを神格化するために作られたプロパガンダではないかといわれています。
【世界最強の女性スナイパー】 リュドミラ・パブリチェンコ
引用:https://gigazine.net/
リュドミラ・パブリチェンコは第二次世界大戦のソ連軍で確認戦果309人と傑出した功績をあげた世界最高の女性スナイパーです。
2015年に公開された映画『ロシアン・スナイパー』は彼女の活躍を描いたものです。
共産主義国家であったソビエト連邦において、女性は男性と等しく労働者であり、第二次大戦が起こる前から女性の選挙権など社会的地位が広く認められ、当時のソ連は教育や労働において女性の社会進出が進んでいた世界でも有数の国家でした。
1941年、ドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦が開始されると多くの女性たちが軍に志願しました。
彼女たちの多くは家に帰されるか、採用されたとしても看護婦など後方での勤務がほとんどでしたが、なかには実際に銃を手にして前線へと送られる少女たちもいました。
パブリチェンコもその一人です。
彼女はキエフ大学で史学を専攻していた21歳の時、スポーツ射撃に興味を持ち、オソアヴィアヒムで精密射撃の技術を身につけました。
オソアヴィアヒムとは、民間人にパイロットやパラシュート降下、水泳、射撃などの軍事訓練を施すとともに、愛国心を育成することを目的とした機関で、すべて無料で行われ、政府により参加が推奨されていました。
彼女にとって転機となったのは24歳の夏。
論文の資料探しのため黒海沿岸のオデッサに来ていたパブリチェンコは第二次大戦に巻き込まれます。
当時、ソ連はドイツ軍の電撃戦に対応できず、港湾都市オデッサはドイツとその同盟国であるルーマニアの軍によって包囲され、ソ連軍は海からの撤退を強いられました。
軍に志願したパブリチェンコに与えられたのは撤退の時間を稼ぐため、最前線にとどまり、狙撃によって敵の侵攻を可能な限り遅滞させるようにという捨て駒に等しい過酷な任務でした。
しかし、パブリチェンコは見事にこれをやり遂げ、それまでに培った狙撃の技術を開花させると、この戦いで約2か月半のあいだに狙撃兵10人を含む187人もの敵兵を仕留めて短期間のうちに少尉にまで昇進しました。
オデッサが陥落すると、パブリチェンコはソ連軍とともにクリミア半島へと撤退し、そこで250日にもおよぶセヴァストポリ防衛戦を戦いました。
パブリチェンコはこの戦いで狙撃の確認戦果を257人にまで増やし、中尉に昇進しますが、迫撃砲弾の破片により負傷し前線を離脱して、病院へと移送されることとなります。
1か月の療養後、前線に復帰し狙撃任務についたパブリチェンコでしたが、その頃すでに彼女はソビエト全土で名を知られた英雄となっていました。
危険な前線で英雄を失うことを恐れた軍により狙撃教官に任命されたパブリチェンコは前線を離れることになりました。
さらに、パブリチェンコはソ連からカナダとアメリカへ向かう「青年使節団」の一員に選ばれました。
当時、ソ連とアメリカ、イギリスは同じ連合軍でしたが、多くのアメリカ国民にとってソ連は共産主義の得体の知れない国であり、拭いきれない不信感がありました。
軍はそれを解消するためにパブリチェンコの名声を利用しようと考え、この使節団はアメリカ国民にとって実際にナチスと戦った人々に触れる貴重な機会でした。
派遣団がアメリカに到着すると、至るところで暖かい歓迎を受け、大規模な集会が催されました。
歓迎レセプションには俳優のチャールズ・チャップリンも駆けつけ、また、ホワイトハウスではフランクリン・ルーズベルト大統領と面会しました。
パブリチェンコは、初めてアメリカ大統領に招待されたソ連市民となりました。
面談後には大統領夫人の勧めで全米を巡るツアーに参加してワシントンやニューヨークを訪れ、シカゴで行ったスピーチでは、
「男性のみなさん、私は今25歳ですが、前線に出て、すでに309人のナチの侵略兵たちを仕留めています。そろそろ私のうしろから出てきてもいい頃ではありませんか?」
と呼びかけ、聴衆から喝采を浴びました。
帰国後、パブリチェンコは前線に戻ることはなく、後進の育成につとめ、1943年にはソ連邦英雄勲章を授与されました。
ソ連の女性スナイパーのなかで生前にこれを授与されたのは彼女だけです。
終戦後、除隊したパブリチェンコはキエフ大学に復学し、再び史学科の学生に戻りました。
