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【伝説】実在した歴代最強の忍者8選

小説や漫画、映画など様々な物語のモチーフとして愛されてきた忍者。

現在有名な忍者の中には、真田十勇士などの創作作品から生まれた者も多いため、超常的な能力を持つフィクションの存在という認識が強いですが、戦国時代には名立たる武将が実際に忍者組織を抱えていました。

以下に、実在した忍者のうち、特に高名な人物を8人紹介していきます。

 

実在した忍者の流派・組織名

三重県の伊賀、滋賀県の甲賀の2大流派が特に有名ですが、この他にも戦国時代には日本全国には多くの忍者組織が存在し、様々な武将に使えていました。以下に、主な流派、組織を紹介していきます。

黒脛布組(くろはばきぐみ)

宮城県に存在した組織で、奥州の武将・伊達政宗に仕えていたとされます。伊達家の文献に名前を残してはいませんが、政宗は“草”と呼ばれる諜報活動を行う集団を従えていたことは明らかになっており、これが黒い脚絆をした集団、黒脛布組であると推測されています。

上杉流・軒猿(のきざる)

新潟県に存在した組織で、越後の大名・上杉謙信に仕えていたとされます。一説には中国の神話上の皇帝・黄帝軒猿に因んで軒猿の組織名が付けられたとも言われています。

謙信は忍者以外にも山伏も利用していたとされます。

北条流・風魔党(ふうまとう)

乱波、草、かまり等の呼び名を持つ風魔党は、北条氏に仕えた組織。北条家初代の北条早雲の頃からの繋がりで、神奈川県を拠点にしていました。

荒っぽい戦術を得意とし、頭目の風魔小太郎以外にも、韋駄天と呼ばれた二曲輪猪介(にのくるいわのすけ)など、優れた忍者が多くいたとされます。

武田流・歩き巫女、三ツ者(あるきみこ、みつもの)

歩き巫女、三ツ者は山梨に存在した組織で、武田信玄に仕えていました。

歩き巫女は九ノ一として情報収集をし、三ツ者も僧侶や行商人に変装をして諜報活動を行うことを得意とする組織であったとされます。

一全流・饗談(きょうだん)

饗談は尾張(現在の愛知県)時代に織田信長が使っていたとされている組織です。しかし、一説には猜疑心の強い信長は忍者を嫌っていたという見解もあり、実在したという根拠も乏しいため、詳細は不明です。

 

史上最強の忍者・服部半蔵正成

徳川家康に仕えた“伊賀流”の頭領であった服部半蔵正成。服部半蔵と言えば、漫画“忍者ハットリくん”のモデルでもあり、日本で一番有名な忍者と言えるでしょう。

正成の父親の服部半蔵保永も200人の伊賀忍者を束ねる指揮官として、家康に仕えており、火器、水器、忍具について説明した“忍秘伝”を息子に授けたとされます。

ちなみに服部半蔵は個人名ではなく、服部家の当主となった者が代々襲名して公に名乗っていたと考えられており、歴代最強の当主であり“鬼の半蔵”と恐れられたのが正成で、16歳という若さで伊賀忍者60人超を従え、家康に敵対する今川方の領土である三河宇土城を夜襲したという功績を挙げたという逸話を持ちます。

後に家康から功績を称えて槍を賜られることになりますが、正成は槍の名手としても知られており、刃の部分が60cmもある大槍を自在に扱い、戦場では1人で5人分の働きをしたとも言われているのです。

徳川家を支えた数々の活躍の記録を持ちますが、一番有名なのが“伊賀越え”と呼ばれる本能寺の変での暗躍。正成は多くの盗賊の根城であった伊賀の山を越えて伊勢に辿り着き、船を使って岡崎まで家康を無事に逃がしたと言われています。この功績を買われて以降、伊賀者は徳川家に雇われたとされており、これは正成だけではなく、伊賀流の忍者達の運命をも変える出来事でした。

 

ゲリラ戦が得意な武闘派忍者・風魔小太郎

風魔小太郎は北条氏に使える忍者組織・風魔党の頭領であり、身の丈約2.2mの大男であったと言われています。高い鼻と牙のような4本の歯が目立つ大きな口、黒々とした口髭を生やした奇抜な風体で、声も5km以上先にいる人間にさえ聞こえたと言われる程大きかったそうです。

そんな恐ろしい外見の小太郎が得意としたのが夜襲などのゲリラ戦で、放火、奇襲、略奪などの山賊や盗賊のような戦い方を得意としました。

というのも、風魔党は山賊・海賊・強盗・窃盗の4頭から構成されており、山賊は山の中のゲリラ戦、海賊は水辺や水上での戦い、強盗は盗みや押し入り、窃盗は忍び込むこと、に長けた者が集められており、その時々で適した頭が任務にあたるという性質を持っていたそうです。そのため荒くれ者が多く、これを纏めた小太郎は相応の実力を持っていたと考えられます。

