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最強の日本刀!歴史に名を残す名刀16選

日本国内のみならず、諸外国からも「世界に冠たる刀剣」と評価される日本刀。

現在は美術品としてのみ制作や所有が認められている日本刀ですが、切れ味や耐久性に優れ、武用に特化した名刀とはどのようなものなのでしょうか?

有名な武将が愛した名刀や逸話を持つものなど平安時代から幕末までに打たれた日本刀の中から最強の名に相応しいものを、時代ごとに紹介していきます。

 

平安時代の名刀

奈良時代以前の刀剣は、権力の象徴や祭事に使われることが多く、日本刀が誕生したのは平安時代以降、東北地方で蝦夷と戦争状態になったことがきっかけと考えられています。

蝦夷か使用していた蕨手刀と呼ばれる刀剣が日本刀の元となったという説もあり、平安時代中期に誕生した毛抜形太刀が最古の日本刀とされています。

「突く」から「斬る」というスタイルに用途を変化させたという、毛抜形太刀以降に生まれた平安時代の最強の名刀を紹介していきます。

 

童子切安綱

童子切安綱の刀身が打たれたのは10~11世紀。刀長は80.0㎝、反りは2.7cm、大原安綱作の太刀です。

童子切安綱の最初の所有者は源頼光であり、頼光が一条天皇から依頼されて大江山に巣喰っていた鬼の大将・酒呑童子を討伐した際、酒呑童子の首を落としたという逸話から「童子切」という名がついたとされます。

頼光の死後は足利将軍家に渡り、豊臣秀吉、徳川家と著名な武将の元へと引き継がれ、江戸時代の末期には津山松平家へと伝わり家宝となりました。そして戦後は文化庁が買い取り、現在は国立博物館に所蔵されています。

童子切安綱は「刀剣の東の横綱」と称され、腰反りは高く刃文はかすかに乱れて金筋が入るという勇壮な外見を持ち、天下五剣の一振りにも数えられています。

 

大包平

大包平は平安時代の備前鍛冶、包平の作であり、刃長は89.2cm、反りは3.5cmの太刀。現存する全ての日本刀の中で最高傑作、名刀の中の名刀とも評価され、童子切安綱と並んで「西の横綱」と呼ばれる刀剣です。

引用元:https://www.tnm.jp/

徳川吉宗が本阿弥に命じて書かせた『享保名物帳』にも大包平の名が見られ、号の由来は寸長き故に名づく、刀身の大きさから付けられたと説明されています。しかしながら並外れた傑作であることから「大いなる」と敬意をこめて大包平との名がついたというのが通説です。

長大で反りが高く身幅が広い豪壮な姿ながら重ねが薄く重さは1.35kgしかなく、構えた時のバランスの良さも大包平が名刀と呼ばれる所以です。

所有者の池田輝政は「一国に代えがたい」と言う程この刀を大切にし、池田家では正月の具足初めの儀に大包平を飾るという習わしがあったとされます。

第二次世界大戦後にはマッカーサー元帥が大包平に惚れ込んで買い求めようとしたところ、「自由の女神と交換するのであればお譲りする」と返されて入手を断念したという逸話も残されています。(この逸話の真偽は不明)

引用元:https://www.tnm.jp/

大包平の地肌は小板目、刃文は丁字と小乱れが混ざり、実戦で折れることがないような猪首鉢となっています。

 

鬼切丸

鬼切丸は大原安綱(古備前派の国綱の作との説もあり)の刀剣で、刃長85.4㎝、反りが3.7cmの太刀です。その名の通り鬼を斬ったという伝承が伝わる刀で、源義沖が鍛えさせたと言われています。

引用元:https://www.kyoto-np.co.jp/

鬼切丸は元々は髭切と呼ばれており、これは罪人の死体で試し斬りをしたところ髭まで切れたことにちなみます。この名前が鬼切りに変化するのは源頼光が髭切を受け継いだ時のことで、「四天王」で知られる家臣の渡辺綱に一条大宮までの遣いを頼んだ際に髭切を持たせ、この道中で渡辺綱が鬼・茨木童子の腕を髭切で斬り落としたという逸話が元とされます。

