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【閲覧注意】本当に怖い日本の風習10選

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近代化が著しく進んでいる我が国日本。

大半のことは科学的に説明がなされ、不合理・不効率なことは日々私たちの日常から排斥され続けていくことでしょう。

社会福祉が行き届き、時に過剰なまでの人権擁護が進んだ現代において、多くの人々が忘れ去ってしまった恐ろしく禍々しい風習の数々。

それらはほんの200年前頃には当たり前に行われ、ものによっては今なおその名残がこの地に脈々と息づいているのです。

そうしたかつて確かに存在した闇の風習を、今回はご紹介してきます。

 

其の1 丑の刻参り


引用元:http://jonny.click/

丑の刻参りに藁人形。

詳しくは知らなくとも、ほとんどの日本人が何となくは知っている定番とも言える呪詛スタイルではないでしょうか。

ここではその歴史・呪い方・必要なアイテム・注意事項などを詳しくご紹介します。

 

人形を用いた呪詛

丑の刻参りが現在認識されているような、頭に五徳被・蝋燭・白装束・藁人形・五寸釘というスタイルに定着し始めたのは、江戸時代頃からで、比較的最近といえば最近の話です。

しかし、人形(ひとがた)を用いた呪詛そのものは非常に古い時代から存在していました。

日本最古の正統な歴史書『日本書紀』の中にも、『ついに太子彦人皇子の像を作りて、まじなう』といった一説があり、古墳時代から人形を媒介とした呪詛が存在していたことがわかります。

ただし、この段階ではまだ像を刺す行為までは確認されていません。

そこからもう少し時が進み――

8世紀に作られた木製人形代(ひとがたしろ)が出土、人形の胸には鉄釘が打ち込まれていました。

だいぶ現在に伝わる藁人形のスタイルに近づいてきたのではないでしょうか?

また、類型としては島根県松江市タテチョウ遺跡から出土した女性の絵姿が描かれた木札があり、両乳房・心臓の三カ所に木釘が打ち込まれていました。

これらは明らかに呪詛目的としか考えられません。

つまり、こうした人形を用いた呪詛は奈良時代から存在していたということです。

 

呪詛の原型『宇治の橋姫』伝説

現在に伝わる丑の刻参りの原型の一つが、これからお話しする『宇治の橋姫』の伝説です。

この橋姫の物語は鎌倉時代後期に記された裏平家物語として知られる屋代本『平家物語 剣之巻』に登場します。

 

***

嵯峨天皇の御代、ある公卿の娘がいた。

彼女はとても嫉妬深く、夫の浮気相手を激しく憎むあまり貴船神社に七日間も籠り、『憎き女をとり殺すために、私を生きながら鬼に変えて下さい』と貴船大明神に乞い願う。

明神は彼女を憐れみ『鬼になりたければ、姿を改め21日間宇治川に浸かれ』と告げた。

彼女は都に戻り人のいない場所に籠ると、明神に言われた通りの姿となる。

すなわち――

長い髪を五つに分け五つの角を作る。

顔に紅をさし、身体に丹を塗る。

五徳(鉄輪)を逆さにして頭に被り、三つの脚に松明を灯す。

さらに別の松明を口に咥え両端に火を付ける。

こうして貴船大明神に願掛けして生きながら鬼女となったのが宇治の橋姫だ。

念願の鬼となった橋姫は、妬む女の縁者を男女問わず次々と殺しながら生き続け、後に渡辺綱に名刀髭切にて二の腕を切り落とされ退治された。

切り落とされた彼女の腕は阿部清明に封印されたとされている。

***

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを地で行くような、もはや途中から妬む女関係ないだろ?状態の無差別殺人鬼橋姫ですが、五徳を逆さに被って三本脚に松明を灯すという要素が出てきました。

橋姫本人は人形を用いませんが、彼女の腕を封じた陰陽師・阿部清明が人形を使った祈祷(式神の一種)を行うため、それらの要素が混じりあったとの見解もあります。

この段階では橋姫は顔と身体を赤く塗りたくっており、まだ白装束のイメージは出てきません。

室町時代に橋姫を題材に作られた能楽『鉄輪』においても橋姫の衣裳は朱色であり、藁人形・金槌といったアイテムは未登場です。

しかし、ここでもっとも注目すべきは、始まりの丑の刻参りが『人を呪い殺す』儀式ではなく、『自ら鬼となる』ための儀式であったことでしょう。

 

貴船神社と丑の刻参り


引用元:https://cultural-experience.blogspot.com/

橋姫が参拝していたことからも、丑の刻参りのメッカである貴船神社。

しかし、本来の貴船神社は決して呪詛専門というわけではありません。

丑の年丑の月丑の日丑の刻に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝すると願いが叶うとされていただけで、呪詛は時代の変遷と共に本来の意味が変質していったものです。

平安時代には詳細な時刻は不明であるものの、夜間の参拝が行われていたことから呪詛といったネガティブなイメージが膨らんでいったのかもしれません。

ちなみに、現在京都の貴船神社は24時間の開門はしていないため丑の刻参りは実質不可能です。

くれぐれも神社のご迷惑になるような行為は慎んでください。

 

