都市伝説とは実に幅広く奥深いものです。
『口裂け女』や『トイレの花子さん』のような誰もが知っている昭和の伝説もあれば、ネット社会ならではの最新版までバラエティ豊かに選り取り見取り。
今回はそんな不気味で魅力的な都市伝説の中から、特に日本の歴史にまつわる19個の都市伝説をご紹介します。
都市伝説其の1 最強の陰陽師・阿部清明は狐の子?
引用元:https://matome.naver.jp/
陰陽師・阿部清明(あべの せいめい)。
名前くらいはほとんどの方が耳にしたことがあるのではないでしょうか?
近年では彼を主役とした映画やアニメ・漫画・小説も多く、果てはゲームのキャラクターにもなっています。
そして都市伝説とは言ったものの、清明は間違いなくこの世に実在していた人物です。
ただ、その生まれ育ちには謎が多いのもまた事実。
今回はそんな謎多き彼について簡単にではありますがご紹介します。
清明の経歴
静明は平安時代延喜21年(992年)阿部益材(あべの ますき)の息子として下級貴族の家に生まれました。
ただし、この出生の地点で既に不透明で彼の父親に関しては諸説あります。
貴族の嫡子であり後に宮廷でそれなり以上の地位を賜った男性の、母親ならばいざ知らず父親がハッキリしないということは通常ありません。
さらに、清明は産まれてから実に40歳になるまでの記録らしい記録が残っていないのです。
波乱万丈毎日戦争な戦国武将ですら幼少期からの逸話や記録が紛失せずに残っているというのに、これもまた不思議な話です。
では、ようやく記録が残り始めた40歳の清明は何をしていたかと言うと、天体観測をする学生でした。
40歳で学生……実家暮らしニートよりはマシですが、なかなかに不遇な人生を送っていたようです。
当時は加茂氏という別の家が陰陽師を世襲していて、清明も加茂市に陰陽道の教えを受けた一人であるためなかなか活躍のチャンスが巡ってこなかったのでしょう。
世の中実力だけではなくタイミング(運)が大事なのは今も昔も変わりません。
清明が晴れて陰陽師デビュー出来たのは47歳の頃。
当時の平均寿命35歳を考えると遅咲きにもほどがありますが、ここから彼の人生は一変します。
もともと占いの才能を認められていた彼は、禊をして帝の病を平癒したり、雨乞いをして干ばつからくる大飢饉を防いだりと出世街道を歩みました。
ちなみに清明は亡くなる数カ月前まで仕事に勤め、85歳で亡くなりました。
当時の感覚で言えば化物じみたご長寿と言えましょう。
そもそも陰陽師とは?
ところで、陰陽師とは具体的にどんな仕事をする人たちだったのでしょうか?
アニメや漫画の世界では呪符を用いて式神を操る鬼ハンターになっていますが、あれはあくまでフィクションです。
実際の陰陽師とは宮廷の総務を担当する中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮での役職でした。
まさかの国家公務員。ちなみに定員は6人なのでかなり就職厳しいです。
陰陽師は中国伝来の陰陽五行に基づく陰陽道で、帝や貴族、民のためにお祓いや祈祷をします。
平安時代は華やかな貴族文化が開花する一方で、庶民は飢饉や干ばつや疫病に苦しんでいました(芥川龍之介の『羅生門』にもその様子が描かれています)。
そして当時は『物の怪』(もののけ)や鬼の存在が信じられていて、都で起こる飢饉や疫病は全て『物の怪』の仕業と考えられたのです。
そこで、人々は神仏や陰陽師に救いを求めました。
また、陰陽師は祈祷やお祓い、占いの他にも天文・暦・時間の管理も行います。
天文・暦・時間は占いをするにも必須であったためです。
つまり、陰陽師はオカルトめいた存在であると同時に、平安時代における学者でもありました。
母ちゃん狐?!葛の葉伝説
さて、前置きが長くなりましたが、ここからがいよいよ『伝説』です。
清明の父親に諸説あることは前述しましたが、母親はさらにハッキリしません。
そのこと自体は一夫多妻の夜這い・通い婚のご時世、珍しくもないのですが……流石に『お母さん狐?』説があるのは清明くらいのものでしょう。
