現代では高度に技術が発展しています。
昔では夢物語だった、SF小説の中にしか登場しないような技術も再現される日は遠くないでしょう。
しかし一方、昔は作られていたのに何らかのきっかけで作り方が継承されず現在では再現できなくなってしまったロストテクノロジーと呼ばれるものも存在します。
今回はそんなロストテクノロジーを紹介していきます。
ダマスカス鋼
引用元:https://www.rivertop.ne.jp/
ダマスカス鋼は古代インドで作られていたウーツ鋼の別称です。
シリアのダマスカスという場所で作られていたことからダマスカス鋼と呼ばれています。
表面に独特の木目状が浮かび、主に刃物に加工されました。
ダマスカス鋼で作った刀剣は切れ味が鋭く、頑丈でそのうえしなやかだったと伝えられています。
更にインドのデリーには3、4世紀ごろに作られた「デリーの柱」という巨大な錆びない鉄柱があるのですが、この柱もダマスカス鋼でできていると言われています。
つまりダマスカス鋼は錆にも強いのです。
ダマスカス鋼を作る技術は18世紀までにはほぼ途絶えてしまったと考えられており、現代ではダマスカス鋼を再現する研究が進んでいます。
インドの一部地域では炭素を多く含む鉄鋼石が産出され、それをるつぼによって製鋼する過程でカーバイドと呼ばれる鉄と炭素の化合物が層を形成します。
これがダマスカス鋼の独特の模様を形作るのですが、強度や柔軟性では未だに再現ができていません。
近年では異なる種類の鋼材を重ね合わせて鍛造することで見た目を似せたダマスカス鋼風の包丁が販売されています。
ヨーロッパの魚醤
引用元:http://shibu-kawa.jp/
魚醤とは魚を塩に漬け、好気性細菌の働きで発酵させて作る液体の調味料です。
日本の「いしお」、「しょっつる」、タイの「ナンプラー」、ベトナムの「ニョクマム」、ラオスの「ナンパー」、ミャンマーの「ンガンピャーイェー」、中国江東省の「魚露(ユーロウ)」など魚醤は漁業を行う文化圏に広く存在しています。
そして古代ローマでもサバやアンチョビなどを材料にした魚醤「ガルム」が作られていました。
ガルムは調味料のほかにも水で薄めたものを飲んだほか、傷薬や内服薬、化粧品にまで使われていたと言い、一種の生活必需品でした。
そのため古代ローマではガルムを産地から食卓へ運ぶために広大な交易路が整備されたと言われています。
古代ローマではガルムのほかにもリクアメンと呼ばれる別の魚醤のような塩味の調味料があったと言われていますが、こちらは塩漬けの梨を使ったものという記録が残されています。
しかしガルムはローマ帝国が滅亡すると共に製法がほとんど途絶えてしまい、ヨーロッパで魚醤が作られなくなってしまいました。
現在ではイタリアのチェターラという村でガルムの流れを汲んだコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラという調味料が作られるのみとなっています。
ローマの水道技術
引用元:https://www.glam.jp/
古代ローマでは水源から都市の間に水道を建設し、住居や工場、公衆浴場などに水を運びました。
古代ローマの水道技術は高度に発達しており、水を運ぶための導水渠、導水渠を渡すためのアーチ状の水道橋、不純物を取り除く沈殿池を整備して水を流し、都市にあるカステルム・アクアエという分水施設に渡しました。
また偶発的な事故や定期メンテナンスのために地下の導水渠には一定の間隔でマンホールが設置されました。
ローマの水道はレンガやローマンコンクリートで作られており、頑丈で非常に長持ちしました。
2000年経過した現在でもヴィルゴ水道など一部の水道は未だに現役で使われています。
またローマの水道は非常に精巧に作られており、供給する水の量もとても多く、現在の水道技術となんら遜色はありません。
しかしローマ帝国の滅亡によりローマの水道は破壊され、あるいはメンテナンス不足で使用できなくなり、水道技術は散逸してしまいます。
現代の技術でローマの水道と同等のものを作るのにはおよそ2000年もかかってしまいました。
兵馬俑
引用元:https://yuuma7.com/
兵馬俑は古代中国で死者の墓に共に埋める副葬品のひとつで、兵士や馬を象った陶製や木製の人形(俑)です。
古代中国では主君や夫が亡くなったとき、臣下や妻を殉死させて共に葬る殉葬という風習があったのですが、この風習に代わって死者の生活を保証するために兵馬俑が作られるようになりました。