How to the『丑の刻参り』


引用元:https://www.news-postseven.com/

やたらとお勧めできる行為ではありませんが、一応スタンダードとされる呪い方を簡単にご説明します。

 

<用意するもの>

時代や地域により幾らかの違いはありますが、ここではオーソドックスなものを挙げます。

・蝋燭

・五徳

・五寸釘

・金槌

・藁人形

・方位磁石

・もし用意できれば呪う相手の身体の一部(爪・髪など)

※実際に入手するのは困難であるため、写真と名札でも効果は下がるが良しとされている。

 

<服装>

・白い服(和服でなくても可)

・顔を白粉で白く塗る

・真っ赤な口紅を濃く塗る

・頭に蝋燭を刺した五徳を被る

他にも一本歯の下駄もしくは長下駄を履く、口に櫛を咥える、お歯黒をする、胸に魔除けの鏡を下げるなど、服装には諸説あります。

ちなみに五徳と蝋燭は鬼の姿を模す意味の他に灯りが必要であったためであり、現代においては懐中電灯やペンライトでの代用もありのようです。

 

<手順>

丑の刻参りにおいて、手順はとても大切です。

間違えると倍返しの呪詛を自らが被ると言われているので、呪詛の予定のある方は慎重に行いましょう。

①道具を揃え身支度を完璧に整える

②釘(櫛説も)を口に咥えて儀式を行う場所に向かう

③北東に向かい(方位磁石使用)午前1〜3時(丑の刻)に神社の御神木に恨みを込めて藁人形を打ち込む

④この儀式を七日間続ける

 

丑の刻参りにおける注意点

<呪術的注意点>

・手順を守る

・途中で投げ出さず七日間続ける

・人に見られない

これらを破ると、人を殺すほどの強烈な呪詛が自身に返ってくると言われています。

 

<法的注意点>

不法侵入、器物損壊の罪に問われない場所を選ぶ

・儀式をしていることを相手に伝えたり、藁人形を送りつけると脅迫罪成立

・五徳と蝋燭を使用する場合は火傷に注意

法的に処罰されたり、顔面に酷い火傷を負う危険があります。

 

丑の刻参りを見てしまったら?

ここまでは呪詛を『行う側』の話をしてきましたが、何かの偶然でうっかり『目撃する側』になってしまった場合はどうすべきか?

答え:全力で逃げるべし。

これしかありません。

何故なら、儀式を目撃された人間が呪詛返しから逃れる唯一の方法が『目撃者を殺すこと』だからです。

今の時代に真剣に丑の刻参りをするような人間は、結構な確率で精神を病んでいる可能性があります。

病んでいなくても、呪詛というものを本気で信じているわけですから、呪詛から逃れることに関しても必死になるでしょう。

そう言った精神状態の人間が、五寸釘に金槌という極めて使い勝手の良い凶器を持っていることの意味をお考え下さい。

 

其の2 火起請(ひぎしょう)


引用元:https://yaplog.jp/

火起請とは、戦国時代から江戸時代初期に行われた裁判の一種です。

ただし、裁判と言ってもその方法は現代人の感覚では理解しがたいほどにワイルド。

検察も弁護士も裁判官も陪審員も証人もいません。

いるのは相容れない主張をする集団の代表一人ずつに立ち会い人、周りを取り巻くギャラリー。

用意されているのは真っ赤に焼けた鉄の棒が二本。

代表者は立ち合い人の前で焼けた鉄棒を素手で握って持ち運び、その完遂度合いによって所属集団の主張の是非が判断されました

こうした行為は武士だけでなく、むしろ農民の間でこそ土地の境界や水利権に関して盛んに行われていたそうです。

火起請の記録は会津地方や近江国など各地に見られます。

 

火起請の勝者・敗者

とんでもなく野蛮とは言え裁判は裁判、当然そこには勝者と敗者が存在します。

勝っても悲惨、負ければさらに悲惨な彼らの末路とは?

 

<勝者>

集団の主張を根性で押し通した立役者であり、村の英雄になれます。

しかし、焼けた鉄の棒を長く握っていた両手が無事で済むはずがありません。

薬も火傷治療のメソッドも確立していなかった時代において、重度の火傷を負うことは生涯癒えぬハンディキャップを負うことを意味します。

農民であれば農具を握れなくなることも珍しくなく、火起請を行った者の面倒は所属集団が見るべきとされていました。

 

<敗者>

火起請に失敗する(敗ける)=神仏を欺いたと見做され、引廻し・斬首などに処されます。

極端な場合には五体を引き裂かれたままの遺体を埋めた塚を複数設置し、その線上を土地や水利権の境界線とする例すらありました。

 

残酷で乱暴な裁判ですが、貧しい村同士が総力戦で潰し合うよりは犠牲が少ないということから考案されたものでしょう。

最大多数の幸福とは、言い換えれば最小人数の不幸なくしては成り立ちません。

ちなみに、類似した裁判形式としては煮え滾る湯の中に手を突っ込む湯起請や、無罪の人間は焼かれず溺れずの神明裁判などがあります。

 

