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河童ってどんな妖怪?河童の伝説や種類も調べてみた!

天狗、鬼とともに日本の3大妖怪に挙げられる河童。日本書紀や今昔物語の中にも河童を指していると思われる水神が登場するなど日本人にとって馴染み深い存在ですが、そのルーツはどこにあるのでしょうか?

日本各地に伝わる河童伝承や民俗学から見た考察などを紹介していきます。

 

河童の外見のルーツ

現在私達が共通で認識している河童の外見的特徴として、鼻先がクチバシのように前に突き出していること、甲羅を背負っていること、頭に皿をのせていること、青緑色の体色をしていること等が挙げられますが、このイメージを固定したされるのが寛永年間(1624年~1644年)に描かれた、豊後国日田で捕らえられた河童を写生した写真図です。

河童についてその名前が記された最古の文献は、室町時代の文安元年(1444年)に成立した『下学集』の中にある『かわうそ老いて河童に成る』という記述であるとされています。

この頃の河童は2足歩行をする水生生物に近い妖怪、というよりカワウソや猿といった野生の哺乳類に近い存在でした。また名前もカッパではなくカワラウと呼ばれていました。

その後18世紀に入ると西日本ではカワラウが転じてカワタロウ或いはガタロと呼ばれるようになり、関東と東北ではカッパという呼ばれ方が定着したといいます。そして外見についても西日本では依然として猿のように全身に毛が生えたものであったのに対し、関東、東北では現在の河童のイメージに近い両生類のようなものに変化していきました。

関東の河童のイメージはトノサマガエルやスッポンの外見に影響を受けているのではないかという考察があります。江戸の中心部には山が無く、代わりに水路が発達していたことから、関西のように猿ではなく両生類の蛙やスッポンの方が河童のモデルになりやすかったのではないかというのです。

しかしこのように河童のイメージが東日本と西日本でハッキリと別れた後も、長らく主流であったのは関西の猿のようなカワタロウであったとされます。

そこから関東の河童のイメージを日本全国のスタンダードにしたのが上で触れた豊後国日田の写真図です。実はこれも元々は江戸で捕らえられたという河童を描いた写真図が、誤って豊後(現在の大分県)で捕らえられた河童を描いた図と伝えられたものであることが後年の研究で分かっています。

しかし実際に捕らえた河童を描いたという写真図の影響力は大きく、これを切っ掛けに関西にも江戸のイメージが流れ込んでいったと考えられています。

更に葛飾北斎らが作品の中で江戸の河童を描いたことで、河童=亀やスッポンに近い外見的特徴を持つという概念が強化されていったと推測されているのです。

 

河童はどこから来たのか?

河童について名称が初めて記されたのは室町時代、外見や生態のイメージが固定されたのは江戸時代以降ですが、そのルーツは古代にあるという説や、河童は海外から輸入された妖怪であるという説も存在します。

以下に河童はどこから来たのか?という疑問に対応する代表的な考察を3つ紹介していきます。

 

水神が零落したものという説

河童の呼び名のひとつに『メドチ』というものがあります。この呼称は津軽を中心に青森全域、岩手、宮城に伝わるもので、元になっているのは『日本書紀』に登場する水神・大蛇(ミズチ)と考えられています。

メドチは子供ほどの大きさで色が黒く、人間を水中に引き込むとされ人間に化けることや霊魂を憑依させることができるといいます。

また種子島にも同様に河童の呼称として『ミッシドン』『メン』というものが伝わっており、こちらは真っ赤な顔をして赤ん坊のような泣き声をあげたり、ヒョウヒョウという声を出すとされます。

このように外見等の特徴は異なるにも拘わらず、本州の北端と南端で同じようにミズチを元にした呼び名が河童に与えられていたことから、民俗学者の柳田國男は河童は水の神の落ちぶれたものとして考察していました。

他に北海道にも、河童に酷似した緑色のウミガメのような肌におかっぱの頭髪という外見の『ミンツチカムイ』という魚を支配する水の神の伝承も残っています。

 

