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悲劇をとらえた!有名な戦争・戦場写真30選

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人類の歴史は戦争の歴史といわれるように、世界史の教科書をみれば、世界には有史以来、実に多くの戦争があったことがわかります。

古い時代から戦争画によって、多くの戦いの様子が記録されてきましたが、1900年代にコダックやライカなどの登場によってカメラと写真が普及すると、戦争も写真によって記録されるようになります。

そして、現在まで後世に残るような数々の有名な戦争写真が撮影されてきました。

ここでは、有名な戦争と、その戦場で撮影された戦争写真を紹介していきます。

世界初の戦場写真 クリミア戦争のイギリス軍兵士

引用:en.wikipedia.org

1853~1856年にかけて繰り広げられたクリミア戦争は、広く世界から注目されることになりました。

特に、交戦国の1つだったイギリスでは、ロシア軍を相手にした予想外の苦戦と、それに伴う戦死傷者の増加により軍や政府に対する批判が高まっていました。

そこで、イギリス政府は世論対策として、戦場で活躍するイギリス軍の撮影させるため、写真家ロジャー・フェントンをクリミアに派遣しました。

フェントンは初めて戦場で写真を撮ったカメラマンとなり、彼の写真は月刊誌イラストレイテッド・ロンドン・ニュースの銅版画に掲載されました。

しかし、イギリス政府は国民が反戦的になるような死体や負傷者の写真を撮影することは許さず、撮影された写真にも演出が多いとされ、世界初の戦場写真は同時に世界初の戦争プロパガンダ写真でもありました。

崩れ落ちる兵士

引用:chuff.hatenablog.com

この写真は20世紀の著名な戦場カメラマンであるロバート・キャパによって撮られた有名な一葉です。

キャパは本名をフリードマン・エンドレといい、1913年ハンガリー生まれで、スペイン内戦、日中戦争、第二次大戦、第一次中東戦争、第一次インドシナ戦争という5つの戦場で取材活動を行いました。

「崩れ落ちる兵士」の写真は、キャパの初めての戦場であるスペイン内戦で撮られた写真です。

スペイン内戦は左派の人民戦線とフランコ将軍率いる右派の反乱軍との戦争で、最終的にはフランコ側が勝利をおさめます。

この写真はスペイン南部のセロ・ムリアーノの戦いで戦闘中に撃たれて倒れた人民戦線側の兵士をとらえたものとされ、発表されるとピカソのゲルニカとともに反ファシズムのシンボルとなり、無名だった22歳のキャパは一躍脚光を浴びることになりました。

捏造疑惑

この写真には同じ場所で撮られたもう1枚の写真が存在し、そこにはここに写っている兵士が倒れているところが写っています。

この写真は頭部に銃弾が命中したところをキャパが撮影したとされていますが、あまりに完成度の高いことや、頭部に銃弾が当たっている様子がはっきりとは確認できないことから、長い間捏造ではないかといわれてきました。

写真は本物だったのか?

キャパ自身は生前この写真について多くは語りませんでしたが、キャパの遺品のなかから発見された写真のなかに、崩れ落ちる兵士に写っているのと同じ服装の男が笑いながら仲間たちとともに写っているものがありました。

当時、撮影場所では写真が撮影される以前には戦闘が起きていなかったこともわかっており、さらに、兵士がもっている小銃のボルトの位置から弾薬が装填されていないことが見てとれ、戦闘中に撮られた写真としては不自然な点がいくつもあります。

結論として、この写真は実際の戦闘を写したものではなく、ユダヤ系だったキャパがファシズムを糾弾するために、訓練中の兵士とともに作った写真だったと考えられています。

第一次大戦 戦場へと向かうイギリス兵

引用:www.bbc.com

1914年6月28日、セルビアでオーストリアの皇太子が殺害されたサラエボ事件をきっかけとして、第一次大戦が勃発し、ヨーロッパ全土を巻き込み5年に渡る未曽有の大戦争へと発展していきます。

当初、戦争は短期間で終わるものと考えられ、「クリスマスまでには帰れる」という楽観的な見通しから多くの国で人々は積極的に軍へと志願しました。

友達や職場の知人同士で誘いあって入隊することもあり、兵士になることは一人前の男になることだと思われていたため、13や14歳のティーンエイジャーは自分の年齢を偽ってまで兵士になろうとしました。