其の3 石合戦


引用元:http://yajifun.tumblr.com/

上記で村の代表戦である火起請のお話をしたついでに、村人総動員の集団戦についても少し。

石合戦――もう名前からして何をするかお察しのことかと思われますが、土地や水利権で争う村人同士が手に手に石コロを持って投げまくります。

基本的には雪合戦と同じですが、いい大人がボールサイズの石を人に向かって全力投球するので当然死傷者が続出しました。

勝っても負けても双方あまりにダメージと遺恨が甚大なので、これをやるよりは『火起請にしておこうか?』となるのも納得です。

石合戦に勝利し利権を得ても、村人の多くが負傷して農作業に従事できない身体になってしまっては意味がありません。

隣接した村同士は婚姻関係を結んでいることも多いため、誰の投げた石で誰が死んだの大怪我をしたのと人間関係が拗れる可能性もあるでしょう。

最悪自分の産んだ息子が隣村に住む父兄の投げた石に当たって死ぬかもしれないのです。

善悪是非は別として、当時の農民が生きるためならば命懸けで石を投げ、焼けた鉄を握る逞しい人々であったことが窺い知れます。

 

模擬戦闘『印地打』(いんじうち)

石合戦は『印地打』(いんじうち)とも呼ばれ、元々は戦国時代の合戦を模して二手に分かれて石をぶつけ合う模擬戦闘でした。

一説によると織田信長は『尾張のうつけ』と呼ばれた吉法師時代、近隣の少年たちを集めてはこの印地打に興じていたと言われています。

傍目には遊んでばかりの若殿様は印地打を模擬合戦と捉え、地の利を生かし効率的に兵を配置する兵法を机の上の書物だけでなく実践で学んでいたというわけです。

信長が周囲に先んじて長槍(三間槍)や鉄砲に拘ったのは、この印地打で攻撃間合いの長さが生み出す優位性を身体で理解していたからかもしれません。

 

行事『向かい飛礫』(むかいつぶて)

五月五日には行事として行われ、『向かい飛礫』(むかいつぶて)と呼ばれ大人たちが行いました。

しかし、この行事はあまりにも危険でした。

利権が絡むわけでもないたかが行事――いわば季節の余興であるにもかかわらず、ガチ投げする大人気ない大人が多かったのか、毎年多くの死傷者を出し大規模な喧嘩に発展したそうです。

向かい合って人に石を投げつける行為自体が限りなく喧嘩に近いというのに、それ以上どう発展させるのか……素朴な疑問を感じます。

もしかしたらヨハネスブルクの石強盗状態で、握った石で相手の頭を直接カチ割ったりするのでしょうか。

些か脱線しましたが、かように危険極まりない行事であるため、鎌倉幕府三代執権北条泰時は向かい飛礫を禁止する条例を出しました。

切腹・打ち首・獄門磔OKの御時世に禁止されるとは、想像以上にとんでもない行事であったと思われます。

 

其の4 落ち武者狩り


引用元:https://bokete.jp

戦で負けた側の侍を指して落ち武者と呼び、それを農民が狩る行為を落ち武者狩りと呼びます。

普段は畑を耕しているお百姓さんたちが、何となくノリとその場の勢いで竹槍片手に『臨時収入欲しいなぁ』くらいの感覚で参加しているイメージがありますが、実際の落ち武者狩はエゲツないレベルでシビアです。

 

根底にある怨嗟

平時は過酷な年貢を取り立てられ、戦が始まるとなれば貴重な働き手を奪われる。

いざ開戦し故郷が戦場となれば、勝っても負けても丹精した田畑をめちゃくちゃに踏み荒らされ何の保証もない。

家を焼かれた者、田を焼かれた者、親兄弟を殺された者。

妻と娘を犯された男、子を浚われた親。

戦場には蹂躙された農民たちの怒りと恨みが渦巻いていました。

彼らにとって、戦をする侍は自国の殿様も敵国の大将も大差なく、根源的には憎い存在です。

普段偉そうにしているくせに、戦に負けるような無能な殿様であるならば、首を狩り取り敵国に差し出し褒美を貰うことを原則的には躊躇いません。

同様に敵国が敗れれば、敗残兵を襲い身ぐるみ剥いで首を取ることに罪悪感など持ちません。

追い立てられ、殺され、搾取される側の集団が、戦の勝敗という『革命』により追い詰め、襲い、奪う側に回った時、人はとてつもなく残酷な生き物になります。

落ち武者狩りとは、農民たちにとって経済活動であるだけでなく、怨嗟のはけ口でもあったのです。

 

報奨金制度

勝利した側の陣営が敵の幹部首に報奨金を掛けたり、逃げ込み先近辺の村に掛け合い『落ち武者狩り要請』をすることもありました。

村人は自分の村のこと以外には関わらず、どの軍の指揮系統にも入らないというスタンスで落ち武者狩を引き受けます。

定住型傭兵のようなビジネススタイルと言えるかもしれません。

極普通のお百姓さんが、有事の際には村ぐるみで殺し屋集団になるのですから怖い話です。

 

