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【実在】錬金術師ニコラ・フラメルとは!?賢者の石を製作した伝説の錬金術師の謎!

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賢者の石の製造に成功したと言われているニコラ・フラメル。

映画『ファンタスティックビーストと黒い魔法使いの誕生』にニコラス・フラメルという名前で彼をモチーフにした錬金術師が登場したこともあり、日本でも広く存在が知られるようになりましたが、実際はどのような人物であったのかはあまり分かっていません。

事実と伝説の交錯する謎の錬金術師ニコラ・フラメルについて紹介していきます。

 

ニコラ・フラメルの人物像

ニコラ・フラメルは1340年頃にフランスのポントワーズに生まれたと考えられています。そして1418年あるいは1417年の復活祭前の3月20日に亡くなったと推測されているため、当時の平均寿命をはるかに超える78歳という高齢で天寿を全うしているのです。

出版業を営んでいた彼が居を構えたのは、パリのマリヴォー通りの片隅にあるエクリヴァン通りと呼ばれた今は無い小道でした。フラメルも足しげく通ったサン・ジャック・ド・ラ・ブリーシュ教会へと連なるこの通りには、金銀細工師、旅楽士、織物師などが軒を連ねていました。

出版業と言っても主にフラメルが手掛けたのは、証書や財産目録、遺言書、書簡などの作成です。この時代のパリでは法学が重要な役割を担っていたにもかかわらず市民の大多数が読み書きができなかったため、彼のような公的な書生には依頼が絶えなかったのです。

賢く商才に長けたフラメルは豪華な彩飾写本を作る工房も所有しており、ベリー候ジャンなどの裕福な特権階級も顧客に抱えていました。不動産投資の才もあったことから、彼は教区でもっとも裕福な市民の1人となり“パリのブルジョワ”の称号を得たとされます。

 

熱心な慈善活動

優れた商才を持ったフラメルでしたが、彼はその富を自分のために使うのではなく貧者や弱者のために使う慈善活動家でもありました。

多くの貧者を保護するための施設を建設したり、自己の所有する家屋を宿泊施設として開放したりといった活動も記録されています。中でも最も知られた施設は、フラメルの邸宅から10分もかからない距離にあったモンモランシー通り51番地にある家です。この家は現存しており、近年まで“ニコラ・フラメル食堂”として運営されていました。

なぜ彼がここまで貧者や弱者の救済に力を注いだかという理由としては、当時のパリの政治背景や混迷ぶりが挙げられるでしょう。

1330年からフランスは大きな経済不況に見舞われ、これはフラメルの死後まで続きました。またペストや百日咳などの疫病も流行し、多くの人が命を落としたとされます。

更にイングランドとの百年戦争のただなかにあったため、フラメルは平和な時代を経験することなく生涯を終えています。しかしながら“賢明王”と称されたシャルル5世の統治下では、それでも市民の生活の水準は一定に保たれていました。

シャルル5世の没後、6世の治世に変わると政権争いは過激化し、政権が変わるたびに反対勢力についた者が追放されたり、投獄の後に斬首刑に処されたりと暗い影がパリ全体を覆っていきました。中央広場に市民を集めて残酷な処刑が行われることもあり、度重なる課税も重くのしかかることでパリ市民は絶望の中暮らしていたとされます。

フラメルもその収入の半分近くを税金として徴収されていたと考えられますが、彼はかなりの資産を慈善活動に費やしていました。そのため自身の住居はパリのブルジョワの中でも控えめであったといいます。フラメルの主邸には『財に欲々たる者、何も持たずして満たされることなし』という銘文が刻まれているそうです。

 

錬金術師ニコラ・フラメル

敬虔なキリスト教徒で商才に長け、財を成しながらも貧しい人々に分かち与えた。これがニコラ・フラメルの人物像です。このような人物が錬金術に造詣が深く、水銀から黄金を錬成する賢者の石の製作に取り組んでいたというのは意外な印象がありますよね。以下に錬金術師としてのフラメルの伝説や錬金術について紹介していきます。

 

黄金の価値

黄金はフラメルにとって特別な価値を持つものでした。特権階級相手の写本の制作には飾り文字や装丁のためにかなりの量の貴金属が必要であったと考えられます。そして教会でもまた、金銀や宝石は宗教美術の装飾や聖なるものの像を荘厳に彩るために伝統的に用いられていました。

