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【実在】かつて吸血鬼と恐れられた人物7選!

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吸血鬼は元々スラブの民間伝承から生まれ、プラム・ストーカーの著書『吸血鬼ドラキュラ』によって広く知られるようになりました。

墓から這い出てきて人の生き血をすする怪物として中世の時代には人々を震撼させた吸血鬼ですが、現代ではフィクションの存在として扱われています。

しかしながら歴史を紐解いていくと、人間とは思えない獰猛さや残虐さを持つことから正体は吸血鬼なのではないか?と囁かれた人物も少なからず存在しているのです。以下に、実在した吸血鬼と呼ばれる人物達を紹介していきます。

 

ヴラド・ツェペシュ

ルーマニアのワラキア大公、ヴラド・ツェペシュ(1431年~1476年)は、プラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に登場するドラキュラ伯爵のモデルともなった人物です。

ヴラド公はオスマン・トルコ帝国から祖国を守り抜いた英雄として知られる猛将であり、ルーマニア語で“串刺し”を意味するツェペシュという名で呼ばれるほど、際立った残虐さも持っていました。

ツェペシュが彼の残虐さを表す2つ名であることは間違いないのですが、本名については未だに研究者の間でも意見が分かれており、はっきりとしたことが分かっていません。

文献によっては姓をドラキュラ、ドラクレア、ドラコなどと記しており、これについても理由が諸説あります。代表的なものではヴラド公の父親の名がヴラド・ドラクルであり、その息子という意味で語尾が変化してドラキュラやドラクレアと呼ばれるようになったというものです。

 

串刺し公と呼ばれた所以

引用:http://historias-y-leyendas.blogspot.com/

1456年7月、ヴァルナ十字軍で勇名を馳せたハンガリー太守ヤノシュ・フニャディの働きによりヴラド・ツェペシュはワラキア公の公位に就きます。当時のワラキアはオスマン・トルコ帝国という大敵に立ち向かうため、国内を盤石なものにする必要がありました。

そのためにヴラド公はまず地主貴族らの特権階級を解体し、自分の元に権力が集中するように画策したとされます。当時はワラキアに限らず、ハンガリーやトランシルバニアでも君主は貴族階級の操り人形に過ぎなかったからです。

1459年にヴラド公はワラキアの貴族を集め、彼らに今まで何人の君主に仕えたのか質問しました。その問いにある者は7人と答え、中には30人と答えた者もいたとされます。

この答えを聞いたヴラド公は激高し、国力が衰えたのはこのように私欲に走り君主に忠義を果たさない貴族がいるせいだとして、居並ぶ貴族たちを全て串刺しの刑に処したのです。

当然このような行為は貴族たちの反感を買い、反ヴラド公の軍隊が結成される動きもありました。しかしいち早く反乱に気付いたヴラド公は、またもや地主貴族を捕らえてこれを串刺しの刑に処しました。

国内における彼の政治は熾烈そのもので、犯罪者や老人、貧困者といった弱者を集めては食事を振る舞い、食事会の中で辛い世の中から逃れたいか?という質問を投げかけたといいます。そしてこの問いに逃れたい、と答えた者は火あぶりにされたそうです。

現代の感覚では途方もない恐怖政治ですが、当時はこのような行為は珍しいことではありませんでした。戦火が厳しくなっていく中で、国政の負担になる者は存在自体が悪だったのです。

 

オスマン・トルコ帝国に恐れられたドラキュラ公

1462年3月、オスマン・トルコ帝国のスルタン、モハメド二世はワラキアへとの開戦を決め、同年の6月にはドナウ川を渡ってワラキア軍と交戦しました。この時トルコ軍は約8万もの軍勢であったのに対し、ワラキア軍は2万~3万程の軍勢であったとされます。

そのため初回の戦いではワラキア軍は敗北したものの、ヴラド公はすぐに村人を山岳部に避難させた後に田畑や家屋を焼き払い、トルコ軍に物資が渡らないように試みました。

そして引いては攻撃をし、攻められたら逃げるを繰り返してトルコ軍をワラキアの奥地に誘い込んでいったのです。食糧不足と暑さ、度重なる交戦に、いつの間にか迷い込んだ見知らぬ土地という要因はトルコ軍を激しく疲弊させました。