武闘派の面が目立つ風魔党と小太郎ですが、仲間を見分けるために“立ちすぐり居すぐり”という変わった手段を用いていたことでも知られます。任務後に集まった風魔党の面々は、合言葉に合わせて一斉に座ったり立ったりを繰り返すという儀式を必ず行いました。これは、スパイが紛れ込んでいてもすぐにわかるようにと考えられた方法で、このことから風魔党がただ戦に強かっただけではなく、統率の取れた集団であったことが分かります。

戦いに勝つと大声で「風魔小太郎勢勝てり」と叫んだという、見た目に違わぬダイナミックな面を持つ小太郎ですが、戦いを有利に進め、また癖のある配下の忍者をまとめるため、優れた頭脳も持っていたと考えられます。

 

謙信、信玄が恐れた忍者・加藤段蔵

決まった主君を持たず、渡りの忍者として活躍した加藤段蔵は、“飛び加藤”と呼ばれる程、跳躍術に長け、また幻術の名手であったと言われています。

ある時、牛を一頭飲み込んだように見せる幻術・呑牛術を春日山城城で披露していた段蔵は、近くにいた男からトリックを見破られてしまいました。そこで撒いた種が即座に芽を出して成長する幻術・生花術を披露するのですが、この茎を段蔵が切った途端、呑牛術に野次を飛ばしていた男の首が飛んだというのです。

この噂はかねてから段蔵が仕えたいと願っていた上杉謙信の耳に入り、配下に加えるかの試験を受けるチャンスに漕ぎ着けました。謙信の腹心である直江景綱の屋敷から刀を盗むという試験であったのですが、刀はもちろん、景綱の娘まで連れ去って戻ったのですが、その見事な手腕は逆に謙信を恐れを抱かせることになります。

段蔵が何時裏切ってもおかしくない渡りの忍者であるため、優秀過ぎるのは脅威にしかならなかったのでしょう。謙信は段蔵の暗殺計画を試みますが、これに気付いた段蔵は上杉家の家臣の前で20体ほどの人形を躍らせるという幻術を繰り出し、隙をついて逃げ出したそうです。

その後、謙信に敵対する武田信玄に取り入ろうとするのですが、やはり敵に回った場合を危惧され、恐れられてしまい、最期は武田家が所持していた古今集を盗んだとして、信玄の配下である飯富虎昌に仕えた三ツ者の忍者・熊若に捕えらえて処刑されたとされています。

 

稀代の大泥棒・石川五右衛門

伝説の泥棒として、歌舞伎や漫画、ゲーム等のモチーフとしても取り上げられることの多い石川五右衛門ですが、元々は忍者であり、天下統一が進む中で働き口を無くして盗賊に身をやつしたという説があるのです。

伊賀流の抜け忍・百地三太夫に師事し、この際には石川文吾という名前を使って忍術を学んでいたとも考えられており、最終的には三太夫の妻と駆け落ちをした、妻と内通して三太夫の妾を殺害した、と師弟関係を解消した理由は諸説あります。

五右衛門の忍びとしての優秀さを窺わせるエピソードとして、1950年代に木村常陸介の依頼で、豊臣秀吉の暗殺を試みた際のことが挙げられます。城の見張りを催眠術を用いて眠らせた五右衛門は、なんと誰にも気づかれず、騒がれることなく秀吉の寝室まで侵入したというのです。

秀吉にさえ気づかれることなく布団の側まで辿り着いた五右衛門が、寝首を搔こうと刀を振り上げたところで、突然部屋にあった香炉が音を立てるという不可思議な現象に見舞われ、秀吉が目を覚ましたことにより、暗殺は失敗に終わったとされています。

後に五右衛門は、秀吉の配下に捕らえられて京の三条河原で、実子を含む一派20余名とともに釜茹での刑に処されて命を落とすのですが、その時に詠んだ辞世の句は「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」というもの。

浜の砂が無くなったとしても、この世から泥棒がいなくなることはない、という意味の句であり、これを盗みの罪で処刑の前に詠むことからも、五右衛門が如何に豪胆な男であったかが窺えます。

 

伊賀流の策士・百地丹波

引用:http://www.igaueno.net/?p=112

百地丹波は伊賀流の祖とも言われる忍者であり、表面は伊賀の豪族として、裏では忍者として暗躍していた人物です。1579年に織田信長の息子、信雄が伊賀に進軍した際にこれを撃退したことで知られています。

