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日本最大の城ランキングTOP10

日本には全国各地に本当にたくさんのお城があります。

現存しているものだけでなく遺構まで含めると、その数は25000ともいわれ、ちょっと驚くような数字ではないでしょうか。

そのなかでも、日本で最も大きなお城はいったいどの城なのか。

ここでは、天守閣の大きさを中心にして、日本最大の城をランキング形式で紹介していきたいと思います。

日本の城の種類

引用:shirobito.jp

私たちが日本の城と聞いてイメージするのは、おそらく、水が張られた堀があって、石垣があって、天守閣があってと、という城でしょう。

しかし、これは近世城郭と呼ばれるもので、織豊時代と呼ばれる織田信長や豊臣秀吉が活躍していた安土桃山時代(戦国時代の後期)に造られるようになった城です。

一口に城といってもいろいろな種類があり、例えば、大河ドラマで有名になった真田丸は近世城郭とはまったく違う城ですが、これも日本の城の1つの姿です。

こうした城は山城(中世城郭)といわれ、自然の山や地形を削ったり掘ったりして城の形に整えたもので、日本にある城の数では天守閣のある城よりこうした山城のほうが圧倒的に多いのです。

このほかにも、戦国以前の城や要塞、武士の館、古代の城、函館五稜郭のような近代の城、沖縄のグスクやアイヌのシャチなど、どこまでを城に含めるかによってもその数は変わってきます。

第10位 広島城 26m

引用:http://www.rijo-castle.jp/

広島城は、毛利輝元によって天正17年(1589年)から太田川河口のデルタ地帯に築城された城です。

天守は五重の五階構造で、東と南には三重三階の小天守があり、多聞(多聞櫓の略で長屋形式の建物のことを指す)によって連結される構造になっていました。

創建当時は三重の堀に囲まれた馬出を複数備えた大阪城に匹敵する城だったと伝えられますが、江戸時代には国替えとなった毛利氏に代わり、福島正則による改築が行われ、1619年に浅野長晟が入城して以来浅野氏の城となりました。

1945年までは、天守をはじめとする当時の城郭が現存していて旧国宝にも指定されていましたが、広島市は陸軍第5師団が本拠とする軍都であったため、アメリカ軍による原子爆弾の標的にされ、8月6日の原爆投下によって倒壊しました。

復元には古写真や断面図が使われましたが、倒壊前のものではなく創建時の城の姿を一部創造に基づきながら復元が行われました。

爆心地にあったものの火災は起こりませんでしたが、その後しばらく残骸が放置された状態が続き、現在ある建物はすべて1958年以降に再建されたものです。

倒壊前の天守には壁面に8つの高窓がありましたが、復元天守ではそのうち4つのみが復元され、以前は各階の窓は突上戸だったものが、復元後は格子が剥き出しになっています。

広島城は現在、国の史跡にも指定されています。

第10位 亀山城 26m

引用:www.hozugawakudari.jp

亀山城は、京都府亀岡市にかつてあったとされる城で、「亀岡城」という呼び方もあります。

亀山城は、織田信長の命を受けて丹波攻略にあたっていた明智光秀が亀岡盆地の中心だった亀山の地に天正6年(1578年)に築城したものです。

丹波平定後は、そのまま丹波統治の中心拠点として使われ、明智光秀が本能寺の変後に討ち死にした後は、豊臣家の重要拠点となりました。

江戸時代にもこの地における重要な城と認識されており、譜代大名の岡部長盛が亀山藩主に任命され、大規模な改築により本丸に5重の塔をもつ天守を持つ城へと生まれ変わりました。

しかし、明治時代になると廃藩置県によって亀岡藩もなくなり、亀岡城は政府により廃城処分が決定します。

市に払い下げられて転売が行われた亀山城は、1919年に神道系の宗教団体「大本」の指導者であった出口王仁三郎によって購入され、神殿が築かれて宗教団体の拠点として使用されるようになります。