『法外人』と『自助救済』

日本における落ち武者狩りが下剋上を思わせるほどに苛烈であった理由の主たるものとして、中世以来の習慣である『法外人』と『自助救済』という考え方がありました。

 

<法外人>

読んでの字のごとく『法の外の人』を意味します。

つまり、落ち武者などの敗者は法の保護から外れる存在故、財産や命を奪っても法的・倫理的に悪ではないということです。

ちなみに落ち武者の定義は思いの外広く、戦に敗れ命からがら逃げ惑っている武士だけを指す言葉ではありません。

室町時代に関して言えば、没落した公家や武家は落人(おちうど)・落ち武者として扱われ、失脚した武家や流罪となった罪人も落ち武者と見なされ略奪の対象となりました

落ち武者判定、かなりシビアです。

没落は単に財テクが下手だっただけかもしれないし、失脚や流罪は戦犯ではなく政争で負けたり謀にハメられただけかもしれないというのに。

むしろ農民や弱者に心を寄せ、公明正大・清廉潔白であろうとした結果、エライ人たちから疎まれハメられ理不尽に流されることとて少なくなかったはずです。

取り敢えず高い所から堕ちた人間を見たら毟り尽くさずにはいられない。

そうした心理に陥るまで日々追い込まれて暮らさねばならない世界は、物質的な面だけでなく精神面でも残酷です。

 

<自助救済>

室町時代、百姓たちは自治村落・惣村(そうそん)を中心とし、村の問題を支配階級の介入なしに自己解決するようになります。

この惣村の自治には『自検断』なる処置権限があり、そこには成敗権(人を処刑する権利)と武力行使が含まれていました。

これが対外的には襲来する雑兵への防御となり、村に侵入するよそ者を戦って排除、抵抗すれば殺すといった体制になります。

そもそもの落ち武者狩はこの一環としての自衛だったのです。

 

武装戦闘農民

戦国時代の百姓は、多くの村において二種類存在していました。

いわゆる普通のお百姓さんとして農業に従事する『子百姓』。

名字と刀を持ち雑兵浪人として戦に参加し、戦場での略奪と落ち武者狩りがメインの『おとな百姓』。

おとな百姓が多い地域は落ち武者にとってかなりの危険地帯でした。

早鐘を打ち鳴らすや数百人の男たちが半具足の軽装で集結して作戦会議を開き、慣れた対応で戦闘名簿に名前を記入したという記録もあり、ここまで来るともはや武士の先陣作法さながらです。

どう考えても自助救済による自衛の範疇を逸脱し、狩りまくる気満々にしか見えません。

戦で被った被害は落ち武者から力技で取り返す、『金は天下の(無理矢理にでも)回す物』。

やはりこの時代の農民は恐ろしく、そして逞しい人々です。

 

其の5 鬼灯(ほおずき)と遊女


引用元:http://takachiho.ja-miyazaki.jp/

朱色の可愛らしい鬼灯は、夏の風物詩として観賞用として買い求められることの多い植物です。

浅草のほおずき市には、趣ある季節の催しとして例年たくさんの人々が足を運んでいます。

けれども、この鬼灯が江戸時代における中絶に重宝されていたことを御存じでしょうか?

 

当時の妊娠・避妊・中絶事情

江戸時代までの日本において、妊娠とはまさに『子は天からの授かりもの』であり、人が管理することはほとんど不可能でした。

時代が進むと魚の浮袋や獣の皮を用いたコンドーム的な避妊具が現れましたが、それらは高価であったため『そんなものもあるらしい』程度の認識で普及しなかったの現実です。

 

<農民・一般庶民>

そもそも農村では避妊・中絶という発想そのものがあまりなく、産んでから川に流したり口を塞いで始末したり、幾らかなり余裕があれば少し育てて人買いに売ったりしていました。

中絶する場合においても、吹聴せずとも憚らずで冷たい川に妊婦が浸かって流産を誘発させるか、鬼灯の根など子宮収縮作用のある植物を煎じて飲みます。

また、太く硬く真っ直ぐな鬼灯の茎を直接膣から挿入し、子宮内の胎児に突き刺すことも行っていたようです。

こうした処置は産婆が手掛けることもありました。

 

<富裕層>

武家や公家、裕福な商人などは堕胎専門の中条流と呼ばれる女医の手を借りました。

しかし、その方法は水銀と米粉を混ぜ合わせた錠剤を妊婦に飲ませるという極めて危険なものであり、胎児のみならず母体を傷付けることが多かったようです。

 

遊女の抱える特殊事情

さて、些か前置きが過ぎましたが、ここからが表題にもある『遊女と鬼灯』のお話です。

遊女という存在は、性に開放的であった江戸時代においてもやはり特殊な位置づけの存在でした。

彼女らはその仕事の性質上、常に妊娠と性病のリスクに晒されます。

故に、遊女たちは避妊に対しその時代の誰よりも真剣に取り組んでいたようです。

 

<遊女の避妊>

・御簾紙(みすがみ)

丈夫な和紙を口に含み、噛んで柔らかくしてから丸めて膣に詰めておく。

 