河童渡来説

中国では水の神を『河伯』と呼んでおり、『今昔物語』の中では河童らしいものが河伯という名で呼ばれる描写があります。

河伯は顔は人間、体は魚で大川の底に潜み仙術を心得ていたとされ、東南アジア原産の稲が日本にやってきたのと同じ頃つまり縄文時代の終わり頃に日本にも河伯信仰が伝わったのではないかと考えられています。

そして河伯の存在と日本古来の自然信仰が結び付いて河童が誕生したのではないかというのです。この考察の根拠としては、稲が一番早く渡来したと思われる九州に河童の伝承が多いことが挙げられています。

j実際に九州には大陸から河童が渡来したという伝承も多く、熊本県八代氏には唐天竺の黄河の上流に棲んでいた河童が日本に渡ってきたという河童渡来の碑も現存しています。

 

河童藁人形説

河童の手は右に引っ張ると左の手が短くなり、左の手を引っ張ると右の手が短くなると言われています。また引っ張るとすぐ抜けるなどとも言われていることから、藁人形に何かの念力がうつって河童になったのではないか、という説があるのです。

壱岐島には藁人形を河童にする『ヒョウスベ呪歌』というものが存在し、これは壱岐市芦辺町箱崎の澄日山高源寺の十四代目住職、大拙和尚が捕らえた河童に命と引き換えに教えてもらった術であると伝えられています。ヒョウスベ呪歌が記された『川祭の目録』は現在も川祭行事の際に水神の祠に供えられ続けているそうです。

また竹田番匠や左甚五郎といった高名な大工は大掛かりな工事の際に人形に命を吹き込んで駆使し、完成後に不要になった藁人形を川に流したところ河童に変化した、という伝承も残っています。

 

河童伝承と医療

河童に関する伝承の中には薬にまつわるものが非常に多く、河童の秘薬と呼ばれるものが人間に伝授されるには

1.河童が悪戯をして人間に捕らえられる

2.悪戯を咎められて腕を斬られる

3.河童が切った腕の返還を要求する

4.腕を返還する条件として人間に富の贈与(秘薬の作り方の伝授など)が行われる

という流れがあったと伝えられており、その後河童を神として祀ることも珍しくありませんでした。

以下に全国に見られる河童の秘薬についての伝承の中から、代表的なものを紹介していきます。

 

岩瀬万能膏

岩瀬万能軟膏は茨城県常陸大宮市にある真木家に伝わる河童の妙薬です。天明年間のある日、当時真木家の7代目当主であった真木了本は江戸から医術の修行を受けた帰り道に牛久沼のほとりで河童の指を拾ったといいます。

それからしばらくたったある晩、了本のもとを一匹の河童が訪れ指を返してくれるよう懇願しました。そこで了本は河童に指を返す代わりに膏薬の作り方を教わったそうです。

この薬には“吸い出し”という効果があり、井戸の底に馬が落ちた時にこの薬を塗った布を井戸にかけておいたら落ちた馬がくっついてきたという言い伝えもあります。

薬剤師の資格を持たない真木家では、この岩瀬万能軟膏を製品化することはできませんでした。しかし原材料や製法などを記したものを代々保管しており、現在でも怪我などの治療にとこの薬を分けてもらいにくる人があるそうです。

岩瀬万能軟膏は花岡青洲から教授されたという膏薬処方の伝書『春林軒法方録』にも製法が記されており、明治には切り傷などの怪我に効能のある薬として評価を受け、一時期は医者の処方する薬にも指定されていました。

 

とげ抜き煎じの薬

茨城県小見玉市川戸にある植田家には、とげ抜き、血の道(お産)、火傷に効く薬が河童の妙薬として伝授されたといいます。これらの薬は室町時代に当時の当主上田次郎左衛門が、畑の野菜を盗んでいた河童を捕らえた際に作り方を教わったものだそうで、現在もとげ抜きの薬についてのみ作り方が伝わっています。

