要塞とは、敵の攻撃を阻むための構造物です。
戦争を有利に進める為に戦略的に重要な地点に築かれるものであり、歴史上数多くの要塞が作られてきました。
その中には短期間のうちに制圧されてしまったものもあれば、敵の攻撃を阻み続けた強力な要塞もありました。
そこで今回は、多くの要塞の中で最強の防御力を誇る10の要塞を紹介します。
ヴェルダン要塞
ヴェルダンは、フランスとドイツを結ぶ街道上にある交通の要衝です。第一次世界大戦の前から堡塁や砲台で守られてきました。
第一次世界大戦では、フランス軍はヴェルダンを中心に周辺にドゥオモン要塞、ヴォー要塞を初めとして多くの堡塁を建設し、要塞帯としていました。
これらの要塞地帯を巡る戦いが、ヴェルダンの戦いです。要塞をフランス軍とドイツ軍で奪い、奪い返される激戦が繰り広げられました。
ヴェルダンの戦いでは、フランス軍のパリ総司令部が「1日に1個師団が消えていく」と嘆いたほどの激しい戦いでした。
最終的にはフランス軍の勝利に終わりましたが、10ヶ月間ほどの攻防戦で、フランス軍36万2000人、ドイツ軍33万6000人もの死傷者を出したといわれています。
熊本城
引用:https://kumamoto-guide.jp
加藤清正が築城したとされる熊本城は、難攻不落で知られています。
西南戦争では熊本城は官軍の拠点となりました。そのため、西郷隆盛の率いる薩軍の重要な攻撃目標とされました。
この城にこもった官軍の熊本鎮台4000に対して、薩軍はなんと3倍以上の14000人で包囲し強襲をかけましたが、薩軍の攻撃を幾度も跳ね返し、官軍は熊本城を守りきりました。
そして、かけつけてきた官軍の第一旅団と第二旅団によって熊本城は解囲されました。
現在の歩兵でも、自動小銃や無反動砲など携行できる武器だけでは熊本城を攻めようとしても攻めあぐねるのではないかともいわれているほど堅固な名城です。
高射砲塔
引用:http://www.thefewgoodmen.com/
高射砲塔とは、第二次世界大戦中にドイツ空軍が、連合国軍の空爆から重要な都市を守るために建築した要塞です。
その性質上、鉄筋コンクリートで作られた非常に強固な施設です。
あまりにも頑丈すぎるため、戦後も解体できずに、ハンブルクやウィーンなどにいくつか残っています。
予想される連合国軍の航空攻撃を阻むためには、莫大な高射砲陣地を設ける必要があり、現実的ではないことから考案されました。
高層ビルの屋上に、強力な高射砲陣地を設け、高所という地形を生かして、広い射界を確保し、効率的な防空を図ることが目的です。
内部には、民間人の避難施設や、文化財の保護施設なども設けられていました。
気になる戦果ですが、実際のところは、連合国軍の爆撃機の数が、あまりにも膨大だったため、大きな戦果を上げることはできませんでした。
本来の防空任務では活躍できませんでしたが、第二次世界大戦末期のベルリン攻防戦では、ティーアガルデンに設けられた高射砲塔が活躍しました。
ベルリンに侵入してきたソビエト陸軍に対して、高射砲塔の上部に設置された12.8cm砲が攻撃を加えたのです。
これによって、ソビエト陸軍の侵攻を遅らせたと言われています。
マジノ線
マジノ線は、ドイツとの国境沿いに作られたフランス軍の要塞線です。建設を推し進めたフランス陸軍大臣の名前を冠して命名されました。
マジノ線では、100以上の要塞を15[km]おきに建設し、それぞれを地下鉄で繋げていました。
各要塞には、隠蔽型とよばれる砲撃時には地上からせり上がって砲身が露出、そうでないときには地下に隠す構造の砲塔や、対戦車壕、対戦車障害物、鉄条網で防御していました。
要塞は、350[cm]以上もの厚さのコンクリートで覆われ、発電室や弾火薬庫など重要区画は地下数十[m]に作られ、堅固に守られていました。
ドイツ軍は、マジノ線をおそれ正面からの攻撃を避け、アルデンヌの森を突破して、フランス国境を越えました。
第二次世界大戦末期には、押し寄せる連合軍をくい止めようと、ドイツ軍によってマジノ線が利用されましたが、長期にわたって連合軍を阻止することは出来ませんでした。
ベティオ島(タラワ環礁)
引用:http://www.ibiblio.org/
日本軍によってキリバス共和国のタラワ環礁ベティオ島に作られた要塞です。
戦略的に重要な拠点であるギルバート諸島の防備のために建設されました。
ベティオ島全体に及ぶ地下陣地、ヤシの木などの現地調達資材による半地下式のトーチカ、そして各トーチカを結ぶ地下坑道、米軍の上陸用舟艇の接近を阻む木材でできた障害物から構成されています。
各トーチカの射線は連携しており、資格が全くなかったと言われています。