そう、清明の母親は実は人間ではない。
人間に化けた狐・葛の葉であるという伝説があるのです。
引用元:http://seian-fineart.jp/">
清明の父親・希名(まれな)は陰陽師の大家・賀茂保憲(かものやすのり)に弟子入りしました。
保憲は希名の才覚に期待し、娘の葛子とめあわせいずれ所帯を持つように話を運び、希名に自分の名を一字与えて保名(やすな)としました。
希名改め保名はこれも神仏のおかげとお参りにでかけ、帰りに狐狩りに追われていた一匹の白狐を助けてやりました。
ところがしばらくして、保憲は無実の罪を着せられ流罪になってしまいます。
一族に伝わる秘宝を守る為、泣く泣く一人残った保名。
ある日、保名の元に父親と共に流罪先に行っていた葛子が戻ってきました。
聞けば保名が恋しくて一人戻って来たと言うのです。
父親を置いてくるなんてと叱ったものの、若い娘に『あなたが恋しくて』と訴えられれば保名も悪い気はしなかったのでしょう。
二人はそのまま夫婦として暮らし、男の子を設けました。
童子丸と名付けられた男の子はとても美しく賢い子でしたが、何故かイナゴや蜘蛛などを食う悪食癖があり両親を嘆かせました。
悲しむ両親を見た童子丸が悪食をやめた頃、保憲が流罪を解かれて帰って来たのは良い物の――何故かその隣には葛子が!
え?じゃぁここで一緒に暮らして子まで産んだ葛子は誰?!
ここで驚きの事実が明かされます。
保名と暮らし童子丸を産み育てていた葛子は、実はかつて保名が助けてやった白狐の変化した姿だったのです。
白狐は障子に『恋しくば 尋ねても見よ和泉なる 信太のもりのうらみ葛の葉』と形見の歌を残して消えました。
この白狐から生まれた童子丸こそが、のちの阿部清明です。
不思議で物悲しい伝説ですが、後々まで語られる希代の陰陽師の母親が稲荷明神第一の使者である白狐というのは夢がありますね。
都市伝説其の2 人魚伝説と八百比丘尼(やおびくに)
引用元:http://tinsoh.blogspot.com/
人魚と聞くと、今時の人間はたいていディズニーの『リトルマーメイド』的な可愛らしくファンタジックな物語をイメージするのではないでしょうか?
しかしこれからお話しする和製人魚は、そうしたメルヘンとは無縁の物語なのです。
人魚の肉を食べた娘
時は645年斉明天皇の御代。
若狭の国(現・福井県)にあるお金持ちがおりました。
金持の家にはたいそう美しい娘がおり、彼女が16歳の時に父親はある男から食事に招かれます。
男の家はとても立派な豪邸で、調理場では贅沢な宴会の支度がされていたのですが……まな板にはとんでもない食材が乗っているではありませんか!
肩から下が魚、そこから上はざんばら髪に白い二本の腕を持つ童女――人魚です。
豪邸の主は『竜宮の土産だから是非ご賞味あれ』と人魚の肉を勧めてくるものの、そんな得体の知れない気味の悪い肉など食べられたものではありません。
箸をつけずに帰ろうとする金持に、主は土産にと人魚の肉を押し付けました。
娘は父親が持ち帰った不思議な肉に興味深々、つい口にしてみれば何とも美味ではありませんか。
気が付けば娘は人魚の肉をすっかり平らげていました。
そして、その日を境に娘はまるで年を取らなくなったのです。
不老不死となった娘のその後
娘は人魚の肉を食べたことにより千年の寿命を得ました。
彼女はその内200歳を国主に譲り、自身は800歳で若狭に戻って亡くなったと伝えられています。
この長すぎる寿命を彼女は儚み、尼となりました。
ここに伝説の八百比丘尼が誕生したのです。
尼となった娘は全国を行脚し、仏の教えを説きました。
これが有名な八百比丘尼伝説です。
やがて800歳を迎えた比丘尼は若々しい姿のまま空印寺に入定(にゅうじょう・仏教修行における最後の瞑想)し、気が遠くなるような寿命をようやく終えることができました。
空印寺には今も比丘尼の象が祀られています。
比丘尼は本当に800年を生きたのか?