鬼切丸は源氏にとって代々の家宝とされた刀剣で、重代に渡って受け継がれて源平合戦の折にも源氏を勝利に導いたとされる名刀です。

鎌倉時代に入ると将軍家に奉られ、新田義貞の元に渡った後に最上家に伝来。この時に刀剣のコレクターとしても知られる豊臣秀吉が鬼切丸を所望したのですが最上家は手放さず、大正に入ってから北野天満宮に奉納されました。

鬼切丸には「獅子の子」「友切」という名前も持ち、幾度も名が変わっています。友切と呼ばれていた頃は源氏に負け戦が続き、八幡大菩薩から友切の名が元凶になっていることを指摘されて名を髭切に戻したところ源氏は勢いを戻して、源平合戦で勝利を収めたとの伝承も持ちます。

 

三日月宗近

三日月宗近は平安時代の刀匠、三条宗近の作で、刀長80.0cm、反り2.7cmの太刀です。日本刀が成立し始めた初期に打たれた刀剣とされ、腰高で反りが緩やかなのが特徴とされます。

引用元:https://twinavi.jp/

三日月宗近は天下五剣に数えられる刀剣で、その中でも最も美しいとの呼び声が高いことで知られます。刃の縁にそってグラデーションのように三日月型の打ち除けが入り、光にかざすと三日月が浮かび上がることから名前が付けられました。

三日月宗近は宝剣、不殺の刀とも言われていますが、剣豪将軍とも呼ばれた足利義輝が二条御所で殺害された際、迫りくる刺客と戦った時に振るったとの話もあります。

義輝の死後、三日月宗近は謀反を企てた三好三人衆の1人、三好政康の手に渡って豊臣秀吉に献上されました。秀吉は戦場に三日月宗近を持ち出すことはなく、秘蔵の太刀として大切に保管。

秀吉の死後は正室の寧々の元へ、さらに寧々の死後は徳川秀忠へと権力者の元を渡り、第二次世界大戦後は個人所有となった後に1992年に東京国立博物館に寄贈されました。

 

大典太光世

大典太光世は平安時代に活躍した刀匠、三池派の三池光世の作と考えられていますが、刃長が66.0cmと短く身幅が広いという武人好みの外見をしており、このような太刀が重用されたのは鎌倉時代以降であることから、正確な作刀時期に関しては未だに議論がされています。

足利将軍家の家宝として尊氏の代から受け継がれた大典太光世は、室町幕府最後の将軍である15代将軍から秀吉に献上され、その後に前田利家に贈られました。

原因不明の病に苦しむ前田家四女の豪姫の枕元に秀吉から借りていた大典太を置くと病が治り、喜んだ利家が大典太を秀吉に返すと何故か豪姫の容態がまた悪化、困った利家は再度大典太を借りるということを三度ほど繰り返したところで、秀吉が前田家に大典太を譲る決心をしたと言われています。

霊刀としても知られる大典太ですが切れ味も鋭く、江戸時代には小塚原刑場で行われた試し斬りで、重ねた罪人の死体を一振りで2体真っ二つにし、3体目の背骨でやっと止まったという逸話を持つ名刀です。現在は前田家ゆかりの前田行徳会に所蔵され、天下五剣の1つに数えられています。

 

鎌倉・室町時代の名刀

10世紀までは戦場では弓が主戦力とされていました。しかし平安時代後期から室町時代後期にかけて日本刀が存在を示し始め、実践の場でも盛んに使用されるようになっていきました。

そして馬上でも扱いやすいように太刀はより長大化し、斬撃武器としての機能を保つための工夫が見られるようになったのです。

 

鬼丸国綱

鬼丸国綱は粟田口国綱の作で、刀長85.2cm、反り3.3cmの鎌倉時代に打たれた太刀です。鬼を冠するこの太刀の名の由来は、鎌倉時代の初代執権であった北条時政のある伝承にちなみます。