ここの防備司令官であった柴崎恵次少将は、100万の敵兵にも耐えられると言ったそうです。
ベティオ島を守る日本軍はおよそ5000人、対して米軍の侵攻勢力は35000人と7倍にも及びました。これだけの兵力差にもかかわらず、米軍は大損害を出し、「恐怖のタラワ」と呼ばれるようになりました。
ペリリュー島
ペリリュー島は、第二次世界大戦当時、日本軍にとって重要な地域である内南洋を守るための拠点のひとつとして整備されていました。
日本軍は、コンクリートに匹敵する強度をもつ珊瑚礁で出来たペリリュー島の地質を利用し、500以上にもなる天然の洞窟を坑道で連絡させ、島の周囲の浅瀬には杭を打ち、機雷を敷設して、島全体を要塞化していました。
このペリリュー島を中川州男大佐が率いる陸軍第十四師団第二歩兵連隊・第十四師団戦車隊・第十五連隊第三大隊を基幹とする部隊10500人が守っていました。対する米軍は、第1海兵師団を中心とする50000人弱の勢力でした。
ペリリュー島を巡る戦いは、アメリカ海兵隊第一海兵師団が唯一壊滅したことでも知られています。それほどまでの激戦だったのですね。
硫黄島
硫黄島は、「いおうじま」とよばれますが、正しくは「いおうとう」です。
硫黄島は、栗林忠道中将指揮する小笠原兵団によって、米軍の上陸に先立ち、住民を疎開させた上で、地下陣地を構築し全島が要塞化されました。
日本国内であるにも拘らず、米軍の圧倒的な戦力により、航空優勢・海上優勢を奪われ、増援はおろか補給もままならず、脱出も出来ない文字通りの孤島で、日本軍将兵は、国内にいる妻や子どもを守るため、水も食糧も乏しい中、最後の一兵まで守り抜きました。
硫黄島の戦いでは、擂鉢山に掲げられた星条旗が有名ですが、星条旗が掲げられた翌朝には日章旗に変わっている等、激戦のエピソードに事欠きません。
日本軍は、米軍に日本軍を上回る損害を与え、日本国内の防備を整える時間を文字通り血で稼いだのでした。
シンガポール要塞
シンガポールは、太平洋、インド洋を結ぶ重要拠点で、オーストラリアとの交通線でもありました。
そこで、イギリスはこの重要なシンガポールを防備するべく要塞を建設しました。いわゆるシンガポール要塞です。
シンガポール要塞は、極めて強固な要塞とされ、第二次世界大戦当時、ジブラルタルや真珠湾に匹敵するといわれていました。
第一次世界大戦後の1920年代から建設が始まり、軍港、空軍基地が設置されました。
当初は、海側からの上陸を防ぐ構造になっていたのですが、その後マレー半島からの地上軍の侵攻を阻止すべく、シンガポールの北側にあるジョホール水道の南側に多数のトーチカが設けられるようになり、海を向いていた要塞砲の一部をこちら側に向きを変え、ジョホール水道からの侵入を阻んでいました。
旅順要塞
旅順は、地形上港湾に適しており、19世紀後半に清国が北洋艦隊を配置したことから軍港となりました。そして、陸路からの攻撃を防ぐために旅順要塞が建設されました。
日清戦争では日本軍に短時間で攻略されましたが、三国干渉の結果、清に返還され、ロシアが租借し、旅順要塞の強化が行なわれました。
日露戦争では、バルチック艦隊の来航前に旅順に立てこもる太平洋艦隊を撃滅する必要に迫られた日本軍によって、旅順要塞が再び攻撃されることとなりました。
なかでも、第三軍による203高地の戦いは非常に激しい戦いであったと記録されています。
4ヶ月にわたる激戦の末、ロシア軍守備隊が降伏し、日本軍によって占領されました。
ブレスト=リトフスク要塞
ブレスト=リトフスク要塞は、かつてのソ連、現在のベラルーシ共和国のポーランド国境沿いの街ブレストに建設された要塞です。
18世紀に建築され、19世紀に改装された歴史を持つレンガ造りの古い要塞ですが、一部はコンクリートに改装されていました。
この要塞に備えられた砲がドイツ軍の交通線を脅かしており、ドイツ軍としてはなんとしても攻略する必要がありました。
1941年6月、約1週間にわたる攻撃を受けたソ連軍は、降伏することなく徹底的に抵抗し、要塞内の各堡塁には、文字通り最後の1兵まで戦ったところもあったそうです。
第二世界大戦後には、ドイツ軍に激しく抵抗したことから、ソ連政府によって『英雄要塞』の照合が授けられました。
まとめ
いかがでしたか?世界にはかつてこのような要塞が、各地の拠点を死守していたのです。
要塞の形は、武器の発達とともに、進歩を重ねていきましたが、航空機の発達と核兵器の登場が要塞の価値を過去のものとし、新たに要塞が作られることは無くなりました。
過去に作られた要塞のいくつ下は現存し、中には博物館になっているところもあります。
要塞の攻防戦の歴史を見つめることは、平和の尊さを感じることにつながることでしょう。