最近は、軍艦を扱ったゲームなども人気になり、駆逐艦という言葉も多くの人に知られるようになったと思います。
駆逐艦は、小さな船体に多くの兵装を積み、速力も高く、海戦では先陣を切って敵艦への攻撃を行います。
逆に、装甲はないに等しく、敵からの攻撃を受ければ、大きなダメージを受けてしまいます。
戦艦や空母と違って建造コストの安い駆逐艦は、艦体の軍馬(ワークホース)と呼ばれ、海戦から味方船団の護衛、対空戦闘など幅広い任務に活躍する便利屋のような艦でした。
ここでは、世界中で活躍した最強の駆逐艦たちをその最強エピソードも交えつつ、ランキング形式で紹介していきます。
そもそも駆逐艦とは
引用:wikiwiki.jp
「駆逐」とは、「敵や邪魔するものを追い払うこと」という意味です。
そもそも、どうして駆逐艦は駆逐艦というのでしょうか。
まずは、駆逐艦という艦種がどのようにして生まれてきたのかを説明していきたいと思います。
駆逐艦はいったいなにを駆逐するのか?
引用:連合艦隊ww2.jp
駆逐艦の出現に大きな関係をもっているのが、19世紀に開発された兵器である魚雷です。
魚雷とは、魚形水雷の略で、水中を進み、敵艦の喫水線下に大穴を開けることができる兵器です。
戦艦や空母といった大型艦であっても、水線下に損傷を受ければタダでは済まず、沈没する可能性もあります。
戦艦よりもはるかに低いコストで作れる上、莫大な建造費のかかる戦艦でさえたった1発で沈めてしまう魚雷は、まさに海戦を変える革命的存在でした。
引用:stonewashersjournal.com
この魚雷を高速の小型船に乗せ、敵の大型艦を攻撃させようとしたのが水雷艇です。
引用:ktymtskz.my.coocan.jp
小回りが利く上に強力な魚雷という兵器を装備し、安価で大量生産ができる水雷艇。
こんなものが群れを成して向かってきたら、戦艦にとってはかなり厄介な相手です。
そこで、敵の魚雷艇から戦艦を守るため、水雷艇よりも大きく、強い兵装をもつ高速の軍艦を建造することが考えられました。
それが「駆逐艦」で、本来は「水雷艇駆逐艦」というのが正式名称ですが、やがて最初の水雷艇がとれて、単に駆逐艦と呼ばれるのが一般的になりました。
その後、駆逐艦はその高速と兵装を活かして、水雷艇への対処だけでなく幅広い任務に使われるようになりました。
現代の駆逐艦
引用:interestyou.info
現代における駆逐艦は、昔よりも大型化したため排水量においても巡洋艦とほぼ変わらなくなってきており、アメリカのアーレイ・バーク級のようにイージス・システムを搭載して、兵装面でもイージス艦など他の艦種との垣根が低くなっています。
海上自衛隊において護衛艦と呼ばれている船も、他国における駆逐艦相当の艦です。
一概に駆逐艦の名前で呼ばれているわけではありませんが、現代において各国海軍の主力になっている艦種は駆逐艦であるといえます。
第15位 グロム級駆逐艦 (ポーランド)
引用:ja.wikipedia.org
グロム級駆逐艦はポーランド海軍がイギリスから購入した駆逐艦で、ポーランド語で「雷鳴」を意味する1番艦「グロム」と「稲妻」を意味する2番艦「ブリスカヴィカ」の2隻です。
ポーランドの駆逐艦は、陸路が使えなくなったときに備えてバルト海の航路を守ることを使命としていましたが、予算の関係上大量配備は望めなかったので、1隻1隻を大型で重武装・高速にするという欲張りな設計になっています。
グロム級は、全長114m、排水量2011トン、速力39ノットで、乗員200名、12㎝連装砲3基と3連装魚雷発射管を備えています。
1939年にドイツが侵攻を開始すると、ポーランドは1か月あまりで占領されてしまいます。
勝ち目がないことを悟ったポーランドは、手持ちの艦艇をイギリスへ逃がすことを決めます。
これはペキン作戦と名付けられ、見事逃亡に成功したグロムとブリスカヴィカは、その後はイギリス艦隊の指揮下に入って戦いました。
第14位 タシュケント (ロシア)
引用:ja.wikipedia.org
タシュケントはロシア(当時のソ連)で建造された、駆逐艦隊の旗艦となる大型の嚮導駆逐艦と呼ばれる駆逐艦です。
