オカルト

【実在】世界の人喰い族・集団10選

食人と聞くと、とても信じられないと思うかもしれません。

しかし、歴史を紐解くと個人単位で食人を行うケースは決して少ないわけではありません。

「ブルックリンの吸血鬼」という異名で知られるアルバート・フィッシュや、「ロストフの殺し屋」という異名を持つアンドレイ・チカチーロ、「パリ人肉事件」の犯人である佐川一政など、連続猟奇殺人鬼などにまれに見られます。

ほかにも「ひかりごけ事件」などやむにやまれぬ事情から食人におよぶ事件もありました。

ただ食人(カニバリズム)行為自体は現代では多くの文化でタブー視されています。

今回はそういった事例を除いた、集団が食人を行った例、すなわち実在する「人喰い族」について紹介します。

 

ヒマカベ族

引用元:https://bunshun.jp/

ニューギニア島の東半分と多くの島々からなるパプアニューギニアには、大小合わせて数千もの部族があると言われています。

その中でもグルポカ山の麓、コレコレト村にはヒマカベ族という小さな部族が住んでいます。

ヒマカベ族は全身を白塗りにし、「モコ」と呼ばれる、葉っぱでできたふんどし一丁で踊る「モコモコダンス」のショーを行って観光客をもてなします。

しかしヒマカベ族にはかつて食人の習慣があり、グルポカ山には人の死体を解体して食べる儀式を行うための洞窟があります。

ヒマカベ族いわく「一番おいしいのは日本人の肉」だそうです。

 

イロマンゴ島

引用元:https://tabippo.net/

バヌアツ共和国は南太平洋上に浮かぶ島国で、ニューヘブリディーズ諸島と呼ばれる83の島々によって構成されています。

イロマンゴ島はその中でもタフェア州最大の島で、2000人ほどの人口を有しています。

現在ではイロマンゴ島という表記が一般的ですが、かつては「エロマンガ島」という表記もされていたことから日本では珍しい地名として有名です。

イロマンゴ島はかつて人口が1万人を数えるほどだったと言われ、島内に3つの言語があり、いくつもの部族が争っていたと言います。

敵対する部族は争いを続け、家畜として人間を飼育して食べていたと言われています。

18世紀にイギリスとフランスの共同統治領となっていましたが、実質上はほとんど管理されておらず、島民の教化のために派遣された宣教師が部族によって殺害され、食べられるという事態が相次ぎました。

白人の肉はポリネシアの人々よりもまずいという、島民の記録も残されています。

入植者の持ち込んだ伝染病や奴隷売買によって人口が激減し、キリスト教による教化も進んでいるために現在ではイロマンゴ島固有の文化はほぼ途絶え、食人も途絶えています。

 

ヌクヒバ島のカイオイ族

引用元:https://tabicoffret.com/

ヌクヒバ島は南太平洋にあるフランス領ポリネシアを構成する、マルキーズ諸島(マルケサス諸島)の島のひとつです。

マルキーズ諸島にはポール・ゴーギャンの墓があるヒバオア島があるほか、ヌクヒバ島も『白鯨』で知られるハーマン・メルヴィルのデビュー作『タイピー』の舞台として知られています。

そんなヌクヒバ島で、人喰い族による事件が発生しました。

ドイツ人旅行者のステファン・ラミンとガールフレンドのヘイケ・ドルシュが、現地ガイドであるアンリ・ハイチの案内で森の中へ分け入ったところ、アンリはドルシュを鎖で木に縛り付け、性的な暴行を加えようとしました。

ドルシュはアラームを鳴らすことでアンリを遠ざけ、自力で脱出しています。

しかしラミンはアンリによって行方不明になってしまい、ドルシュの通報によって1週間以上も捜査されましたが、ついに見つかりませんでした。

アンリのものだと思われる焚き火跡からは焼けた肉の匂いが漂い、人間の歯や骨、溶けた金属が見つかったため、現地の検察官はアンリによってラミンが食べられてしまったのだろう、と結論を出しています。

アンリはヌクヒバ島の先住民族であるカイオイ族の戦士であり、食人の風習に従ったものだと考えられます。

 