引用元:https://www.tokugawa-art-museum.jp/

鎌倉時代の要職にあった時政は、ある時原因不明の病に苦しめられて祈祷をしても医者に診せても一向に良くならずに苦しんでいました。そんな折、時政の夢の中に1人の老人が現われて「自分は太刀の国綱である。自分についた錆を落とせば、病の原因である鬼を斬って見せよう」と話し、半信半疑のまま国綱の錆を落とすと立てかけていた太刀が突然倒れ、火鉢についていた鬼の装飾を切り落としたと言います。

そしてその後、正に憑き物が落ちたように時政の病が治ったことから、この刀は「鬼丸」と呼ばれるようになったのです。

鬼丸は北条家の守護刀として伝えられた後、新田義貞の元へ移り実戦で振るわれ、義貞が戦死した後は足利家に献上されました。そして三日月宗近同様に二条御所の戦いでも振るわれたと言い、それからも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人の手から手に受け継がれていったのです。

鬼丸国綱は江戸時代の古美術目録『集古十種』にも紹介されており、天下五剣にも数えられています。また、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公である長谷川平蔵が所持している刀も、鬼丸のイメージを引用したのか国綱の作という設定です。

 

にっかり青江

にっかり青江は青江貞次の作で、刀長60.3cm、反り1.2㎝、鎌倉時代末期に打たれたとされます。この刀を打った青江貞次は、後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めたほどの腕の持ち主です。

引用元:https://www.museum.or.jp/

ある男が夜道で若い女と遭遇した際、女は腕に抱いた子供とともに「にっかり」と不気味な笑みを浮かべてにじり寄ってきたため、男はこれは物の怪が化けたものに違いないと思って一刀両断。

翌日同じ道を通るとなんと切り落とされた石灯籠が転がっていたという逸話が、刀の格付け帳『享保名物帳』にあり、この灯篭を両断した刀がにっかり青江だとされています。

史実ではこの刀は柴田家から丹羽長秀に渡り、そこから豊臣秀吉に伝来した後に秀頼から京極高次の手に渡り、丸亀城にて京極家の至宝として守られてきました。

もともとは刀長75.75cmの太刀であったものが3度も磨き上げられた後に今の姿となり、現在は脇差に分類されています。

引用元:https://www.my-kagawa.jp/

京極家が居城としていた丸亀城は「呪われた城」と囁かれ、奇怪な現象が多く発生する、この城に入った家は必ずお家断絶の末路を辿るという伝承があったのですが、にっかり青江がこの城に来てからは何事も起こらず、京極家も廃れることはありませんでした。

不思議な逸話を多く残すにっかり青江ですが、江戸時代には本阿弥によって「値段がつけられない程の極上の刀」と鑑定された、一級の名刀です。

 

戦国時代の名刀

戦国時代に入ると槍が登場したことで、日本刀は再び補助兵器として使用されるようになりました。この頃になると鎧の形状も変化し、小さな札を繋ぎ合わせた伝統的な構造から鉄板をはぎ合わせた鉄製の桶側胴になったことで、刀を貫通させるのが困難になったのです。

このことから斬撃よりも急所を狙った刺突ができる槍が戦場での主戦力となり、日本刀も太刀から打刀へと姿を変えました。刃を上にして鞘を帯に差し込む打刀は、抜いてからの一挙動で相手を斬りつけることができるため、武士の日常の武器として愛用されるようになったのです。

 

へし切長谷部

へし切長谷部は長谷部派の初代・長谷部国重の作とされ、刃長64.8cm、反り1.0cmの打刀です。もとは刀長90cmを越す大太刀だったものに大磨上げを施して現在の姿となりました。

引用元:https://www.asahi.com/

「へし切」とは「圧し切」とも表記され、圧力をかけて切ることを意味します。この名の由来となったのは所有者であった織田信長であり、観内という茶坊主が客人に無礼を働いた際、激高した信長が観内が身を隠した御前を収める棚ごと彼を叩き切ったことにちなみます。

この逸話は信長の熾烈な性格と、へし切長谷部の驚異的な切れ味を言い伝える逸話として語り継がれました。

後にへし切は黒田官兵衛の手に渡り、黒田家では「圧切御刀」と呼んで代々受け継ぎ、現在は黒田家の領土であった福岡にある福岡市博物館に所蔵されています。

 

