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【謎の生物】人魚は実在するのか!?目撃事例と正体

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アンデルセンの『人魚姫』やディズニーの『リトルマーメイド』の印象が強い人魚。

現在では人魚と言えば、女性の上半身に魚の下半身を持つ空想上の生き物とされていますが、現在の姿に至るまでは紆余曲折がありました。

人魚はどのようにして誕生したのか、人魚の目撃情報とその正体など、西洋と日本にそれぞれ伝わる人魚伝説について紹介していきます。

 

人魚の起源

人魚の姿が見られる最古の資料は、アッシリアの王・サルゴン2世がキプロスへ遠征した時の様子を描いたレリーフで、これは紀元前720年頃のものと見られています、

このレリーフには、上の画像のような上半身が人間の男性で下半身が魚の半人半魚の海神オアンネスの姿が確認できるのですが、これよりも前の資料ではオアンネスは頭が魚で下半身が人間の姿で描かれています。

オアンネスはバビロニア帝国の前身であるアッカドで信仰されていた神で、魚の頭の下に人間の頭を持ち、尾の下からも人間の脚が生えた神だとされます。

エリストレリア(現在のペルシア湾とエストリア付近)から現れたオアンネスが、文字の使用や学問を人間に教えてくれたという言い伝えが残っており、日中は人間と一緒に過ごし、夜になると海に戻ると伝えられていました。

この神はアッシリアでもダゴンという名前で信仰されていたのですが、夜は海に戻るというところから徐々に下半身が魚で上半身が人間という姿に変わっていったものと見られます。

一方、日本に人魚という概念が見られるようになったのは『日本書紀』の中でのことで、西暦619年の項に「人でも、魚でもない生物」が存在すると綴られています。

そしてそこから時代が下って平安時代に入ると、魚の体に人間の顔を持つ生物として「人魚」という呼称も誕生しており、中国の『山海経』の影響を受けて「子供のような声で鳴く」等の説明がつくようになりました。

しかし『山海経』に描かれている人魚も上のような姿で、オアンネス同様に現在伝わっている人魚とはかけ離れた姿をしています。

 

セイレーンと人魚

人魚が美しい女性の姿で描かれるようになったのは、西暦8世紀頃からと見られています。と言ってもこの頃は、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する頭が人間で体が鳥というセイレーンを人魚として扱っていました。

セイレーンは歌声で船乗りを惑わせる怪物として恐れられていましたが、その姿は古代エジプトで信仰されていた半人半鳥の神・バーがクレタ文明、エーゲ文明、ギリシア文明、ローマ文明へと引き継がれていって誕生したものと考えられています。

当時の人々にとってセイレーンの容姿はたいして重要なことではなく、人を惑わせる歌声に関心が寄せられていました。

しかし8世紀頃にイギリスの修道士マムズベリのアルベドヘルム作とされる怪物の本の中に「セイレーンは頭から臍までが乙女で、人間のようだが鱗に覆われた魚の尾を持ち、それを使って波間に身を隠す」と紹介されるようになり、以降はセイレーンの体は魚という説が浸透していったのです。

さらにこの書物の中では、セイレーンは歌声だけではなく美しい容姿で船乗りを魅了すると紹介されており、ここで初めて人魚=美しい女性という図式が提示されたと考えられています。

セイレーンの体が魚とされた背景にはケルト神話の影響があると考えられており、アイルランドの修道士が布教した伝説の中には、人魚を連想させる存在が確認できます。

 

人魚とキリスト教

アルベドヘルムがセイレーンを半人半魚と紹介した後も、体を鳥で描く画家は存在し、中には人間の頭に魚の尾、鳥の脚と鉤爪を持つ奇妙な怪物を描いた画家もいました。

しかし、どの作品でも共通して胸から上は若い女性として描かれるようになり、12世紀に入るとセイレーン(人魚)は色欲の象徴として扱われました。

聖職者にとって色欲は罪であり、これを説くためにセイレーン(人魚)が利用されたのですが、そこから当時の娼婦につきものであった手鏡と櫛を持つようになり、岩の上で長い髪を梳かすという人魚のイメージが誕生したと考えられています。