戦前の大本は、日本政府から危険視されて弾圧を受けており、1935年には亀岡市に再び格安で売却させられ、城にあった神殿は1500本のダイナマイトによって破壊されました。

戦後、亀山城は再び大本の所有となり、神殿も再建され、現在も大本の本部が置かれています。

第9位 高松城 26.5m

引用:ja.wikipedia.org

高松城は四国の香川県高松市にある城で、国の史跡にも指定されています。

天正15年(1587年)に織田信長の臣下から豊臣秀吉の臣下となった生駒正親が、四国制圧後にこの地の領主となったときに築かれた城で、築城にあたっては藤堂高虎と黒田如水の助言があったと伝えられます。

高松城は、別名「玉藻城」とも呼ばれており、これは柿本人麻呂が万葉集で讃岐のことを枕詞として「玉藻よし」と詠んだことにちなんでいます。

高松城は、江戸時代は歴代高松藩主の居城となりました。

高松城は、海に面して造られたいわゆる海城と呼ばれるもので、海城は水城ともよあれ、海運の拠点などを押さえるために築かれるもので、高松城は、近世に造られた海城としては最初にして最大の城です。

高松城は、北側を瀬戸内海に面し、本丸は四方に海水を引きこんだ堀をもつため、まるで海に浮かぶ島のようにみえます。

かつては3重の堀に囲まれ、そのすべてに海水が引き込まれており、高松城は水攻めや海上封鎖が難しく、海から物資を運び込むこともできるため、戦の時には籠城するのに有利な城でした。

北の丸には、水手門が置かれて船で出入りできるようになっており、かつては東西の外郭堀が海とつながっていて、舟入がありました。

舟入と海面の間には、敵船の侵入や高波を防ぐために突堤が設けられていました。

現在は海岸に面した部分は多くが埋め立てられてしまっており、最盛期には660000㎡であった城の面積は約8分の1となる79587㎡ほどにまで減少しています。

しかし、現在も堀には海水が引き込まれていて、牡蠣が生息していたり、潮の満ち引きで堀の水位が変化するのが確認できたりします。

第8位 大垣城 28m

引用:www.jalan.net

大垣城は岐阜県大垣市にある城で、名応9年(1500年)に竹腰尚綱によって牛屋川ともいわれる揖斐川の東岸に築城されたと伝えられ、当時は「牛屋城」といわれていたそうです。

大垣城にはほかにも、「麋城(びじょう)」や「巨鹿城(きょろくじょう)」といった呼び方もあります。

大垣城は1544年に織田信長によって落城し、その後豊臣家の城となり、1583年からは池田恒興が城主になりました。

江戸時代には、1635年に戸田氏鉄が城主となり、その後は明治時代まで大垣藩主戸田家の居城となりました。

大垣城は改築が行われ、本丸に四重四階の天守をもち、隣には二の丸が並び、それを三の丸で囲い、東総門から西総門にかけて総堀の中を美濃路が通っていました。

大垣城は、1945年7月29日の大垣空襲によって天守などが焼失し、現在の天守は1959年に復元されたもので、鉄筋コンクリート造りで観光用に窓を大きくするなど改修が加えられています。

第7位 名護屋城 30m

引用:saga-museum.jp

金の鯱で有名なのは名古屋城ですが、ここで紹介するのは旧肥前国で現在の佐賀県にあったとされる名護屋城のほうです。

名護屋城は、東松浦(現在の唐津市)の海岸沿いに築かれた城で、豊臣秀吉の大陸出兵の際に日本における前線基地とするために九州の大名らに命令して築かれた城です。

秀吉は自分の出身地である名古野と読み方が同じだったことと、城の建つ山の名前が勝男山と縁起が良かったことからこの地に城を築くことに決めました。

名護屋城は波戸岬の高さ90mほどの丘陵に築かれたもので、五重の天守閣をもつ大阪城に次ぐほどの壮大な城で、周辺3㎞ほどの範囲には120か所ほどの陣屋がおかれました。