ソニー・ビーン一族

引用元:https://matome.naver.jp/

アレクサンダー・“ソニー”・ビーンは14世紀後半にスコットランドのイースト・ロージアンの日雇い労働者の家庭に生まれました。

幼い頃は父の手伝いをしていましたが、生来の怠惰で粗暴な性格から家を出ます。

そこでビーンは自分と同じくらい性悪の女性と出会い、スコットランド南西部のギャロウェイ(現在のサウス・エアシャイア)にある海沿いの洞窟で暮らすようになりました。

正規の労働を嫌う彼らは日々の生活のために洞窟を通りかかる旅人を襲い、金品を奪って生活の糧としていました。

しかしそれだけでは充分に生活を営むことができなくなったため、やがて殺した旅人を食べるようになっていきます。

ビーン夫妻の間には8人の息子と6人の娘がいました。

そして息子と娘は近親相姦を繰り返し、ビーン夫妻からすれば孫にあたる18人の息子と14人の娘を授かり、ビーン一族は合計で48人にまで膨れ上がります。

ビーン一族はまともな教育も受けず、理性もない獣のような有り様で、旅人を襲っては殺人と解体を繰り返しました。

一族の犯行は計画的で、25年にわたって犯罪が露見せず、周辺で旅人が行方不明になっているにも関わらず、前科のある者が無実の罪で逮捕されるなど捜査は難航していました。

ですがある日、1組の夫婦のうち夫を取り逃がしたことで犯罪が露見し、当時のイギリス国王ジェームズ1世が400人もの兵士を率いて全員を逮捕、裁判も行わず極刑に処しました。

ビーン一族による被害者数は推定で300人以上、1500人にも達するという見解もあります。

 

イースター島

引用元:https://tabicoffret.com/

イースター島と言えば太平洋上にあるチリ領の島で、周辺には有人島の存在しないまさしく「絶海の孤島」です。

島の原住民が話すラパ・ヌイ語では「ラパ・ヌイ(広い大地、大きな端)」と呼ばれます。

誰しもが連想するであろう、人の顔面の像を模した巨像「モアイ」は10世紀ごろから17世紀にかけて作られたと言われています。

そんなイースター島には、各部族の酋長が島の神話に従ってグンカンドリ(現地語ではマヌ・タラ)の卵を部下に取りに行かせ、最も早く取ってきた部族の酋長が「鳥人(タンガタ・マヌ)」として島の宗教的・政治的な実権を握るという、「鳥人儀礼」が行われていました。

そして鳥人となった酋長は祝宴として、鳥人儀礼に負けた部下など数名の生贄を食べていたというのです。

食人儀礼が行われたのは「アナ・カイ・タンガタ」という洞窟です。

ラパ・ヌイ語では「アナ」が「洞窟」、「カイ」が「食べる」、「タンガタ」が「人間」なので、直訳すれば「人を食べる洞窟」となります。

人を食べることでその人の霊力(マナ)を取り込み、鳥人の霊力を高めることを目的としていたようですが、イースター島は決して食料事情が恵まれた島とは言えません。

モアイ建造のために多くのヤシの木などを切り払ったため、より逼迫していたと言っていいでしょう。

そのため食人儀礼も、やむをえない事情があったと思われます。

鳥人儀礼、食人儀礼は1866年に廃止され、現代には伝えられていません。

 

アンドロパゴイ人

引用元:https://www.museum.or.jp/

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの著書『歴史』によると、古代ギリシャの時代、現在のウクライナ北部にアンドロパゴイ人という遊牧民が住んでいたと言います。

『歴史』の記述には「アンドロパゴイの風俗は世にも野蛮なもので、正義も守らなければ、なんの掟も持たない。遊牧民であり、服装はスキタイによく似たものを用い、独特の言語を持つ。周辺のタウロイ、アガテュルソイ、ネウロイ、メランクライノイ、ゲロノイ、ブディノイ、サウロマタイら諸族の中では唯一、人肉を食す。」とあり、アンドロパゴイ人が食人に及んでいたことが示されています。