それは誰にも分らないことですが、八百比丘尼は個人の名ではなく集団の名前であったとする説もあります。
つまり、熊野の絵解き比丘尼(絵巻物を見せながら琵琶などと共に歌で仏の教えを説く集団)のように、八百比丘尼を名乗る集団が全国を行脚していたということです。
風魔の小太郎や山田浅右衛門が一人ではなく代々の頭の名であるのに似たシステムですね。
八百比丘尼伝説に見られる人魚
引用元:http://chikuwa-ramen.hatenablog.com/
今ではポピュラーな『下半身は魚なれど上半身は美しい女性』という人魚のスタイルは、西洋からの導入であり江戸期以降に広がったものと思われます。
それ以前はこんな感じで……妖怪にしか見えません。
都市伝説其の3 人魚は実在した?!
引用元:https://matome.naver.jp/
八百比丘尼で人魚のお話をしたついでに、現存する人魚のミイラを三点ほどご紹介します。
富士宮市にある天照教社所蔵の人魚のミイラ。
無益な殺生を重ねて来た罪で人魚に姿を換えられてしまった漁師が、聖徳太子に話し掛けました。
『私の醜い姿を残し、殺生戒の恐ろしさを末永く語りお役に立ててください』と。
それを聞い太子はミイラを手厚く供養し寺に納めました。
引用元:https://matome.naver.jp/
滋賀県 願成寺の人魚のミイラ
ある美しい尼が願成寺に手伝いに通っており、いつしか彼女に可愛らしい小姓がくっついて歩くようになりました。
羨ましくなった村人が小姓をつけると、小姓は佐久良川にすっと消えたではありませんか。
驚いて投網を投げて捕まえてみれば、なんと小姓は人魚でした。
人魚の分際で尼に付きまとい迷惑をかけていたとミイラにされ見世物になっていた人魚を、気の毒に思った人たちが今は亡き尼の眠る願成寺に帰してやりました。
引用元:https://matome.naver.jp/
和歌山 学問路苅萱堂の人魚のミイラ
物語の石堂丸の母親・千里の前もこの人魚を崇拝しています。
真贋を問うことはここではしませんが、いずれも小さくミイラであることを差し引いてもグロテスクであることが特徴です。
都市伝説其の4 松江城の人柱
引用元:https://xn--y8jwb3fsa0346bwq3atxzab5s.com/
時代劇などで時々出て来る人柱。
簡単に説明すると、なかなか架からない橋を架けるためや、川の氾濫を止めるため、更には城などを堅固に立てるために生きた人間を柱として土中や水中に埋めて生贄として捧げることを指します。
人柱の人選にはザックリとわけて2パターンあったようです。
一つは使命感や自己犠牲的な忠義から志願し、自発的に人柱になるパターン。
もう一つはよそ者や罪人、その他都合の良い人間を無理矢理埋めてしまうパターン。
いずれにせよ人柱にされた人間は暗い土中で一人孤独に窒息死するのですから、何とも残酷なオマジナイです。
今回はこの人柱が実際に施されたという城を一つご紹介しましょう。
盆踊りの悲劇・人柱にされた娘
島根県松江市のシンボルである松江城は、2015年7月に国宝として指定された有名な城の一つです。
実戦を意識した質実剛健さと黒を基調とした引き締まった美しさ兼ね備えたこの城には、しかし悲しい伝説が残されています。
堀尾吉晴(ほりお よしはる)と忠氏(ただうじ)父子が城の建築に着工したものの、大切な天守の石垣が積んでは崩れを繰り返し工事が一向に捗りません。
そこで『人柱を立てれば上手くいくのでは?』と考えた堀尾家の家臣たちは、盆踊りに集まった人々の中から踊りの上手な美しい娘を浚って天守台に生き埋めにしてしまいます。
人柱が功を奏したのか城は無事完成しましたが、それからというもの城下で盆踊りをすると天守が揺れ女の啜り泣きが聞こえるという怪異が発生するようになりました。
これを人柱にされた娘の祟りと恐れ、松江では盆踊りを踊らなくなったと言います。
虚無僧説
埋められたのは娘ではなく虚無僧(尺八を吹いて物乞いをする僧侶)であったという説もあり、この場合夜な夜な天守から尺八の音色が聞こえて来たと言われています。