大陸進攻にあたっては、周囲に城下町が作られ、最盛期の人口は10万人を超えていたといわれ、かつてルイス・フロイスによって「あらゆる人手を欠いた荒地」と記した名護屋の地は、唐入りのあいだ日本の政治・軍事の中心地となりました。

1598年に秀吉が死去すると大陸への出兵も中止となり、それに伴って名護屋城も廃城にされたと考えられています。

建物は唐津城に移築されたといわれ、江戸時代の島原天草一揆がおきた際に、名護屋城跡が一揆集団に利用されるのを防ぐために残っていたものも破壊され、現在は一部の遺構が残されているのみですが、昭和30年(1955年)からは国の特別史跡に指定されています。

第7位 福山城 30m

引用:ja.wikipedia.org

福山城は、広島県福山市にある城で、別名「久松城」、「葦陽城(いようじょう)」とも呼ばれます。

戦前には現在の重要文化財にあたる旧国宝にも指定されていました。

福山城は、江戸時代の元和8年(1622年)に水野勝成によって築かれた城であり、備後福山藩の歴代藩主の居城となりました。

1615年に一国一城令が発布された後に築城された城で、近世城郭による大規模な新規築城としては日本史における最後の例となります。

五重の天守閣と7つの三重櫓をもち、二重の堀のほかに瀬戸内海へと抜ける運河ももっているため、海城としての性格もあわせもっています。

幕末には、西国における幕府軍の拠点として新政府軍の攻撃に対して籠城戦を行っていますが、新政府軍が本格的な攻撃をはじめる前に恭順したため、城は戦災を逃れることができました。

明治維新後は、廃城とされて堀の大部分がレンコン畑にされたり、福山駅の拡張のために埋め立てられたりしました。

そして、太平洋戦争では昭和20年(1945年)の福山大空襲によって天守、伏見櫓など多くの文化財が消失しました。

現在の天守は昭和41年(1966年)に、鉄筋コンクリート造で再建されたもので、現在天守内部は博物館になっています。

2018年7月には、広島県内では初となる景観重要建造物に指定されています。

第7位 豊臣大阪城 30m

引用:rekijin.com

大阪城は、天正11年(1583年)から豊臣秀吉によって築かれた城で、「錦城」または「金城(きんじょう)」とも呼ばれます。

かつての天守は本丸の北東にあり五重八階地下二階の堂々たるもので、名古屋城、熊本城とともに日本三大名城の1つにも数えられます。

大阪城は、現在も「太閤はんのお城」と親しみをもった呼ばれ方をすることもありますが、秀吉によって築かれた天守は慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で消失してしまっています。

大阪城は、江戸時代に幕府による大改修を受けて、徳川大阪城とも呼ばれる別の城になっていて、秀吉の大阪城の遺構は現在ではすべて埋没してしまっています。

琵琶湖の北にある竹生島にある国宝の宝厳寺唐門は、豊臣大阪城の一部ではないかという説があり、もし本当なら、現存する唯一の豊臣大阪城の遺構ということになります。

豊臣時代の大阪城は、黒田孝高により設計され、本丸を中心として同心円状に構造物を連ねた造りで、内堀と外堀をもっており、石垣は安土城のものをそのまま踏襲しています。

秀吉からの指示で、大阪の市街地からよく見えるように、天守や街路の位置を工夫したといわれています。

大阪城は大地の北側を造成して築城された城であるため、大地続きの南側が弱点とされ、二死から南を囲むように惣堀が巡らされており、大阪冬の陣ではこの方面から攻撃をかけた徳川勢との間で激戦が繰り広げられ、この堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破棄が大阪冬の陣での講和条件となりました。

堀を埋められて大阪城は丸裸になってしまい、豊臣家が堀の再建を試みたところ、徳川方はそれを講和条件の破棄として大阪夏の陣を起こし、この戦いでついに大阪城は落城し、豊臣家は滅亡しました。