風俗には謎の点も多いですが、アンドロパゴイ人の「独特の言語」とはスキタイの言葉ではなく、北方のフィン系のものであると考えられています。

『歴史』では他にも食人の風習のある民族としてカスピ海の東部に住むマッサゲタイやカザフステップに住むイッセドネスを挙げています。

 

ドナー隊

引用元:https://www.history.com/

非常事態に直面し、食料面の事情からやむをえず食人に及んだ事件として日本で有名なのは、日本陸軍の徴用船の船長が知床岬で他の船員を食べて生き延びた「ひかりごけ事件」が有名です。

アメリカではドナー隊(ドナー・リード隊)と呼ばれる開拓民の一団が、集団で食人に及ぶ悲劇を経験しています。

ドナー隊はアメリカ東部のミズーリ州から西部への移住を目指す500台もの幌馬車とその家畜の一団です。

当時東部から西部への移動にはおよそ4から6ヶ月ほどかかり、最後の難所である豪雪地帯シエラネバダ山脈にいつ足を踏み入れるかが鍵となりました。

9月以降の豪雪期は論外ですが、春になり雪が溶けることでぬかるんだ状態で入ると馬車や家畜の足を取られてしまいます。

その点ドナー隊は残念ながら出発が遅れ、1846年の8月に出発しました。

しかもドナー隊の多くは専門知識を持たず、馬車を牛が引いていたために移動速度も遅く、シエラネバダ山脈へ到達するころには10月になっていました。

砂漠を迂回するか、冬の山越えをするかの選択を迫られたドナー隊は山越えを選択して案の定遭難し、標高2000メートル地点のトラッキー湖畔で冬を越すこととなります。

隊は分裂、2度に及ぶ救援隊も大きな効果は見せませんでした。

山中にあった物資集積所も野生動物によって荒らされるなど、ドナー隊内の食料不足は深刻化し、食人が横行し始めます。

ドナー隊のうち、山脈に入ったのは87人、生存者はそのうち48人でした。

生存者のうちルイス・ケスバーグは完全に正気を失い、干し肉がまだある、極限状態でもないのに食人に手を出してしまいます。

救助後ケスバーグはただちに尋問にかけられ、殺人および食人の容疑をかけられましたが最後までケスバーグが否認し、後に釈放されます。

その後ケスバーグは酒に酔うたびに、人を食べたときの思い出を語って聞かせたと伝えられています。

 

十字軍

引用元:http://www.gregorius.jp/

十字軍はイスラム王朝であるセルジューク朝がアナトリア半島(現在のトルコ)が征服されたことを機に組織された、キリスト教の聖地であるエルサレムを奪回するために組織された遠征軍です。

民衆十字軍など様々な種類・規模の十字軍が組織されたため、正確に何度遠征したかは諸説分かれますが、公式には7回から8回が定説とされています。

また当時の情勢により組織された事情や遠征先も異なり、エジプトや北アフリカへ遠征した例も見られます。

そんな十字軍ですが、聖地奪回という大義名分こそあれ諸侯が領土拡張に用いたり、女性や子どもが隊列に加わるなどその内実は粗末なものでした。

特に兵站への意識が薄いこともあり、食料などの物資は現地で調達することもありました。

そのために悲劇が起きてしまったのが、第1回十字軍による「マアッラ攻囲戦」です。

1098年11月、十字軍の本隊はマアッラ(現在のシリア、マアッラト・アン=ヌウマーン)を包囲し、攻略を始めますが防備を固めたマアッラの攻略は難航し、2週間かけて城壁を占領します。

城壁の占領に伴い、マアッラの守備兵は市街へ退避、十字軍も城壁で一時休息を取る予定だったのですが貧しい兵士が市街で略奪を開始してしまいました。

マアッラはおよそ1ヶ月にわたって十字軍の手により略奪と破壊を繰り返され、飢えた兵士は犠牲となったマアッラ市民の死体を食べ始めたと記録に残されています。

十字軍と対話を重ね、その歴史を記述した歴史家のエクスのアルベールはこのマアッラ攻囲戦について、「キリスト教徒は殺したトルコ人やサラセン人を躊躇せずに食べたのみならず、犬まで口にした」と述べています。

