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世界にある様々な埋葬の習慣の中でも、最も変わったものという印象があるミイラ。
日本では、肉体が存在する限り魂は天国に行かれないという信仰があるため、遺体の処理にはかつては土葬が、そして現在では火葬が用いられてきました。
これは日本の多湿な気候から言ってもやむを得ないことだったのですが、乾燥した土地では死者がいつまでも存在できるようにと盛んにミイラづくりが行われてきました。
ミイラといえばエジプトというイメージがありますが、世界各地に意図して作ったもの、偶然発生した者など様々なミイラが存在し、それぞれの土地の宗教や死生観を色濃く反映しています。
世界各地に残るミイラや、それにまつわる不思議や思想について紹介していきます。
古代エジプトでミイラづくりが盛んだった理由とは?
古代エジプトではミイラのことを「サアエフ(崇高なるもの)」と呼んでおり、彼らにとってミイラづくりとは単なる埋葬の方法ではなかったことが窺えます。
ミイラの起源は定かではありませんが、史上初めて誕生したミイラは砂漠地帯で自然に体内の水分が蒸発して、干からびたものだった、つまり偶然に誕生したものだったのではないかと考えられています。そうなると高温で乾燥した環境の場所、例えばオーストラリアなどでも行き倒れた死者が自然にミイラになり得たはずです。
しかしミイラに対して畏敬の念を感じ、精巧な手法を用いて3000年もの間ミイラを作っていたのは古今東西でエジプトのみ。これは何故なのでしょうか?
引用元:https://news.artnet.com/
古代エジプト人は『死者の書』という死生観と埋葬方法が記された文書を元にミイラづくりを行っており、この文書のルーツとなっているのがオシリス神話です。オシリス神話は以下のような内容となっています。
オシリス王には弟のセト、妹のイシスとネフティスがおり、名君としてエジプトを治めていたもののセトに殺害されて箱に入れられたまま川に投げ捨てられてしまいます。
オシリス王を入れた棺はシリア海岸のビブロスに流れ着き、イシスはオシリス王を復活させて彼との間にホルスという子供を産みます。しかし激高したセトは、今度はオシリス王を殺害した後にバラバラにして、2度と復活しないようにしてしまいます。
するとイシスはオシリス王の体のパーツがある場所1つ1つを訪ねて回り、全てに墓を建立しました。これによりオシリス王は死者の国で復活し、永遠の王となったのでした。
引用元:https://www.ancient-origins.net/
このオシリス神話の中で古代エジプト人が重要視したのが、現世で死んだオシリス王が死者の国で永遠に生きたという点です。死者を正しく埋葬すれば、この神話に基づいて生まれ変わることができ、永遠の命が得られると考えられるようになったのです。
どうしてミイラには包帯が撒かれているの?
引用元:http://education.abc.net.au/
古代エジプトのミイラが全て包帯でぐるぐる巻きにされている理由も、オシリス神話に由来します。オシリス王がセトによってバラバラにされたことで現世での復活が不可能となったため、死後の復活が妨げられないよう、体に欠損がでないように包帯でしっかり遺体を固定したのです。
ちなみにミイラの体に巻き付けてある包帯の長さは、300~400m程度。目や口、耳などや尖った場所は何重にも覆われていたため、合計すると長大になるそうです。
古代エジプトでは魂は3種類あると考えられていた
引用元:http://theunexplainedmysteries.com/
『死者の書』では人間の持つ霊魂は3種類あると考えれられており、その1つ目が「カー」と呼ばれるものです。カーは極めて個人的なもので、人間をつくる神・クヌムがこの世に誕生する人間1人1人に与えるものと考えられています。
2つ目の霊魂が「バー」で、肉体とカーが一体化した時に現れます。最後が「アクー」というもので、これは神と人間を結び付ける役割を持ち、アクーは人間の体内ではなく天に存在するとされます。
人間が死ぬとアクーは朱鷺となって飛び立ち、バーも黒いコウノトリになって遺体から抜け出すと考えられており、カーも自然消滅してしまうのですが、肉体を保存することでカーを閉じ込めておけばバーも遠くには飛んでいかれないと古代エジプト人は考えたのです。
そのため火葬や土葬のように遺体が朽ちてしまったり焼失してしまう埋葬方法ではなく、できるだけ生前と同じ姿が保てるようにとミイラづくりが行われるようになりました。
ミイラの存在はどのようにして知れ渡ったのか?