豊臣大阪城の天守は、黒漆塗りの外観をもち、漆喰の部分も灰色にして金具や河原に使われる金を目立たせる造りになっていました。

壁面には金の彫刻が施されていたともいわれ、5階には茶を好んだ秀吉により、黄金の茶室が作られたといわれています。

現在の大阪城は、『大坂夏の陣図屏風』をもとにして、豊臣時代の大阪城が復元されています。

しかし、『大坂冬の陣図屏風』に描かれている大阪城の天守はこれとは少し異なるもので、豊臣時代の大阪城の天守がどのような姿だったのかは、現在でもはっきりとはわかっていません。

第6位 姫路城 31.5m

引用:www.jalan.net

姫路城は、兵庫県姫路市にある城で、国宝・重要文化財に指定されているほか、ユネスコによる世界遺産にも登録されています。

姫路城は、1346年頃に赤松貞範築かれたものとされる説が有力で、天正8年(1580年)に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が入城し、中国地方攻略の拠点とされました。

江戸時代には、徳川家康の娘婿で西国将軍とも呼ばれた池田輝政による大改修が行われました。

その雄大勝つ豪華絢爛で優美な外観は、白漆喰塗りの白亜に輝く城壁の美しさから「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれるようになりました。

姫路城はただ美しいだけの城ではなく、西国の外様大名に対する江戸幕府からの睨みをきかせる役割を担う城として、実戦的な城構えをもっています。

姫路城の天守は、五重六階の天守をもっており、これは現存する国内の天守としては最大のものです。

各天守は、渡櫓によって連結され、これは当時としては最新の設計でした。

姫路城の天守は、江戸時代以降に建設された天守のなかで現存している12天守の1つです。

天守内部には、鉄砲や槍を掛けておくための武具掛けや鉄砲掛けがあり、鉄砲掛けの数は天守全体で605挺分にもなり、銃を使用するときの煙抜き用の高窓が129か所も配置されています。

屋根裏には武者隠しといわれるすき間を利用した秘密の部屋が作られ、扉はどれも防火用の土扉と鉄板張りの扉の二重構造になっていて、地下には籠城戦用のトイレも備わっているなど、軍事的な要塞として機能するようになっています。

天守最上階は一室だけの構造で、この部屋には全体に装飾が施され、ここからは城全体とはるか向こうにある播磨灘までを一望することができ、姫路城の外観に勝るとも劣らない美しさです。

第5位 安土城 32.5m

引用:ja.wikipedia.org

安土城は、滋賀県近江八幡市の琵琶湖東岸にかつて築かれた城で、城の跡地は国の特別史跡になっています。

安土城は、織田信長によって安土山に建造された城で、当時は琵琶湖に接していました。

現代の日本の城の天守閣としてイメージされるような、本格的な五重以上大型天守が建造された初めての城で、それまでの戦国の城にはない独創的な設計と豪華絢爛な装飾をもった城でした。

安土に城を築いた理由としては、当時、信長の城であった岐阜城よりもより西にあって京の都に近く、同時に琵琶湖の水運を利用できるというメリットもあり、北陸街道から京へ向かう際の要衝でもあるなどいろいろな利点があったためです。

信長は、北陸の越前や加賀で一向一揆に悩まされており、この場所に城を作ることで北陸に睨みをきかせるつもりだったともいわれています。

安土城は、信長による天下統一事業(天下布武)のシンボルとして、人々にその存在を誇示するためのものであり、信長は天守に起居し、家族も本丸付近で生活させて家臣たちも山腹や城下の屋敷に住まわせました。

1582年の本能寺の変で部下だった明智光秀によって信長が討たれると、その直後に、安土城も消失し、再建されることはありませんでした。

安土条消失の理由については、明智光秀の軍が山崎の合戦で秀吉に敗れて敗走する際に火を放ったという説や、信長の次男であった織田信雄が光秀軍の残党を炙り出すために城と城下に火をつけたという説があります。

