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【本物】中世に実在した19人の魔女

日本の社会では「魔女」という言葉は「美魔女」や「東洋の魔女」などといった用法で広く受け入れられています。

ですが魔女の発祥であるヨーロッパやアメリカでは魔女と言う言葉は特別な意味合いを持っています。

歴史や宗教、風俗とも絡み合い、かつて多くの女性が魔女として認定されてきました。

今回はかつて実在した魔女について紹介します。

 

アリス・キテラ & ペトロニーラ・ディ・ミーズ

引用元:http://www.kilkennycityonline.com/

アリス・キテラはアイルランドで初めて魔女としての疑いをかけられた人物です。

アイルランドのキルケニーという土地に生まれ、ウィリアム・アウトロー、アダム・ルブラン、リチャード・ド・ヴァレ、サー・ジャン・ル・ポアと生涯に4度結婚したのですが、いずれもすぐに死別してしまい、そのたびにアリスは財産を増やしました。

そのためにアリスとアリスと親しい者は反キリスト、悪魔信仰、黒魔術の行使などの嫌疑をかけられてしまいました。

1324年には当時のオッソリー司教区のリチャード・ド・レドリーによって魔女として認定され、アリスの使用人であったペトロニーラ・ディ・ミーズが逮捕され、当時かけられていた嫌疑のすべてを認めました。

これは激しい尋問によるもので、信憑性は薄いですがペトロニーラは「アリスは自分よりも何倍も優れた魔女である」と供述しています。

アリスはイギリスへと逃亡し、その後の行方は分かりません。

ペトロニーラは1324年にむち打ちで処刑されました。

現在もアイルランドのキルケニーには、アリス・キテラが住んでいたという、キルケニーで一番古い家が「キテラーズ・イン」として残されています。

 

マザー・シプトン

引用元:https://www.crystalinks.com/

マザー・シプトンは、本名をアーシュラ・サウセイルという、15世紀から16世紀にかけて活動していた占い師です。

彼女はイギリスでも名高い予言者として知られており、彼女の死後にリチャード・ヘッドという人物によって出版された『マザー・シプトンの生涯と死』にその予言の多くが記されています。

マザー・シプトンの予言の中で最も代表的なものは「馬のない車両が行き、事故が世界を悲嘆に満たすだろう。世界中を思考が瞬く間に飛び行くだろう」で始まる散文的なもので、近代化に交通機関と通信技術の発展を示しています。

ですがこれは19世紀の創作であるとされており、『マザー・シプトンの生涯と死』にも記されていません。

彼女はイギリス・ヨークシャーのネアズバラに生まれましたが、出生の際には雷鳴が轟き、硫黄の匂いが立ち込めたと言われています。

容貌はひどく醜く、悪魔の子とも言われていたそうです。

1512年には大工のトビー・シプトンと結婚し、生涯にわたって多くの予言を残しました。

ただマザー・シプトンの生涯はリチャード・ヘッドによる脚色が多く、実際のところは不明な点が多く残されています。

マザー・シプトンの生まれたとされるネアズバラには、今も「マザー・シプトンの洞窟」という洞窟があります。

 

アグネス・サンプソン

引用元:https://66.media.tumblr.com/

1590年、スコットランドのイーストロージアンでノースバーウィック魔女裁判が発生しました。

当時、スコットランド王ジェームズ6世はデンマークのコペンハーゲンへ向かい、デンマーク王クリスチャン4世の妹アン王女と結婚しました。

しかしその帰りに嵐に遭い、数週間ノルウェーへ逗留することになってしまいます。

この嵐を魔女が招いたとしてデンマークで魔女裁判が行われ、アンナ・コリングスという女性が共犯者の名前とともに嵐を招いたこと、悪魔を召喚したことを自白しました。

そのため同様にスコットランドでも魔女裁判が開かれました。

ノースバーウィック魔女裁判では100人以上の女性に魔女の疑いがかけられ、尋問を受けました。

アグネス・サンプソンもそのひとりです。

アグネスは「キースの賢明な妻」と呼ばれる助産師で、信仰療法に精通していました。

当初は魔女の疑いを否認していましたがジェームズ6世の前で激しい拷問に遭い、200人の魔女と共にサバトへ参加したことを供述し、1591年に火あぶりによって処刑されました。