ソ連では嚮導駆逐艦の艦名に都市の名前を使っていて、タシュケントは現在のウズベキスタンの首都の名前です。
タシュケントは外国の造船技術を導入するため、イタリアのオート・メラーラ社の技術協力を得て建造されました。
タシュケントは全長139.75m、排水量2893トン、乗員250名、速力42.5ノットで、13㎝連装砲3基に加えて三連装魚雷発射管3基も搭載し、魚雷発射本数9本は日本海軍の特型駆逐艦にも匹敵します。
高速で、小型の巡洋艦なみの大きさと武装をもつタシュケントは、一時期船体がブルーに塗装されていたことから、「青い巡洋艦」とも呼ばれていました。
タシュケントにはソ連国内で同型艦を建造する計画がありましたが、当時のソ連の技術力ではイタリア艦を再現することができず、タシュケントは仲間のいないひとりぼっちの駆逐艦になりました。
タシュケントは第二次大戦中、黒海に配備され、セヴァストポリ防衛線などで戦いました。
1942年6月セヴァストポリから負傷兵や民間人を脱出させている途中にドイツ軍機の空襲に遭いますが、傷だらけの状態でなんとかノヴォロシスクの港まで味方を送り届けることに成功します。
ですが、翌日再び空襲を受けて大破着底、その艦歴に幕を下ろしました。
第13位 マハン級駆逐艦 (アメリカ)
引用:http://destroyerhistory.org
マハン級駆逐艦は、駆逐艦の排水量などに制限を加えたロンドン海軍軍縮条約をきっかけにして、アメリカ海軍が建造した新型駆逐艦です。
マハン級は全長104m、排水量1500トン、乗員158名、速力37ノット、12.7㎝単装両用砲5基に四連装魚雷発射管3基を搭載しています。
それまでのアメリカ駆逐艦の特徴だった平甲板(フラッシュ・デッカー)をやめ、航洋性(大海原を航海する能力)に優れた船首楼船体を採用し、日本を仮想敵国として太平洋での戦いに備え、燃費を向上させて12ノットで6940浬という長大な航続力を誇ります。
太平洋戦争ではソロモン諸島の戦いなどでアメリカ駆逐艦の主力として戦い、戦争後半にはネームシップの「マハン」や「リード」がカミカゼ特攻隊の突入を受けて損傷しています。
マハン級を発展させたグリッドレイ級やバグレイ級、バグレイ級の発展形であるシムス級など、その後のアメリカ駆逐艦の礎を築きました。
第12位 ソルダティ級駆逐艦 (イタリア)
引用:http://military.sakura.ne.jp
イタリア駆逐艦はもともと、大型の偵察型と小型の艦隊駆逐艦の2系統で整備が進められていましたが、1938年にどちらも駆逐艦に統合されました。
ソルダティ級は艦隊駆逐艦の系譜を継ぐ艦で、第二次大戦の開戦時には最新鋭の駆逐艦でした。
ソルダティ級は、全長106.7m、排水量1650トン、乗員206名、速力38ノットで12㎝連装砲2基と砲戦力は低めですが、3連装魚雷発射管を2基搭載しています。
イタリア海軍の艦艇全般にもいえることですが、狭い地中海での行動を前提にしていたため航続距離が短いことや、速度性能を優先して船体を細長くする傾向があったために復原性(波などで船体が傾いた時に転覆せずにもちこたえられる能力)が低いなどの欠点もありました。
第11位 ギアリング級駆逐艦 (アメリカ)
引用:http://destroyerhistory.org
ギアリング級はフレッチャー級駆逐艦の最終発展形で、航続性能を向上させるため、船体を延長して燃料庫を増設しています。
全長は118.93m、排水量2450トン、乗員336名、速力は34.5ノットと低くなっています。
12.7㎝連装両用砲3基を搭載し、魚雷発射管は後期生産分からは撤廃されました。
ギアリング級は、アメリカ艦らしく優れた電子兵装ももっており、日本軍の電探(レーダー)に対する妨害電波を発生させる逆探も装備していました。
就役開始が1945年3月からだったため、計画された105隻のうち、終戦までに完成したのは41隻のみで、戦没艦はありませんでした。
第10位 ル・ファンタスク級大型駆逐艦 (フランス)
引用:ja.wikipedia.org