第4位 駿府城 33.5m

引用:ja.wikipedia.org

駿府城は、「府中城」や「静岡城」とも呼ばれ、静岡県静岡市にある城です。

駿府城のある駿河の地は、かつて室町幕府の守護であった今川氏によって統治されていましたが、戦国時代に武田信玄による駿河侵攻が行われたことにより、今川氏は所領を追われました。

その武田氏も、織田信長との1582年の天目山の戦いで滅亡すると、武田氏の遺領となった駿河は、信長と同盟を結んでいた徳川家康のものになりました。

家康は、浜松から駿府へと居城を移転させ、1585年から駿府城の建造がはじまりました。

駿府城の天守は七階建てで、三重の堀に囲まれており、天守の土台であり石垣などで一段高く築かれる部位である天守台は当時の城郭市場最大級のものでした。

家康は、三男で二代将軍の秀忠に将軍位を譲ったあとは、駿府城に隠居しました。

家康の死後は駿府藩が置かれ、1633年からは幕府の直轄地となり、駿府城代が置かれました。

現在は、二の丸の櫓が復元されているほか、本丸と二の丸の跡地が駿府城公園として整備されています。

第3位 名古屋城 36.1m

引用:www.nikkei.com

名古屋城は、かつての尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市)に築かれた城で、天守にある金の鯱が有名です。

「名城」、「金鯱城(きんこじょう)」、「金城(きんじょう)」などとも呼ばれ、国の特別史跡にも指定されています。

名古屋城は、外観の美しさから、大阪城、熊本城とともに日本三大名城の1つに数えられています。

有名な天守閣は名古屋城のみならず、名古屋の街そのもののシンボルとして現在でも広く知られています。

名古屋城は、徳川家康が天下普請によって建造した城で、織田信長生誕の城といわれている今川氏の那古野城の跡地に造られました。

天下普請とは、徳川幕府が全国の大名に命令を出して行わせる大規模な土木工事のことで、江戸城や駿府城、二条城、彦根城など多くの城が天下普請によって築城されました。

名古屋城は、江戸時代は徳川御三家の一角である尾張徳川家の居城でした。

名古屋城の天守は、五層五階地下一階で徳川家の威光を広く知らしめるために金の鯱が載せられました。

名古屋城の本丸御殿は、二条城の二の丸御殿とともに武家風書院造の双璧として讃えられています。

1945年の名古屋大空襲によって城の大部分が焼失してしまいますが、戦後に天守などを鉄筋コンクリート造りで復元し、城の跡地は名城公園として整備されています。

第2位 徳川大阪城 44m

引用:http://xn--uis679d.jp/

徳川大阪城は、現在の大阪城とは外観の異なる徳川幕府時代の城で、元和6年(1620年)に10年にわたる天下普請の末に完成しました。

徳川大阪城は、それまでの豊臣家の城という大阪城のイメージを完全に消し去った城で、石垣は旧大阪城の石垣の上に盛り土をして作られ、天守閣も豊臣家の時代より10m以上高くなっていました。

大阪は幕府の直轄地となり、大阪城には城代がおかれて幕府による西日本統治の一大拠点となりました。

しかし、徳川大阪城には豊臣家にまつわるいくつもの怪談話がつきまとっていました。

深夜には多くの武士の叫び声や馬などが入り乱れる喧騒が聞こえる、本丸南にある空堀には大阪の陣で戦死した豊臣家の将兵の血が染み通っていて雨の日には彼らの怨念が陰火になって現れる、老婆や山伏の姿に化けた狐狸妖怪の類が現れる、大阪城落城の際に多くの女性たちが自ら命を絶ったとされ、今でも彼女らの魂が成仏できないままとどまっているとされる「開かずの間」など怪談話の宝庫でした。