虚無僧の尺八が余りに不気味だから捕まえて埋めたというかなり理不尽な理由らしいので、恨まれもするでしょう。
また、吉晴の旧友である虚無僧が訪ねて来て『石垣が崩落した場所を調べろ』と言い、槍(矢であるとする説も)の貫通した頭蓋骨が出て来て丁重に供養した上で、息子の仕官と引き換えに虚無僧自ら志願して人柱になった説があります。
人柱の真偽と伝承の理由
最近の研究では城の建築で人柱が立ったと証明されたケースはなく、実際は人形やお札などで代用されたと考えられています。
それでも根強く人柱伝説が語り継がれた理由として挙げられるのは、城主たちを襲った相次ぐ不運故です。
堀尾氏には後継ぎがなく三代で断絶(忠氏に至っては27歳で怪死)。
その後に入った京極氏も後継ぎがなく一時廃絶。
こうも不幸が続くと、祟りが噂されるのも納得です。
ちなみに松江市では今も昔ながらの城下町エリアでは盆踊りをしていません。
都市伝説其の5 即身仏
引用元:https://www.driveplaza.com/
これを都市伝説呼ばわりして良い物か悩ましいところですが……一般的な感覚からしたらかなりの恐怖を伴う究極の、ある意味仏道修行の総決算ともいうべき行をご紹介します。
即身仏(そくしんぶつ)とは、修行を積んだ高僧が常軌を逸した人生最後の過酷な修行に自ら挑み、自身を生きながらミイラ化させることにより死後も衆生救済を目指した究極の姿です。
日本には20体近い即身仏が現存し、山形県鶴岡市には4体の即身仏が祀られ3体が一般拝観可能となっています。
即身仏になる手順
立派な即身仏になるには、まず生きている内の修行が大切です。
ここでは即身仏になるための手順を二つのステージに分けて説明します。
《ステージ1》木食修行
米や麦、その他の穀類を一切口にせず(十穀断ち)木の皮や実、山菜などだけを生命維持に最低限必要な分だけ食べます。
こうすることで腐敗の元となる身体の脂肪と水分を極限までこそげ落とし、ミイラになりやすい肉体が作られます。
これは途轍もない荒行であり、この地点で病死・錯乱などで挫折する者も多かったそうです。
《ステージ2》土中入定(どちゅうにゅうじょう)
地面に深さ3mの穴を掘り、そこに石室を築き木棺を入れます。
僧侶は防腐作用のある漆を飲み水分を吐き切ってから、生きたまま木棺に入り土中深く埋められます。
木棺・石室には空気穴として節を抜いた竹筒が通されているため、窒息死することはありません。
僧侶は土中で生存の証として鈴を鳴らしながら読経を続けます。
鐘の音が聞こえなくなると、成仏したとされいったん掘り出され、形を整えてすぐにまた埋められること千日。
再び掘り出されると何もしなくてもミイラになっているそうです。
人の手を借りず、自らの修行によってミイラとなるのが即身仏の基本と言えます。
よってエジプトのミイラとは違い、即身仏には本来腐敗しやすい脳や内臓がそのまま残っていることが特徴です。
ただし、木食修行が甘かったり、掘り起こしてもらえなかったり、自然環境がミイラ作成に適さなかったりした場合、失敗して腐ってしまうことも多かったと言われています。
ちなみに日本の現行法では即身仏は禁止され、手伝うと自殺幇助に問われます。
都市伝説其の6 花魁淵(おいらんぶち)
引用元:http://check.weblog.to/
おいらん淵は山梨県にある史跡です。
別名・五十五人淵とも呼ばれる花魁淵の名は、戦国時代に遊女たちを襲った悲劇に由来しています。
遊女皆殺し事件
武田勝頼の死により、武田氏の隠し金山・黒川金山も閉山となりました。
この時、金山の秘密漏洩を恐れた金山奉行は非情な命令を下します。
鉱山労働者の相手をしていた遊郭の遊女55人、及び金山に関わった部下を皆殺しにすることが決まったのです。
奉行は宴を開くからと遊女たちを呼びつけ、酒の余興にと藤蔓で吊った舞台で彼女たちを舞わせました。
そして――何も知らぬ遊女たちが舞っている間に蔓を切り、舞台もろとも55人もの遊女たちを淵に沈めて殺してしまいました。
実際に事件があったのは、さらに上流のゴリョウの滝のあたりとされ、供養碑が建てられています。
米軍は見た!