ソ連軍には戦時中約2000人の女性スナイパーがいたといわれますが、生き残ったのは約500人のみでした。
【カナダ先住民の最強スナイパー】 フランシス・ペガァマガボウ
引用:https://www.thefirearmblog.com/
フランシス・ペガァマガボウは第一次世界大戦に従軍したカナダ先住民の血を引くエーススナイパーです。
1892年、カナダ・オンタリオ州でオブジワ族の家庭に生まれたペガァマガボウは、漁師と五大湖の水上消防士として生計を立てていましたが、22歳の時に第一次大戦が勃発すると軍に志願します。
理由は、戦功をあげて白人に虐げられてきたオブジワ族の社会的地位を向上させることでした。
訓練課程で狙撃手としての優れた能力を見出されたペガァマガボウはスカウト・スナイパー(前哨狙撃兵:狙撃に加え、斥候・偵察などを目的とした狙撃兵)として最前線で戦うことになりました。
当時、狙撃用のスコープはまだ普及しておらず、ペガァマガボウが与えられたのもスコープマウントなしのライフルでした。
ペガァマガボウはこの銃を手に、イギリス・フランス等の連合軍とドイツ軍が戦っていた西部戦線に送られ、初陣としてドイツ軍が史上初めて毒ガスを使用したことで知られる1915年の第2次イープル戦で熾烈な戦いに身を投じます。
ペガァマガボウは闇夜に紛れ月明かりだけを頼りに、まるで昼間のように容易く敵を発見し、次々とドイツ兵を狙撃しました。
この戦いで数十名の敵を射殺したペガァマガボウは狙撃の名手ペギーとして知られるようになります。
ペガァマガボウは続くソレル山の戦いで脚部を負傷したものの、数か月後には前線に復帰し、第一次大戦でもっとも悲惨と言われたパッシェンデールの戦いでは、偵察任務によって味方を的確に誘導し、カナダ軍を勝利へと導きました。
彼の公式確認戦果は378人ですが、一方、不必要な殺戮を好まなかったといわれるペガァマガボウは大戦で通算300人以上を殺すことなく捕虜にしたといわれています。
戦後、祖国に帰ったペガァマガボウは先住民族政府の議長となってオブジワ族の地位向上のために尽力しました。
【白い死神】 シモ・ヘイヘ
引用:https://distrarindo.com.br/
シモ・ヘイヘは北欧フィンランドの軍人で1939年にソ連とフィンランドの間で起こった冬戦争で活躍し、確認戦果542人という現在も破られていない史上最多記録を残している世界最強のスナイパーです。
ロシアとの国境近くの小さな町で生まれたヘイへは、猟師として射撃の腕を磨き、射撃の大会にもたびたび参加し、家にはたくさんのトロフィーが飾られていたといいます。
1939年、隣国のソ連が領土拡大を目的にフィンランドに侵攻を開始、冬戦争と呼ばれる戦争が始まりました。
これは、フィンランドにとって国家の存亡をかけた戦いでした。
予備役だったヘイへも祖国防衛のために召集され、軍務につくことになりました。
このとき、射撃成績から類まれな才能を見出されたヘイへは、上官から特定の小隊に所属せず、防衛ラインで自由に行動してよいという、彼の能力を最も発揮できる狙撃兵としての任務を与えられました。
ヘイへは、平均気温-20℃~-40℃というフィンランドの極寒のなか、純白のギリースーツに身を包んで狙撃を行い、ソ連兵からは「白い死神」と恐れられました。
ヘイへはあえてスコープは使わずに、銃身についた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行いました。
これは猟師時代の射撃に慣れていたことと、スコープの反射により敵に見つかることを嫌ったためといわれています。
ヘイへは300m以内ならほぼ確実に敵の頭部を撃ち抜けたといわれ、仲間とともにたった32人で4000人のソ連兵からコッラー河付近の防衛線を守り抜いた「コッラーの奇跡」をはじめとして、1個小隊25名を1人で全滅させたり、サブマシンガンを乱射しながら突撃してきた部隊を壊滅させたなどいくつもの伝説を残し、シモ・ヘイヘ討伐を命じられたソ連兵は出撃の前夜に遺書を書くほどだったといいます。
ヘイへは終戦1週間前に銃撃により頭部の半分を失う重傷を負いますが、奇跡的に命はとりとめました。
戦友たちにはヘイヘが戦死したという知らせが届いていて、病院で葬式を行っている最中にヘイヘが生きていることがわかったという話が伝えられています。