そのためフラメルは財産家でありながらも日常的に金を欲していたと推測されます。またこの時期のパリでは先に説明したように政党間の権力争いが激化していたため、平価の切り下げが頻繁に起こっていました。このことからパリ市民の間では確実な価値を有する金に注目が集まるようになり、当時は誰もが金を欲していたのです。

更にこの時代のパリにおいて、金銀細工師や金を扱う職業に就くものは純金しか使用してはいけないとされていました。そして合金や模造品を純金として使用した場合には厳しい罰金刑や年単位の追放という厳格な処置が課せられたといいます。そればかりか金の純度についても最低含有量が定められており、パリでの金の質は他の如何なる場所よりも高水準であったと考えられます。

後年の研究ではフラメルは純金であると信じて合金を作り、彼から金を買い取った金銀細工師はそれを黄金と取り違えたのではないかという説もあります。しかし当時のパリの黄金に対する厳格さを鑑みると、故意ではないとはいえ1度ならず合金を黄金として流通させ、それが陪審判事などに見つかることがなかったというのは無理があるのではないかという指摘されています。

 

錬金術

中世において錬金術とはどのような存在だったのでしょうか?古代エジプトで産まれギリシアとアラブ世界を通じて11世紀頃にヨーロッパに定着したとされる錬金術は、ゲーベルの『七十の書』や『患者の一群』といったアラビア語の書物がラテン語に翻訳されることによって、ヨーロッパにやってきました。

金や銀といったものは自然界において純粋な状態で見出すことが極めてまれであったため、中世の人々にとって金属変成というのは神の業であると考えられていたそうです。また当時は音楽でさえ宇宙の動きを調和のある音階とみなす、錬金術的な表現のひとつと考えられていたのです。

このような時代に出版業を営んでいたフラメルもまた、錬金術について記した本に触れる機会は少なからずあったのでしょう。彼は現在もパリ国立図書館とアルスナル図書館に抄本や複写が保管されている『イーシュ・メツォラフ』というタイトルの写本を入手したとされます。

この写本には両踵に翼が生え手に2匹の蛇が巻き付いた杖を持った青年や、高い山の頂に美しい花が咲き、北風に激しく揺られる図、見事なバラの樹がある庭園の図や大きな肉切り包丁を持った王が目の前で大量の幼児を兵士らに殺害させている図などが描かれているそうです。

こうした抽象的な記述は錬金術文書の特徴であり、例えば雄と雌の2匹の龍あるいは蛇は硫黄(空気と火)と水銀(水と土)を表しています。そしてこれらのイメージを通して一連の錬金術実験に必要な知識を得ることで、銀と金を作り出す秘法の知識を解読することが最終目的とされていました。

 

ニコラ・フラメルと賢者の石

ニコラ・フラメルが錬金術に傾倒したきっかけは夢で見た一冊の本でした。彼はある時、天使に古書を差し出されたものの手を伸ばしたところで消えてしまい、結局本を手にすることが叶わなかったという不思議な夢を見たといいます。

その夢を見て暫くした1361年のある日、風変わりな旅人が彼の店を訪れ一冊の古書を買い取ってくれないかと頼むのですが、その本こそが夢で天使の持っていた本『ユダヤ人アブラハムの書』だったのです。当然フラメルはこの本を買い取り解読に励むのですが、思うように読み進めることができません。

彼はこの古書が金属変成、つまり賢者の石の制作方法について記した錬金術の秘伝書であることは即座に理解したのですが、内容は秘伝について知る者のみが解読できるような抽象的な図で表現されていたため解読は思うように進まず、何の成果も得られないまま18年の月日が過ぎたのでした。

そんな折、彼の研究を一番近くで見ていた一番の理解者であった妻のペルネルからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼を勧められます。当時のスペインにはユダヤ人の哲学者が多く集まっており、錬金術にまつわるカバラ研究の中心地となっていたのです。

スペインで巡礼を済ませた後、フラメルはレオンの町でキリスト教に改宗したユダヤ人であるカンシュという名の医師に出会い意気投合。『ユダヤ人アブラハムの書』を見せたところ彼は大いに興奮し、自分にも解読を手伝わせてほしいと頼まれたといいます。

そして2人はパリへの帰路の間にも古書の解読に励み、金属変成の秘法の大部分について読み解いたそうです。しかしパリに着く前にオルレアンでカンシュ師は急逝。遺言で秘法の解読を任されたフラメルはパリに戻っても引き続き研究に没頭しました。

