刑務所からの「脱獄」というのはドラマや映画の中では見聞きすることがあっても、日本で実際に起こることはほとんどありませんよね。
しかし、世界では驚くような方法で脱獄を成功させている囚人がいるようです。
①ヘリコプターで脱獄
2007年7月にフランスで発生した脱獄事件のニュースは瞬く間に世界中へと配信されました。
それは何と「ヘリコプターを使っての脱獄」という大胆すぎる脱獄事件だったからです。
脱獄囚の名はマルセイユ出身のパスカル・パイエという男で、強盗殺人の罪によって無期懲役を言い渡されていました。
実はパイエが脱獄を試みたのはこれが初めてではありません。これまで二度脱獄を試みたことがあるのですが、いずれも方法はヘリコプターを使った方法でした。
その方法はいたって単純なものです。
まず、仲間が刑務所近くの空港でヘリコプターをハイジャックし刑務所の上空に向かいました。そして刑務所屋上で待っていたパイエをヘリコプターに乗せ飛び去ったのです。
パイエは数ヶ月間逃走を続けましたが、再び逮捕され服役中です。しかし、現地では「今度はホバークラフトで脱獄するのでは?」と予想されているとのことです。
②模造銃を使って脱獄
アメリカのインディアナポリス出身のギャングである「ジョン・デリンジャー」は1930年代前半アメリカ中西部で銀行強盗を何度も繰り返していました。そしてデリンジャーは逮捕されるたびに何度も刑務所からの脱獄を成功させました。
そんな彼は当時マスコミの注目の的となり、義賊として大衆にもてはやされていたそうです。
しかし、1934年3月にインディアナ州クラウンポイントにある当時最高のセキュリティを誇り「脱獄不可能」と言われる刑務所に収容されてしまいました。ところがデリンジャーは、木片を靴墨で黒く染めた模造銃で看守を脅し、「脱獄不可能」な刑務所からの脱獄をあっさりと成功させてしまったのです。
当時のマスコミはむざむざ犯人を逃した保安官を嘲笑的に報じたそうです。
1934年6月、デリンジャー逮捕に躍起になっていたアメリカ連邦捜査局(FBI)は彼を『社会の敵ナンバーワン』に指名し、彼に最大20,000ドルの賞金をかけました。
その結果1934年7月にFBIはデリンジャーの顔馴染みだった売春婦から情報を得ることに成功したのです。
そして、FBIは売春婦にデリンジャーを誘い出すよう強要し、待ち伏せしていた映画館の出口で彼を射殺しました。一説によると、銃を抜く動作をせず「撃たないでくれ!Gメン!」と叫んだディリンジャーの背後から発砲したとも言われています。
③小さな穴から脱獄
2012年9月韓国の留置所でウソの様な脱獄事件が発生しました。
その日、強盗の容疑で拘留されていたチョイ・ギャプボクは、独房にある食事の受け渡し用の小さな穴から抜け出しました。その大きさはなんと紙幣程の大きさしかないと言うのです。
チョイ・ギャプボクは上半身は23年間続けていた「ヨガ」の技術で、看守がちょっと目を離した数十秒の間にこの穴を抜け出し、留置場を脱獄しました。
しかし、彼は脱獄の6日後に再逮捕されてしまいました。「ヨガ」の技術で穴から抜け出すことは出来ても、警察の捜査の目を逃れることは出来なかったようですね。
④ナチス収容所から命を賭けた脱獄
1942年にスロバキア出身のアルフレッド・ウェツラーは24歳の誕生日を前にポーランドにあるナチスのアウシュビッツ強制収容所に収監されてしまいました。強制収容所での生活はまさに地獄の様だったと言います。
収監から2年後の1944年春、そんな地獄の収容所生活からの脱獄を決意し、同郷のルドルフ・ヴルバと共に収容所の材木の下に身を潜めました。当然収容所では大規模な捜索が行われたそうですが、運よく彼らは捜査の目を逃れることができました。
そして空腹に耐えながら捜査が収束するのを待つこと4日間。遂にフェンスの下に掘った穴からの脱獄に成功したのです。そして、近くの民家から背広を盗み、堂々と歩いてポーランドから立ち去ったのです。
戦時下にナチスの強制収容所からの脱獄という、まさに命を賭けた大脱出劇でしたが、彼らの行動はそれで終わりではありませんでした。ポーランドから脱出した彼らは、すぐさま収容所での集団虐殺の真相を同盟軍の最高司令官に伝えたのです。
その結果、アウシュビッツに向かう列車を阻止することに成功し、列車に乗っていた12万人の命が救われました。
アウシュビッツ強制収容所は1945年1月27日にロシア軍によって開放され、山積みの死体とミイラのように衰弱した生存者が発見されました。後の捜査によると100万人以上のユダヤ人がこの収容所で集団虐殺されたことが判明したそうです。
⑤難攻不落のハイテク刑務所からの脱獄
2005年イリノイ州オールトンにある最高セキュリティのハイテク刑務所で脱獄事件が発生した。
脱獄犯のクオンテ・アダムス(33歳)は、大麻密売の罪によって逮捕され、これまで収監されていた他の刑務所でも度々脱獄を試みていたことから「最も警戒するべき囚人」と見なされ、オールトンのハイテク刑務所に移送されることになりました。
アダムスが収監されていた独房は、施設の1階に位置し壁や天井は鉄鋼板で作られており、監視カメラによる24時間監視の他、看守による点検も30分毎に行われていました。
しかし、アダムスは金属切断用の弓のこ刃を忍ばせた書籍を、ほかの囚人から手に入れ、監視カメラの死角をついて天井に穴を空けてしまったのです。