フランス海軍は長年イタリア海軍をライバルと見なしていて、イタリアのもつ駆逐艦への対抗策に加えて不足しがちな軽巡洋艦戦力を補うため、大型駆逐艦の整備を行いました。
ル・ファンタスク級大型駆逐艦は、1935年から6隻が竣工し、「超駆逐艦」と呼ばれるほど高い能力をもっていました。
ル・ファンタスク級は、全長132.4m、排水量2596トン、乗員220名、13.8㎝単装砲5基、3連装魚雷発射管3基という軽巡なみの武装を搭載しています。
史上最速の駆逐艦「ル・テリブル」
引用:ja.wikipedia.org
さらに、ル・ファンタスク級で特筆すべきは速力です。
ル・ファンタスク級は、基本は最大速力37ノットですが、4番艦の「ル・テリブル」は、1935年の公試(海上公試:船舶建造の最終段階で行われる性能テスト)で45.25ノットという数値を叩き出し、各国の海軍関係者を驚かせました。
この記録は現在に至るまで駆逐艦としては史上最速となっていて、ル・テリブルは史上最速の駆逐艦としてギネスブックにも載っています。
第9位 A~Z級駆逐艦 (イギリス)
引用:www.pinterest.jp
A~Z級駆逐艦は、イギリスが第一次大戦後に初めて建造した駆逐艦で、大量生産によってイギリスの強力な駆逐艦戦力になりました。
A級なら「アカスタ」「アクティブ」、B級なら「バシリスク」「ビーグル」というように、艦名にそれぞれのアルファベットからはじまる単語がつけられているのが特徴です。
それぞれの級で、駆逐艦隊のリーダーとなる嚮導駆逐艦1隻と通常型8隻の合計9隻が建造され、艦隊を組織しました。
全長98.45m、排水量は1375~1920トン、乗員145名(嚮導型は178名)、12㎝砲4~6門、魚雷発射管2基搭載で、速力は36~37ノットとなっています。
新型のソナーや対潜兵器ヘッジホッグなども装備し、対潜水艦戦にも強い駆逐艦になっています。
「グロウワーム」重巡ヒッパーに体当たりを敢行!!
引用:http://warfarehistorynetwork.com
グロウワームは、G級駆逐艦の5番艦で、艦名のグロウワームはホタル科の昆虫の名前からとられています。
1936年1月22日に竣工し、地中海や北海方面での護衛任務についていましたが、そのあいだに姉妹艦グレネードなどと2度にわたる衝突事故を起こしています。
不名誉な出来事ばかりが続いていたグロウワームが、その勇敢さで戦史に名を残したのが、1940年4月8日、ノルウェー沿岸での機雷敷設ウィルフレッド作戦に参加したときでした。
船から投げ出された乗員を捜索するために単独で行動していたグロウワームは、ドイツ駆逐艦2隻と遭遇します。
さらに、ドイツ海軍は増援として重巡洋艦アドミラル・ヒッパーを差し向けてきました。
遥かに格上の敵を相手に、グロウワームは果敢に戦い、煙幕を展張しながら魚雷攻撃を行いますが、雷撃はすべて外れてしまいます。
ヒッパーの砲撃により次々と被弾したグロウワームは満身創痍となって追い詰められました。
もはやあとがないと考えた艦長ジェラード・ループ少佐は、2隻が近接していたことをみて、グロウワームそのものを弾丸としてヒッパーを攻撃することを決断しました。
グロウワームはヒッパーに体当たりし、艦首付近に衝突して500トン以上の浸水を生じさせます。
しかし、ヒッパーを仕留めるには至らず、火災の発生したグロウワームは艦長ループ少佐以下109名とともに海に沈みました。
敵を倒すことはできませんでしたが、圧倒的不利な状況の中で、グロウワームは海戦史に残る勇敢さをみせたのです。
第8位 駆逐艦「島風」 (日本)
引用:http://japanese-warship.com
駆逐艦「島風」は、アメリカが就役させる速力37~38ノットの駆逐艦に対抗するために日本海軍が計画した高速駆逐艦で、1939年から開発がはじまりました。
日本海軍最速の40ノットという速力を誇る島風は、実験艦として建造されたため、島風1隻のみで同型艦はありません。
全長129.5m、排水量2567トン、速力39ノット(全力40.90ノット)、乗員267名、12.7㎜連装砲3基に加え、5連装魚雷発射管を3基も搭載し、最大で魚雷15発同時発射という驚異的な水雷戦力を誇ります。