・洗浄

行為の後にひたすら局部の内外を洗い清める。

下湯(しもゆ)ともいう。

 

・灸

二月二日に臍下に灸をすえると妊娠しなくなると言われていた。

 

この他にも飲み薬がいくつか出回っていましたが、それらはいずれも高価で借金返済のために日夜働く遊女たちがやたらと買える代物ではありませんでした。

効能自体も避妊薬と堕胎薬が混同されているレベルなので、確実性においてかなり低い、もしくは女性の健康を損なう薬であったようです。

いずれも現代の知識をもって見れば甚だしく不完全な避妊であったため、どれほど注意していても妊娠してしまう遊女は後を絶ちませんでした。

 

<遊女の妊娠>

遊女の妊娠は誰からも祝福されない厄介ごとに他なりません。

腹が大きくなれば仕事にならず、全体の秩序を保つためにも廓での出産など以ての外(ごくまれに許され出産しても、すぐに里子に出される)。

医者だの高価な薬だのを用いれば、金がかかって借金がかさむ一方。

その道のプロである遊女が客の子を孕むことは恥とされ、廓の格や遊女の人気度合いによっては楼主や遣り手が大っぴらにすることを好まないこともありました。

となると、廓内で出来る安上がりな手段として鬼灯がより多用されるようになります。

その方法は、陰干しした鬼灯の根を湯でふやかして膣内に入れておき、そこから溶け出すアルカロイドという毒で胎児を腐らせるという残酷なものでした。

母体へのリスクが非常に大きな方法ですが、簡単・確実・低コストであるためよく使われていたそうです。

他にも、焼き鳥の串などを経膣挿入し、直接胎児を刺し殺す方法もありあました。

遊女たちの最大の望みは『妊娠しない身体』になることであったため、乱暴な堕胎で『二度と子供の出来ない』身体になることはむしろ好ましかったのです。

 

其の6 畜生腹(ちくしょうばら)


引用元:https://millymilly.jp/

双子の妊娠出産は、現代においても通常よりも母体に負担がかかりハイリスクです。

さらには生まれてからの育児にも金銭的・体力的・精神的に苦労が多いのは事実でしょう。

けれども、そっくりな二人の赤ちゃんが並んでいる姿を見れば、誰もが目を細め笑顔になるものです。

それがほんの百年前頃までは『畜生腹』と呼ばれ疎まれていたことを御存じですか?

 

双子が忌まれた理由

医学が未発達であった時代、発生メカニズムのわからない双子は不気味な存在として疎まれました。

ほとんどの人間は、一度の出産で一人の赤ん坊を出産します。

対して犬を初めとする動物の多くは一度の出産で数匹の仔を産みます。

人間でありながら一度に二人以上の子を産むなど動物=畜生と同じだ。

そうした考えから、双子を出産した母親・双子として産まれた子供たちは『畜生腹』『畜生孕み』と蔑まれ嫌われました。

嫁いだ家によっては、不吉な双子を産んだ不幸を呼ぶ嫁として離縁されることすらあったといいます。

特に男女の双子は前世で心中した者同士の生まれ変わりとされ、忌み嫌われました。

こうした風習は江戸…せいぜい明治時代までかと思っておりましたが、90歳になる老婆が子供の頃、周りの大人たちはまだそうした言葉を日常の中で使っていたそうです。

 

双子が忌まれた現実的事情

それなりの身分や土地財産のある家において、家督を誰が継ぐかという問題は非常に重要です。

日本においては、かなり最近まで長男が継ぐのが一般的とされていました。

しかし、もし長男が双子であったらどうでしょう?

一気に問題はややこしく、デリケートになってしまいます。

先に産まれたのが長男か?

いや、着床順ということで言えば後から生まれた子か?

いやいや、赤子とて母の腹の中で動くのではないか?

いやいやいや、やはり発育の良い方が兄ではないか?

誰も明確な答えを出せない議論になるでしょう。

さらに赤ん坊が育つ過程で、意図的か否かは別として『長男』と『次男』が入れ替わって気づかれない可能性もあります。

家督争いからのお家騒動は一族衰退の元、ならば双子の片割れを殺すか寺に入れるかどこかに養子に出してしまおう。

一個人の人生よりも『家』が最優先される時代において、それは残酷ではあっても間違った選択ではなかったのです。

ちなみに、現代では後から生まれた方が兄・姉とされます。

 

多産を罵る言葉

『三年子なきは去れ』という言葉があるように、近代まで女性は丈夫な子供をたくさん産むことを望まれ強いられてきました。

しかしその一方で、家の経済状態をひっ迫させるほど多産な女性を『畜生腹』と呼び、『いやらしい』『慎みがない』『好き者だ』と蔑む風潮もあったそうです。

産めなければ『石女』(うまずめ)と蔑まれ、産み過ぎても『畜生腹』と罵られる。

どちらもその時々の周囲の都合を女性に押し付ける、身勝手で残酷な言葉ではないでしょうか。

 