また生前に悪い行いをした者や信仰心の足りないものは来世で人魚になると言い伝えられており、このような怪物の姿になりたくなければ信仰を深めるように勧められていました。宗教の説法に用いられることで人魚の存在は西洋諸国に幅広く知られ、身分の低い者から高い者にまで認知されるようになっていったのです。

 

西洋での人魚の目撃情報と正体の考察

引用元:https://www.dailymail.co.uk/

セイレーンのイメージから人魚が誕生した後も、セイレーンが実在すると信じられていたのと同様に人魚は本当に海に生息していると考えられていました。

コロンブスも1493年に「人魚を見た」とドミニカ北岸を航海中に日誌に書き留めており、「3匹の人魚が海面高く飛び上がっているところを目撃した」と綴っています。

さらにコロンブスは以前にもアフリカ西岸で人魚を見たとも証言しているのですが、20世紀に入るとアフリカでコロンブスが見たのはマナティで、ドミニカで見たのはジュゴンなのではないか?と考えられるようになりました。

ジュゴンとマナティの大きな違いは生息地にあり、ジュゴンが海の浅瀬に生息するのに対して、マナティは淡水域で生活します。

そして、それぞれがコロンブスが人魚を目撃したと証言している場所に存在していることから、1923年に『プチ・パリジャン』でアルベール・ロンドが人魚の正体はこれらの海牛類だと断言したのです。

海牛類が人魚の正体だと主張する根拠として、前ひれがまるで手のように見えること、そして乳首が腹部ではなく脇の近くにあり、まるで人間のように見えること、そして雌のジュゴンやマナティが「水面に垂直に立ち上がって授乳する」ことが挙げられました。当然ですが実際にはジュゴンやマナティが水面に立つことなどできるわけがなく、これが海牛類についての新たな都市伝説を生んだそうです。

さらにジュゴンやマナティは餌である藻を体に付けていることがあり、藻が長い髪の毛に見えて人魚伝説が生まれたとも指摘されました。

また17世紀の頃、海牛類を「海の女」「海の母」等と呼ぶ地域が複数あり、船乗りの中にはジュゴンやマナティと性交する者もいたとされます。インドでは船乗りになるために、海牛と交わらないことを司法官の前で誓わなければならなかったそうです。

反対にコモロ諸島の国ではジュゴンと性交することが神聖な儀式であり、存在が性行為が結びついていたことも海牛類が人魚の正体だという理由の1つとされています。

引用元:https://www.akpool.de/

上の画像はイエメンで捕らえられ、人魚として紹介されたジュゴンなのですが、女装したうえ尾ひれで直立させられています。インド洋沿岸に住む人々の中ではジュゴンは特別な生物であり、肉を求めて狩りをする際にも厳密な手順が決まっているそうです。

 

エーダムの人魚と正体

1403年、オランダ西部のエーダム近くのピュルメレントの堤防が決壊して、周辺に水が溢れるという事故が起こりました。この時に小舟でピュルメレントを渡っていた娘たちが、水の中に酷く汚れた裸の女性がいることを発見し、急いで救助して街に運びました。

街の人達は彼女を風呂に入れて服を着せ、食事もとらせてやりましたが、誰とも会話が成立しなかったと言います。

このことから彼女は人魚なのではないかとの噂が伝わり、遠くからその姿を見に来た人も大勢いたそうです。結局エーダムの人魚と噂された女性はハーレムに住んで織物を習い、そこで生涯を終えたとされます。

この女性には十字架を拝む習慣があったと伝わっていますが、時代が下ると彼女の正体は人魚ではなく、海で遭難した異国人だった可能性が高いと見られるようになりました。

当時の海には海賊が蔓延っており、航海は危険なものでした。海賊に攫われた女性が船から転落することなどもあったでしょう。

特に黒人や黄色人種など明らかに自分達と違う人種の遭難者で意思の疎通が図れなかった場合、未知の生物に違いないと当時の人達が考えても不思議ではありません。

 

人魚と報じられた女性

1989年、フィリピンのパナイ島で人魚が生け捕りにされたというニュースが世界各国で報じられました。この時地元の人達に救助されたのはオーストラリア出身のミシェル・ハミルトンという名前の22歳の女性で、ヨットに乗っているうちに流され、遭難したとのことでした。