1隻だけの高速駆逐艦
島風は、高速力を発揮するために陽炎型「天津風」が試験的に搭載していた高温高圧ボイラーが採用され、出力は陽炎型の52000馬力から75000馬力と1.5倍にも増強されました。
戦闘中に敵の魚雷を追い抜いたという逸話も残る島風は、公試運転で40.90ノットを発揮し、日本最速の駆逐艦になりました。
高速を活かして戦場を駆け回り、強力な魚雷攻撃で敵艦を沈めることを期待されていた島風ですが、実戦においては活躍の機会は少なく、目立った戦果を上げることはありませんでした。
同型艦がなかったこともあって、他の艦と駆逐隊を組んだりすることもなく、少し使いどころの難しい艦だったようです。
しかし、キスカ島の撤退作戦やマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などにいくつもの海戦に参加しています。
島風は、1944年11月のレイテ島への輸送作戦の途中、アメリカ空母機の空襲を受け、機銃弾などで機関が爆発し、最期を迎えました。
第7位 Z23級駆逐艦 (ドイツ)
引用:en.wikipedia.org
ドイツ海軍は第一次大戦の敗北により、艦隊戦力のほとんどを失い、さらにはヴェルサイユ条約によって軍備に制限がかけられ大型の駆逐艦の保有まで禁じられてしまいました。
そこで、小型ではあるものの制限ぎりぎりの大きさにしたZ1級駆逐艦の建造が1934年からはじまりました。
Z級のZはドイツ語で駆逐艦を意味するZerstörer(ツェアシュテーラー)の頭文字です。
ドイツが再軍備をはじめてからは駆逐艦も大型化が進み、Z23級からは全長127m、排水量2603トンの堂々たる艦体になり、乗員220名に速力は38ノット、主砲は軽巡洋艦なみの15㎝砲4門を搭載しています。
武装ではほかに、魚雷発射管2基や爆雷投射機4基も備えています。
他国の駆逐艦と比べて高いスペックをもち、なかでも砲戦力はトップクラスでした。
しかし、主砲が大きいために重心が高くトップヘビー気味でバランスが悪いことや、レーダー兵装が弱いこと、機関の信頼性が低くて故障が多いこと、航洋性に難があることなど欠点もありました。
なによりも、ドイツ海軍のネックとなったのが駆逐艦戦力の少なさで、大戦開始時にも40隻ほどしかなく、ライバルのイギリス海軍が200隻以上を保有していたのと比べると雲泥の差でした。
そのうえ、1940年4月ノルウェー侵攻の際に起こったナルヴィク海戦では10隻が沈没、5隻が損傷という、開戦直後にも関わらず大打撃を受け、駆逐艦不足に拍車がかかりました。
イギリス軽巡エディンバラを仕留めた「Z25」
引用:intscalemodeller.com
Z23級の3番艦Z25は、1940年11月30日に竣工しました。
1941年4月30日、北極のバレンツ海でイギリスのタウン級軽巡エディンバラがUボートの攻撃を受けて損傷しているという情報がもたらされます。
Z25はこれにトドメを刺すため、僚艦2隻とともに出撃しました。
エディンバラを発見した3隻は攻撃を開始、Z25の放った魚雷は見事エディンバラに命中し、ほかにも仲間と協力してイギリス駆逐艦2隻を砲撃で損傷させました。
エディンバラはZ25の雷撃により修復不能なほどの損害を受け、味方駆逐艦により雷撃処分されました。
第6位 トライバル級駆逐艦 (イギリス)
引用:ja.wikipedia.org
トライバル級駆逐艦は、日本の特型やドイツのZ級に対抗するため、従来よりも大型で攻撃力の高い駆逐艦を目指して1934年から設計が始められました。
艦名には世界の民族の名前がつけられていたため、「トライバル(Tribal:部族の)」級と呼ばれています。
全長114.91m、排水量1870トン、速力36.5ノット、乗員190名、12㎝連装砲4基搭載や40㎜ポンポン砲、4連装魚雷発射管を装備しています。
砲力は12㎝砲が8門と、同時期の世界の駆逐艦のなかでトップクラスを誇りましたが、その代わりに魚雷発射管が減らされているので一長一短といえます。
しかし、当時のイギリス海軍にとっては間違いなく最強の駆逐艦でした。