義元左文字

義元左文字は室町時代に打たれた左文字源慶の作で、刃長は67.0cm、反りは1.6cm。銘として刻まれているのは作者の名ではなく、持ち主であった織田信長の名前という変わった特徴を持ちます。

引用元:https://www.tokugawa-art-museum.jp/

義元左文字の別名は宗三左文字と言い、最初の持ち主とされる三好宗三から名前が付けられました。宗三は宿敵の細川高国を打ち取った後、加勢をしてくれた武田信虎にお礼として義元左文字を贈り、信虎は駿河との友好関係を結ぶために今川義元にこの刀を渡したとされます。

そして今川家が桶狭間の戦いで織田信長に敗れた際に義元左文字も信長の手に渡り、名前を刻まれました。この刀剣はもともとは約78.8cmあったとされますが、信長が自分の手に合うように研磨した結果、現在の姿になったと言われています。

信長が本能寺の変で死亡した後は松尾神社新官の娘が義元左文字を持って逃げ、しばらくしてから秀吉に献上されました。秀吉の死後は秀頼が徳川家康に贈り、両家の関係が悪化して大坂の陣が勃発した際に徳川家康は義元左文字を帯刀して出陣したです。

その後は明暦の大火で焼失したものの、幕府の御用鍛冶であった越前康嗣に焼き直されてよみがえり、明治に入ると信長を祀った建勲神社に寄贈されて収蔵されることとなりました。

 

村正

村正は室町時代に打たれた千子村正の作で、刀長は68.8cm、妖刀として数々の逸話を持つことで知られます。

引用元:https://www.tokugawa-art-museum.jp/

新井白石の筆記に「村正が打ちし刀故あって当家に忌むことあり」などとも記され、徳川家の凶事と因縁が深いとされる村正。

村正は家康の祖父の松平清康が家臣の阿部正豊に暗殺された森山崩れで使われた刀であり、家康の父の松平広忠が反逆した家臣に切られた時の刀でもあります。さらに家康の嫡男である松平信康が信長に命じられて切腹した際、介錯に使われたのも村正でした。

また家康自身も幼い頃に村正作の短刀で、関ヶ原の戦いの後には村正作の槍で怪我を負っており、これらのことから村正の刀剣は呪われていると囁かれるようになったのです。

しかし実際には家康が村正の刀を嫌っていたということはなく、千子村正の村正はよく切れると三河の武士の間では評判であり、三河に本拠地があった徳川家が村正の作品を愛用し、また村正がらみの事件や事故が数多く起こったことも無理からぬ話だと現在では言われています。

家康自身も不吉だと囁かれても村正を嫌ったという事実はなく、尾張徳川家には家康所持の村正が形見として伝来してきました。それが現在も徳川美術館に収蔵されている村正であり、一説には村正の刀剣の切れ味を愛した家康が、他の者の手に渡らないように妖刀であるとの噂話を流したとも言われています。

 

真柄太刀

真柄太刀は室町時代に打たれた青江派作の刀剣で、刃長221.5cm、反り3.4cmという規格外の大きさを誇ります。このサイズの刀剣は通常、祭祀用として使われましたが、真柄太刀は実戦で使われた可能性が高いと考えられているのです。

引用元:http://tomato.cliff.jp/

真柄太刀は合戦に使われた日本最大級の刀剣とされ、刀身に添樋をかくことで強度を保ちつつ軽量化する工夫が凝らされており、実際の重さは4.5kgと見た目よりもずっと軽く作られています。

さらにこの大太刀の持ち主の真柄直隆は身長が210cmもあったという偉丈夫であり、近江の浅井長政と同盟を組んで織田・徳川連合軍と戦い、姉川の戦いで討ち死にをしています。

この最後の合戦で勇壮に真柄太刀を振るっている様子が江戸時代の儒学者である小瀬甫庵が記した『信長記』に登場し、真柄太刀が振り回された跡地の約70~90m四方は鋤を入れて耕したように何もなくなっていたと記されているのです。

『信長記』は脚色された記述も多いことから書かれていることの全てが真実とは限りませんが、朝倉家の記録にも直隆が大太刀を使っていたことが書かれており、姉川合戦図屏風には真柄太刀と本田忠勝の蜻蛉切が一騎打ちを繰り広げるシーンも描かれています。

