祟りと聞くと、とても恐ろしい言葉のように感じるのではないでしょうか。
祟りとは、神様や霊などの超自然的な存在が人間に災いをなすことをいい、昔から人間の力では説明できないような不可解な事件が起こった時、それは祟りのせいだとされてきました。
よく似た言葉に呪いがありますが、祟りは神様からの天罰など、何か前兆のようなものがあり、起こることが予見できたり、あるいは起こっても仕方のないようなことをしていた場合をいいます。
これに対して呪いのほうは、自分がやましいことをしていなくても、逆恨みで誰かから呪いを受けるということもあるというわけです。
日本では、昔から非業の死を遂げ、この世に未練をもった人の霊は怨霊となって生者に災いをもたらすと考えられてきました。
他にも、全国には祟り地と呼ばれ、立ち入るとよくないことが起きるとされている土地があり、ほかにも動物が祟ることもあるとされてきました。
ここでは、日本の有名な祟りや世界で起きた祟りにまつわる出来事を紹介していきます。
平将門の祟り
引用:rekishi-memo.net
平将門(たいらのまさかど)は平安時代の人物で、関東地方において朝廷からの独立を目指して「平将門の乱」と呼ばれる反乱を起こし、自らを「新皇」と称しました。
やがて討ち取られた将門ですが、現在でも、東京には将門の首塚があり、日本史においても屈指の強力な怨霊として知られています。
関東の騒乱
将門は、その名の通り平氏一門の人間であり、平氏を起こした桓武天皇の孫である高望王の孫にあたる人物とされます。
幼少期については不明な部分が多いのですが、将門の父である良将は下総国(現在の千葉県)に領地をもっていたといい、将門もそのあたりに勢力を有していたと考えられます。
将門は15歳の時に平安京へと上洛し、藤原氏と主従関係を結んでいます。
やがて関東に戻った将門は、叔父である平国香(たいらのくにか)や常陸国の国司である源護(みなもとのまもる)との、後に平将門の乱へとつながる争いに巻き込まれることになります。
このときの争いについても、正確なことは不明なのですが、長子相続が確立していなかった時代に領地の分割についてもめたというものや、将門が源護と領地をめぐって争いになったというものなど諸説あります。
国香は源護の娘を妻にしていて、理由はどうあれ、中央の役人である源護を味方につけた国香と将門との間になんらかの争いが起きたのは確かなようで、このとき将門は戦いを起こして国香を討ち取っています。
このとき、将門は源護が中央に告訴したしたため、都へと召喚され尋問も受けています。
平将門の乱
引用:www.sankei.com
さらに、将門は武蔵国の国司として赴任した興世王(おきよおう)と武蔵国の国守との争いにも介入するようになり、結果として国府を陥落させるという事件を起こしました。
将門はこの戦いにあまり乗り気ではなかったとされますが、国府側から宣戦布告され、占領後には朝廷から任じられた役人である証の印綬を没収しています。
これによって、将門は朝廷から反逆者と見なされるようになってしまいます。
将門は兵を挙げて関東一円を掌握し、「新皇」を名乗りますが、朝廷でも将門討伐のため藤原忠文が征夷大将軍に任じられました。
これを受けて、後に奥州藤原氏と呼ばれる藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が将門の従兄弟にあたる平貞盛と組んで挙兵しました。
将門は軍略に長けた秀郷との戦に敗れ、追い詰められてしまいます。
自らの所領で最後の戦いに臨んだ将門は自ら馬を駆って陣頭指揮を執りますが、飛んできた矢が額に当たり、あえなく討ち死にしました。
将門の首は都へ運ばれ、晒しものにされますが、この時から、将門の怨霊伝説が始まるのです。
将門の首塚
引用:www.travel.co.jp
将門の首は京都の七条河原にさらされていましたが、何か月たっても腐ることはなく、目をかっと見開き、歯を食いしばった恐ろしい形相をしていたといいます。
ちなみに、晒し首が日本の歴史上初めて確認されるのが、将門の事例だといい、それだけ将門が朝廷にとっての脅威だったことがわかります。