英語ではミイラのことを「マミー」と言いますが、これはアラビア語の「ムミア」という単語に由来しています。ムミアというのは高山から産出される天然アスファルトの一種・瀝青のことで、ムミアは中世のアラビアでは万能薬として重宝されていました。
しかし、本物のムミアは産出する鉱山が少ないうえ採掘できる量も少なく、希少なために価格も非常に効果でした。なかなか手に入らないことも相まって「幻の秘薬」としてムミアの評判はヨーロッパ中に広がっていったのですが、この時に注目されたのがミイラだったのです。
エジプトにはムミアを使って包帯を巻きつけた死体が大量にあり、ここからムミアが抽出できるとの噂がまことしやかに流れはじめ、ヨーロッパ中がミイラに注目をするようになりました。
実際にミイラに包帯を巻く際に使用されていたのは樹脂だったのですが、薬の原料としてエジプトからミイラを輸入する国が増えていったのです。
引用元:https://www.smithsonianmag.com/
そして「ムミア」が転じて「マミー」という呼称が誕生したのですが、死体から樹脂だけを搾り取るのは大変だったために、次第にミイラを丸ごと砕いたものが粉薬として流通するようになりました。この不気味な薬は文献にも数多く登場しており、『ロミオとジュリエット』『マクベス』の中でも名前が見られます。
一方でフランスの外科医が残した文献の中には「ムミアを飲むと激しい吐き気に襲われる。元の痛みから気がそれるため、万能薬として過大評価を受けているのではないか?」との考察も見られ、その効果のほどは疑問視されていたようです。
しかし、薬の原材料としてのミイラの需要は高く、16世紀の後半には処刑や病気で亡くなった人の死体をかき集めて、ミイラを作って卸していた業者まであったと言います。
引用元:https://www.yomeishu.co.jp/
ちなみに日本でも江戸時代にはミイラが薬として売られており、日本独自の「ミイラ」という呼称も、香料のモツヤクジュを意味するポルトガル語の「ミルラ」から来ています。
世界最古のミイラとインカ帝国
引用元:https://www.apec2016.pe/
ミイラ=エジプトというイメージが強いですが、実は世界最古のミイラが発見されたのはエジプトではなく南米のアンデス地域です。
アンデス山脈の西側に連なるペルーなどの沿岸砂漠地帯はミイラづくりに最適の環境であり、この地ではインカ帝国による独自のミイラづくりが行われてきました。
インカ帝国ではミイラは死者ではなく生者として扱われており、人々は家族や大切な人が亡くなった時、死者の肉体をミイラとして残し、生前と同じように話しかけて一緒に暮らしていたのです。
現存する最古のミイラは紀元前7000年前のもの
現存しているミイラの中で世界最古のものと考えられているのが、ペルーとの国境に近いチリのアタカマ砂漠から出土したミイラで、およそ7000年前に作られたものと見られています。
この地域では紀元前7000年前から1000年前にチンチョロ文化という文明が栄えており、ミイラ作りも盛んに行われていました。チンチョロ文化ではミイラ作りに変遷が見られ、紀元前5000年ほど前に作られたものは「ブラックミイラ」と呼ばれて手足が切り離され、表面が炭化したように黒ずんだものでした。
引用元:https://archeowiesci.pl/
そしてもう少し時代が下り、紀元前3000年ほどになると手足が切り離されていない「レッドミイラ」と呼ばれるものが主流となり、さらに紀元前2000年前になると「泥塗ミイラ」と呼ばれる内臓が残った状態のミイラが作られるようになりました。
チンチョロのミイラには子供や赤ん坊のものが多く、これは病や飢餓で早くに我が子を失くしてしまった親が、少しでも長くそばにいられるようにとの思いを込めて作ったものと考えられています。そして、チンチョロのミイラ作りそのものが子供を想う親の気持ちから始まったものではないのか?と考察されているのです。
スペイン人はインカ帝国のミイラ技術を恐れていた?