建造された16隻中12隻が戦没していることは、トライバル級が第二次大戦中に過酷な戦場で戦い続けた証といえます。
「コサック」イギリス海軍最後の接舷斬り込み
引用:http://www.naval-history.net
トライバル級4番艦のコサックは、イギリス駆逐艦のなかで最も活躍したといえる艦です。
艦名の由来は、コサック・ダンスで有名なロシアのコサック族からとられています。
ちなみに、コサックとはもともとロシア帝国時代に農奴制から逃亡した農民などが中心になって作られた共同体のことで、特定の民族や部族を指すものではありません。
コサック・ダンスも日本で有名な腕を組みながら中腰になって足を上げる踊り以外にも様々なタイプが存在します。
さて、戦争も目前に迫った1938年6月7日に竣工したコサックが最初にその名を轟かせたのが、1940年2月16日のアルトマルク号事件でした。
この事件は中立国ノルウェーの領海内で、ドイツの輸送船アルトマルク号が拿捕されたというもので、これをきっかけに輸送路の確保に不安を感じたドイツはノルウェーへの侵攻を決めたという、その後の戦争の行方に影響を与えた事件です。
このときアルトマルク号には、イギリス人捕虜約300名が乗せられていました。
コサックは逃走しようとするアルトマルク号に強行接舷し、乗員が武器をもって甲板へ突入するという、イギリス海軍史上最後の接舷斬り込みを行いました。
接舷斬り込みとは、相手の船に自軍の船を接触させて兵士を移乗させ、白兵戦を行うというもので、古代ローマの時代から行われていた戦法です。
大砲の命中率が低かった帆船時代には斬り込みこそが、海戦の雌雄を決する重大な戦いでした。
昔は、海の戦いも陸の戦い同様に武器を使っての斬り合いで決着がついていて、イギリス海軍では1936年までカットラス(湾曲した剣)が制式装備とされていました。
まさかイギリス軍が乗り込んでくるとは思っていなかったアルトマルクのドイツ兵たちはパニックになり、33人のイギリス軍臨検隊は、9人のドイツ兵を殺傷し、捕虜全員を無事解放することに成功し、最期の接舷斬り込みはイギリスの勝利に終わりました。
その後コサックは、発生したノルウェーでの戦いで、コサックは第二次ナルヴィク海戦でドイツ駆逐艦「ディーター・フォン・レーダー」と砲撃戦を行い、これの撃沈に貢献したり、1941年の起こったドイツ戦艦ビスマルクの追撃戦にも参加しました。
コサックは、1941年10月27日、Uボートの雷撃により、大西洋で撃沈されています。
第5位 バックレイ級護衛駆逐艦 (アメリカ)
引用:http://military.sakura.ne.jp
バックレイ級は大戦中にアメリカで建造された駆逐艦で、その名の通り、艦体に随伴して海戦を行うことを目的とした艦隊型駆逐艦ではなく、商船や輸送船を敵の潜水艦・航空機から守ることを任務とする護衛駆逐艦です。
全長93.3m、排水量1400トン、速力24ノット、乗員180名、7.6㎝単装砲3基、3連装魚雷発射管1基と、艦隊型に比べると船体も小さく、武装も控えめです。
しかし、2つの爆雷投下軌条に加え、爆雷投射機8基、対潜兵器ヘッジホッグなど護衛駆逐艦だけあって高い対潜能力を備えているのが特徴です。
バックレイ級は、もともとドイツUボートの脅威に晒されていたイギリスの要望により、レンドリース法(武器供与法)に基づきイギリス軍に供与するために造られたものでした。
イギリスは100隻という大量の駆逐艦を求めてきましたが、アメリカはその工業力を余すことなく発揮し、全国の造船所を動員して大量生産を推し進めます。
バックレイ級は量産の容易なブロック工法を採用し、154隻が建造され、イギリスだけでなくアメリカ海軍でも使用され、最も活躍したアメリカの護衛駆逐艦です。
1隻1隻の戦力は高いとはいえないバックレイ級ですが、その強さは数にあり、アメリカの物量を象徴するような存在です。
バックレイ級は船団護衛から潜水艦への攻撃など地味でも重要な任務に就き、軍隊の大動脈というべき海上輸送路を守りきりました。
日本潜水艦隊を殲滅した「イングランド」