このことから忍者を恐れた信長は、2年後の1581年に自らが指揮をとって再度伊賀に侵入しました。この時、丹波は伊賀忍者1700名とともに砦にたてこもり、周囲の山に火にたくさんのかがり火を焚いて大軍がいると錯覚させたり、闇に紛れて奇襲をかけたりといった策で信長に対抗したといいます。

この戦いで信長は5万人もの軍隊を引き連れていたことから、多勢に無勢で最終的には伊賀忍者が敗れることとなるのですが、丹波の奇策により、なんと1ヶ月もの間、大軍相手に膠着状態が続いたというのです。

このように策を巡らせて戦うことが得意であった丹波は、日本国内よりも海外で知名度が高い傾向にあり、ワシントンD.Cにある国際スパイ博物館においても、諜報活動に秀でたスパイ・忍者の代表として扱われています。

また、丹波や服部半蔵とともに伊賀の三代上忍とされた藤林長門守は、実は丹波と同一人物であったのではないかとも言われており、ミステリアスな部分が多い忍者でもあります。

 

名を残した唯一の九ノ一・望月千代女

武田信玄に仕えた九ノ一のリーダーであったと言われる望月千代女。諜報活動に特化した女忍者・九ノ一の養成を任され、孤児となった少女を九ノ一養成所に集めては巫女としての修行をつけていたとされます。

巫女の修行には、まじないやお祈り、降霊をする口寄せなどがあり、この他にも読み書きや情報の集め方といった諜報活動に役立つ知識を学ばせたそうです。

千代女の元で修行を収めた九ノ一達は、全国を旅しながらまじないを授けたり祈祷をしたりする“歩き巫女”として生活をする一方で、各地の武将の動向を探る働きをしていたと考えられています。

全国に散らばった九ノ一達が得た情報は、養成所にいる千代女の元に届く仕組みになっており、これを信玄に報告していたのです。

九ノ一達は実践に出ることは無く、怪しまれない風貌や警戒されづらい地位を活かして、様々な場所に入り込んで諜報活動を行っていたとされており、千代女の養成所に引き取られる少女たちは器量の良い者ばかりであったいう説もあります。

 

変装術の達人・伊賀崎道順

引用:https://myamato.exblog.jp/27922261/

近江の六角義賢に仕えた伊賀崎道順は、伊賀49流の忍術をまとめた忍術指南書“萬川集海”で名前が挙げられている忍者の1人です。

六角家に謀反を起こした百々氏の城を攻める任務に就いた道順は、49名の忍者とともに“妖者の術”と呼ばれる変装術を行い、山伏や行商人、虚無僧といった姿をして城下町に入り込み、城の様子を探ったといいます。

諜報活動の後、城に出入りする木こりに変装した道順は堂々と城内に入り込み、内側から火を放って混乱させることで主君を勝利へと導いたのです。

フィクションの世界では簡単に行われる変装術ですが、妖者の術は服装を変えたり芸事を覚えたりするだけではなく、目を不自由に見せるために魚の鱗を眼球に張り付けて黒目が白濁しているように見せたり、顔を下膨れに見せるために毒草を使って頬を腫らせたりと体を張った方法がとられていました。

また、痩せたり太ったりといったように体形も自在に変え、時には体の関節を外したり、足の甲で歩いて肢体が不自由であるように装うことすらあったそうです。特に道順の変装は完璧であったため、知人でさえ見破ることができないと言われており、変装する対象の特徴をつかむ観察眼の持ち主であったと言えるでしょう。

 

トリッキーな忍術の祖・楠木正成

楠木正成は後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府討幕に尽力した武将として有名ですが、実は忍者の先駆者とも呼ばれる存在でもあります。

鎌倉幕府に抵抗する勢力“悪党”として活躍した正成は、敵軍の頭上に火を投げかける、藁人形に鎧を着せて手勢を多く見せるといった、常識にとらわれない戦いを展開し、これが忍術の原型であるとされているのです。

正成のトリッキーな戦い方で最も有名なのが、城に攻め込んできた幕府軍に石や丸太、油、熱湯などとともに、なんと人糞を投げつけたというもの。しかもこれで敵軍を撤退させたといいます。

後に“大楠公”と呼ばれ、正一位に叙された武将の教科書には載らない意外な一面です。

 

まとめ

フィクションの世界と違い、実在の忍者が使った忍術は身の回りにあるものや目の錯覚、思い込み等を利用した、現代の知識から見ると一見地味なものばかりです。

しかし、人間の能力を極限まで引き出すような厳しい修行に耐え、心技体ともに忍者として認められるに足る、ごく一部のエリートのみが組織に属して働くことができたとされています。

表立った組織ではなかったため忍者に関する文献はそこまで多く残っている訳ではありませんが、調べてみると歴史の影に暗躍した忍者には、フィクションのモデルになるだけある、魅力あふれる人物が多数いることが分りますよ。



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