アンデスには文字という文化がなく、エジプトにおける『死者の書』のようなミイラづくりの文献は存在していません。しかし薬草知識が進んでいたために、薬草を利用してまるで生きている時のように瑞々しい皮膚を保ったミイラなども存在していたそうで、これらの保存状態の良いミイラは皇帝や皇族などの身分の高い人に限られていました。
そしてミイラとなった皇帝は、生前と同じような権力を持ちました。このような文化は世界に類がなく、インカ帝国に攻め込んできたスペイン人はミイラを王として祀る文化に恐怖を覚えたと言います。そのためスペイン人たちは王族たちのミイラを略奪し、壊していったために、インカ帝国の皇帝のミイラで現存しているものは一体もありません。
しかしスペインの年代記にはインカ帝国の王族のミイラが「まるで生きているようだった」ことや、インカ帝国が王族のミイラを配置していくことで領土を拡大していたこと、それに伴って身内の権力争いが絶えなかったことなどを記されています。
インカ帝国滅亡の陰にミイラあり?
インカ帝国では死んでミイラになった先代の皇帝の方が、現在の皇帝よりも権力を持っていると定められていたために、新しい皇帝は領土も財産も相続することができず、皇帝として権力を誇るためには自分で新しい領土を探す必要がありました。
ミイラになった皇帝が少ない時にはそれでも何とかなっていたのですが、世代を重ねるにつれてミイラ皇帝の数は膨れ上がり、その側近が権力を持つ、側近同士で権力争いをするといったことが各地で勃発して、国として機能しなくなっていったのです。
この状況に耐えられなくなった皇帝ワスカル(在位1527年-1532年)は、それまでのミイラの財産を没収してミイラ皇帝たちを墓に葬る決意をしました。
このことはインカ帝国に大きな混乱を巻き起こし、そこにつけこんで侵入してきたのがスペインだったのです。ミイラを巡って混乱していな強大なインカ帝国はあっけなくスペインの手に落ち、民衆の心の拠り所であったミイラ皇帝達も全て焼き払われてしまい、2度と信仰心が復活しないようにと灰まで処分されたと言います。
この時に処分されたのは王族のミイラだけではなく、国中のあらゆるミイラが焼かれ、家族や親しい人のミイラを隠そうとした人々も処刑されたそうです。
中南米の変わったミイラ
引用元:https://www.museum.or.jp/
古代エジプトのミイラが足を伸ばした姿勢でいるのに対し、アンデスで発見されたミイラは両ひざを顎の下に抱え込み、体を丸めた姿勢で保存されています。
これはインカ帝国には古代エジプトのように頑強な棺を作る技術がなかったためと考えられており、麻袋などにミイラを包んでも破損や劣化が少なかったのが、この屈曲位の姿勢だったのではないかと考察されています。
エジプトに並んでミイラづくりが盛んであった中南米では変わったミイラも複数発掘されているのですが、そのうちの2体を紹介していきます。
生贄となった「太陽処女」のミイラ
引用元:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/
上の画像の少女のミイラは、1999年にチリとアルゼンチンの国境近くに位置するユヤイヤコ山の頂上付近で発掘されたものです。標高6700mという呼吸さえ困難な高山域で発見された3体の子供ミイラは、コールドスリープをしているような自然な状態をしており、考古学者たちに衝撃を与えました。
これらの子供ミイラたちはインカ帝国で生贄に使われていたもので、インカ帝国では人々は山の上の聖なる場所に生贄を捧げていたことが、スペインの年代記によって明らかになっています。
生贄には10代前半くらいまでの子供が選ばれ、金銀や衣服、食べ物などを供物として一緒に捧げていました。