 

アステカ帝国

引用元:https://blogs.yahoo.co.jp/

アステカ帝国は世界でも類を見ない、国家単位で食人を行っていた国です。

当時のアステカでは「やがて太陽が消滅する」というある種の終末思想が太陽への信仰が行われており、人間の心臓を「チャックモール」と呼ばれる石像に捧げることでその消滅を先送りにする人身御供の儀式を行っていました。

そして残った人体を地面へ投げ捨てて切り刻んで当時の上流階級へと配布し、トウモロコシと一緒に煮込んだ「ポソレ」という料理を作り、トルティーヤ(トウモロコシの粉で作った薄焼きのパン)と一緒に食べていました。

ポソレは当時のアステカにとって神聖な料理であり、食することで太陽の力を得ることができると考えられていたようです。

人類学者のマイケル・ハーナーは当時のアステカの食料事情が貧しく、タンパク質を摂取するために食人を行っていたと考えましたが、当時のアステカでは大型の家畜を飼育する環境もあり、農業生産も盛んに行われていたために、その説は否定されています。

同様に食人の風習は先コロンブス期のメソポタミアでは広く行われており、コロンブスやシュターデンなどの探検家は現地の食人の風習を記録しています。

ちなみにメキシコでは今でもポソレを食べることができます。

もちろん人肉ではなく、主に豚肉を使っています。

 

古代の食人行為

引用元:https://skyticket.jp/

食人行為は、文化人類学的には習慣的に行う「食人俗(カニバリズム)」と一時的な事情(飢餓など)や性的嗜好などによって行う「アントロポファジー」というものに分かれます。

カニバリズムがタブー視されるようになったのは、栄養学的な側面や「クールー病」などの病気を招くなどの理由もありますが、最も大きいものとしては、人が集団生活を行うにあたり宗教などによって道徳や倫理が整備され、タブーとして定められたからに他なりません。

故に宗教などが普及する以前、古代の世界では食人行為は広く行われていました。

先に述べたメソアメリカ文明やオセアニアの古代文明などを始め、キリスト教化以前のヨーロッパでも例外ではありません。

スペイン北部にあり、ヨーロッパで最も初期の人類の遺骨や石器などが出土されたアタプエルカ遺跡では食人の痕跡が見つかっています。

当時のヨーロッパではシカやイノシシなどの狩猟が盛んに行われ、食料事情は逼迫していませんでした。

恐らく敵対した部族の死体を食べていたと考えられています。

また東京都品川区・大田区にある大森貝塚でも、イノシシやシカなどの骨と混在する形で人の骨が見つかっています。

大森貝塚を発見したエドワード・S・モースは『大森貝塚』において、発見された人骨は他の獣の骨と同様に髄を取るか、煮込みやすいように加工するために折られていたと記しています。

ほかにも骨と筋肉を分離するために石器などを使って強引に引っかいたような跡が出土した骨に残されていたそうです。

つまり儀式的な目的でなく、純粋に食べるために人間の身体を加工していたということです。

この発見は日本にも食人文化があったことを示しますが、奇妙なことに『古事記』などの文献には食人を示す記述は見られません。

日本では私たちが知っての通り、しっかりとした葬送の文化があるほか、食人の名残である「骨かみ」の風習が残る地域もあります。

この事実は古代のある時点で食人の風習が断絶し、わずかに名残があるのみだということを示唆しています。

 

まとめ

今回はかつて集団で食人行為を行った「人喰い族・集団」を紹介しました。

やむにやまれぬ事情や、宗教や文化などと密接に関わった事情、あるいは単なる食生活の一環など、当時の人々が食人に及んだ事情は様々です。

しかし当時は私たちのものとはまったく異なる常識や考え方が前提となっていたことは忘れてはいけません。

事の本質を理解するにはただ忌避するだけでなく、事情を汲む必要があるでしょう。



-オカルト

Copyright© 雑学ミステリー , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.