引用:mag.japaaan.com
ある歌人がいつまでも腐敗しない将門の首を歌に詠んだところ、首は突然笑い出し、地面が揺れ稲妻が鳴り、「俺の胴体はどこだ。体をつけてもう一度戦をしてやる」と叫び出しました。
その声は毎晩響き、そして、ある夜白い光とともに東の方角へと飛び立ちました。
関東を目指した将門の首が飛んできたのが、現在将門の首塚がある東京都千代田区大手町だといわれています。
かつては将門の祟りだといわれる疫病が流行したこともあったといいますが、神田明神が鎮魂を行うと鎮まりました。
しかし、この首塚だけは、これまで移転の計画などがあるたびに事故が起きて中止になっており、将門の祟りだとされています。
将門の首塚は江戸時代から有名な霊的スポットとして人々の畏怖を集めていました。
関東大震災後に、東京の再開発のためこの場所に大蔵省の仮庁舎を建てようとした時には工事関係者だけでなく省の職員や大蔵大臣である早速整爾(はやみせいじ)まで、関係者14名が次々と不審な死を遂げ、将門の祟りが囁かれるようになり、仮庁舎は取り壊されることになりました。
戦後にはGHQが首塚のある場所に駐車場を作ろうとしたところ、工事の最中にブルドーザーが横転し、乗っていた日本人の運転手が死亡する事件もありました。
昔、爆笑問題の太田光さんが首塚に蹴りを入れたところ、仕事がまったくこなくなったという噂がありますが、これも果たして将門の祟りでしょうか。
この周囲のビルは塚を見下ろす位置に窓を設けてはいけない、管理職などが塚に背を向けるような机の配置にしてはいけない、などという話も存在します。
これに関してはあくまで噂であり、そういった事実はないのだそうですが、このような話がまことしやかに伝わっているほどに、現代においても将門の怨念が人々で語り継がれているのです。
菅原道真の祟り
引用:awa-otoko.hatenablog.com
菅原道真といえば、大宰府天満宮をはじめとして全国の天満宮に祀られており、学問の神様として有名です。
実は、菅原道真は日本史上屈指の怨霊として大きな祟りをもたらしたことでも有名で、平将門、崇徳上皇とともに日本三大怨霊の1つとしても数えられます。
天満宮の天神様として信仰されるようになったのも、もともとは道真の怨霊を鎮めるためのものでした。
神童から朝廷のエリートへ
道真は現在の奈良県奈良市菅原町のあたりで生まれたといわれます。
子どものころから大変頭が良く、神童と呼ばれており、特に詩歌に対する才能に優れていました。
もともと菅原家は学問によって朝廷に仕える家柄で、道真も18歳で歴史学を修める文章生(もんじょうのしょう)となり、やがて学者として最高位である文章博士に就任します。
宇多天皇からも信頼されていた道真は、兵部省補や式部省補など朝廷の要職を歴任し、公家の中でも最高幹部として国政を担う公卿の地位を与えられ、ついには右大臣にまで登りつめます。
道真は遣唐使にも選ばれ、当時滅亡寸前で混乱していた唐の情勢を現地で見て、遣唐使の廃止を提言したことでも知られます。
このような出世は道真の家格を考えれば異例のことであり、それだけ天皇の信頼が厚かったのとともに、宇多天皇には道真を使って当時権力をふるっていた藤原氏を牽制しようという思惑がありました。
特に、当時力をつけ左大臣になっていた藤原時平は道真の強力なライバルでした。
朝廷のなかには、道真に対する嫉妬と有力貴族の反発が渦巻き、心配した周りの人々からはこのあたりで引退してあとは余生を楽しまれてはどうかといわれたこともありましたが、道真が従うことはありませんでした。
陥れられた道真
やがて、周囲の不安が現実になるときがやってきました。
どこからともなく、道真が当時の醍醐天皇を廃位し、自らの娘婿である斉世親王を天皇の地位に付けようとしているという嘘の密告が行われ、これによって道真は官僚としての地位を奪われ、九州の大宰府へと左遷されることになりました。
天皇位を譲り上皇となっていた宇多上皇は、なんとか道真を助けようとしますが、醍醐天皇はとりあわず、道真の順風満帆の人生も閉ざされてしまいます。