そして後の研究で画像の少女は15歳でミイラになり、胃の中には食べ物が残っており、満腹の状態でコカの葉やトウモロコシで作られたビールを飲まされて、眠るように息を引き取ったことが判明しています。
少女と共に発見された他の2体のミイラは上の画像の左右のものなのですが、向かって右側のミイラが黒焦げになっているのは、埋葬された後に雷が落ちて焼け焦げたものと見られています。
この3体の中で最も生贄として重要だったのが中央の少女と考えられており、彼女は動物の皮と熱帯の鳥の羽で作られた真っ白な帽子を被っていました。これは身分が高い人しか身につけられない装飾品で、少女が皇帝に仕え、「太陽の処女」と呼ばれる特別な身分を与えられていたと予測されています。
3体の生贄が身に着けていたものは発見された場所の周辺では入手できないものばかりで、インカ帝国の都であったクスコやチチカカ湖周辺で作られていた特別なものと見られています。
つまり子供たちは周辺に住んでいた子から選ばれたのではなく、生贄にするためにわざわざ都から運ばれてきたのです。そうすることで地方にも中央の権力を固辞し、広大な領土を保持できたものと考えられています。
アンデスの変形頭蓋ミイラ
アンデスのミイラにはその頭蓋骨に著しい特徴を持つものが見られ、これはまだ頭蓋骨が柔らかい成長期に、人為的な力を加えて変形させたものと考えられています。
人類学者たちは頭の形状などを計測して他の部族との系統を研究しましたが、このような風習を持つ部族のミイラは他の集団には見られません。
アンデスでは頭蓋骨を変形させる器具をつけたまま埋葬された子供のミイラも発見されており、意図は不明ですが、虐待のために行われていたのではなく、何らかの信仰に基づいて「良いこと」と信じられて行われていたものと考えられています。
一説にはアンデスでは猫科の動物が神聖視されていたため、尖った耳に近づけるように幼児の頭蓋骨を変形させ、健康や幸せを祈ったのではないかとも目されています。
引用元:https://www.ancient-origins.net/
また縦に伸ばした頭蓋骨は高地から発見されており、海沿いの低地では頭蓋骨を前後から押しつぶしたような扁平型が発掘されているなど場所によって変形頭蓋にも「良い」とされるバリエーションがあったものと見られています。
ヨーロッパにおけるミイラ
ヨーロッパにもミイラは存在し、中でもイタリアは骸骨で寺院を装飾するなど少し変わったミイラ文化を持っています。
エジプトやアンデスと違い、イタリアのミイラは意図的に作ったものではなく、乾燥して湿度の低い気候が自然にミイラを生み出したものと考えられており、イタリアでは遺体を8ヶ月の間屋外に放置しておけば、ミイラができあがるとも言われているのです。
そんなヨーロッパ随一のミイラ大国であるイタリアの中で、最も有名なのがシチリア島の中心都市・パレルモにあるカプチン修道院の地下納骨堂に収められているロザリア・ロンバルトのミイラです。
1920年代に僅か2歳で肺炎により他界した少女のミイラであり、彼女はカプチン修道院最後の遺体でもあります。防腐処理をしているものの腐敗が見られてきたため、現在では温度と湿度が安定したガラスの棺に納められています。
カプチン修道院の他にもヨーロッパにはミイラや人骨を装飾として使っている寺院は多く、これらには「世俗的な虚栄心や外見へのこだわりが、如何に無意味であるか」「人間は誰しも死すべき存在である」といった宗教観が反映されているのだそうです。
ヨーロッパの変わったミイラ
意図的に作られたもの以外にも、ヨーロッパでは行き倒れた遺体や殺害された遺体などが湿地帯で自然にミイラ化したものも数多く発見されており、中には驚くほど状態の良いものも複数あります。