これには、豊臣家を陥れるような方法によって滅亡に追い込んだ徳川家や幕府の後ろめたさがあったものともいわれます。

そのほかにも、豊臣家の祟りかどうかはわかりませんが、徳川時代の大阪城は、いくつもの災害に見舞われており、万治3年(1660年)の落雷の際には、天守など城に大きな被害がでたほか、城下でも1000軒以上の家屋が倒壊し、城の北東部にあった門の扉は大阪府と奈良県の県境にある暗峠(くらがりとうげ)まで飛ばされたということです。

寛永5年(1665年)には再び落雷の直撃によって天守が全焼し、江戸時代のあいだにはついに再建されることはありませんでした。

徳川大阪城は、畿内における徳川家の拠点だったものの、江戸時代を通じて徳川将軍が滞在することはほとんどなく、15代将軍徳川慶喜が大政奉還後に滞在していたことがよく知られています。

ところが、幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗北すると慶喜はさっさと江戸へ戻ってしまい、大阪城が城として本来の役目を果たすことはありませんでした。

明治時代以降に再建された天守は、豊臣時代を模したものとなったため、徳川大阪城は現代ではその存在すら忘れられた城となっています。

第1位 江戸城 44.8m

引用:edo-g.com

江戸城は、現在の皇居のある場所にかつてあった城で、江戸幕府がおかれて江戸時代には日本の中心となっていた城です。

別名として「江城(こうじょう)」「千代田城」があり、江戸時代には一般的に江城と呼ばれていたということです。

江戸城はもともと、関東管領上杉氏の諸家の一つである扇谷上杉氏の太田道灌によって築城されたもので、徳川家康の入城後は天下普請によって何度も改修が行われ、日本最大の城郭面積をもつ城となりました。

江戸城は、武蔵野台地の地形を活用して建造されているため、曲面の多い城郭となっており、本丸を囲むように二の丸、三の丸、西の丸、北の丸が輪状に配置されています。

江戸城には、外郭25、内郭11、城内87の門があり、城の正門である大手門や桜田門外の変で有名な桜田門(国の重要文化財にも指定)のように歴史の舞台となった有名な場所もあります。

天守は明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火によって消失した後、江戸市街の復興を優先したために再建されず、本丸にある三重櫓の富士見櫓が天守の代わりとして使用されました。

関東で石垣を多用した造りの近世城郭は江戸城と小田原城の2つしか例がない珍しいもので、石垣に使われる石材ははるばる伊豆半島から切り出されて船に乗せられて送られてきたものです。

江戸城は、幕末の戊辰戦争でも勝海舟・西郷隆盛による話し合いによって無血開城され、戦火を免れることができました。

明治維新後は、一度「東京城(とうけいじょう)」と改名され、その後東京への遷都に伴って天皇の居場として宮城(皇城)と称されるようになります。

江戸城の西の丸の大手門が宮城の正門になり、大手門にかかっていた橋は花崗岩で作られた石のアーチ橋に改修されました。

関東大震災や戦争中の空襲による被害を被ったこともありますが、その後復元されて、戦後は皇居と呼ばれるようになります。

現在は国の特別史跡にも指定されていて、本丸や二の丸、三の丸といったかつての江戸城の中心部は、皇居東御苑として現在も一般公開されており、皇居外苑と北の丸があった場所にある北の丸公園は常時開放されています。

まとめ

以上、日本最大の城ランキングを紹介してきました。

ランキング上位に入っている城は、多くの人が知っているような有名な城がたくさんあります。

ここで紹介したランキングは天守の大きさを基準としているため、天守のない城などは範囲外になっています。

しかし、300年にわたる江戸時代の間、日本の中心にあった江戸城が日本でもトップクラスの城であるということは変わらないでしょう。

かつては様々な城が日本中に築かれ、日本の歴史を形作ってきました。

なかには天災や戦争で燃えてしまったものもありますが、これからも、こうした歴史ある日本の城を次の世代へと守っていきたいものです。

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