引用:visitpearlharbor.org
イングランドは1943年12月10日に就役したアメリカ軍の駆逐艦です。
艦名は真珠湾攻撃のとき、戦艦オクラホマの艦上で戦死したジョン・イングランド少尉からとられています。
1944年5月イングランドは仲間の駆逐艦2隻とともにアドミラルティ諸島北方で日本潜水艦を捕捉しました。
これは、アメリカ軍がニューギニアを攻撃すると考えた日本海軍が配備したもので、日本の潜水艦は、散開線といって、潜航したまま海中に警戒線を作り、敵を待ち構えることになっていました。
この散開線はナ号散開線と呼ばれ、7隻の潜水艦が配備されていました。
しかし、日本軍のこの戦法はすでにアメリカに知られており、アメリカは日本潜水艦を1隻見つけると、その直線上に他の潜水艦もいるということを知っていました。
このときも、イングランドたちは散開線の潜水艦を次々と発見し、攻撃していきました。
ここで使われたのはヘッジホッグと呼ばれる、24発の爆雷を一度に投射できる対潜兵器で、潜水艦に対して高い攻撃力をもっていました。
ナ号散開線の日本潜水艦はわずか12日間で7隻中6隻が撃沈され、そのうち5隻がイングランドの放ったヘッジホッグによる戦果でした。
こうして、駆逐艦イングランドは対潜戦で、戦史に名を残す活躍を上げたのでした。
第4位 秋月型防空駆逐艦 (日本)
引用:ja.wikipedia.org
秋月型駆逐艦は、それまでの駆逐艦とは少し違い、もともとは空母とともに行動する直衛艦として計画されていたものが、魚雷兵装を追加して駆逐艦となったものです。
空母機動部隊に随伴して、敵機の空襲から空母を守る優れた防空戦闘能力をもつ艦として建造されました。
太平洋戦争後半における日本海軍の艦隊防空の基幹を担うとともに、水雷戦隊の旗艦として活躍することもありました。
秋月型は、全長134.2m、排水量2700トン、乗員273名、速力33ノットで、対空戦闘を行うための10㎝連装高角砲が4基の計8門、4連装魚雷発射管1基を搭載しています。
それまでの艦隊型駆逐艦を甲型駆逐艦と称したのに対して、使用任務が異なる秋月型は乙型駆逐艦と呼ばれています。
日本海軍では、艦隊の防空能力を強化するため、乙型駆逐艦の大量配備が計画され、秋月型も39隻が造られる予定でしたが、終戦までに完成したのは12隻だけでした。
そのうち6隻が戦闘によって失われています。
「初月」1対16の戦い
引用:ja.wikipedia.org
初月(はつづき)は、1942年に竣工した、秋月型駆逐艦4番艦です。
1944年10月に起こったレイテ沖海戦で、日本の機動部隊はアメリカ軍を引きつける囮として行動し、敵の空襲によって多くの空母が沈没。
随伴していた初月では多くの漂流者を救助していました。
そのとき、日本軍の生き残りを掃討するべく、デュボース提督率いる重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻の艦隊が接近してきました。
初月は、そのとき一緒にいた軽巡「五十鈴」駆逐艦「若月」を逃がすため、自らが囮となってたった1隻でこれに立ち向かいました。
絶望的な戦力差のなか、初月は果敢に立ち向かい、煙幕を張りながらジグザグ航走を行い、敵弾を上手くかわします。
さらに、雷撃も行い、発射管に魚雷がなくなったあとも魚雷を撃つフリをして敵艦をひるませています。
しかし、降り注ぐ集中砲火に火災が発生し、ついには爆発を起こし、初月は沈没しました。
初月はたった1隻で2時間近くにわたってアメリカ艦隊を足止めし、そのあいだに僚艦は逃げ延びることができました。
このとき、アメリカ艦隊は初月を重巡または軽巡と誤認していて、彼らにとって初月がそれほどにタフで手強い相手だったといえるでしょう。
第3位 陽炎型駆逐艦 (日本)
引用:ja.wikipedia.org
陽炎型駆逐艦は、艦艇の排水量に制限を加えていた海軍軍縮条約の失効を見越して、日本海軍が計画した駆逐艦です。
1937年から18隻が計画され、15隻が実際に建造されました。
このとき、建造されなかった3隻は、実は大和型戦艦の建造予算に充てるための架空予算として計上されていたものだったのです。