兵馬俑で最も有名なのは「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」という名称で世界遺産へ登録される秦の始皇帝の陵墓に収められたおよそ8000体もの兵馬俑です。
8000体の兵馬俑はそれぞれ違う顔をしていたうえ、兵の階級や役割によって異なる色で着色されていたと判明したことから、生前の始皇帝麾下の軍団を模したものだと判明しています。
また兵士のほかにも学士や文官を模した俑や宮殿のレプリカなどが一緒に発掘されたことから始皇帝の生前の生活を再現しようとしたのではないかと考えられています。
兵馬俑は非常に高度な加工技術で作られています。
兵士の顔や装備品を精巧に模しており、薄い部分はなんと1ミリほどしかないと言われています。
当時の秦ではギリシャ人の技術者を招いていたと言われていますが、これほどまでに薄い陶器を作ることはできません。
兵馬俑は現代の技術をもってしても再現が非常に困難なものとなっています。
また秦始皇帝陵の兵士の兵馬俑はクロムメッキ加工を施された剣を所持していることが明らかになっています。
クロムメッキが世に表れたのは1937年のときです。
驚くべきことにその2000年も前の中国でクロムメッキ加工の技術が存在し、しかも継承されなかったことが示唆されています。
ロシアンカーフ
引用元:https://blogs.yahoo.co.jp/mozalt_f/
ロシアンカーフは1700年代の帝政ロシアで作られていた、トナカイの皮を用いた皮革です。
トナカイの皮を帝政ロシアで広く行われていた伝統的なベジタブルタンニン製法でなめし、型押しブロックで模様を施します。
そのためロシアンカーフの表面にはひし形のマークが浮かび上がります。
現存しているロシアンカーフは当時ロシアンカーフを運んでいたデンマーク船籍の船キャサリナ・ボン・フレンズバーグ号から発見されたものだけです。
キャサリナ・ボン・フレンズバーグ号は1786年に悪天候によってイギリスのプリマス沖で沈没し、1973年にサルベージされました。
その際船底でロシアンカーフを見つけたのですが、海水で使用に耐えないものもあり流通量はごくわずかになってしまいます。
そのためロシアンカーフはコードバンと共に「幻の革」と評され、高値で取引されました。
ロシアンカーフの製法はロシア革命前後に途絶えてしまったと考えられており、長く再現もされませんでした。
しかしイギリスにあった資料などを参考に、現在ではロシアンカーフの製法を再現している会社もあるようです。
日本刀
引用元:https://nipponbiyori.com/
日本刀は形状や大きさによって様々な分類がありますが、製作時期によっても分類することができ、慶長元年(1596年)以前に作られたものは古刀、慶長元年以後に作られたものを新刀と呼びます。
現在の刀工が作る日本刀(現代刀)は新刀の製法をベースにしているのですが、古刀の製法には新刀と異なる部分や分かっていない部分が多いことから再現ができないでいるのです。
新刀と古刀を分けるものは「地鉄」と「刀派」です。
まず慶長元年以前の日本は統一されておらず、地域ごとに日本刀の材料となる地鉄を生産していました。
しかし日本が統一されることで質が均一の地鉄が流通するようになります。
またそれまで各大名のもとでお抱えの刀工として主流だった備前長船派が吉井川の氾濫によって壊滅し、代わって美濃伝という刀派が台頭しました。
この2点により次第に古刀の製法が途絶えていったと考えられています。
ほかにも名刀として知られる「大包平」などは刀身の軽さ(薄さ)と強度、重心のバランスなどを神がかりとしか言えないようなバランスで両立していると言われ、現代でも再現は非常に困難です。
南米のプラチナ加工技術
南米の古代アンデス文明ではプラチナを細工して装飾品を作っていたのですが、スペイン人によって本国へ持ち去られ、その大半が銀のまがい物として捨てられてしまったと伝えられています。
というのもプラチナは融点が1774度と非常に高く、金や銀よりも加工が難しかったのです。
ヨーロッパでプラチナの加工ができるようになるには石炭を利用した溶鉱炉が開発される1804年まで待つ必要がありました。
しかしアンデス文明で石炭が使われることはなかったため1700度もの高熱を確保する手段はありません。