それを堪えて何とか首都近くのトゥルゴヴィシテにトルコ軍が進むと、串刺し公による見世物が待っていました。長さ1km、幅3km程の広大な平原に、2万人ものトルコ人が串刺しにされていたのです。

放置され、暑さで腐敗した死体はカラスやハゲタカに食い荒らされて地獄絵図の様相だったとされます。この無慈悲な行為にトルコ軍は戦意を喪失し、その後仕掛けられた夜襲で壊滅的な打撃を受け撤退したのです。

この戦いから、ヴラド公は国内のみならず大国オスマン・トルコ、そして近隣諸国からも串刺し公として恐れられる存在となりました。

 

ジル・ド・レエ

フランスの貴族の息子として生まれたジル・ド・レエ(1404年~1440年)はジャンヌ・ダルクを補佐しながら100年戦争でフランスを勝利に導いた英雄です。

しかしオルレアンを解放した後にイギリス軍に捕らえられ、宗教裁判により異端者としてジャンヌが火刑に処されて以降、ジルはフランス騎士最高の称号である元帥を受けたにもかかわらず戦場から身を引いて、自分の領地に引きこもるようになったといいます。

そしてそこで、数々のおぞましい行為にのめりこむようになっていったのです。

 

錬金術、黒魔術への傾倒

幼い頃に両親と死に別れたジルにとって、ジャンヌの存在は大きなものであったと推測されます。ジャンヌの死後は古代ローマ要塞跡にあるチフォージュ城に隠遁し、近くに礼拝堂を建てました。

そしてそこに豪奢な衣装を着た聖職者や美少年のみで編成した聖歌隊を住まわせるようになったのです。聖歌隊の少年は教会の仕事以外にも主の居城を訪れた客を性的な接待をする役割も担っていたとされます。

さらに城には200人もの衛兵を配置し、珍しい書物を各国から取り寄せたりと両親から相続した財産を湯水のように使っていったのです。放蕩生活で財産が底をつき始めると、自分の領土を切り売りするようになっていきました。

それでも資産の減少に悩まされたため、ジルは次第に錬金術に傾倒していったといいます。ヨーロッパ各地から錬金術師を雇い入れ、国王シャルル5世による錬金術禁止令に背いて居城で賢者の石の制作に明け暮れました。

やがて彼は黒魔術にも手を出すようになり、悪魔と契約することで錬金術の極意を手に入れようと試みたとされます。そして、この悪魔召喚の儀式の生贄として少年達を惨殺するようになったのです。

 

悪鬼ジル・ド・レエ

黒魔術の生贄として殺された少年達の数は裁判記録によると800人ともされています。この数に信憑性があるかはさておいても、ジルの召使は居城内に36人~46人の少年の遺体があったと証言しており、他の所有者地の城の中には幼児の遺体を詰めた樽があったという記録もあるため、相当数の子供が犠牲になったことが推測されます。

また黒魔術のために行っていた少年の惨殺は彼の異常性癖を満たす行為でもあったようで、時には生きたまま手足をもぎ取って悲鳴に聞き惚れていたとさえいわれています。

犠牲となったのは近隣から誘拐されていた子供たちで、チフォージュ付近には子供がいなくなった後は遠方まで子供を探しに行ったそうです。この残虐な行為は1440年9月に土地売却のトラブルでジル・ド・レエが裁判にかけられるまで続きました。

そして同年の10月には小児の誘拐についても審議が始まり、幼児虐殺が明るみに出ることとなり、1440年10月26日に36歳の若さでジル・ド・レエは処刑されました。

 

エリザベート・バートリー

トランシルバニア地方の名家、バートリー家に誕生したエリザベート・バートリー(1560年~1614年)は“血濡れの伯爵夫人”と呼ばれた人物です。

バートリー家はハプスブルグ家とも縁のある古い貴族の家柄でしたが、近親婚を繰り返した結果か嗜好や考え方に偏りが見られる人物が多く、エリザベートにもその一面が強く見られました。