悲惨な死を遂げたことが分かるものや、どうしてこんなところに人が?と思われるような場所で発見されたミイラなど、ヨーロッパの変わったミイラを紹介していきます。
ウコクの王女
引用元:https://www.dailykos.com/
ロシア連邦のシベリア地区、モンゴルとの境界に位置するアルタイ共和国のパジリク古墳で1993年に発掘されたのが、約2500年前に作られたと考えられているウコクの王女と呼ばれるミイラです。
ウコクの王女が発掘されたのはシベリアの永久凍土で、発見当時、2人の男性と鞍をつけた6頭の馬と共に埋葬されていました。髪の毛は剃られており馬の毛で作られたかつらを装着しており、推定年齢は25歳から28歳で身長は162cm。死因は癌と考えられています。
体は腐敗して白骨化していますが、気候のおかげで肩と左腕は白骨化しておらず、鷹の嘴と羊の角を持つ神話上の生物の刺青が見られます。
そのため本当は王女ではなく、シャーマンだったのでは?という意見も。このウコクの女王が発見されてからアルタイ共和国では不吉なことが継続して起きており、女王の呪いではないかとも囁かれています。
ミイラを輸送するヘリコプターが原因不明のエンジン停止を起こす、近隣の村で急激に自殺者が増える、伝染病が流行する、そして2003年にはマグニチュード7のチュヤ地震が発生しており、これらが女王を発掘したことによる祟りだと噂されているのです。
不朽体・聖ジータ
聖ジータはメイドの守護聖人として知られており、12歳の時にメイドとして働きはじめ、50年近くも献身的に主人一家に仕えたと言われています。
彼女が1272年に60歳で亡くなった時には街の教会の鐘が勝手に鳴り出したなど、様々な奇跡が起きたとの言い伝えあるそうです。聖ジータの棺が発見されたのは1580年に入ってからだったのですが、遺体はほとんど劣化しておらず、1696年に聖ジータは成人の列に加えられました。
カトリック教会にはキリストが遺した物を「聖遺物」としてあがめる風習がありますが、その中でも成人の亡骸は最上位とされ、聖人の遺体は「不朽体」と見なされて、来世を先取りした稀有な存在として信仰の対象となります。
聖ジータの遺体は亡くなってから数百年を経ても保存状態が極めてよく、カトリック教会の考え方によると腐敗しないのは神聖さの証なのだとか。
ちなみに不朽体は普通のミイラと違って防腐処理や加工はご法度とされており、あくまでも自然の状態でありながら朽ちていないことが大切なのだそうです。
イデガール
イデガールはオランダのイデ村近郊にある泥炭湿地で発見されたミイラで、紀元前1世紀頃に16歳前後で死亡したものと見られています。発見されたのは1897年で、当初の保存状態は良かったものの採掘者が損傷を与えてしまったために、残っているのは頭部と胴、右手、両脚のみです。
さらに歯や髪の毛の大部分は村人によって引き抜かれ、売られてしまっており、亡くなった後も悲劇に見舞われたミイラと言えます。
身長は推定137cmと小さく、脊椎側弯症を患っていたことも判明しており、首に羊毛で織られたケープを巻いていること、鎖骨付近に刺し傷が見られることから、処刑されたか生贄にされたかのどちらかだと目されています。
イデガールは2000年代前半に世界中の博物館を回りましたが、死因や外観があまりにも悲惨なことからカナダでは展示がされなかったという過去も持ちます。
引用元:https://humanremainsfromthhdawnofhistory.weebly.com/
イデガールのように泥炭湿地で発見されたミイラの数は多く、これらの自然にできたミイラの特徴として、強酸性の水や低温、酸素の欠乏といった自然環境に晒されていたために人骨の保存状態は良くないものの、皮膚や内臓がそのまま残っているという点が挙げられます。