プラチナを加工するにはシンタリングという、粉末状にしたものをより低温で熱することで結合させる方法もありますがこの技術が実用化されたのは20世紀後半のことです。
アンデス文明でには他にも現代の技術をもってしても再現の困難な加工技術をいくつも有していたことが明らかになっています。
例えばアンデスの黄金細工の中には、電気メッキ技術を有していたとしか思えないほど薄い金メッキを施された細工物が見つかっています。
電気を使わずにメッキを施す方法もありますが、アンデス文明がそのような高度な化学知識を有していたかは疑問です。
また1000年以上も純白を保つ染料や、高い硬度を持つエメラルドの加工技術、1㎜以下の物質の加工技術などアンデス文明の出土品には現代でも再現が非常に困難か不可能な技術が使用されていたものが存在しています。
しかしアンデス文明はスペイン人によって根本から破壊され、使用していた文字も解読されていないためその技術は全て失われてしまいました。
大和型戦艦
引用元:http://japanese-warship.com/
大和型戦艦は1937年に起工された大日本帝国海軍の戦艦です。
当時の日本海軍はワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約によって海軍力がアメリカやイギリスに大きく後れを取っていました。
軍縮条約の延長が破棄された後、海軍は軍拡を志向しましたが数的優位を覆すことが困難であるという判断から当時の英米海軍の主力だった35000t級戦艦を凌駕する戦艦を造ることで質的優位を確保しようと考えます。
そこで計画されたのが大和型戦艦であり、基準排水量64000t、主砲の口径46㎝は共に史上最大のものとなりました。
大和型戦艦は全部で4隻計画され、1番艦「大和」、2番艦「武蔵」は計画通りに就役、3番艦「信濃」は太平洋戦争の戦局の変化に伴って航空母艦として改装され、4番艦として建造予定だったものは途中で建造が中止されました。
旧日本軍の装備の設計図は多くが破棄されてしまい、大和型戦艦の設計図も残されていないと考えられていましたが2016年、2番艦「武蔵」を建造した三菱重工業長崎造船所で200枚にも及ぶ「武蔵」の設計図が発見されました。
しかし設計図が発見されたとは言え、大和型戦艦は現代の技術ではとても再現が難しいことが明らかになっています。
その原因となっているのが鋼材です。
大和型戦艦を構成する鋼材は陸奥鉄と言われるものです。
現在の鋼材は高炉を使って作る都合上、どうしても微量の放射線を帯びてしまうのですが陸奥鉄は高炉を使わないため放射線を帯びません。
現代では陸奥鉄は各地の研究所や原子力発電所、放射能測定の際の環境放射能遮蔽材などごく限られた用途でしか作られず、大和型戦艦を造れるだけの量を確保するのが非常に困難なのです。
また大和型戦艦の主砲は砲撃の圧力に耐えるため、当時存在した最も硬い鋼材を削って加工したのですが、鋼材は削るときに摩擦熱で性質が変化します。
そのため変化しないよう冷却と削り出しを繰り返すのですが、このタイミングを見極め、更に大型主砲を作り上げるだけの技術を備えた職人がもう世界に存在していないのです。
戦艦や大型主砲は大戦末期にはミサイルやロケット弾のような弾道兵器に取って代わられ、その役割が失われました。
戦艦を作るだけの鋼材や加工技術はロストテクノロジー(失われた技術)というよりも、むしろ捨てられた技術、その役割を終えた技術と呼んだほうがいいのかもしれません。
イランのF-14
引用元:http://arab.fc2web.com/
グラマン社が開発した艦上戦闘機F-14(トムキャット)は1970年に初飛行をした後、1973年にアメリカ海軍で運用が開始されました。
F-14が登場した当時のイランは1925年に成立したパフラヴィー朝が統治しており、2代目の皇帝であるモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーが最高権力者の座に着いていました。
モハンマド・レザー・シャーはかつて親ソ連的な政策を推進したモハンマド・モサッデク首相を英米の助けで失脚させて権力の座を取り戻した経緯があったことから親英米路線を志向していました。
アメリカとイランは重要な同盟国であり、1972年に当時のニクソン大統領がイランを訪問した際にイランの領空をたびたび侵犯していたソ連の哨戒機を撃墜できる迎撃機としてトムキャットを贈ります。