 

同田貫正国

同田貫正国は安土桃山時代に九州肥後で制作された同田貫正国の作で、刃長69.2cm、反り1.7cmの刀剣で、装飾性に乏しいながら、完全に無駄を排したことで、折れず曲がらずの頑強さを持つことで知られています。

引用元:http://ohmura-study.net/

この刀剣に惚れ込んで愛用したのが、肥後の大名である加藤清正です。合戦を熟知した清正が認めたのが同田貫のシンプルかつ実用的な刀剣で、同田貫派を自らのお抱え刀工に迎えて熊本城の常備刀としたと言います。

清正は家臣から足軽にまで同田貫の刀を装備させ、文禄・慶長の役で清正軍が使用したのも同田貫の刀剣でした。清正の愛刀は初代同田貫とされる国吉の作で、現在は熊本城を有する熊本市県の県立美術館に所蔵されています。

明治19年に明治天皇の御前で行われた「鉢試し」でも、同田貫派の業次の刀だけが明珍の兜に深さ1.5cmの傷をつける「兜割」に成功しており、同田貫の質実剛健さを知らしめました。

 

蜻蛉切

蜻蛉切は室町時代に打たれた槍で、三河文珠派の藤原正真の作です。刃長は43.7cm、茎長は55.6cmであり、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなど、生涯で57回もの出陣を果たしながら、かすり傷1つ負ったことが無いという戦国最強の武将・本多忠勝の愛槍であったことで知られます。

引用元:https://webarchives.tnm.jp/

蜻蛉切の中央にある溝には不動明王が持つ三鈷健が刻まれ、全長は最長時で6mはあり、日本で使われた槍の平均の長さが4.5mであることと比較すると、かなり長大であったことが窺えます。

刺突武器である槍には本来切れ味というのは要求されていませんが、蜻蛉切は戦の合間に忠勝が槍を立てて休憩していた時に、穂先に止まった蜻蛉が真っ二つに切れたという逸話を持ちます。この切れ味に感動した忠勝が、愛槍に蜻蛉切という名を与えたのです。

蜻蛉切は切れ味の鋭い刀を作ることで知られた千子村正の一派から派生した三河文殊派の刀工の作であったため、このような驚異的な切れ味を備え持っていたものと考えられています。

忠勝は合戦の地形や状況などに合わせて何度も蜻蛉切の柄の長さを変えており、どんな戦場にも蜻蛉切を携えて挑みました。そして晩年には「槍は自分の力量に合うものが一番良い」として、蜻蛉切の柄を90cmまで切り詰めたのです。

蜻蛉切は日本号、御手杵とともに日本三名槍に数えられ、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

 

幕末以降の名刀

江戸時代に入り、徳川幕府が取り組んだのが秩序の回復と治安の維持でした。これは豊臣時代から続く喧嘩停止令や刀狩令に続くもので、幕府にとっては日本刀の規制による秩序の回復ともいえるものです。

こうして幕府によって定められた武家諸法度の中で、武士の正式な帯刀が大小刀の2本差しとなり、幕府や大名によって長さが定められました。

一方で幕末の政治闘争の中では日本刀は活躍を見せるようになり、外装も腰に差すだけではなく、肩から吊るして小銃と同時に携行できるようになるなど、洋式の軍備が導入された時代に相応しい拵えに変化していったのです。

 

和泉守兼定

和泉守兼定は江戸時代に11代目兼定によって打たれた刀で、刀長70.3cm、反りは1.2cm。新選組の鬼の副長として知られる土方歳三が、最期まで供にした愛刀として知られています。

引用元:https://rekishiplus.com/

11代目兼定は会津藩お抱えの刀工であり、和泉守兼定も新選組を取り立てた会津藩主の松平容保から土方歳三が拝領したもので、他にも数本の刀を新鮮組に収めていることが当時の注文帳から明らかになっています。

土方歳三は鳥羽・伏見の戦いで幕府軍とともに敗走して江戸へ帰還、その後は榎本武揚の艦隊と共に蝦夷地に辿り着き、箱根での激戦を指揮しましたが、1869年に戦死しました。