その後、さらに4隻が建造され、合計19隻となりました。
陽炎型駆逐艦は、全長118.5m、排水量2000トン、乗員239名、速力35ノットで、12.7㎝連装砲3基と4連装魚雷発射管2基を装備していて、さらに18ノットで5000浬という高速で長大な航続力をもっています。
さらに、陽炎型のもつ大きな特徴として、魚雷の次発装填装置の装備が上げられます。
これは、文字通り、戦闘中に魚雷を発射した後、次の魚雷を発射できるようにするもので、日本駆逐艦の戦闘能力を高めていた先進的な装備です。
次発装填装置自体は以前から搭載されていましたが、陽炎型ではそれまで人力だったものが機力化され、数分での再装填が可能になりました。
さらに、陽炎型は日本が誇る秘密兵器である九三式酸素魚雷を使うことができます。
酸素魚雷は航跡が見えにくいため回避が困難で、長射程をもっていたため、米軍からはロングランスと呼ばれて恐れられました。+
9番艦の天津風のみ、後に島風に搭載するための試験として、高温高圧の機関を搭載しています。
陽炎型は、太平洋戦争において日本駆逐艦隊の中心的存在として、数々の海戦に参加しましたが、それだけの戦没艦も多く、19隻中18隻が失われています。
奇跡の幸運艦「雪風」
引用:ja.wikipedia.org
雪風は、1939年に竣工した陽炎型駆逐艦8番艦です。
艦名の雪風とは、雪混じりの強風のことを指し、「蜻蛉日記」にも登場する古くからある言葉です。
雪風は、日本海軍きっての幸運艦として、戦争中からその名を知られた存在でした。
フィリピン攻略戦から、ミッドウェイ海戦、南太平洋海戦や第三次ソロモン海戦、コロンバンガラ沖海戦といったソロモン諸島での海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦といった太平洋戦争の主要な海戦にほぼ参加し、空母「信濃」が撃沈されたときの護衛艦をつとめていたり、大和の沖縄特攻に随伴したりと数多くの作戦に従事しながら、そのすべてを無傷で生き残りました。
命中しそうな魚雷がうまく艦底を通過したり、命中したロケット弾が不発だったりといった幸運なエピソードも残されています。
同じく幸運艦として知られていた駆逐艦「時雨」とともに「呉の雪風、佐世保の時雨」と讃えられました。
反面、雪風だけが無傷で生き残り、代わりに他の艦が被害を受けることから、「死神」「疫病神」といわれることもあったといいます。
雪風は戦後、中華民国(現在の台湾)に引き渡され「丹陽」と名を変え、海軍の旗艦もつとめました。
その名前は、海上自衛隊初の国産護衛艦「ゆきかぜ」に引き継がれています。
第2位 フレッチャー級駆逐艦 (アメリカ)
引用:www.navyhistory.org
フレッチャー級駆逐艦は、軍縮条約による排水量の制限が排除されることを見越して、アメリカ海軍が建造に着手した艦で、アメリカ駆逐艦ではじめて排水量2000トンを超す大型駆逐艦となりました。
フレッチャー級は、全長114.73m、排水量2110トン、乗員336名、速力は37.8ノットで、12.7㎝単装砲5基と5連装魚雷発射管2基を搭載しています。
驚くべきはその建造数で、1942年から44年の2年間のあいだに175隻もの艦が建造され、機動部隊の護衛や上陸作戦の支援、対潜作戦など多方面で活躍しました。
フレッチャー級は各兵装がバランスよく搭載され、対艦・対空・対潜戦闘となんでもこなすことができ、非の打ちどころがなく第二次大戦最優秀といわれることもある、高い性能をもった駆逐艦です。
栗田艦隊に立ち塞がった「ジョンストン」
引用:ja.wikipedia.org
ジョンストンは1942年に竣工したフレッチャー級の1隻で、艦名はアメリカ南北戦争で活躍した海軍のジョン・ジョンストン大尉から採られています。
1944年10月25日、レイテ沖海戦において、アメリカの上陸作戦を阻むべくレイテ湾を目指していた日本艦隊は、サマール島沖でアメリカの護衛空母部隊と遭遇しました。
これを敵主力の正規空母による機動部隊と勘違いした日本艦隊は、大いに沸き、早速攻撃を仕掛けてきました。