時代は進んで第二次世界大戦末期。
最初に原爆を落とされたのは広島ですが、実は当初の予定地は山梨であったという説があります。
ところが原爆を搭載したB29を操縦していたパイロットは、山梨上空で信じがたいものを見ました。
空一面に広がる遊女たちの姿。
『もうこれ以上私たちを傷つけないで』
パイロットは遊女たちの悲痛な叫びを聞き、この場所だけは攻撃してはいけないと爆弾投下を断念したそうです。
都市伝説其の7 リアル『指切り』げんまん
引用元:http://www.worldfolksong.com/
指切りげんまん
嘘吐いたら針千本飲ーます
指切った!
こんな歌を口ずさみながら、互いの小指を絡めて約束をした経験は誰にでもあることでしょう。
しかしこの歌詞、よくよく見れば小さな子供が屈託なく歌うには怖くないですか?
指を切るだの針を千本飲ますだの、物騒なことこの上もありません。
それもそのはず。
実際江戸時代には、遊女たちが誓の証としてリアルに指を切り落としていたといわれています。
遊女はその仕事の性質上、不特定多数の男と床を共にしなければなりません。
彼女らは年季明けまではと懸命に職務に励みますが、遊女とて木石ではなく心があります。
客の中の一人を本気で好きになった時、彼女らは『(身体は許しても)心は主さんのもの』という誓いを立てるために、自らの小指を切って男に送りました。
やり方は剃刀などを小指に宛がい、朋輩に鉄瓶で上から思い切りブッ叩いて貰うのがポピュラーなようです。
『げんまん』って何?
げんまん、漢字で書くと拳万。
つまり、約束を破ったら拳で一万回ぶん殴る!ということです。
殴られるほうも大変ですが、殴る方も拳を壊す覚悟がないと無理です。
歌の続き
指切りの歌は『死んだらごめん』と続く説があります。
『約束はもちろん守るけれども、うっかり死んじゃったらその時はごめんね』という意味のようです。
江戸っ子は約束に対して非常に誠実だったのでしょう。
都市伝説其の8 石川五右衛門釜茹で諸説
引用元:https://matome.naver.jp/
釜茹での刑にされた大泥棒・石川五右衛門。
釜『茹で』というからには、大きな釜にグラグラと湯を沸かして煮殺すものとばかり思いがちですが、実は執行方法には諸説あるのです。
オーソドックスにお湯で煮る
一般的に知られているオードドックな釜茹でです。
特徴はすぐには死ねず、ゆっくりと時間をかけて死んでいくこと。
五右衛門も最初はこれを受けたと言われています。
湯に油
囚人が余りにも絶命しなかった場合などに、煮えたぎった湯にやはり煮えたぎった油を注ぎます。
当然お湯と油なので大爆発し、罪人は火だるまに。
釜茹でというよりもはや火炙りです。
油でから揚げ
初っ端から有無を言わせず油。
生きた人間をから揚げにします。
釜茹でならぬ釜炒り
釜に何も入れずとにかく熱するのみ。
茹でるのではなく炒り殺します。
都市伝説其の9 セキュリティ香炉・千鳥
引用元:http://www.baikundo.co.jp/
上で五右衛門の話をしたついでに、彼が捕まるきっかけとなった香炉のお話を一つ。
時の関白・秀次は秀吉の養子であり、秀吉の跡を継ぐことが約束された身でありました。
しかし、思いがけず秀吉に実子・秀頼が出来たことにより、彼の立場は一転不安定なものとなります。
そこで度重なる秀吉からの冷遇を腹に据えかねた秀次の家臣が、希代の大泥棒・石川五右衛門に秀吉の暗殺を依頼しました。
五右衛門の前職は忍であったため、潜入暗殺はお手の物というわけです。
五右衛門は難なく秀吉の居城・伏見城に忍び込み、あとは殺るだけと相成りました。
ところがその時、秀吉の枕元に置かれていた香炉・千鳥が『ちりり』と鳴いたため、五右衛門は御用となり釜茹でに処せられたのです。
ちなみに信長所有の香炉・三足の蛙も本能寺の変の前夜に鳴いたと言い伝えられています。
戦国武将の香炉には、何かホームセキュリティ的な機能がついているのでしょうか……。