スコットランドのエディンバラにあるホリールード宮殿には、今も処刑されたアグネス・サンプソンの幽霊が出ると言われています。

 

マリ・ダスピルクエット

引用元:https://www.teepublic.com/

マリ・ダスピルクエットは1570年ごろにフランスのアンダイエで魔女裁判にかけられた女性です。

彼女は他の魔女とは違い、心の底から魔女だったと言われており、7歳のころからサバトへ通ったそうです。

マリは自由自在に空を飛ぶことができ、山羊の頭をした「バフォメット」という悪魔と接吻をしたと証言しています。

 

ビディ・アーリー

引用元:https://irishamerica.com/

ビディ・アーリーは19世紀のアイルランドのクレア州フィークルという街で活動していたハーバリストです。

ビディ(Biddy)というのは「家政婦」という意味の愛称で、本名はブリジット・エレン・アーリーと言います。

アイルランドに伝わる伝統的な薬草療法を伝えていましたが、カトリック司祭の方針に反して活動を続けていたほか、家族に伝わる民間療法にまつわる神秘主義を疎まれ、1865年に魔女の疑いで告発されました。

現在もフィークルにはビディ・アーリーの住んでいた小屋が残されており、硬貨を置いておくと幸福が訪れると言われています。

 

エルヴィラ

16世紀のスペインで、エルヴィラという女性が魔女裁判にかけられ、拷問に遭いました。

そのとき、拷問官と交わした会話が記録に残されています。

それが以下のものです。

「裁判官様、何を言ったらいいのか教えてください。私がどんなことをしたのか、私には全く身に覚えがありません。分からないのです」

「カトリックに背くことをしたであろう、おまえがしたことを詳しく言え」

「何を申し上げてよいのか。ああ、許してください。そうです。いたしました。なんでもいたしました。ですから、縄を緩めてください。でないと、腕が折れてしまいます、お願い」

エルヴィラの受けた仕打ちは魔女裁判の中では決して珍しいものではありません。

当時のヨーロッパではエルヴィラと同等の仕打ちを受け、苦痛に耐えかねてありもしないような罪を自白する例は少なくありませんでした。

 

メルガ・ビーン

引用元:https://www.findagrave.com/

ドイツではトリアー魔女裁判、ヴュルツブルク魔女裁判、バンベルク魔女裁判、フルダ魔女裁判が4大魔女裁判として挙げられます。

中でもカトリックの改革派であったバルタザール・フォン・ダーンバッハによって、1603年から1605年にかけて行われたフルダ魔女裁判では250人以上の女性が死亡しました。

この犠牲者の中で最も代表的なのがメルガ・ビーンです。

メルガ・ビーンはフルダ市に生まれましたが生涯で3度結婚している中で2度目の結婚のときにフルダを離れ、3度目の結婚の際にフルダへ戻ったところを運悪く魔女裁判に巻き込まれてしまいます。

3人目の夫とメルガの間には14年間子どもに恵まれませんでしたが、投獄されてしばらく経ったのちに、メルガが妊娠していることが発覚します。

そのためメルガは悪魔と性行為を働いて懐妊したと告白を余儀なくされ、1603年に処刑されました。

 