道真の子供らも同じく流刑にされ、道真は大宰府で衣食もやっとという厳しい生活をしながら、自分の潔白が証明されることを祈っていましたが、その祈りも空しく道真は59歳で大宰府の地で死去します。
飛梅伝説
引用:ja.wikipedia.org
道真は京の都を去るときに、「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(現代語訳:梅の花よ、春風が吹いたら匂いを寄越してくれ。主人が不在でも春を忘れるな。)」という一首の和歌を詠みました。
その梅が、一夜にして京の邸宅から大宰府にある道真の屋敷の庭へと飛んできたというのが有名な飛梅伝説です。
この梅の木は、今も福岡の大宰府天満宮で見ることができます。
雷神・道真
引用:mag.japaaan.com
道真の死後、京では異変が相次ぎました。
まず、道真のライバルだった藤原時平が39歳の若さで病死すると、続いて道真失脚事件の首謀者の1人と目される源光(みなもとのひかる)が狩りの途中に沼で溺死します。
さらに、醍醐天皇の皇子、その息子である皇太孫が次々と病死しました。
極めつけは、延長8年(930年)、当時干ばつに見舞われていた都で雨乞いを行うための朝議の最中、内裏内の清涼殿に落雷が起こり、朝廷要職を含め多くの人間が死傷しました。
ある者は服に引火し、ある者は顔を、ある者は髪を焼かれ、もだえ苦しみ、悲惨な最期だったといわれます。
この事件にショックを受けた醍醐天皇は、体調を崩し、三か月後に亡くなりました。
この一連の不幸を受けて、朝廷内ではこれはきっと道真の怨霊による祟りだという噂が広まりました。
道真の怨霊が雷神とされるのも、この清涼殿落雷事件がもとになっています。
怖い目に遭った時、「くわばらくわばら」といいますが、この「くわばら」とは道真の領地であった「桑原」のことであり、「道真様、ここはあなたの領地の桑原です。どうかここには雷を落とさないでください」という意味で、もとは雷除けのまじないでしたが、今では一般的な魔除けの言葉として使われています。
朝廷では、道真の怨霊を鎮めるため、京都北野の北野天満宮を建立し、道真の死去した地である大宰府には醍醐天皇の勅命により太宰府天満宮が建てられました。
この後も、100年ほどはなにか災いがあるたびに道真の怨霊の仕業と恐れられたといいますが、やがて祟りの記憶が風化していくにつれ、もともと学問に秀でていた道真を神様として祀る天神信仰が広まるようになりました。
現代でも天満宮といえば受験生の合格祈願の神社としてその名を知られ、菅原道真も怨霊ではなく、学問の神様として人々に親しまれています。
崇徳上皇の祟り
引用:kotobank.jp
崇徳天皇は平安後期に生まれた人物で、第75代目の天皇となった人物ですが、同時に日本の歴史においても有数の強大な怨霊としても知られています。
もともとは天皇だった人物ですが、上皇になってからの期間も長く、こちらで呼ばれることも多いため、ここでも崇徳上皇の呼び方を使用します。
日本の天皇の中には崇徳天皇のように名前に徳のつく天皇が何人かいますが、壇ノ浦で平家とともに海に身を投げた安徳天皇のようにいずれも非業の死を遂げています。
天皇の名前は死後におくられるものであるため、儒教において最高とされる「徳」の字をつけることにより、不幸な生涯を送った天皇に対する鎮魂と慰霊の意味合いがあると考えられます。
ちなみに、現役の天皇は今上天皇と呼ばれ、現在の天皇陛下を令和天皇と呼ぶことはありません。
ではなぜ、崇徳上皇のような高貴な生まれの人物が怨霊として恐れられ、鎮魂されるようになったのでしょうか、その生涯をみていきましょう。
不遇な上皇
崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、父の譲位により、わずか5歳で天皇になりました。
順風満帆な人生にみえるようですが、崇徳天皇の本当の父親は祖父である白河法皇ではないかという疑惑があり、このために生涯父からは疎まれていたといわれます。
幼くて即位した崇徳天皇が政治を行えるとは思えませんが、この時代は一度位を退いた天皇が上皇(太上天皇)となって政治の実権を握り院政が行われており、鳥羽天皇も上皇として大きな権力を握っていました。