日本艦隊は栗田提督率いる、戦艦「大和」「長門」「金剛」「榛名」をはじめとして重巡、軽巡、駆逐艦など多数を含む強大な戦力です。
このとき、護衛空母部隊を守るため、日本艦隊に立ち向かったのがアーネスト・エヴァンズ中佐を艦長とするジョンストンでした。
ジョンストンは、煙幕を展張しながら果敢に砲撃と雷撃を行い、重巡「熊野」に魚雷を命中させています。
しかし、格上多数を相手にして敵うはずもなく、「大和」や重巡「羽黒」の砲弾を浴びて大破沈没し、艦長エヴァンズ中佐を含む92名が戦死しました。
しかし、ジョンストンの果敢な戦いは日本艦隊による空母への攻撃を妨害し、圧倒的な戦力差だったのにも関わらず、アメリカ側の損害は護衛空母1隻だけにとどまりました。
沈みゆくジョンストンの傍を通過した日本の駆逐艦「雪風」では、艦上で士官たちが敬礼し、その奮戦を讃えたといいます。
第1位 特型駆逐艦 (日本)
引用:ja.wikipedia.org
特型駆逐艦は、ワシントン海軍軍縮条約で戦艦、空母といった主力艦艇の保有制限を受けた日本が、それを補うための強力な補助艦艇を作ることを目的として計画したものです。
それまでの日本駆逐艦から兵装は大幅に強化され、登場時には世界屈指の重武装艦として世界の海軍関係者を驚かせました。
後に、ロンドン海軍軍縮条約では駆逐艦に対する排水量や兵装の制限も設けられますが、これは、特型駆逐艦と同様の艦をこれ以上造らせないためのものだったともいわれます。
特型駆逐艦は、全長118m、排水量1680トン、乗員219~233名、速力38ノットで、12.7㎝連装砲3基、三連装魚雷発射管3基といった堂々たる武装をしています。
特型駆逐艦は、1番艦「吹雪」から9隻をⅠ型(吹雪型)、10番艦「浦波」を改Ⅰ型、11番艦「綾波」から10隻をⅡ型(綾波型)、21番艦「暁」から4隻をⅢ型(暁型)と呼ぶことがあります。
特型駆逐艦は24隻が建造され、太平洋戦争は日本駆逐艦隊の主力として数々の海戦や任務に投入されました。
そのため、喪失艦も多数出ており「潮」「響」の2隻を除く21隻が戦没しています。
最強の駆逐艦「綾波」の凱歌
引用:blogs.yahoo.co.jp
特型駆逐艦11番艦「綾波」は、1929年に竣工しました。
艦名の綾波とは、斜めに折り重なって打ち寄せる波を意味し、神風型駆逐艦32番艦「綾波」の名前を引き継ぐ2代目です。
この綾波が海戦史に名を残す大戦果を上げたのが、1942年11月14の夜、第三次ソロモン海戦第二夜戦と呼ばれる戦いです。
ガダルカナル島のアメリカ軍飛行場砲撃を目論む日本海軍は戦艦や重巡からなる艦隊を差し向け、迎え撃つアメリカ海軍との間で第一夜戦に続く二度目の戦闘が巻き起こりました。
掃討隊の一員として単艦で先発していた綾波は、戦艦2隻と駆逐艦4隻からなる敵艦隊を発見し、戦力差にもひるまずこれに突撃を敢行。
駆逐艦「ウォーク」「プレストン」に砲撃を浴びせてたちまち炎上させ、さらに雷撃を行い、「ウォーク」「ベンハム」に命中させました。
この結果、ウォークは沈没し、ベンハムも戦闘不能に陥り、後に沈没しています。
さらに、戦艦「サウスダコタ」に砲撃による命中弾を与え、一時レーダーを使用不能にしています。
プレストンも後から駆けつけた日本艦隊によって撃沈されました。
綾波は、単独で駆逐艦2隻撃沈、1隻大破、さらに戦艦1隻に損傷を与えるという、海戦史上類のない大戦果をあげました。
綾波自身も敵の集中砲火を浴びて火災が発生し、最期には大爆発を起こして沈没してしまいます。
しかし、たとえ艦が沈んでも、駆逐艦とは思えない快挙を上げた綾波に、乗員たちは高揚し、悲壮感は一切なく、夜のソロモン海には彼らが漂流しながら歌う勇ましい軍歌の声がこだましていたといいます。
まとめ
以上、世界の最強駆逐艦と彼女たちが残した伝説的エピソードをご紹介してきました。
小さいながらも多方面で活躍した駆逐艦は、まさに艦隊のワークホースであり、海軍にとってはなくてはならない存在だといえるでしょう。
戦艦が消滅し、空母も数を減らしつつある現代の海軍において、駆逐艦相当の艦が主力をつとめているのは、その証といえるでしょう。