1380年にはパリで国王による錬金術禁止令が発令されましたが、フラメルは役人の目を盗みながら秘密裏に研究を続けました。そして妻ペルネルの協力を得ながら1382年1月に遂に水銀から金を生み出すことに成功したのです。その後彼は4月に2回目の金属変成に挑戦し成功し、次いで3回目に成功したところで金属変成の実験を行っていません。

3回に渡る金属変成で得た財でフラメルはパリ周辺の6教区の領主権を買い取り、そしてこの不動産や金貨を慈善活動に使用しました。一介の書生がどのように莫大な財産を得ているのか怪しく思ったシャルル6世の命令によりフラメルのもとを訪れた審理官は、彼らの質素な生活や志を見て、王の追求から保護をしたといいます。

そして1397年に最大の理解者であった妻のペルネルが死去、1399年より自身の得た錬金術の秘法についての書物の作成に取り掛かったフラメルは1413年に著作『象形寓意の図』を完成させた後、1418年に他界しました。

 

ニコラ・フラメルの実態と疑惑

賢者の石を制作したとされるニコラ・フラメルですが、実はその証拠となるものは残っていません。また彼が賢者の石を作り金属変成に成功したという根拠とされてきたのが、フラメル自身が書いたとされる著作『象形寓意図の書』なのですが、これについても疑惑が出てきています。

特にナイジェル・ウィルキンズによる見解は有力視されており、そもそも『象形寓意図の書』自体がフラメルの死後に第三者によって書かれたものなのではないかと推察されているのです。以下に近年指摘されるようになった錬金術師ニコラ・フラメルに対する疑惑について紹介していきます。

 

象形寓意図の書

フラメルが自身の錬金術研究について記したとされる書物は『象形寓意図の書』『賢者の概要術』『聖務日課書』の3冊が挙げられます。特に1612年にポワトゥー地方の貴族アルノー・ド・ラ・シュヴァルリーによって出版された『象形寓意図の書』は、今日に至るまで錬金術師としてのフラメルに対する批判や伝説の礎になっているのです。

同書の中には『ユダヤ人アブラハムの書』の写本を手に入れてからの、フラメルの試練の生涯が描かれています。写本の説明をしてくれるユダヤ人祭司を探すためのスペインへの旅路や、学識のあるカンシュ師との出会い、彼との共同作業やオルレアンでの急逝といった感動的かつ壮大な物語が展開されているのですが、後の研究でこれは全て作り話であることが判明しています。

その根拠はいくつかありますが、まず挙げられるのが『象形寓意図の書』には原典となるラテン語の手稿が存在しないことです。また記載されている錬金術についたの解釈などは16世紀のオカルト学からの引用が多くみられるため、フラメル自身の著作ではなく出版者であるアルノーが書いたのではないかと指摘されているのです。

この指摘に対してアルノーは反論文を出しており、ラテン語の原典もいずれ出版すると明言しています。しかし、この約束は守らることはありませんでした。

次に不審な点として挙げられるのが、同書の中にはフラメルの妻・ペネロペが彼の研究に熱心に助力をする様子が度々描かれていることです。作中でフラメルは賢者の石製造の秘法を知るためにスペインなどに旅立ちますが、これに対してペルネルに許可を求めたり、自身の研究の報告を逐一ペルネルに伝え、成果を共に喜び合ったという描写が多く見られます。

こういった夫婦像というのは現代でこそ違和感のないものですが、封建制の色合いが強かった14世紀、15世紀にこのような夫婦関係が成立していたとは到底考えられないのです。実際にペルネルは彼女の遺言書で夫のことを『主君にして夫』と表現しており、対等な関係であったとは思えません。

また他者との関係という点でいうと、共に賢者の石の秘法を解明したカンシュについても疑わしい点があります。著作内で、フラメルは急逝したカンシュのためにサント・クロワ教会に毎日ミサをあげてもらうよう年金を支払うことにした、という一文があるのですが、彼自身の遺言状にはそのような記述は一切見られないのです。

そして第三の不審点として、サン・ジャック・ド・ラ・ブリーシュ教会に残っているフラメルの財産目録や記録と照会すると、彼がパリを離れたのは生涯で2度ほどであり、賢者の石をめぐるような冒険を行っていた時期が見当たらないことが挙げられます。

 

偽書

さて『象形寓意図の書』には極めて興味深い図が載せられています。本書に掲載されているフラメルが遺したアーケードを描いた版画は、実際に1786年に建築家ベルニエがサン・ジノサン墓地が取り壊される前にスケッチしたものと異なる点が見られるのです。