彼女は11歳の時に婚約者であるハンガリーの古い貴族フェレンツ・ナタジー伯爵の家に入りました。そして義理の母親となるウルスラとの確執を通じて異常な残虐性を見せるようになっていったといいます。

 

婚家での生活と血濡れの伯爵夫人の誕生

エリザベートの夫となったナタジー伯爵はハンガリーの黒い英雄と呼ばれるほど、オスマン・トルコとの戦いにおいて戦績を残した武将でした。そのため留守がちで、エリザベートを顧みることはほとんどなかったといいます。

嫁ぎ先のチェイテ城にそりの合わない厳しい義母と残された彼女は、下男から黒魔術の知識を得るようになり、それによって寂しさを紛らわせていました。しかしエリザベートの不貞行為が原因で一層ウルスラの干渉が酷くなったのに反発した彼女は、義母の使用人を地下室で拷問した後に殺害してしまうのです。

その後ナタジー伯爵との間に3人の子供を成すのですが、それでもエリザベートが満たされることはありませんでした。夫とともにウィーンの宮廷を訪れるようになると舞踏会や音楽会といった華やかな世界の虜になり、自らを美しく見せることに固執していったとされます。

そして40歳の時に夫と義母を立て続けに亡くすと(ウルスラに関してはエリザベートによる毒殺説あり)その傾向は一層強まっていきました。そんな時気に入らない女中を激しく折檻していた際に彼女の返り血を浴びたエリザベートは、若い女性の血を浴びることで自分が若返ったような錯覚を覚えてしまったのです。

彼女はすぐに女中を殺害してその血を全身で浴び、多幸感に浸ったといいます。昔から一部の思想では処女の血は若返りの秘薬とされており、彼女もまたこれに傾倒し、次々と女中を殺して血を集めるようになっていったのです。

 

おぞましい採血機

中世の拷問器具として知られるアイアンメイデンですが、一説ではこれを考案したのはエリザベートではないかとも言われています。そして他にも若い娘の血を効率的に集めるために様々な拷問器具を考案したとされています。

彼女が使用したという採血機には、内側に無数の針が付いた人が入る大きさの鳥かごのようなものもありました。この中に若い娘を入れて天井から吊るして左右に揺らし、針によって肌を傷つけられた娘が痛みと恐怖に泣き叫ぶ声を聞きながら、エリザベートはその下でシャワーのように生き血を浴びたというのです。

また彼女は居城の外、例えばウィーンに宿泊する際などにも必ず若い侍女を従えて行き、宿屋などでも娘を殺害していました。いくつかあった別荘の地下室には。常に10人以上の娘が準備されていたともいわれています。

こうして女中を殺してはその血を浴び、集めた血を浴槽に入れて全身を漬からせるといった行為にふけっていたため、やがて城内には若い女性が尽きてしまいました。すると貴族の城に奉公に来ないかとそそのかして、娘達をかき集めるようになっていったのです。

しかしチェイテ城に奉公に向かった娘達は誰一人帰ってくることはなく、訪ねて行った親族も追い返されたことから噂が広まり、城に奉公に行こうとする者はいなくなりました。するとエリザベートは下男に命じて近辺から若い娘を誘拐するようになっていきました。

しかし1610年、生贄の少女の1人が城から脱走したことが切っ掛けでエリザベートの所業が遂に明るみにでたのです。宗派の対立によりバートリー家を疎ましく思っていた当時のハンガリー王はエリザベートを捕らえて裁判にかけました。

有罪となった彼女は居城に幽閉されたまま1614年に54歳で死亡。エリザベートの凶行の犠牲となった命は300とも400ともいわれ、チェイテ城も呪われた場所として忌み嫌われて朽ちていきました。

 

ペーター・プロゴヨヴィッチ

ペーター・プロゴヨヴィッチ(出生年不明~1725年)は、18世紀のヨーロッパにおいて公式に認められたヴァンパイアです。農民であったペーターが死亡して埋葬された後、1週間以内に9人もが不審死を遂げました。