そして、鳥羽上皇が寵愛する藤原得子(美福門院)に子供ができると、上皇は崇徳天皇に譲位を迫ります。
結局、崇徳天皇は退位して崇徳上皇(崇徳院)と呼ばれるようになり、得子の子が近衛天皇として即位します。
上皇になった後も相変わらず権力を握っているのは父である鳥羽法皇(出家した上皇)で、崇徳上皇は冷遇されたままでした。
病弱だった近衛天皇が17歳の若さで亡くなると、崇徳上皇の子である重仁親王が天皇になるチャンスが回ってきます。
しかし、ここでも後継に決まったのは藤原得子の養子である守仁親王で、成人するまでの間はその父が後白河天皇として即位することになりました。
保元の乱
引用:ja.wikipedia.org
この跡取り争いで朝廷内は崇徳派と後白河派に割れ、火種がくすぶることになりました。
そして、まもなく崇徳上皇の父である鳥羽法皇が病に倒れて亡くなります。
このときも、崇徳上皇は見舞いにいったにもかかわらず、対面することを許されず、さらに鳥羽法皇は「自分の遺体は崇徳院にみせるな」と言い残したため、さすがの崇徳上皇もこれには怒りを露わにします。
その後、都で崇徳上皇と左大臣の藤原頼長が手を組んで反乱を起こすために軍を動かそうとしているという噂が流れます。
崇徳上皇には身に覚えのないことでしたが、身の危険を感じたため、崇徳上皇は側近とともに邸宅を脱出します。
すると、間の悪いことに、翌日には藤原頼長が実際に兵を挙げて上洛し、崇徳上皇の元にも側近の武士たちが集まり、疑惑は完全に事実となってしまいます。
朝廷は崇徳上皇を反逆者とみなし、平清盛ら武士たちを動員し、崇徳上皇のいる白河北殿に夜襲をかけさせました。
これが保元の乱と呼ばれる政変で、崇徳上皇の兵力は朝廷と比べてあまりにも少ないもので、崇徳方はなすすべもなく敗走しました。
讃岐への流刑
崇徳上皇は投降を決意し、髪を剃って出家し、すべての権力を放棄する意志をみせようとしますが、この時代は崇徳上皇の父である鳥羽法皇が出家後も権力をもっていたように、出家したからといって見逃してもらえる保証はありませんでした。
崇徳上皇は、讃岐に流刑になり、二度と京の土を踏むことなく、この地で生涯を終えます。
讃岐で軟禁生活を送っていた崇徳上皇は保元の乱の戦没者を供養するために写経を完成させ、これを京の寺に収めてもらうために朝廷に差し出しましたが、後白河法皇は「これには呪いが込められているに違いない」といって拒否し、写経は突き返されました。
これに激怒した崇徳上皇は、舌を噛み切ってその血で写経に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書きつけました。
その後の崇徳上皇は髪も爪も切らずに伸ばし放題で、まるで人間とは思えない天狗か夜叉のような姿になり、亡くなるまでそのままだったといいます。
怨霊伝説
引用:rekijin.com
崇徳上皇は、死後も長い間罪人として扱われたままでした。
しかし、崇徳上皇の死後数年がたつと、都では安元の大火や反乱計画である鹿ケ谷の陰謀など、災害や社会不安が相次ぎ、治安は乱れ、源平合戦のような国を揺るがす動乱の時代がはじまります。
さらに、後白河法皇に近い人物が次々となくなり、これらが崇徳上皇の怨霊の仕業ではないかといわれるようになりました。
後白河法皇は、保元の乱の戦場跡に崇徳院廟を設置するなど鎮魂につとめました。
江戸時代ごろには崇徳上皇には怨霊としてのイメージが定着しており、上田秋成の『雨月物語』では、崇徳上皇の陵墓である「白峰陵」で西行法師が、都に不幸を起こそうとしている崇徳上皇の怨霊と対面する場面が描かれています。
ほかにも多くの創作物で崇徳上皇は怨霊や妖怪の親玉として描かれています。
引用:www.oiran-taiken.com
そのためか、崇徳上皇に対しては近代に入ってからも、明治天皇が崇徳上皇の御霊を京都に帰還させるために白峰神社を建立したり、昭和天皇が崇徳陵で式年祭を行ったりと慰霊の動きがあります。