過酷な塹壕戦

引用:www.jiji.com

当初の見込みに反して、機関銃などの新兵器が発達した第一次大戦において戦場は膠着し、西部戦線では両軍が大西洋からスイス国境まで数百㎞にもおよぶ長大な塹壕線を作り出し、兵士たちは四六時中この中で過ごすことになります。

塹壕の環境は劣悪で、水はけが悪いため雨が降れば足元は水浸しになり、泥の海が誕生しました。

塹壕での生活は、戦闘がなければ特にやることもなく、しかし、常に死と隣り合わせという

退屈でありながら消耗を強いられる過酷なものでした。

毒ガス戦

引用:https://www.forces.net

第一次大戦では、毒ガスが兵器として本格的に使用されるようになりました。

毒ガスは膠着した塹壕での戦いを打破する切り札として注目され、1914年10月のイープル戦では、ドイツ軍によって初めて大規模な毒ガス攻撃が行われました。

この写真は1918年のもので、ドイツ軍によりイペリッド(マスタードガス)とみられる毒ガス攻撃を受けて、治療のために救護所に並ぶイギリス軍の兵士たちです。

引用:https://www.scoopnest.com

兵士たちは戦場でガスマスクの使用が必須となっていきましたが、しだいに毒ガスに慣れてゆき、攻撃を受けてもパニックを起こすことなく整然とガスマスクを着用するようになっていきます。

そのため開発されたのが、皮膚からでも浸透して効果を発揮するイペリッドで、こうした糜爛剤と呼ばれる毒ガスの登場により化学戦はより凄惨なものになっていきました。

ロンドンを空襲するツェッペリン飛行船

引用:www.thedailybeast.com

この戦争では、敵国に対しての本格的な空襲が行われ、1915年5月31日にはドイツの飛行船によるイギリスへの初空襲が実施されました。

ドイツ軍は飛行船から、焼夷弾や凄まじい威力をもつ300kg爆弾を投下しました。

写真は1916年のもので、サーチライトに照らされてドイツの巨大飛行船ツェッペリンの姿が夜空に浮かび上がります。

戦車の登場

引用:tank100.com

第一次大戦は機関銃や航空機、そして戦車といった現代の戦争でも使用される新兵器が多数登場した戦争でした。

1916年のソンムの戦いで、初めて実戦投入されたイギリス軍の世界初の戦車である菱形戦車は、ドイツ軍を大混乱に陥れました。

引用:http://www.en-soph.org

一方で、第一次大戦は伝書鳩が最も活躍した戦争といわれ、菱形戦車にも伝書鳩が積まれていて、排気排熱の悪い車内で気絶してしまったという話が残されています。

新しいテクノロジーの数々が生まれてくるとともに、まだまだ古いものも残されており、それらが混ざり合っていたのが第一次大戦の戦場でした。

国境ゲートを破壊するドイツ兵

引用:twitter.com

1939年9月1日、ヒトラー率いるドイツ軍は隣国ポーランドへの侵攻を開始しました。

写真はポーランドとの国境ゲートを破壊するドイツ兵たちの有名な写真です。

これをみたイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第二次大戦の幕が開きます。

ポーランド軍は必死の抵抗を試みましたが、東側からソ連にも攻め込まれ、10月には降伏しました。

真珠湾攻撃 炎上する戦艦アリゾナ

引用:www.huffingtonpost.jp

1941年12月7日ハワイ時間の午前7時55分、日本軍の空母機動部隊によるハワイ真珠湾の海軍基地への攻撃が開始され、太平洋戦争が勃発します。

写真の戦艦アリゾナをはじめ、アメリカ太平洋艦隊の戦艦や飛行場の航空機が空襲による大損害を受け、アメリカ側は約2400名という犠牲者を出しました。

日本側は損害も少なく華々しい戦果を上げましたが、湾内には目標だった空母はいませんでした。

アメリカ国民は「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に日本への敵愾心を湧き上がらせ、アメリカ人の士気を挫いて短期で講和に持ち込むという目論見は成功しませんでした。

真珠湾で沈められた戦艦の多くはのちに引き上げられて修理を受け、「復讐戦艦」として日本との戦いに臨みました。

全滅した一木支隊の兵士たち

引用:https://ameblo.jp/tank-2012

1942年8月7日、日本軍が飛行場を建造中だったガダルカナル島にアメリカ海兵隊が上陸をはじめ、太平洋戦争の天王山となるガダルカナルの戦いが始まりました。

日本軍はすぐに一木大佐率いる約900名の一木支隊を派遣することを決めます。

日本軍では敵の戦力を過小評価していたため、このくらいの戦力で十分島を奪還できると考えており、一木支隊の兵士たちも上陸したらアメリカ軍など鎧袖一触だと勇ましく話していました。