彼女を捕まえた漁師たちは金髪でビキニを着ていたことから人魚だと思い込み、「人魚の女神だ」と大騒ぎをしたと言います。このような話は多々ありましたが、19世紀になると科学者たちは人魚は存在しないと考えるようになっていきました。

 

2000年に入ってから目撃された人魚

科学的に人魚は存在しないものと考えられるようになっても、民間信仰の中で人魚は生き続け、21世紀に入ってからも目撃情報は複数あがりました。

と言ってもそれらは発達した技術で創作されたもので、2008年にテキサス州をハリケーンが襲った後に海岸に打ち揚げられていたとして話題になった上の人魚のミイラ・ネリーナ(上の画像)も、フアン・カバーナ氏というアーティストの作品であることが明らかになっています。

こちらの画像も2017年にブルガリアで発見された人魚の死体だとSNSで話題になりましたが、映画『パイレーツオブカリビアン』のセットであることが後に明らかになっています。

また2013年には「アニマルプラネット」で、人魚の姿を捉えたとしてフェイクドキュメンタリーを放送し、「作りものです」と注釈を入れていたにもかかわらず、本物の人魚の姿がTVカメラに収められたと騒ぎになりました。

これを受けてアメリカの国立海洋局 は「人魚はいません」と公式発表までしており、21世紀に入っても数多くの人がもしかしたら人魚がいるのでは?という希望を捨てきれていないことが窺えます。

 

日本の人魚

西洋の人魚が美しく、人間を惑わせる存在であるのに対し、日本の人魚像は2系統があると考えられています。1つは人魚の肉を食べたために800歳を超えて生きたと言われる八尾比丘尼に関わる伝承の系統。もう1つは人魚の恩返しなどの断片的な伝承です。

全国規模で見ると日本に伝わる人魚伝説の90%が八尾比丘尼にまつわるもので、柳田邦男氏によると北海道と九州の一部を除いてほぼ全土に八尾比丘尼の伝承は残っているとされます。

800歳まで生きた「白比丘尼」の元になったのは、若狭にいた長生きの尼僧だと考えられており、文献に見られる最も古い記述は江戸時代初期の儒学者、林羅山による『本朝神社考』の中の「乙女が人魚の肉を食して、長寿を保った」というものです。

『本朝神社考』では白比丘尼の父親が山の中で浮世離れした人物に出会い、その人からもらった肉を娘が口にしてしまったところ、400歳のの寿命を得たと書かれています。これ以前には八尾比丘尼の存在に触れた文献はないため、なぜ林羅山がこのような物語を綴ったのかは明らかになっていません。

ちなみに人魚を食べたという話に関しては平安時代末期の情勢や文化を綴ったとされる『古今著聞集』にも登場しており、突き出た口と細かい歯を持った猿のような頭を持った魚が網にかかり、これを捕獲して食べたところ美味であったという記載があります。

 

日本の人魚は海に棲んでいなかった

『本朝神社考』で人魚の肉が山で手に入ったことからも分かるように、日本では人魚は海ではなく山や河川に棲んでいるものと考えられていました。

これは古代中国の『山海経』に影響されたもので、この書物に「山間の河川に人魚多し」とあるところから、人魚は山奥にいると伝わっていたのです。

『山海経』やそれに影響を受けた文献や図画に見られる人魚は山椒魚をモチーフにしていると考えられており、魚の体から脚が4本生えているものも見られます。

 

人魚と薬

『南総里見八犬伝』の中には、人魚の肉を食べると3000年生きることができる、また人魚の油を灯火に用いれば雨が降っても風が吹いても火が消えることはない、といった記載があります。

そして人魚の油を膏油して使うと厳冬にも耐えることができ、長時間潜水しても遺棄が続くとも書かれています。

もちろんこの記述自体は創作なのですが、杉田玄白の弟子であった大槻玄沢が記した『六物新志』には、オランダから伝わった妙薬としてユニコーン、ナツメグ、サフラン、ミイラ、エブリコ、そして人魚が紹介されているのです。

また『和漢三才図会』にも、人魚の骨をオランダでは「ベイシムトルト」と呼び、解毒や止血に用いられていると書かれています。他にも巷では人魚の涙は媚薬になるという噂が伝播していたそうで、肉だけではなく他の部位にもご利益があると考えられていました。