怨霊として知られる崇徳上皇ですが、歌人としての顔があり、百人一種にも有名な「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」の歌が収録されています。
祟りの松
引用:ja.foursquare.com
千葉県千葉市中央区にあるJP総武線の西千葉駅、その北口を出てすぐのところにロータリーに1本の松の木があります。
道路に飛び出すように伸び、どうみても邪魔なはずなのになぜか切られずに残っているこの木は「西千葉の祟り松」と呼ばれ、切ろうとすれば祟りをもたらすという伝説があるのです。
ここは江戸時代、佐倉藩の領地であり、松の木があった場所は罪人の処刑場として使われていたといいます。
罪人の首を刎ねる場所は小高く盛られた土の上で、「首切り山」や「首切り塚」と呼ばれており、罪人の首を供養するために斬首された人間の数と同じだけ松の木が植えられました。
殺された罪人の数は100人以上とされています。
この場所にある松は罪人の霊を供養のためのものであり、1本1本に魂が宿っており、無闇に切ろうとすれば祟りが起こるといわれます。
昔、駅前を開発するために首塚を移動させたとき、工事関係者が3人死亡したことがあり、祟りの噂は瞬く間に広がりました。
それでも、祟りなどは迷信だとして、松の木の一部を伐採し、病院が建てられたことがありました。
しかし、病院の完成から1か月後には院長が謎の死を遂げ、病院も間もなく閉鎖されました。
その後、病院があった場所には雑居ビルが建ちましたが、テナントに入る店は謎の怪現象に悩まされ、次々と潰れていきました。
24時間営業の牛丼店ができたときには、深夜2時になると必ず首なし幽霊が現れるために、24時間営業が中止されたこともあったといわれます。
この祟りの松の木はJRの駅からすぐの場所にあり、気軽に見にいけることから、現在も首都圏では有名な心霊スポットになっています。
羽田の大鳥居
引用:https://jinno-q.net
羽田空港の出入り口となる京急空港線天空橋駅前、駅の南の多摩川沿いにぽつんと1つ鳥居が建っています。
周囲に神社のようなものはなく、明らかに不自然ですが、なぜこのような場所に鳥居があるのでしょうか。
実は、この鳥居は「羽田の大鳥居」と呼ばれ、撤去しようとすると災いが降りかかる祟りの鳥居といわれています。
この鳥居は、正式には「旧穴守稲荷神社大鳥居」という名前です。
穴守稲荷神社は、現在は東京都大田区にある神社で、もとは江戸時代に海が荒れて堤防が決壊した際に、海水を鎮めるために堤防の上に祠を建てたのがはじまりといわれています。
穴を守ると書いて穴守という名前から、「穴」を性病から守るという意味に通ずると考えられたため、江戸時代には遊女たちの信仰も集めていたということです。
余談ですが、80年代の人気ドラマ「スチュワーデス物語」のロケ地として使われたこともあるそうです。
現在羽田四丁目にある穴守神社は、もともとは羽田空港の敷地内にありました。
戦後、進駐軍は東京飛行場と周辺の三町を接収し、飛行場を拡張して軍事基地として利用することを決めます。
穴守神社もGHQの退去命令により周辺の住民同様強制的に立ち退きをさせられてしまい、地元有志らの寄進によって現在の場所へと移りました。
残されたもとの神社の建物は米軍の手で取り壊されることになったのですが、そのとき、不吉な事故が起こります。
大鳥居の上から米兵3人が作業中に落下し、1人が死亡、2人が重傷になります。
さらに、神社の撤去作業中に米兵の1人が重機の操作を誤って、機械に頭を挟まれ死亡するという事故も起こりました。
相次ぐ事故に米軍は自分たちでの作業を辞め、高額報酬を使って日本人の土建業者に撤去作業を行わせようとします。
しかし、ここでもロープで鳥居を引き倒そうとしたところロープが切れて怪我人が出た、工事責任者が病死したなど原因不明の事故や死傷者が相次ぎ、結局工事は中断してしまいます。
後に移設工事が行われた際には、この鳥居はかなり頑丈にできていて、とてもロープなどで引き倒せるものではないことがわかっています。
しかし、当時の人々は、この一連の不吉な出来事を羽田の守り神である稲荷神社のキツネ様の祟りだと噂しあいました。