しかし、イル河を渡河して攻撃をかけた日本軍は機関銃や迫撃砲、さらには戦車まで備えたアメリカ軍の凄まじい火力の前に損害を出し全滅の憂き目に遭います。

後にガダルカナルで戦った日本軍のある指揮官はアメリカ軍の絶大な火力網を「もはや異星界の出来事かと思われる」と回想しています。

無謀ともいえる白兵突撃によって息絶えた兵士たちは、この後太平洋の島々で繰り返される玉砕の不吉な前兆といえました。

スターリングラードの戦い

引用:www.thetimes.co.uk

1942年6月から始まったスターリングラードの戦いは、独ソ戦の天王山といえる激戦で、独ソ両軍合わせて200万人近い死傷者を出しました。

はじめはドイツ軍有利に展開していましたが、ソ連軍の反撃作戦の成功によってドイツ軍は包囲され、スターリンの名のついた都市に固執したヒトラーが撤退を許可しなかったため、スターリングラード攻略に当たっていたドイツ第6軍は壊滅することになりました。

戦闘により破壊されて廃墟と化した市街地での戦闘は、鼠の戦争(ラッテンクリーク)と呼ばれ、一般市民をも巻き込んだ悲惨な戦闘になりました。

ソ連軍のタンクデサント

引用:ameblo.jp

戦車跨乗ともいわれるタンクデサントは、戦車の車体に歩兵を乗せて進撃させるという戦法です。

大量の戦車とそれに乗って進む歩兵たちはしばしばソ連軍の人海戦術の象徴のように語られます。

もともとは歩兵に戦車を援護させるための者でしたが、当時のソ連では歩兵用の輸送車両が不足しており、その代わりにタンクデサントが使用され、このまま敵陣地に突入させることもあったといいます。

戦車の上はすさまじい振動で体はあちこち振り回され、まるで飛行機にでも乗っているようでした。

生身で戦車の上に乗っている歩兵たちはとてつもない危険に晒され、タンクデサント兵の寿命は2週間ほどといわれました。

車両の不足から行われたとされるタンクデサントですが、ソ連歩兵は装甲車両の上に乗ることを好んだようで、戦後の写真でも、タンクデサントで移動している光景が頻繁に写っています。

サイパン島で救助された赤ん坊

引用:https://rarehistoricalphotos.com

1944年6月、アメリカはマリアナ諸島サイパン島への上陸を開始し、日本軍との間で激しい戦いが起こります。

サイパンがアメリカの手に落ちるとB-29が直接日本本土へ空襲を行うことができるようになるため、絶対に守らなければならない島でしたが、最終的に戦いはアメリカの勝利に終わります。

サイパン島には多くの日本の民間人も暮らしており、逃げ場を無くした人たちのなかには自ら崖から飛び降りて命を絶つ人々もいました。

この写真はそうした一般人をも巻き込んだ戦いの中で写真家ウィリアム・ユージン・スミスによって撮られた一葉で、アメリカ海兵隊員が岩の下から瀕死に近い状態の赤ん坊を救いだしたところを写しています。

ノルマンディー上陸作戦の兵士

引用:toyokeizai.net

こちらも崩れ落ちた兵士と同じくロバート・キャパの撮影したものです。

この写真はきちんと戦場で撮られたものですが、現像のときに乾燥キャビネットを高温にして扉を閉めてしまったため、空気が遮断されてフィルムの感光乳剤が溶けてこのような写真になってしまいました。

引用:monsieurk.exblog.jp

しかし、この写真が載った米ライフ誌の出版社は、あまりの興奮でキャパがカメラを震わせたためにこのような写真になったと説明しました。

この適当な説明はキャパを怒らせましたが、ブレた写真はかえってノルマンディー上陸作戦がいかに激戦であったかを人々に伝え、戦場の臨場感と緊迫感を感じさせる有名な写真となりました。