ラ・ヴォワザン

引用元:https://www.ancient-origins.net/

ラ・ヴォワザンは17世紀のフランスで活躍した黒魔術師です。

本名はカトリーヌ・モンヴォワザンといい、宝石商である夫と娘の3人で羽振りの言い生活をしていました。

しかし裏では助産師としての看板を掲げつつ、タロットカードや占星術で未来を占ったり、媚薬や毒薬、避妊薬などを高額で売りつけていました。

更には悪魔崇拝の儀式や黒ミサを取り仕切っていたとも言われています。

当時のフランスではラ・ヴォワザン同様に毒薬を貴族へ売りつけたり、無許可で堕胎を請け負う業者が横行していました。

中でもラ・ヴォワザンは親も同様に毒薬業者を営んでおり、親譲りの技術で頭角を現しました。

フランスでは毒殺事件を取り締まるために、犯人を即刻火あぶりにする「火刑裁判所」を設置し、ラ・ヴォワザンはその最初の犠牲者となりました。

 

マリン・マッツドッター

引用元:https://www.mises.se/

マリン・マッツドッターは、スウェーデンで1668年から1676年の間行われた、魔女裁判の犠牲者です。

彼女が魔女裁判にかけられたのは、娘のマリア・エリックスドッターの影響です。

マリアは何人かの子どもと共にサバトへ参加しました。

マリンもマリアと共にサバトへ参加したことで、魔女裁判にかけられてしまいました。

マリンは母親がフィンランドで魔女であると疑いをかけられてスウェーデンへ逃亡してきた経歴があり、フィンランド語で信仰を学んでいました。

そのためマリンもマリアも魔女裁判で祈りの言葉をうまく言えず、自らの疑いを晴らすことはできませんでした。

マリンは、スウェーデンの魔女裁判で唯一生きたまま火あぶりにされたと言われています。

 

ジョーン・オブ・ナヴァール

引用元:https://www.sbs.com.au/

ジョーン・オブ・ナヴァールは、ナバル王国(イベリア王国北東部の王国)国王カルロス2世の娘であり、イングランド国王ヘンリー4世の王妃です。

ブルターニュ公妃を務めたのち、ヘンリー4世に見初められて1403年に結婚します。

1413年にヘンリー4世に先立たれた後も、継子であるヘンリー5世から寡婦年金を支給されて余生を過ごしていましたが、1419年に当時の国王を呪術を使って殺そうとした疑いで逮捕され、イングランド南部のぺヴンジーという街に幽閉されてしまいました。

 

マンテウッチァ・ディ・フランチェスコ

引用元:https://en.wikipedia.org/

マンテウッチァ・ディ・フランチェスコは15世紀イタリアにいた魔女です。

住んでいた村の名前から「リパビアンカの魔女」と呼ばれます。

1426年まで媚薬や、赤子の血液から精製した軟膏などを売っていたほか、サバトへ参加していたとも言われています。

1428年に魔女裁判にかけられ、処刑されました。

これは数ある魔女裁判の中でも、最も初期のものだと考えられています。

また今日の魔女には「ほうきに乗って空を飛ぶ」というステロタイプがありますが、マンテウッチァ・ディ・フランチェスコは世界で初めて空を飛んだ魔女だとも言われています。

 

モンテスパン侯爵夫人

引用元:https://stat.ameba.jp/

モンテスパン侯爵夫人は、本名をフランソワーズ・アテナイス・ドゥ・ロシュシュアール・ドゥ・モルトゥマールと言い、ルイ14世の公妾のひとりです。

金髪碧眼で豊満な身体をした美女で才気があり、優れた話術とユーモアを有していた一方で苛烈な性格を有していたと言われており、同じく公妾であったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとルイ1世の1番の寵姫の座を奪い合いました。

しかし年齢を重ね、出産を繰り返すうちに容姿が衰え、1番の寵姫の座をマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュに奪われると、マリーを蹴落とすために当時フランスで暗躍していた黒魔術師ラ・ヴォワザンに黒ミサを依頼しました。

同時期、黒魔術師による毒殺事件などが横行していた事態を危惧したルイ14世が火刑裁判所を設置し、真相の究明を進めました。

その結果、自らの公妾であるモンテスパン侯爵夫人が関与していたと判明したために、ルイ14世は自らに累が及ぶことを恐れて火刑裁判所を解散、捜査資料もすべて破棄してしまったと言います。