遺体とともに確認された和泉守兼定には複数の刃こぼれが見られ、柄糸は驚くほど擦り切れていたとされ、土方歳三が使い込んできたということが証明されています。

近藤勇の書簡には「和泉守兼定、二尺八寸(約85cm)」という一文があることから、土方歳三は和泉守兼定を二振り所有していたとの説もありますが、現存するものは最期まで帯刀していた一振りのみで、こちらは土方歳三資料館に収蔵されています。

 

長曽祢虎徹

長曽祢虎徹は江戸時代に長曽祢興里によって作られた刀剣で、刃長70.9cm、反り0.9cm。新選組の局長、近藤勇の愛刀として知られています。

引用元:https://touken-site.com/

新選組が一躍知名度を上げたのは、過激尊攘派のテロを未然に防いだ池田谷事件がきっかけでしたが、この時長曽祢虎徹は折れることなく無事であり、近藤勇は郷里に送った書簡で「虎徹故に候、無事に御座候」と自慢げに報告していました。池田谷事件では沖田総司や永倉新八らの愛刀は使いものにならなくなるほど、熾烈な戦いがあったとされます。

しかし、近藤勇の虎徹は当時から偽物説がささやかれていました。虎徹の刀剣は人気が高かったために偽物が極めて多く、贋作に銘を斬る職人までいたと言います。

近藤勇の愛刀は「四谷正宗」こと源清麿の作品だったのではないかとの憶説もありますが、本人は長曽祢興里の作と信じていました。現在、東京国立博物館に収蔵されている長曽祢虎徹は近藤勇の愛刀とは別のもので、近藤所有だったものは所在不明となっています。

そのため真贋は未だに不明ですが、近藤勇の愛刀が池田谷で浪士を圧倒し、新選組局長の代名詞たる存在感を示したという事実には変わりありません。

 

肥前忠広

肥前忠広は「肥前国忠吉」と五字の銘を切ったことから、五字忠吉との異名を持つ肥前の名工・忠吉の息子の近江大掾忠広の作とされ、寛永年間に作刀されました。

引用元:https://rekishiplus.com/

肥前忠広は幕末の人斬りとして名を馳せた岡田以蔵の愛刀であり、岡田以蔵は佐幕派の人物を数多く暗殺した人物として知られています。1863年に岡田以蔵が脱藩して坂本龍馬の紹介で勝海舟の用心棒となると、肥前忠広を使って刺客から海舟の命を救う働きをしました。

勝海舟は岡田以蔵の剣技について「たちどころに長刀を抜くと、1人の人間を真っ二つに斬った」と回想しています。この時岡田以蔵は坂本龍馬から借りたという肥前忠広を所持しており、本間精一郎の暗殺時にもこの刀を使って切先を破損させたと言われています。

1865年に罪を重ねてきた岡田以蔵は斬首刑に処され、捕縛時に肥前忠広を所持していなかったことから所在、詳細ともに不明となっていますが、実戦で多くの血を吸ったことは間違いないでしょう。

岡田以蔵が所持したものと同じ肥前忠広の銘の刀のうち、江戸時代中期に近江大掾忠広が作出したというものが『懐宝剣尺』の中で最上大業物に指定され、現在では佐賀県立博物館に所蔵されています。

 

まとめ

上で紹介した刀剣の中にも主の死後に行方が分からなくなっている名刀は複数ありますが、第二次世界大戦後にはGHQの刀狩令によって日本国内から膨大な数の刀剣類が海外へ流出したため、他にも現在所在が不明になっている日本刀は少なくありません。

喪失した刀の中で最も有名なものが国宝に指定されていた來国俊が作成したとされる`大太刀・蛍丸であり、他300万本もの刀が大戦後に没収されて行方不明となっています。

この背景には大戦時に戦力の乏しい日本軍の士気を高め、そして薄弱な戦備を補う役目を日本刀が果たした事実があり、戦国の世から武器としては役に立たなかったとの指摘がされることもある日本刀ですが、GHQに没収されたという過去は近代の戦争でも戦力として活躍したことの証とも言えます。



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