丸刈りにされた女性たち

引用:matome.naver.jp

1944年、ノルマンディーに上陸した連合軍は進撃を続け、ついにはフランスを解放することに成功しました。

フランス国民はナチスによる占領から解放され、大いに喜びました。

しかし、その陰で、戦争中ドイツ兵と親しくしていた女性たちには、その代償として制裁が加えられました。

彼女たちは罰として髪を刈られて丸刈りにされ、額には鉤十字が描かれました。

そして、服を奪われ裸に近い格好をさせられた上に、見せしめとして大衆の前に連れ出されたのです。

輝かしい勝利の裏で行われたこの暴力的な行為は、ドイツ軍に対するヘイトのはけ口であり、丸刈りにされた女性のなかには絶望から自殺した人もいたといわれます。

空母瑞鶴の最後

引用:twitter.com

太平洋での戦局が完全にアメリカ優位に傾いていた1944年10月、フィリピンに上陸していたアメリカ軍に対し、日本海軍は乾坤一擲の反撃作戦である捷一号作戦を発動しました。

これに伴い、フィリピン近海でレイテ沖海戦と呼ばれる大規模な海戦が発生しました。

この写真は1944年10月15日、エンガノ岬沖でアメリカ軍機の空襲を受けて大傾斜し、沈みゆく空母瑞鶴の艦上で撮影されたものです。

瑞鶴は日本海軍が誇る大型正規空母で、多くの主要艦艇を失っていたこの時期には、空母部隊の主力となっていました。

乗組員たちは「瑞鶴万歳」を叫んだあと、最後の敬礼を行い、日本海軍の空母部隊はこの戦いで壊滅しました。

艦との別れを惜しむ彼らの姿が、当時の日本軍を象徴するような一葉です。

特攻機の命中で炎上する空母バンカーヒル

引用:ja.wikipedia.org

レイテ沖海戦で主力艦艇の大半を失った日本軍はもはや正攻法でアメリカ軍と戦うことは不可能になっていました。

この絶望的な戦況下で実施されたのが、爆弾を搭載した航空機がパイロットごと敵に突っ込むという自爆攻撃、神風特別攻撃隊でした。

レイテ沖海戦では特攻第一号と呼ばれる関行男大尉の攻撃によって、護衛空母セント・ローを撃沈するという大きな戦果を上げ、これ以降日本軍では特攻作戦が常態化していきました。

この写真は1945年5月11日、2機の特攻機が突入したことで大破炎上する空母バンカーヒルを写したものです。

アメリカ軍は戦後、日本軍の特攻攻撃を人命軽視ということを別にすれば、軍事的には航空攻撃の命中率を高める効果的な戦法であったと評しています。

ドレスデン空襲

引用:http://www.wikiwand.com

1945年2月13日~15日にかけて、連合軍の爆撃機部隊がドイツ東部の都市ドレスデンへの無差別爆撃を行いました。

4度にわたる空襲にはのべ1200機が参加して3900トンの爆弾が投下され、市内の85%が灰燼に帰しました。

この空襲でドレスデンは20000人以上の一般市民が死亡したとされます。

連合軍の特にイギリス軍では、こうした爆撃をドイツによりロンドンなどイギリスの諸都市への空襲への報復と考えており、ドイツの各地に容赦ない爆撃が行われました。

引用:www.asahi.com

太平洋戦線においても、同じく連合軍による激しい空襲が行われていました。

3月10日の東京大空襲では、10万人が命を奪われ、罹災者は100万人に上りました。

世界で初めての本格的な戦略爆撃は、日本軍による重慶爆撃でしたが、数年後には日本本土が爆撃により焦土と化すことになりました。

大戦中にアメリカ軍が使用したM69焼夷弾は日本の住宅なら68%、ヨーロッパの住宅なら37%の割合で建物を全焼させることができました。

こうした都市爆撃が行われた背景には、戦前から、爆撃によって敵国の国民を恐怖に陥れ、反戦運動を起こすことによって戦争を早期に終結させることができるという軍事理論があったためでした。

しかし、実際には爆撃による早期講和は起こらず、無差別爆撃により多くの一般市民にまで犠牲者を出すこととなりました。

硫黄島の星条旗

引用:www.haikudeck.com

1945年2月19日から始まった硫黄島の戦闘は太平洋戦争屈指の激戦となりました。

第二次大戦で1㎥あたり最も多くの血が流れた戦場といわれる硫黄島では、アメリカ側の死傷者が日本軍を上回ることになりました。

上陸初日だけでアメリカ軍は2400人あまりの損害を受け、これはアメリカ軍が半年に渡るガダルカナルの戦いで被った損害の半数に当たる数字でした。

この戦いに従軍したある記者は、これまでの戦場は地獄の悪夢をみていただけに過ぎないと記しました。

本当の地獄はここにあったのです。

この写真は2月23日、アメリカ軍にホット・ロックスと呼ばれていた擂鉢山の山頂に星条旗が立てられたときのもので、アメリカにおいて太平洋戦争を象徴する一葉となっています。