 

イザボー・シェイネ

イザボー・シェイネは1656年に魔女裁判にかけられ、火刑に処せられたフランスの女性です。

彼女は11歳のころに足を患い、治療のためにドーフィネ地方のモンテリマールという都市の外れにある女性を訪れ、なんと悪魔の力で足を治療してもらったと証言しています。

治療を受けた後、イザボーは自身の足を治した女性に連れられてあちこちで開かれるサバトへ連れて行ったそうです。

また貧しい家に生まれたイザボーは女性から銀貨をもらったそうですが、家に帰ると葉っぱに変わっていたとも証言しています。

 

マリ・ド・サンス

マリ・ド・サンスは17世紀のフランスにいた殺人鬼です。

子どもを狙って生きたままかまどへ投げ込む、獣に食わせるなどの残忍な手段で殺人しています。

猟奇的な手口から魔女として疑いをかけられ、処刑されました。

ただマリ・ド・サンスにはサバトなどへ参加していた形跡はなく、どうやらただの異常な殺人者だったようです。

 

サラ・グッド & サラ・オズボーン & ティテュバ

引用元:https://world-note.com/

1692年3月から1693年5月にかけて、当時イギリスの植民地であったアメリカのマサチューセッツ州、セイラム村(現在のダンバース)で200人もの村人が魔女として告白される、「セイラム魔女裁判」という事件が発生しました。

ヨーロッパで起きた魔女裁判に比べれば規模は小さいですが、当時のセイラム村の宗教的な事情やニューイングランド地方を中心に横行していた魔女信仰を背景とした集団ヒステリーやモラルパニックの引き起こした惨事として歴史的にも名高い事件です。

このセイラム魔女裁判で最初に魔女として疑われたのがサラ・グッドとサラ・オズボーン、そしてティテュバという召使です。

セイラム魔女裁判はエリザベス・パリスとアビゲイル・ウィリアムズという二人の少女が降霊会へ参加した後に、突然わめく、痙攣するなどの異常な行動を取ることがきっかけとなりました。

エリザベス・パリスの父親で判事のサミュエル・パリスが、南米から連れてきた召使のティテュバを尋問し、ブードゥーの妖術を使ったことを自白させています。

更にエリザベスとアビゲイルは尋問によってサラ・グッドとサラ・オズボーンの名前を出しました。

この後、ティテュバが魔女として多くの人の名前を出し、異常な行動が村の内部で広がったことでセイラム魔女裁判が本格化してしまいました。

 

ジャンヌ・ダルク

引用元:https://4travel.jp/

ジャンヌ・ダルクと言えば、言わずと知れたフランス百年戦争の英雄です。

貧しい家に生まれ、神からの啓示を受けてフランス軍に従軍し、フランスの勝利に貢献しています。

ただジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、後にイングランドへ引き渡されました。

そしてジャンヌ・ダルクをよく思わないイングランドの意向により、司教ピエール・コーションによってジャンヌは異端の判決が下され、1431年に火刑に処されました。

つまりジャンヌ・ダルクは魔女として処刑されたのです。

ジャンヌの亡くなった25年後である1456年、復権裁判が行われ、ジャンヌの復権と無罪が証明されています。

1909年には列福、1920年には列聖され、現在ジャンヌ・ダルクはフランスの守護聖人となっています。

まとめ

今回は歴史に実在した魔女を紹介しました。

一口に魔女といっても実際に悪魔信仰や薬物作りに手を染めた者から純粋な被害者まで、多種多様に存在しています。

ただひとつ言えることとしては、今回紹介した魔女はほんの一握りであり、実際に魔女として処刑された女性はこの何百倍も何千倍も存在しているということです。

あくまで当時のヨーロッパの宗教事情が絡むことであり、現代で同じことが言えるケースは少ないでしょうが、魔女裁判を他山の石として同じことを絶対に繰り返さないことが、後世の私たちにできるただひとつの行いでしょう。

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