ベルニエがスケッチした実在のアーケードでは鍵を持つ聖ペテロが神の右手に、剣を持つ聖パウロが左側、つまりフラメルの隣にいます。しかし書籍内に掲載されている図ではこの2人の聖人の位置が入れ替わっているのです。どうしてこのように手を加えた図を載せたかというと、同書の中では金属変成の様々な過程を順序良く語る必要があったからと考えられています。

しかし『象形寓意図の書』の偽作者と考えられているアルノーは、何故このように手の込んだ偽書を出版する必要があったのでしょうか?実はポワトゥー地方の貴族アルノー・ド・ラ・シュヴァルリーという人物が何者であったのか、または実在の人物であったのかということについて解明できていません。

そしてこの謎の人物の正体として考えられているのがピエール・ベローという錬金術師です。

 

ピエール・ベローとアルノー・ド・ラ・シュヴァルリー

引用:http://www.kidskunst.info/

ピエール・ベローは1628年にパリで『ニコラ・フラメルによる、あらゆる金属変成のための賢者の石の大いなる秘密解明』という書籍を出版しています。同書内にはしばしば『象形寓意図の書』と酷似した文体が見られるのです。

研究者達はおそらくベローが最も著名なヘルメス学者の1人であるアルノー・ド・ヴィルヌーヴから名前を取って、アルノー・ド・ラ・シュヴァルリーと偽名を使っていたと考えています。

17世紀に入ると、錬金術や賢者の石に対して懐疑的な目を向ける学者も増えていました。この自然哲学(錬金術)と化学の争いは激化していき、この争いに利用されたのが亡きニコラ・フラメルではないかとされていれるのです。

錬金術を肯定するためには賢者の石の製造に成功した人間が必要でした。しかし当時の錬金術師達の中に金属変成に成功している者はおらず、公的な記録に残る寄付ができる程の資産も持っていたフラメルであれば賢者の石を作って金を生成していたとしても説得力があったのでしょう。

実際、この頃の時代では抜きん出た財産を所有していると「あいつは錬金術で金を生成しているに違いない」と噂されることも少なくなかったといいます。

 

ニコラ・フラメルの伝説

フラメルの死後、偉大なる錬金術師であったという彼の伝説は独り歩きを始めます。次第に1711年にポール・ルカが記した『ギリシア、小アジア、マケドニア、アフリカ旅行記』の中では、公的には亡くなっているはずのニコラとペルネルが未だ生きているという話が載っていたり、1761年には夫妻がオペラ座にいたのを見たという者が現れたりと、フラメルは不死の力を得たという噂も見られるようになります。

また18世紀のパリではフラメルの所有した不動産や、彼が錬金術の研究に励んだという自宅の地下室などを巡るツアーも催されたそうです。この頃の錬金術師にとってフラメルは実に偉大な先達であり、夫妻が建てた建造物とあらばどんなものであっても訪れるのを厭わなかったといいます。

彼らは建造物に施された彫像や壁画に錬金術的な意味を求め、死後に後付けで建てられた建造物についてもまことしやかな噂が付いて回るようになりました。また賢者の石を求める家捜しも同時に激化していき、特に夫妻の主邸は壁や床をはがされ徹底的に捜索が行われました。ちなみにこの捜索にはフランス政府まで加わっていたといいます。

その後もフラメルに対する崇拝にも近い念は19世紀になってもなお生き続け、研究者の中では彼が自然をも操ることができ、あらゆる種類の物質を他のものに変成することができたという神のような存在と考え始めました。

そして20世紀に入ると小説などフィクションの登場人物としてフラメルは活躍するようになります。この流れは現在にも続き、未だにフィクションの中で偉大なる錬金術師ニコラ・フラメルは生き続けているのです。

 

まとめ

偉大な錬金術師とは偉大な哲学者でもある、という思想が中世の錬金術師の間ではあったといいます。そのため錬金術生まれた富を自分のために使うような人間は、伝説の錬金術師の称号にはふさわしくなかったのでしょう。

その点、教会に寄付の記録が残っており慈善活動家として知られるフラメルであれば人格的にも偉大な錬金術師として祀り上げるのに申し分なかったのではないかと考えられています。

フラメルの伝説が本人の死後に後付けで作られたというのは近年の研究で有力視された説ですので、今後覆される可能性もあるでしょう。しかし、いずれにしても本人が望まなかったにせよ、フラメルが数奇な人生を歩んだということは変わりないようです。



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