AP通信の報道カメラマンであったジョー・ローゼンソールによって撮影され、1945年に唯一ピューリッツァー賞の写真部門を獲得した写真になりました。

映画『父親たちの星条旗』にも描かれて有名な話ですが、この写真に撮られている星条旗は2度目にかけられたもので、最初の旗はこれよりサイズが小さく、前線視察に来ていた海軍長官が所望したために降ろされることになりました。

ライヒスタークに翻るソ連旗

引用:ore-germany.com

1945年5月2日、ナチスドイツの首都ベルリンを包囲攻撃していたソ連軍は、激しい白兵戦の末に帝国議事堂(ライヒスターク)を制圧し、3人のソ連兵士が屋根の上にソ連の旗を掲げました。

ウクライナ出身の従軍カメラマン、エフゲニー・ハルデイが撮影したものです。

旗を掲げるよう指示したのはハルデイ本人で、硫黄島の星条旗のようなドラマチックな写真を撮ることが目的で、彼の望み通り第二次大戦のクライマックスを飾る劇的な写真が生まれました。

ヒトラーは2日前に自殺しており、同日、ベルリンのドイツ軍は降伏し、第三帝国の崩壊とともにヨーロッパにおける戦いは終焉を迎えました。

白旗の少女

引用:ja.wikipedia.org

太平洋戦争末期、多くの民間人を巻き込んで犠牲者を出した沖縄戦。

この写真は、1945年6月25日、アメリカ陸軍戦闘カメラマンのジョン・ヘンドリクソンが撮影したものです。

少女の名前は比嘉富子といい、首里で生まれ、1年ほどの前に母を亡くしていて、米軍上陸による混乱のなかで父や兄弟姉妹とも離れ離れになってしまいます。

1人で避難を続けた彼女はあるガマのなかで身を隠していた老夫婦とともに生活をはじめましたが、やがてやってきたアメリカ軍が、洞窟に爆弾を投げ込むのでそれより先に投降するようにと呼びかけます。

一緒に死にたいと言った彼女に、老夫婦は生き延びることの大切さを説き、ふんどしで作った白旗をもたせて投降を促しました。

ほかの避難者とともに投降した彼女は、のちに二人の姉と再会しています。

戦艦ミズーリでの降伏文書調印

引用:http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com

1945年8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、9月2日、戦艦ミズーリの艦上で正式な調印式が行われ、連合軍とのあいだで正式な休戦協定が結ばれました。

戦艦の上が選ばれたのは、この場所なら妨害などが入る恐れがないと考えられたからです。

この調印のために、マッカーサー元帥は5本ものペンを用意し、そのうち4本をフィリピンとシンガポールで降伏した米英軍の司令官とアメリカの陸海軍士官学校へ贈り、最後の1本は自分の妻へ贈りました。

勝利のキス

引用:http://sekainonews.com

この写真は1945年8月14日、写真家のアルフレッド・アイゼンスタッドによって撮影されたものです。

この日、枢軸国のなかで最後まで抗戦を続けていた日本のポツダム宣言受諾がアメリカ政府に伝えられ、第二次大戦の終結が決定的になりました。

アメリカのタイムズ・スクエアでは多くの人々が戦争の終結を喜び、その中でキスをする水平と看護婦の姿をとらえたのがこの一葉です。

ベトナム戦争と枯葉剤

引用:s.webry.info

1960年からアメリカが南ベトナムを援助して介入を開始したベトナム戦争では、ベトコンと呼ばれる北ベトナムのゲリラに手を焼かされることになりました。

アメリカ軍はゲリラの潜むジャングルを壊滅させ、同時に彼らから食料を奪うため、1962年からランチハンド作戦と呼ばれる航空機による枯葉剤の散布作戦を行いました。

この作戦で撒かれた薬剤の量は1200万ガロン(約4530万ℓ)といわれ、ジュネーブ国際条約違反の可能性も指摘されています。

すべての除草剤が危険というわけではありませんが、この作戦で使われた枯葉剤には混合物として有毒なダイオキシンが含まれていたため、無関係な一般市民にも被害が出て、この影響で多くの障害をもった子どもたちが生まれることになりました。