 

人魚の涙は真珠になると言われていた

唐の時代に編纂された『述異記』という書物には、人魚の涙は真珠になるという文章が見られます。この頃の中国では人魚(水中に棲む半人の生物)は鮫人と呼ばれており、鮫の肌の鱗が粒々に突起しているため、ここから玉がとれると考えられて鮫人、つまり人魚の涙は真珠になるという伝承が生まれたと考察されています。

かつては真珠は装飾品の他に炭酸カルシウムでできていることから、薬効があると考えられていたそうです。人魚の涙は薬効があることから、骨も薬があるという話が発生したのではないかと推測されています。

 

日本の人魚と西洋の人魚の違い

伊原西鶴は『武道伝来期』の中で人魚による仇討話を記しており、その中に「かしら、くれなゐの鶏冠ありて、面は美女の如し」と人魚の風貌を描いています。

このように日本に伝わる人魚は髪が赤いとされていることが多く、これはモデルがリュウグウノツカイだからなのではないかと考えられています。

またリュウグウノツカイは鮮度が良い状態で食べると美味しいそうで、このことも人魚の肉が美味であるという説と繋がると言われているのです。

さらに西洋の人魚の持ち物が櫛と手鏡であるのに対し、日本の人魚は子供を抱いてでんでん太鼓を持った姿で描かれることも多くあります。

 

見世物としての人魚

八尾比丘尼伝説と結びついていたこともあり、もともとは日本でも人魚と信仰は結びついていました。しかし幕末になると人魚は信仰の対象としてではなく、滅多に見ることができない不思議な生物として扱われるようになっていきました。

その理由として、各地の城下町に人が集まるようになり、町人層が増加して娯楽が多様化したことが挙げられます。そして人魚は興行師たちの手によって商売道具の見世物となっていったのです。

1つは生け捕りをしてきた「生きた人魚」を見せる興行で、もう1つは乾物のミイラ、つまり「人魚のミイラ」を見せる興行でした。

 

生きた人魚の見世物

1805年に書かれた『花紅葉二人鮟鱇』という黄表紙本によると、見世物小屋では舞台に水舟をしつらえて、人魚を見せていたそうです。そして人魚が人形ではなく生きているということを証明するために水の中でタバコを吸わせ、半身が魚であることを見せるために尻尾を持って真ん中から裂いて見せたと言います。

また1757年に刊行された『増補絵本国見山』には、中国の人魚として竹の檻の中に人魚を1匹入れ、長靴をはいた人物から魚を与えられている絵が収められています。

さらにこのような女性の姿の人魚だけではなく、1830年頃には猿の頭に魚の下半身を持ち、人間のような手を生やした生物が見世物小屋に並んでいたと言います。生きた人魚を見世物にしたという興業は外国にもあり、1758年にパリ市内でも生きた人魚が公開されました。

 

人魚のミイラ

日本は世界の中でも人魚のミイラが多い国であり、その製造と販売は江戸時代に始まり、明治後期まで産業として続いていたそうです。

特にアメリカの興行師バーナムの一座が1842年に展示した「フィジー人魚」のミイラは大きな話題を呼び、ニューヨークのアメリカン・ミュージアムをはじめ、各地の博物館が欲しがったとされますが、これも日本の漁師が作ったものと考えられており、エイなどの魚の尾と猿の上半身を縫い合わせ、人間に似せた歯並びにしたものでした。

人魚のミイラは猿の上半身に魚の下半身を差し込み、双方にヒ素で防腐加工を施しながら冬の外気に晒して干したとされており、こうすることで腐敗を防ぎながら自然に上半身と下半身が結合できたと見られています。

岩倉具視の使節団の在外見聞である『欧米回覧日記』にも、竜や人魚の乾物をオランダに寄贈したところあまりに巧妙に細工されていたことから日本人の技術力の高さが称賛されたと記されており、日本で作られたミイラは見世物として庶民を楽しませただけではなく、シーボルトにも贈られたことが分かっています。