其の7 青森県津軽の人形婚

津軽は元々地蔵信仰がたいへん盛んな土地です。

そこで幼くして亡くなった子供を弔うために親たちは木や石で地蔵を作り、名前を付けて村の地蔵堂や墓所に奉納し、定期的に衣裳を替え化粧を施すという独特のスタイルを作り上げてきました。

この地蔵信仰は今も残り、『子供が生きていたら今頃…』と思われる品々――新品のランドセル・玩具・洋服などが川倉賽の河原地蔵尊堂にはたくさん祀られています。

 

川倉賽の河原地蔵尊堂

 


引用元:https://blog.tugarujikukan.info/

一説では恐山よりもディープと言われている霊場で、津軽の地蔵信仰の中心です。

ここには二千体を越える地蔵が奉納されており、それらは全て水子や幼児など子供の霊を供養しています。

この地蔵尊堂に、地蔵とは別にガラスケースに入った人形が、ある特殊な目的のために祀られているのです。


引用元:https://blog.tugarujikukan.info/

花嫁・花婿人形の前に立てかけられている、赤ん坊や幼児や若者の写真。

異様とも思えるこの形式こそが、未婚のまま亡くなった子供にあの世で結婚させる『冥婚』です。

 

冥婚が持つ二つの意味

未婚のまま若くして亡くなってしまった可愛い我が子に、せめてあの世で良い結婚をさせてやりたい。

人並みの幸福を経験させてやりたい。

冥婚とは、そうした親たちの切なくも純粋な愛情の表れです。

しかしその一方で、東北地方には未婚で死んだ者は正常な生を全うしていない、故に祟りなす怨霊となるという独特の宗教観がありました。

年頃になれば結婚して子供を産み育てるのが当たり前、やがては祖霊(ご先祖様)になってこそ真っ当な人間であり、結婚しない・子供を産まない作らないという選択肢がなかった時代です。

未婚のまま亡くなった男女は『家』に組み込まれず『無縁仏』と見なされました。

つまり、結婚していない=(理由が早逝であっても)真っ当ではないという考えです。

真っ当でない親族が怨霊化して祟ると困るから、生きていれば適齢期に達する頃合いに花嫁・花婿人形と結婚させ、『一人前の真っ当な』人間に仕立て上げたてから祖霊として祀るシステム。

冥婚にはこの世に生きる者のニーズを満たす意味合いもあったのです。

ちなみに、人形が奉納されるスタイルは1930年に戦争で未婚の息子を失くした母親が、手作りの夫婦人形を奉納したことが始まりとも言われています。

それを見た同じ境遇の人たちが我も我もと人形を持って来た背景には、我が子の死を『名誉の戦死』と晴れがましく形容することを強いられた鬱憤もあったのではないでしょうか。

それ以前は、地蔵が花嫁・花婿の役割も務めていたそうです。

 

其の8 山形県村山地方のムカサリ絵馬


引用元:https://ameblo.jp/casheco/

こちらも人形婚と同じ冥婚です。

ムカサリとは方言で『迎えられ』から転じて『婚礼』を意味します。

その始まりは古くは江戸時代まで遡り、明治・大正には一般的でなかったものが1945年の終戦後から急激に増加しました。

テレビで取り上げられたことから県外からの依頼も増え、近年では昔ながらの習俗から離れ、多種多様な死者を幸福な結婚状態にして供養するようにもなっています。

 

絵馬のタブー

早くに亡くなった家族を想うムカサリ絵馬ですが、絵馬に花嫁・花婿を描く時に絶対にしてはいけないことが一つあります。

実在する生者の顔・名前を書いてはいけない。

うっかりこの禁を犯すと、亡くなった方が生者を自分の配偶者だと思い込み、自分の世界=あの世に引っ張って行ってしまうと言われています。

よって、絵馬に描くのは架空の人物、もしくは既に亡くなっている人物でなくてはいけません。

既に亡くなっている方というのも、場合によっては勝手なことをされてあの世で大迷惑しそうですが…。

 

其の9 骨噛み


引用元:http://healthpress.jp/

現代日本における葬儀スタイルは、そのほとんどが火葬です。

実は土葬も法律的にはOKなのですが、多くの地域において条例で禁止されています。

よって、私達は故人のお骨と対面する機会がそれなりに多いかと思われます。

ある程度の年齢であれば、誰しもお骨を灰の中から拾い上げ、隣の人と箸で受け渡したことがあるのではないでしょうか。

もしその席で、誰かが故人の骨を口に入れて噛み始めたら大多数の方はギョッとするでしょうが――それが骨噛みという風習なのです。

 

哀惜からの行為

福岡県筑豊地域の方言に『骨噛み』という言葉があり、山折哲夫の著書によると『近親者や知人が焼き上がって来たホトケの骨を実際に噛んで、哀悼の意を表す言葉だった』ようです。

実際に、葬儀の場面でお骨を食べる風習があった地域も存在します。

ただし地域を限定しようと調べても、わりとあちこちで行われていることから、地域よりも個人や集団の宗教観によるところも大きいのかもしれません。

カニバリズムやそれに類する行為は文明社会においてタブー視されるのが通例ですが、この骨噛みに関しては最愛の相手への強い哀惜の念からと容認されている部分があるようです。

 

其の10 瞽女(ごぜ)


引用元:https://hirosi906.exblog.jp/

瞽女(ごぜ)という言葉を、ここで初めて目にする方も多いのではないでしょうか?