安全への逃避

引用:natgeo.nikkeibp.co.jp

この写真は日本人の戦場カメラマン沢田教一によって撮られたもので、1966年のピューリッツァー賞を獲得しました。

沢田本人の強い希望でベトナムへ特派員として派遣され、地雷原に入り込んだり、武装組織の捕虜になったりと危険も顧みずに取材を行いました。

「安全への逃避」では、ベトコンの村がアメリカ軍の攻撃を受ける中、村から逃げてきた子連れの女性たちが必至の表情で川の中を歩いて対岸へと逃れていく様子が写し出されています。

沢田は1970年、カンボジアでの取材中に強盗に遭い、金品を奪われて殺害されています。

ベトナムの戦略村

引用:1960sdaysofrage.wordpress.com

アメリカの特殊部隊グリーンベレーがベトナムで行ったもので、南ベトナムの農民たちが北ベトナムのゲリラと接触することのないように、強制的に田畑から引き離し、戦略村と呼ばれる囲いのなかで生活させました。

農民たちにとってこの暮らしは不便この上なく、しかも、移動するアメリカ軍の装甲車両が自分たちの田畑を踏み潰しながら走行し、作物をダメにする光景は彼らの反感を買い、アメリカと南ベトナム政府から民心を離反させていきました。

戦争の恐怖

引用:https://courrier.jp

「戦争の恐怖」は1972年6月8日にベトナム人の写真家ニック・ウトによって撮影されたもので、1973年ピューリッツァー賞を受賞したものです。

ベトナムのチャンバン県の村にアメリカ軍の誤爆によってナパーム弾が投下され、驚いた子どもたちが泣きながら逃げ惑う様子を写したものです。

真ん中に写っている裸で逃げる少女から、「ナパーム弾の少女」の別名でも知られます。

サイゴンでの処刑

引用:jp.sputniknews.com

「サイゴンでの処刑」は、AP通信の写真家エディー・アダムスが1968年に南ベトナムの首都サイゴンで撮影したもので、ピューリッツァー賞を受賞しました。

当時、テト攻勢を開始した北ベトナム軍は破竹の勢いで進撃し、南ベトナムの主要都市は次々と陥落し、首都サイゴンもパニック状態にありました。

この写真ではサイゴンの警察官グエン・ゴグ・ロアンが市民に紛れていたベトコンのスパイを捕らえて射殺する様子が写し出されています。

グエンは「義務を果たさなければ、奴らは決して従わないんだ」と述べ、この時の行動を正当なものだと主張しました。

しかし、裁判もなく容疑者を処刑する様子は、南ベトナム政府の腐敗と野蛮さの象徴と捉えられ、一気に反戦世論を高めることになりました。

油まみれの水鳥

引用:http://www.y-asakawa.com

1990年7月、イラク軍のクウェート侵攻に対して、国連は多国籍軍の派遣を決定し、湾岸戦争が始まります。

ステルス機やトマホーク誘導ミサイル、衛星による監視システムなどハイテク兵器を駆使する米軍は快進撃を続け、多国籍軍とイラク軍の損失割合は1:100というワンサイドゲームに終わりました。

この写真は戦争中に撮影されたもので、イラク軍の攻撃により石油施設から流出した重油によって油まみれになった水鳥を写したもので、アメリカはイラクによる残酷な環境テロ行為として非難しました。

しかし、後にこの時の油の流出を招いたのはアメリカ軍による爆撃であることが明らかになりました。

戦争においてプロパガンダはいつの時代にも行われてきたものですが、この油まみれの海鳥の写真は国家による情報操作の象徴的な事例となっています。

引き倒されるバグダッドのフセイン像

引用:http://blog.livedoor.jp

2003年3月、フセインが大量破壊兵器を隠し持っているということを理由に、アメリカは再びイラクへ開戦しました。

「イラクの自由作戦」と名付けられたこの戦いは一般的にイラク戦争と呼ばれ、米軍は瞬く間にイラクの国土を蹂躙し、バグダッドを占領してフセイン政権を崩壊させました。

後にフセイン大統領自身の捕縛にも成功していますが、アメリカの正義によってイラクを民主化するという当初の目論見は成功したとはいえず、アメリカ軍はその後長期間、テロ攻撃などイラクの治安維持に悩まされることになります。

まとめ

以上、戦争写真の数々をご紹介してきました。

歴史の教科書に出てくるようなダイナミックな出来事の写真から、戦争のなかでの小さなワンシーンを写した写真まで様々なものがありました。

世界では現在進行形で様々な紛争や戦争が起こっていますし、こうした写真のような出来事はこれからも繰り返されていくかもしれません。

こういった写真を眺めていると、あらためて平和の大切さというものを実感するのではないでしょうか。



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