この様子は残された文献によって差が見られるものの、死亡した9人が著しく衰弱していたこと、犠牲者が死亡する前にペーターが夜に現れて首を絞めたと周囲に話していたという共通点が見られます。

また一説には埋葬された3日後に実の息子のもとを訪れたペーターが息子を呪い殺した、妻のもとを訪れてオパンキという靴を求めたという記録もあります。

また教区司祭や司祭代理の記録によるとペーターの死体は死後10週間経過しても腐敗や欠損が見られず死臭もなく、毛髪や爪も伸びていたこと、死体の口の中は血液が溢れていたという奇怪な特徴が見られたそうです。

村人達はペーターがヴァンパイアである証拠だと主張し、司祭らの立ち合いのもと杭で死体の心臓を刺したといいます。すると死後10週間経過しているとは思えないような量の鮮血が胸からほとばしり、これは犠牲者から吸い取ったものだ一層騒がれるようになったのです。

結局ペーターの死体は焼かれて灰にすることで処置を終えたのですが、この件が広がるとヨーロッパ各地で似たような例が次々報告されるようになっていきました。

 

フリッツ・ハールマン

フリッツ・ハールマン(1879年~1925年)はハノーヴァーのヴァンパイア(または狼男)と呼ばれたドイツの連続殺人鬼です。ハールマンは共犯者のハンス・グランスとともに少なくとも24人、恐らくは50人近い若い男性を殺害したとされています。

殺害時に犠牲者の喉に咬みつき生き血をすする、その肉を食らうといった異常な行動を見せたためにハノーヴァー・ヴァンパイアと呼ばれるようになったのです。

あまり裕福ではない家庭に生まれたハールマンは父親の虐待を受けながら育ち、16歳で陸軍士官学校に入学しました。しかし持病を理由に退学させられ近所の煙草工場で勤務するようになると、間もなく少年に対する猥褻行為が原因で逮捕されることとなります。

この件で少年院に収監されるのですが、脱獄したハールマンは窃盗、性犯罪、密輸などの犯罪に次々手を出し、刑務所の内と外を往復する生活を送るようになります。そして1919年に男色家が集まる社交場であったカフェ・クロペックで相棒となるハンス・グランスと出会うのです。

意気投合した2人は、自分好みの少年を誘い出しては強姦した後に喉を食いちぎるという猟奇的な行為に没頭していきました。そして犯行後は犠牲者の衣服を売り、遺体を食肉として売りさばくことで事件が明るみに出るのを防いだのです。

しかしハノーヴァー警察の必死の捜査により2人は逮捕され、ハールマンは斬首刑、グランスは懲役刑に処されることになります。警察の情報屋でもあったハールマンの裁判は彼本人が取り仕切る茶番劇のようにして進み、1925年の4月に処刑が行われました。

更にハールマンの脳は、その構造を知る研究材料として科学者たちに保存されることになりました。このことは1925年4月17日付のロンドン・エキスプレスの紙面で『ヴァンパイアの頭脳、科学のために保存を検討中』という見出しで報道されました。

 

ペーター・キュルテン

1929年から1931年のわずか3年間に29名もを殺害し、デュッセルドルフのヴァンパイアとして恐れられたのがペーター・キュルテン(1883年~1931年)です。彼は19世紀のロンドンを震撼させた切り裂きジャックの手口を真似た方法で殺人を行い、犯行後にはジャック同様に遺体の在処を示唆する手紙を警察へ送りました。

なかなか尻尾を掴ませないことから捜査は難航しましたが、1930年にマリア・ブトリーズという娘が殺害される寸前で逃げることに成功し、この顛末を友人に向けた手紙に記したのです。奇しくもこの手紙が宛所不明で警察に回送され、この内容に興味を覚えた警察官たちの捜査によってキュルテンの家が判明したといいます。