これら湿地ミイラの多くが鉄器時代のもので、ごく最近のものでは第二次世界大戦中のものまで見られるそうです。
特に鉄器時代の湿地ミイラは裸で外傷がある状態で発見されることが大半で、生贄として使用されたか、罪を犯したために処刑されて泥炭に埋められたものと見られています。また、湿地ミイラは発掘時に状態が良くても大気に触れると急速に分解が進んでしまうため、保管が難しく、綺麗な状態で保存されているものは全世界で合計53体のみです。
日本の即身仏
生きながら土の中に入り、永遠の魂を肉体に宿したとされる日本の即身仏。和製ミイラとも言える即身仏ですが、死後に特別な処理を行う外国のミイラと違い、即身仏になるためには生前から厳しい修行に耐える必要があったとされます。
即身仏のルーツには弘法大師空海が唱えた真言密教があり、厳しい修行を積み重ねることで「その身が即ち仏になる」という教えに従って即身仏になろうとする修験者が生まれました。
即身仏になるためには、まず山にこもり、1000日から3000日の間、穀物を口にせずに草や花、果実だけで生活をするという「木食行」という修業を積みます。当然ですが木食行を続けると体はやせ細り、脂肪も水分も体内から焼失していきます。そして最後に漆の樹液を飲んで嘔吐を繰り返し、完全に水分を絞り出すのだそうです。
死期が迫ると修験者は土中に組まれた石室に入り、水以外は口にせずに絶命するまで無言で祈り続けます。そして絶命したことが確認されると暫く石室で遺体を乾燥させた後、掘り返されて即身仏として祀られるようになるのです。
ここまで苦しい思いをして修験者が即身仏になろうとしたのには理由があり、肉体と精神の永遠を獲得することで、民衆を病や飢饉から救うことができると信じられていたからでした。即身仏は自分の存在を永久に残したいという我欲のためでは無く、衆生救済を祈願したものであり、それ故に現存する十数体の即身仏は今でも多くの人々の尊敬と信仰を集めているのです。
先住民族とミイラ
上の画像はアマゾン川上流に住んでいる少数民族、ヒバローが作った干し首です。ヒバローのような首狩り族にとって敵の部族の長を殺害した後、その首を狩ってミイラ化する風習は珍しいものではなく、昔から南米や東南アジアではよく見られました。
人間の頭部には霊が宿ると信じられていたために、それが漏れ出さないように目や口が堅く縫い合わされているのが特徴です。
引用元:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/
また、パプアニューギニアの奥地に存在するアンガ族には先祖崇拝の一環として燻製ミイラを作る風習があり、アンガでは人が亡くなると遺体の膝やひじに切れ込みを入れて脂肪を抜き取り、遺族たちに与えることで亡くなった人物の力が譲渡されると信じられてきました。
脂を抜いた後の遺体は小屋に安置されて皮膚と内臓が乾燥されるまで燻され、朽ち果てるまで村を見渡せる崖に並べられ、侵入者を監視する役割を果たすと言います。この風習は1975年にパプアニューギニアが独立した際にカトリック教会によって禁じられましたが、まだ未開の奥地では続けられているそうです。
まとめ
古代エジプトは当時、世界一進んだ医療を持つ国であったと言われています。
これはエジプト人が意識的に医学を発展させたのではなく、どうやったらより綺麗なミイラが効率よく作れるか?ということを研究した結果、付随して人間の体の仕組みを学ぶことになり、医学が発展したとの説もあります。
この頃のエジプトにはメソポタミアなどから病人が訪れ、さらにエジプトの医者が近隣諸国へ治療の旅に出ていたとの記録も残っており、永遠に生きたいという願望から生まれたミイラづくりの技術が見ず知らずの人の命を繋ぐのに役立っていたのかと考えると、生と死の不思議な連鎖と縁を感じずにはいられません。