更に驚くことにアダムスは、ニュースペーパーに「独身の黒人男性の方連絡をください」と広告を出していた40歳の白人女性に連絡を取り文通を開始しました。
そして、徐々にアダムスに夢中になっていた彼女に対して「出所するから車で迎えに来てほしい」と連絡を入れました。
こうして逃走手段を確保したアダムスは、脱獄を決行します。屋根裏から通気シャフトを通って屋外に脱出したアダムスは、ロープを使って刑務所の塀をも乗り越え見事脱獄に成功したのです。
しかし、アダムスが「出所」ではなく「脱獄」したことに気づいた女性が不安になり警察に連絡を入れたため、潜伏先のモーテルであえなく逮捕されることになりました。
⑥刑務所に入った瞬間に脱獄
「脱獄史上最も速く脱獄した」と言われているのがフランスのジュリアン・ショタールです。
2009年、放火の罪で逮捕された彼はイギリスのペントンヴィル刑務所に護送されていました。護送車が刑務所に到着し他の囚人達が建物に入っていく中、なんと彼は看守達の隙を見て、今乗ってきた護送車の影に隠れ、その底面に張り付いたのです。
護送車はそれに気づかずそのまま刑務所を出てしまい、ジュリアンは収監されることなく脱獄に成功したのです。
刑務所の職員達は彼がどうやって脱獄したのか全く見当がつきませんでしたが、監視カメラの映像をチェックしたところ護送車の下に写るジュリアンの影に気づいたそうです。
⑦アルカトラズ刑務所からの脱獄
アメリカのカリフォルニア沖に浮かぶアルカトラズ島は、灯台、軍事要塞、軍事監獄、そして1934年から1963年まで連邦刑務所として使用されていました。
アルカトラズ等が連邦刑務所になった当時は、大恐慌や禁酒法により組織犯罪が激化しており、凶悪犯を収容する事が施設の目的とされました。
その為、刑務所の脱走対策は万全に施されているのに加え、島全体が海に囲まれていることから脱出不可能と言われていました。
しかし、脱獄不可能とされたアルカトラズ刑務所も約30年間の連邦刑務所時代に、計14回、36人の受刑者が脱獄事件を起こしています。脱獄を試みた受刑者は23人が拘束、6人が射殺、2人が溺死、5名が行方不明とされています。
行方不明の5名も溺死したものと推測されているようですが、この内「本当に脱獄に成功したのでは?」と考えられているのがワシントンD.C.生まれのフランク・モリスです。
フランク・モリスは幼い頃から里親に育てられ、10代の頃から何度も犯罪に手を染めていましたが、何とIQは133もあったと言われています。
1960年1月20日に強盗の罪によりアルカトラズ連邦刑務所に護送されました。彼はアルカトラズに着いてすぐに仲間と共に脱獄を計画していたそうです。
彼らは2年もの歳月をかけて、海を渡るためのイカダと自分たちに似せた人形を作り、さらに仕事場から盗んだ道具を使って、監房のコンクリート壁を交代で掘り、通気口まで続く穴を掘ることに成功しました。
そして、1962年6月11日の夜、ついに3人は脱獄を決行しました。
彼らは用意しておいた人形をベッドに寝かせ、掘った穴から煙突を登って屋根伝いに脱出し、用意しておいたイカダで海に消えていきました。
看守がモリスらの脱獄に気づいたのは翌朝のことでした。当然大規模な捜索が行われましたが、脱出に使われたイカダや防水バッグは発見されたものの、モリスらの遺体は見つかりませんでした。
その後、現在に至るまでモリスらの行方は分かっておらず、FBIは1979年に捜査を中止しています。
⑧日本の脱獄王
最後にご紹介するのは、収容先の刑務所で次々と脱獄事件を起こし「昭和の脱獄王」と呼ばれた白鳥由栄です。
白鳥は手錠の鎖を引きちぎることができる程の超人的な腕力、1日に120kmもの距離を走る持久力、更には身体の関節を自由に外すことができる特殊体質を持っており、頭が入るスペースさへあれば簡単に抜け出すことが出来たと言われています。
白鳥は1933年に仲間数人と強盗殺人を犯し、その2年後に自首し投獄されました。
その際に収容された青森刑務所で劣悪な待遇について抗議したところ、過酷な懲罰を受けたことがきっかけとなり、その後、何度も脱獄と収監を繰り返す人生を歩むことになりました。
白鳥は26年もの服役生活の中で計4回の脱獄を成功させています。
1936年 青森刑務所 - 針金で手製の合鍵を作り、開錠して脱獄。
1942年 秋田刑務所 - ブリキ板に釘で加工した手製の金工鋸で鉄格子を切断し、脱獄。
1944年 網走刑務所 - 味噌汁で手錠と視察孔を錆びさせ外し、関節を脱臼させ、監視口をくぐり抜けて脱獄。
1947年 札幌刑務所 - 床下からトンネルを掘り脱獄。視線を上に向けてごまかしながら隠し持った金属片でノコギリを作り、床板を切断。食器で穴を掘って逃走
1948年 府中刑務所に収監。以後模範囚として過ごし、1961年に仮釈放。
また、白鳥は脱獄の際に看守に怪我をさせたり、人質を取ったりするようなことは一度もなく、当時の看守の間で「一世を風靡した男」と評されました。
更に小説、漫画、ドラマなどのモデルとしても数多く描かれており、まさに脱獄王の名にふさわしい人物と言えます。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は8つの歴史的脱獄事件についてご紹介しました。
脱獄事件は過去の話という訳ではなく、最新のセキュリティ設備に守られた現代の刑務所等でも発生することがあります。
どれだけ最新のシステムを導入しても、最終的には警備している人によって守られているという事ですね。