GHQがこの話を信じたがどうかはわかりませんが、この大鳥居だけはその後も長い間撤去されることはなく、羽田空港のターミナル前に残置されていました。
1990年代の羽田空港の滑走路整備計画の際に、取り壊すという話もありましたが、地元住民の保存運動によって、移設されるにとどまり、現在もその姿をとどめています。
王家の呪い
引用:headlines.yahoo.co.jp
1922年11月4日、イギリスの考古学者ハワード・カーター率いる調査隊は、エジプトにおいて、20世紀最高ともいわれる考古学的発見を成し遂げます。
エジプトの歴代の王たちの墓が集まる王家の谷において、エジプト古代王朝第18王朝のファラオであるツタンカーメンの王墓の入り口をみつけたのです。
しかし、この栄光と引き換えに、発掘調査の最中に多くの人間が次々と謎の死をとげていき、ファラオの呪いと呼ばれる事件が起きていくのです。
歴史的な発見が起きたその日、すでにこれから起こる悲劇が静かにはじまりを告げていました。
カーターが飼っていたカナリアがコブラに食べられてしまったのです。
カナリアはエジプトで幸運の鳥とされており、不吉な予感を呼ぶ出来事でした。
ツタンカーメン王の墓の入り口には、墓を暴く人間に警告を与える碑文が刻まれていました。
『偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう』
そして、調査関係者に次々と原因不明の不幸が襲い掛かります。
まずは、調査隊のスポンサーであり発掘にも立ち会っていたカーナヴォン卿(第5代カーナヴォン伯ジョージ・ハーバート)が謎の高熱で死亡、このとき、エジプトの首都カイロでは大規模な停電が起こったといいます。
引用:alchetron.com
さらに、カーナヴォン卿の秘書で彼に続いてツタンカーメン王の墓所に入ったリチャード・べセルが窒息死しているのを発見され、カーナヴォン卿の異母兄弟であるオーブリー・ハーバード、発掘調査に立ち会ったアメリカ人考古学者ジェームズ・ヘンリーブレステッド、ツタンカーメン王の墓を訪れたアメリカ人実業家ジョージ・グルード、ツタンカーメンのミイラの検査を行ったダグラス・デリー、アルフレッド・ルーカスなど1930年までに総数22名もの死者を出しました。
そして、調査に関わったメンバーのなかで唯一呪いを受けなかったのが、調査隊のリーダーだったハワード・カーターでした。
呪いは本当にあったのか
引用:http://www.nazotoki.com
この一連の出来事が本当にファラオの呪いだったとすると、なぜ真っ先に呪いを受けそうなカーターにだけ墓を暴くことを許したのかということが疑問に思われることでしょう。
実は、この王家の呪いに関しては、いろいろな検証が行われ、多くが作り話であることがわかっています。
まず、墓にあったという碑文自体が存在しない者であり、カーターのカナリアが蛇に喰われたのも発掘当日ではなく発掘が始まってから1か月後のことでした。
カーナヴォン卿の死については、墓の中に溜まっていた有毒ガスや墓に生息していたカビのせいではという説もありますが、実際には蚊に刺されたことから熱病になり、肺炎を併発したことが原因であることがわかっています。
墓の開封に立ち会った26人の中で1930年までに亡くなったのはわずか6人であり、20人は健在で、さらに、亡くなった人たちも調査のあと1年以内に死亡したのはカーナヴォン卿だけであり、他は発掘から数年を経たあとのことでした。
さらに、生き残った人たちの平均死亡年齢は70歳以上とされています。
このように、冷静にみれば実態のないものだったのですが、ファラオの呪いは現代でも有名で、かなりの人に知られているのではないでしょうか。
当時、ハワード・カーターについて発掘調査の取材に関する独占契約を結んでいたイギリスのタイムズ紙に対抗するため、他の新聞社が調査隊になにか不幸なことがあるたびに「王家の呪い」だとセンセーショナルに報道したことが、呪いの話がこれほど有名になるきっかけだということです。
ティムールの棺
引用:toshidensetsu-ikki.com