瞽女とは盲目の女性だけの芸能集団を指し、全国を巡業して三味線と唄を披露して生活していました。

最初に明言しておきますが、彼女らは芸能プロ集団であって可哀想な人たちでも物乞いの類でもありません。

また、一人前になるまでの厳しい修行をして一概に残酷というのも失礼な話です。

しかし、その一方で『人並みに目さえ見えていたら…』と唇を噛むような多くの理不尽にも晒されてきました。

 

瞽女の歴史

<近代以前>

瞽女の起源は明確には不明とされていますが、室町時代後期に書かれた書物に既にその名が『御前コゼ女盲目』として記されているので、かなり古くから原型となる存在はいたのでしょう。

男性の琵琶法師もそうですが、日本では盲目の人間が生計を立てる手段として音楽を選択することが多かったのです。

江戸時代の瞽女はなかなかに優遇されていて、越後国高田(新潟県上越市)長岡(長岡市)駿河国駿府(静岡)等では屋敷を与えられ、一箇所に集まり『瞽女屋敷』に定住しているケースもありました。

全国組織ではなく、師匠のもとに住み込みの内弟子として入り、起居を共にしながら芸を伝授されます。

娯楽の少ない当時の農村部において瞽女の巡業は歓迎されました。

また、江戸中期・後期の瀬戸内にいた瞽女の多くは、藩から視覚障碍者の『扶持』を受けたと言われています。

 

<近代以降>

全国に瞽女組織はありましたが、もっとも大きな拠点は新潟で長岡と高田が二大派閥を為していました。

活動は近代以前と基本的には同じで、三味線と唄を携え各地を巡業します。

彼女らの唄は、主に豪雪地方の村落などで農閑期の娯楽として歓迎されました。

しかし、ラジオが出回る頃から瞽女の稼業に陰りが生じます。

冬にだけ聞けるプロの唄声が、いつでも気軽にタダでラジオから聞けるのですから商売あがったりです。

さらに第二次世界大戦後にテレビが出回ったこと、農地改革で土地財産を失った地主たちに瞽女宿を提供する力がなくなったことが追い打ちをかけ、彼女らのほとんどは転職・廃業を余儀なくされました。

残念ながら過酷な巡業の旅を経験した本物の瞽女は既に存在しませんが、日本の伝統芸能を保全しようとの活動は行われています。

 

職業選択の圧倒的不足・容赦のない差別

先に『瞽女は可哀想な人たちではない』と述べましたが、盲目の女児に対する社会の在り様は『惨い』としか言いようがありません。

何故なら、当時の日本では目の見えない女の子に出来る仕事は按摩か瞽女か女郎と言われていたからです。

ここからは後に人間国宝にまでなった小林ハルさんの生涯をモデルケースとします。

 

生後三ヵ月で盲目となったハルは、父が早逝、母は病弱であったため大叔父に養育されるも、そこでの暮らしは幼児虐待でした。

・盲目の子が産まれたことを世間に知られては体裁が悪いからと、ハルを常に人目につかぬ屋敷の奥の寝間に置く。

・呼ばれた時以外声を出すのも禁止。

・トイレが近くなるからと水分摂取も制限。

・八歳になるまで遊んだことがない。

子供の権利も人権も何もあったものではありません。

限りなく監禁生活です。

 

・盲目と知れてからは名前すら呼ばれず『盲っ子』『トチ』(盲目を指す)と呼ばれる。

・16歳年上の兄に頻繁に暴力を振るわれるも家族はスルー。

・『オマエに誕生日はない』と言われていたため、晩年老人ホームに入るまで自分の誕生日すら知らなかった。

幼児に対して16歳年上の兄が暴力、下手したら死にます。

むしろ『不幸な事故死』を願っていたのかと勘ぐってしまいます。

 

・占い師が『この子は長生きする』(実際ハルは105歳の大往生で平成17年まで存命であった)と言ったため、瞽女にすることに。

本人の意思というものに頓着しません。

当時盲人が生計を立てるには鍼・按摩・琴・三味線など限られてはいましたが、わずか五歳で親に人生を決められてしまうのは現代人の感覚からすれば恐ろしいことです。

ハルの生家は庄屋で比較的裕福であったのに、よほど早く追い出したかったのでしょう。

 

・弟子入り決定

・最初の稽古までに何でも一人で出来るようにしておけと師匠から申し渡される。

・母親が礼儀作法・編み物・縫物・着物の着方・風呂敷での荷造り・荷運びなどを超スパルタ教育。

・課題が出来ないと飯抜き。

五歳と言えばまだ幼稚園児です。

そんな年齢の子供つかまえて、『何でも出来るように』といきなり無茶振りする師匠。

この地点で地雷臭しかしない師匠の元に、目の見えない幼児を預ける親族。

そういう時代であったと言えばそれまでですが、障害を持って生まれた子供にとって社会そのものが恐ろしく残酷です。

家長である大叔父には逆らえず、心を鬼にして幼い我が子に教えられること全てを叩き込んだ母親も辛かったことでしょう。

 

限りなく人身売買

いよいよ正式に弟子入りとなりますが、その際に交わされる契約が限りなく人身売買のそれに近いものがあります。

21年間の修行をする約束のもと、ハルの親族はその間の経費や稽古料を先払い

さらに21年の年季が明ける前にハルの事情で弟子を辞める場合には親族が違約金を支払う契約が結ばれました。

これ、何かに似ていると思いませんか?