当時のアメリカ空軍の主力機はマグダネル・ダグラス社の開発したF-15(イーグル)でしたが、提供の際にイランが強力なフェリックス空対空ミサイルとレーダー火器管制装置を装備したF-14を希望しました。
結果としてアメリカから79機のF-14がイランへ納入されたのですが、1979年に発生したイラン革命によりパフラヴィー
朝が倒れ、ルーホッラー・ホメイニを指導者とするイラン・イスラム共和国が樹立します。
F-14は革命後のイランでも引き続き使用されましたが、イランは反米の姿勢を強く押し出したため、アメリカからの部品などが届かなくなってしまいます。
そのうえF-14は可変翼などの機構が複雑で維持費が高く、操縦士のほかに専用のレーダー員を要する複座戦闘機だったことから西側諸国でも敬遠され、制式採用していたのはアメリカ海軍とイラン空軍のみでした。
そのためイランのF-14は純正の部品を集めることができず、もちろん開発することもできないロストテクノロジーと化してしまいました。
現在のイランのF-14はロシア製のレーダーなどで独自の改造が施されているほか、配備されたF-14の部品を使ってF-14を修理する「共食い」状態で整備されていると考えられています。
配備数はおよそ50機ほどと推定され、イランの国産戦闘機「サーエゲ」と共に現在も運用されています。
和算
引用元:http://sky.geocities.jp/
日本の数学は「和算」と呼ばれ、西洋諸国とは異なる独自の発展を遂げました。
江戸時代以前は中国の影響を強く受けていましたが、江戸時代に入り吉田光由の著した『塵刧記』が標準的な教科書として使われるようになると『塵刧記』の巻末についた答えを記さず、後の数学者に解かせる一種の挑戦状とも言える「遺題」が日本独自の和算を発展させます。
『塵刧記』の出版後、『塵刧記』を真似た数学の教科書が数多く書かれ、その多くに遺題が添えられるようになります。
そして遺題を解いた人が別の遺題を作る「遺題継承」という連鎖が始まり、一気に和算が複雑化していきます。
和算は初頭数学を超えると、代数方程式や高次多元連立方程式などを作り、更にその解法も作りだしてしまいます。
中でも関孝和という和算家は西洋よりも早く行列法を証明するなど、数多くの発見や研究成果を残します。
和算は18世紀まで発展を続け、17世紀には和算の難問を絵馬に記して神社へ奉納する「算額」が登場します。
もとは難問を解けたことを神仏に感謝し、解いた難問を奉納していた習慣なのですが、いつしか算額を解いた人がまた新たに難問を考えて別の算額を奉納するという仕組みへと変化していきました。
18世紀には建部賢弘が和算全書『大成算経』を書いたほか、和算家・教育家の藤田貞資が和算の実用的な良問集『精要算法』を記します。
当時の和算は無暗に発展し実用性がないただ難しい問題ばかりが氾濫するなど爛熟のときを迎えていました。
しかし明治期に入ると和算は衰退期を迎え、1872年に学制を発布した際に明治政府は西洋数学を採用し、正式に和算を廃止します。
現代では連立方程式を解くときの「鶴亀算」などに痕跡が残っているほか、一部では自分が解いた難問を絵馬にしたためる算額のような現象が見られるなど、日本人の和算好き、数学好きが窺い知られるようです。
まとめ
この記事では世界各地に見られるロストテクノロジーを紹介しました。
外部の勢力に侵略を受けたことで継承がされなくなってしまった技術から、技術革新によってその役割を終えてしまった技術まで、その種類は多岐にわたります。
ロストテクノロジーというと古代の神秘的な技術というイメージが強いかもしれませんが、現代の日本でもロストテクノロジーとなりつつある技術が存在します。
例えばアニメーションなどの映像メディアは現代ではデジタルでの制作が主流となり、それ以前のセルアニメという手法は次第に消えつつあります。
日本では1990年代終わりから2000年代初頭にかけてセルアニメが最盛期を迎え、当時制作されたアニメーション作品はデジタルにも引けを取らない、作品によっては描き込みの精緻さからデジタルを凌駕するほどの映像美を有しています。
また日本の伝統技術の多くは後継者不足から技術の継承が滞っており、そう遠くない未来にその多くがロストテクノロジーとなることが予想されています。
今回紹介したロストテクノロジーはどれもさほど身近なものではないかもしれませんが、身近な技術もまたひょんなことから失われてしまうかもしれません。
技術はそれを学ぶ人がいなければたやすく滅んでしまうことを心に刻むようにしましょう。