キュルテンは1931年にケルンの刑務所でギロチンの刑に処されましたが、刑の執行前に『誰も私を理解することはできない』という言葉を遺したそうです。

彼は犯行時に被害者の血をすすったり、血が流れるのを見ることに性的な興奮を覚えたということが記録に残っています。キュルテンのような性的嗜好は現代では血液嗜好症・ヘマトフィリアと呼ばれる一種の精神疾患とされていますが、当時はそのような研究が進んでいなかったのです。

 

ジョン・ジョージ・ヘイ

『ロンドンのヴァンパイア』『20世紀のヴァンパイア』『酸の殺人鬼』と呼ばれて20世紀半ばのロンドンを震撼させたのがジョン・ジョージ・ヘイ(1910年~1949年)です。

1944年から1949年の5年間に9人の命を奪ったジョン・ヘイは、自分の犯行を露見させないために被害者の遺体を硫酸の入ったドラム缶に入れて溶かし、証拠隠滅を図ったといいます。しかも犠牲になった9名は通り魔的、無差別的に選ばれたのではなく、ジョン・ヘイと近しい間の者も多くいました。

 

ヴァンパイアの末裔

引用:http://outwoodcommunityvideo.co.uk

狂信的なキリスト教家庭で抑圧されて育った彼が、自身の血への異常な欲求に気付いたのは12歳の頃でした。金属製のヘアブラシで自身の手を切ってしまった際に、止血をしようと傷口を舐めていると突然自分が人間の血液を糧にするヴァンパイアの末裔なのだという啓示を受けたというのです。

しかしこの時の彼の血に対する欲求は、まだ自身でコントロールできるものでした。ジョン・ヘイの人生を変えたのは彼が戦時下で英国防空隊に勤務していた時のある事件でした。

赤十字の看護師とともに働いていた勤務地が爆撃に合い、なんとか隠れることができたもののつい先刻まで一緒に働いていた看護師が逃げ遅れて命を落としたのを見た時、生育環境もあってキリスト教や神を絶対のものと信じていたジョン・ヘイの中でこれまでの価値観が崩れたのです。

 

永遠の命を得る

ジョン・ヘイは自宅の地下を“アトリエ”として、ここで殺人を行っていました。彼のアトリエには硫酸入りの金属製の槽があり、そこで遺体を処理した後に下水へ流していたといいます。

最初の被害者は当時働いていた遊興施設の上司でした。ノイローゼ気味であった上司に相談相手として信頼を得て、ごく自然に自宅に彼を招き入れて地下のアトリエへと誘導しました。

そして油断しきった相手を撲殺した後にその血をすすったといいます。この時に今まで感じたことのない幸福感に包まれたジョン・ヘイは次々と殺人に手を染めていき、犠牲者の筆跡を真似た手紙を親族に送るなどして自分に嫌疑が掛かるのを巧みに避けました。

しかし1949年2月に、ロンドンのホテルで親しくなった女性を言葉巧みに騙して知人の工場に連れていき拳銃で殺害した際に、遂にホテルの従業員に不審に思われるのです。既に遺体を硫酸で処理した後のジョン・ヘイはホテルの従業員とともに被害者の失踪届を提出しに行きました。

そして同様に言動を不審に感じた警察によりアトリエの捜索が行われ、下水まで徹底的に調べることで骨など遺体の一部が発見されたのです。

ジョン・ヘイは裁判にかけられた後に1949年8月にイギリスのワンズワース刑務所で絞首刑に処されました。彼は遺言として自分の衣服をマダム・タッソーの蝋人形館に寄付すると記しました。そして蝋人形として蝋人形館に飾られるという形で永遠の命を得たのです。

 

まとめ

人間の血を欲しがるという衝動は酷く猟奇的に感じられますが、ペーター・キュルテンのようにヘマトフィリアを発症している患者は現在のアメリカにも5万人は存在するといわれています。

現代の吸血鬼とも称される彼らは普通の生活を送りながら同じ嗜好を持つグループやカップルで定期的に互いの血液を飲んで欲求を満たしており、情報交換などもできるようになったことから、かつてのように血液への衝動が原因で犯罪に至るケースは少なくなったとされています。



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