引用元:https://entertainment.howstuffworks.com/

しかしあまりにも人魚のミイラを大量に作って輸出してしまったため、明治32年に刊行された『新愛知』という新聞によると、次第に供給過多になってしまって海外でも価値が下がり、ヨーロッパに行くと街の骨董屋の軒先に人魚のミイラが投げ置かれるようになっていたそうです。

 

滋賀県蒲生町・願成寺の人魚のミイラ

引用元:https://www.sankei.com/

琵琶湖の周辺には人魚にまつわる伝承が多く、聖徳太子による草創の古刹である願成寺にも人魚のミイラが安置されています。

これはかつて願成寺にいた美しい尼僧に恋をした人魚のミイラだと言い伝えられており、どこからともなく現れて尼僧に付き従うようになった小僧を不審に思い、武士が後をつけていったところ、網にかかったのがこの人魚だと言われているのです。

魚にして魚にあらず、人にして人にあらず。このような怪物が尼僧に懸想するというのは罪深いとして、村人は人魚を懲らしめた後にミイラにしたという伝承が残っています。

このミイラは最初、行商人に売られて見世物小屋に出されていたものの、夜になるとさめざめと泣くため、可哀想に思って尼僧がいる願成寺に収められたとされます。このミイラの顔の長さは約6㎝、全長は72cm程度だそうです。

 

新潟県鯨波・妙智寺の人魚のミイラ

引用元:http://8446.blog79.fc2.com/

新潟県柏崎市の鯨沢にある妙智寺にも人魚のミイラが奉納されています。このミイラは箱蓋の裏側に来歴が記されており、埼玉県の南埼玉郡川通村にいる深井さんという老人から遺産として譲り受けた旨が書かれています。

深井さん、そしてこのミイラを譲り受けたとする鈴木さんという人は骨董の趣味で意気投合していたそうで、それがきっかけで入手したものと考えられているのですが、人魚のミイラを譲り受けてから鈴木家には度々厄災に見舞われるようになったのです。

家業である造り酒屋がつぶれる、当主が次々他界するといった災難を受けた鈴木さん一家は、これらのことは人魚の呪いだと考えるようになり、供養の意味も込めて妙智寺に人魚のミイラを預けたと言います。

その後ミイラを預かった妙智寺は、夏に訪れた海水浴客にこのミイラを見せることで観光客の誘致に成功。住職が人魚のミイラを見せながら土地に伝わる人魚伝承を話すことで、寺に宿泊する人も増えたそうで、特に祟りなどは起きていない様子です。

 

静岡県富士宮市・天照教本社の人魚のミイラ

静岡県の富士宮市にある宗教法人天照教本社の社宝として飾られているミイラには、以下のような伝承があります。

今から1400年前、聖徳太子が琵琶湖のほとりにある石山寺に籠って十七条の憲法の草案を作っていた際、湖の上に人魚が踊り出るのを目撃しました。人魚は「自分は長らくこの湖で漁師をやっていたが、多くの魚の命を奪ったためにこのような姿に変えられた。この醜い姿ととっもに、殺生の罪深さを後世に伝えて欲しい」と聖徳太子に伝えたことから、聖徳太子は石山寺に運んで懇ろに祀りました。

そして約1000年前に天照教本社に移ったとされますが、この由緒は『観音霊場記図解』にある内容と同じであり、ここから引用したものと見られています。

 

大分県別府・怪物館の人魚のミイラ

大正時代から昭和にかけて大分県別府市の八幡地獄に、八幡地獄博物館という見世物小屋のような施設がありました。この施設には鵺のミイラや鬼の骨格標本が展示されており、針のような背びれが立っている変わった人魚のミイラも収蔵されていました。

昭和38年に施設が閉館した際に展示されていたミイラは処分されたと言われており、現在はどこにあるのか、現存しているのかも不明です。

 

まとめ

人魚の出現は嵐や地震などの凶兆と言われていた時期もあり、かつて人魚は忌避される存在でもありました。

しかし現在では子供にも親しまれるロマンティックな存在として捉えられており、2000年には願成寺のある滋賀県で、人魚を観光資源として使うにはどうしたら良いのかを話し合う「人魚サミット」も開かれました。

このように幅広く受け入れられている空想上の生物は他におらず、人魚とは人間が変わらずに持ち続けている海への憧憬と畏敬の念を象徴する存在だと言えるでしょう。



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