ヘイへはその後も前線への復帰を希望しましたが、度重なる手術によりそれは敵わず、傷跡も生涯残ることになってしまいました。
ヘイヘは兵長から少尉へ5階級昇格して退役し、その後は猟師兼猟犬の繁殖家として静かな余生を過ごしました。
ヘイへは開戦から負傷するまでの100日ほどのあいだに542人という世界最高の戦果を残し、非公式なものを含めればそれ以上の敵兵士を倒したとされています。
ヘイへは写真ではいつも誰かの後ろに隠れるようにして写っているような寡黙で控えめな性格の人物で、生涯自分の功績をひけらかすこともなく、狙撃の秘訣を聞かれたときも短く「練習だ」とだけ答えたといいます。
【ラマーディの悪魔】 クリス・カイル
引用:http://news.militaryblog.jp/
クリス・カイルはアメリカ海軍ネイビー・シールズに所属していた狙撃手で、イラク戦争で活躍し、2014年公開の映画『アメリカン・スナイパー』のモデルとなった人物です。
カイルは1974年、テキサス州で聖職者の長男として生まれました。
父は聖職者であったものの、狩猟には肯定的で、カイルも幼いころから銃に親しんでいました。
カイルの将来の夢はカウボーイか軍人でしたが、腕のケガでプロのロデオ競技者への道を諦めると、もう一つの夢である軍人を目指して大学を中退します。
腕の障害を理由に一度は断られたものの、1999年、ついに海軍に入隊が決まります。
特殊部隊を志望していたカイルはネイビー・シールズへ配属されました。
2003年、イラクの大量破壊兵器問題をきっかけにイラク戦争がはじまると、カイルは4回にわたりイラクへと派遣され、ナシリア、ファルージャ、ラマーディとイラク戦争の激戦地を転戦していきます。
カイルが最初に狙撃した相手は、海兵隊の前進経路上に手榴弾を仕掛けていた子連れの女性だったといいます。
激戦となったファルージャの戦いでは、最初は狙撃で海兵隊を援護する任務についていたのですが、特殊部隊と比べて目にあまるほど稚拙な戦闘方法で犠牲者を増やす海兵隊を見かねて、命令を無視して自らも掃討作戦に参加、さらには海兵隊員たちに自分のテクニックを指導も行いました。
カイルはイラク軍をはじめアルカイーダ系武装勢力の戦闘員など公式で160人(非公式255人)の戦果を上げ、敵からは「ラマーディの悪魔」と呼ばれ、8万ドルの懸賞金が懸けられました。
1.9km先のロケットランチャー兵を狙撃したり、泳げないらしい武装勢力が大きなビーチボールを使って渡河しているのを発見したときにはビーチボールを狙撃して敵全員を溺死させるなど、様々な逸話を残しています。
しかし、イラクでの戦闘は彼にとっても過酷なものであり、戦闘中に2回撃たれ、6度の地雷攻撃に遭遇しました。
また、精神的にも、敵に撃たれた10代の海兵隊員を抱えて敵の銃火の中で身動きがとれなくなってしまったときにその若者が「母親には僕が苦しんで死んだとは言わないで」と言い残して絶命するところなど、いくつもの悲惨な場面を目撃することになりました。
やがてカイルは心身の不調をきたし、高血圧や飛蚊症など原因不明の症状に悩まされることになります。
除隊後、カイルは民間軍事会社を立ち上げると同時に、その収益をもとにPTSDに悩むイラク戦争の帰還兵の心のケアと社会復帰を目指すNPO団体を設立し、支援活動を行っていました。
しかし、2013年、PTSDを患う元海兵隊員エディ・レイ・ルースに銃で撃たれ、カイルは死亡しました。
ルースはカイルと同じテキサス出身で、カイルと同じ高校の出身でした。
カイルは、PTSDから逃れるため酒や薬物に溺れるようになったルースを心配した彼の母親から依頼を受けて、彼に射撃訓練を行っていたところで突然発砲されたのです。
こうして、かつての仲間たちのために尽力してきたカイルは、その仲間の一人の手によって命を奪われるという皮肉な最後を迎えたのでした。
まとめ
以上、世界の著名なスナイパーたちを紹介してまいりました。
どの人物も驚くような戦果や人間離れした伝説を残しています。
また、彼らの活躍は多くの映画にもなっています。
たった一人でどんな危険な場所へもおもむき、じっと身を潜めて目標を狙う孤高の戦士。
スナイパーのもつそんなイメージが多くの人を引き付けるのかもしれません。
この記事で興味をもった方は、映画の中でのスナイパーたちの活躍を見てみてはいかがでしょうか。
実際の彼らの姿を知っていれば、より映画を楽しめると思います。