形としては遊女と真逆でありながら、売られた娘の置かれる追い詰められた状況がそっくりなのです。

師匠に先払いしたんだから(遊郭に借金したんだから)年季が明けるまで死んでも帰って来るな!

違約金なんぞ絶対払わん!(借金家では払えない!)

というわけです。

最大の違いは借金のカタである遊女にとって足抜け(脱走)が最大の罪であるのに対し、ハルの親族と師匠が結んだ契約内容だと師匠的には脱走大歓迎であること。

ハルが一日でも早く音を上げて逃げ出せば、師匠の手元には先払い経費21年分+違約金が丸っと転がり込むという寸法です。

そのため、最初の師匠はハルを苛め抜きました。

 

理不尽なイジメ

違約金を取りたい師匠は明らかに躾ではない苛めをハルに対して行います。

・満足な食事を与えない。

・暴力を振るう(脛には師匠の杖で叩かれた跡が残り、無数のヒビが入っていた)

・祝儀を多く貰えば盗難を疑い折檻。

・熱病にかかっても病気では違約金が取れないからと歩かせる。

・教えていない唄を歌っただけで山に一晩置き去り。

もはや苛めというフンワリとした表現では語れない犯罪です。

女性の力で脛にヒビ入れるほど叩くとなると、相当フルスイングしでますよ。

山に置き去りなど、健常者の子供であってもパニックを起こして死亡事故になりかねないというのに、師匠は何を考えていたものか…。

『躾のためにやった。まさか死ぬなんて思わなかった』が常套句の虐待親と同じです。

こうした行為の数々が、師弟関係は絶対だからと容認されていたことに恐怖を禁じえません。

 

過酷な稽古・巡業・掟

仮に理不尽極まりないイジメがなかったとしても、瞽女の修行や掟そのものが恐ろしく過酷です。

 

<稽古>

瞽女の稽古の一つに『寒声』というものがあります。

冬の寒い時期に発声練習をすことで、あえて出血するほど喉を傷めつけます。

声の出ないその状態から無理矢理絞り出すことで、『本当の声』『長い語りに耐える変わらぬ声』を得ること出来るとされました。

真冬の新潟で、早朝と夜に吹きっ晒しの土手に立ち、一ヵ月間毎日薄着に素足草履で声を出す。

人によっては身体を壊すでしょう。

 

<巡業>


引用元:http://kebayshi.blog.jp/

新潟を拠点に東北中を旅して回り唄を歌う。

言葉にすれば容易いことですが、盲目の女性集団である瞽女が豪雪に覆われた土地を歩いて旅することは容易ではありません。

そのため、先頭には『手引』とよばれる弱視・もしくは健常者の女性(多くは孤児などを子供の頃から瞽女が育てる)が立ち、写真のように連なった歩きました。

雪の中を寒さに凍えながら長く歩くことは若く健康な人間にとってすら楽ではなく、防寒・野外装備をしっかりしていても遭難事故がおきるものです。

行く先々で歓迎され、唄いながら旅から旅へ――こう表現するといかにも楽し気ですが、実際には厳しく辛いものであったそうです。

 

<掟>

瞽女には女性だけの障碍者集団が秩序を保つための掟が数多く存在したと言われています。

その一つが男性との交際禁止。

よりハッキリと表現すれば、性行為の禁止です。

理由の如何を問わず(強姦被害であっても)妊娠すれば掟により破門され、コミュニティから永久追放されます。

そのため、年頃になった瞽女は旅先の宿において夜這いから身を守る必要がありました。

しかし、自衛するといっても盲目の女性に出来ることはそう多くはありません。

ハルは編み物をして夜通し起きていたり、膝を縛って寝たりしていたそうです。

それでも『言うことを聞かないと殺す』と脅されたこともあったというから恐ろしい話です。

 

まとめ

日本に伝わる恐ろしい風習をなるべく広範囲に集めてみました。

肉体的に痛いもの、精神的に怖いもの、根本にあるものは美しいのに表現が過激なもの。

恐ろしいというよりは切ないもの、惨いもの。

大昔のものもあれば、今なお続いているものもあります。

日本の歴史を調べて行けば、まだまだたくさんの忘れ去られた風習や、あまり知られていない風習が出て来ることでしょう。

ひょっとしたら、あなたの住む街にもあなたの知らない闇の風習が歴史と共に眠っているかもしれません。

普段何気なく暮らしている故郷に興味が湧いてきませんか?




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