「私が死の眠りから目覚める時、世界は恐怖に見舞われるだろう」
ソ連科学アカデミーの人類学者ミハイル・ミハイロヴィッチ・ゲラシモフは、これから調査を行おうという棺に刻まれた不吉な言葉を見つけました。
1941年6月21日のこと、この日、当時ソ連領だった現在のウズベキスタンの都市サマルカンドでかつて大帝国を築いたティムールの墓所の発掘調査が行われていました。
引用:www.sekainorekisi.com
ティムールは、トルコ系モンゴルの部族出身といわれ、正確な出自には不明な部分もありますが、自らはかつて広大なモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの子孫であると名乗っていました。
軍事の天才といわれたティムールは、中央アジアからイランを中心に、シリアやロシア南部、北インドをも版図に収め、モンゴル帝国の半分の大きさを誇るティムール帝国を築いた英雄です。
サマルカンドは帝国の首都と定められた都市で、ティムールにより開発が行われました。
1405年のティムールが亡くなったといわれる年から540年あまりが経過したこのとき、ソ連では、ティムールの遺骸を調査し、元の姿に復元することを目的として調査団が組織されたのです。
引用:www.reddit.com
リーダーのゲラシモフは、歴史上の人物の遺骸をもとにして生前の顔形を復顔することを得意分野にしており、イワン雷帝やフリードリヒ・シラーなど復顔した人物の数は200人を超えています。
しかし、この調査にはイスラムの法学者を中心として、ティムールの墓を暴けば世界に災いが降りかかるという反対の声が上がります。
しかし、唯物主義を重んじ、宗教はアヘンと断じる共産主義の下、このような声は一笑に付され、発掘は予定通りに開始されました。
当日、ティムール廟には1000人近い群衆が集まり、クレーンによって棺の蓋が持ち上げられると、舞い上がる大量の埃とともにティムールの遺骸が現れました。
この調査では、ティムールは右足が不自由だったとする伝承が正しいことなどが証明されましたが、ゲラシモフは棺の中にさらに文章が刻まれているのを発見します。
「私の墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つだろう」
さらに不吉なその言葉、そして、ティムールの墓が暴かれた翌日、ソ連全土を震撼させる出来事が起こります。
1941年6月22日午前3時、当時ソ連と国境を接しており、独裁者アドルフ・ヒトラーに率いられていたナチス・ドイツ軍が、ソ連への侵攻計画バルバロッサ作戦を開始しました。
300万に及ぶ侵攻軍が一気にソ連領内へとなだれ込み、以後、約4年に渡り、独ソ戦と呼ばれる、ソ連では何千万人にもおよぶ死者を出す大戦争へと発展しました。
バルバロッサ作戦のバルバロッサとはイタリア語で「赤髭」という意味で、かつての神聖ローマ帝国皇帝で、赤い髭が特徴だったフリードリヒ1世の愛称からとられたものですが、ティムールも同じく赤髭を蓄えていたといわれます。
独ソ戦の転換点といわれた、1942年12月のスターリングラードの戦いでは、ドイツ軍への反撃前、ソ連はティムールの遺骸をイスラム式の低調な葬礼で再埋葬しました。
この反撃は成功して戦いはソ連の勝利に終わり、以後、ソ連軍は戦争の主導権をとるようになっていきますが、果たしてこれはティムールが怒りを鎮めたからだったのでしょうか。
まとめ
以上、日本三大怨霊など日本と世界の有名な祟りの事例を紹介してきました。
こうした出来事のすべて、単なる偶然の一致であり、この世に祟りなどという非科学的なものは存在しないと言い切ってしまうこともできるでしょう。
不幸な事件が起きた時、私たちはそれがなにか自分たちのおよびもつかない恐ろしい存在の仕業だと考えてしまう傾向があるのかもしれません。
昔の人たちは、人間の力ではどうにもならない災害や事故を祟りが原因にすることで自分たちを慰めたり、お祓いなどに心の支えにしてきた面もあるでしょう。
しかし、ときに世の中には、私たちに超自然的な存在を感じさせるような、不思議な偶然の一致が存在していることもまた事実なのです。