この薬の材料は真弓、梨、柿の葉が用いられており、これらを土用の日に採り細かく刻み、北側の座敷に広げて乾燥させて作るそうです。そしてこれを煎じて飲むと良いとされます。

平成13年12月24日に農作業中に竹の棘を手に刺してしまった男性が、病院で患部を切って取り除こうとしたところ棘が見つからず、病院での治療を諦めて植田家に相談に訪れたと言います。

当時の手紙によればその日から煎じ薬を飲み始め、5日後に患部から棘が出てきたことが記されており、証拠として植田家には棘も保管されているそうです。

植田家ではこの妙薬を伝えた河童を“カッパサマ”として屋敷裏に他の神仏の祠とともに祭っていました。その後平成21年に植田家に『川戸のカッパ家伝由来の碑』建立を機に、お祭りも行われるようになりました。

 

河童の生き血

かつて茨城県境町に存在したという志鳥には、河童屋という屋号の家が存在しました。河童屋は河童の生き血を売る家として近隣に知られていたと言います。

河童屋では買い手からの注文があると東京の河岸まで河童を仕入れにいき、行李に河童を入れて戻ってきたそうです。そしてその首をまな板の上で切り落として生き血を売っていたとされます。

この河童はスッポンのことと推測され、実際にかつて先祖が河童屋を営んでいたという男性の話によると、干拓以前の志鳥には長井戸沼という漁業が盛んな水域があり、鯉やフナだけでなくスッポンも獲れていたそうです。

そしてその河童の生き血を売る、という商売があったのも長井戸沼の干拓以前のことと推察されています。

 

ひょうそ妙薬


引用:https://mymythology.jimdo.com

新潟県妙高市の三ツ俣という集落には河童から作り方を伝授されたというひょうその妙薬が伝わっています。これは昔、三ツ俣の近くを流れる万内川の淵に棲む河童が馬の肝を盗ろうと姿を見せたところ村人に鎌で腕を切り落とされた、これの返還と引き換えに製法をしったものだといいます。

ひょうその妙薬については広報などにも記されており、手足の指先や爪が膿んで激しい痛みを引き起こすひょうそは症状によっては患部を切断しなければいけないほど重症化するひょうそが、幹部に塗布するだけで治癒する魔法の薬として、当時は遠方から買いに来る人も後を絶たなかったそうです。

作り方はシンプルで、山に自生していイボタの木の葉をとってきて乾燥させ、蒸して作ったといいます。それを粉にしたものを分包し、使用する際は酒で溶いてから患部に塗りました。

ひょうそ妙薬の面白い特徴として、必ずその製造は女性が行わなければいけないということが挙げられます。女性の手で作られたものでないと効果が無いとされていたそうです。またこの薬は平成24年に最後の継承者が亡くなって以降、作られていません。

 

河童膏

引用:http://mtajin.kojyuro.com

宮城県加美郡色麻町の東部にある一関には鎮守として磯良神社が建立されており、この神社は古くから安産、縁結び、水難除けの信仰を集めるとともに河童ゆかりの神社としても知られています。

、『別名河童明神』という文化財の標柱にも記されている磯良神社が、何故河童を祀っているのかについてははっきりとは分かっていません。一説には坂上田村麻呂がこの辺りの泳ぎの名人、藤右衛門という人を気に入り、自分の領土の一部を与えたうえで河童という名字を名乗るように言われたことから、宮司の祖先である藤右衛門を河童として祀っていると言われています。

この神社では毎年夏まつりの際に宮司の妻が作った河童膏という薬を配っていました。これはヨモギなどの薬草を混ぜて丸く切った紙に塗り付けたもので、傷薬として使われたそうです。

磯良神社にはご神体として木彫りの河童の像が奉納されているのですが、この像には片腕がありません。厠で悪戯をしていた河童を懲らしめるために侍が片腕を切ったためと言われており、その腕を返す代わりに教えてもらったのが河童膏の作り方であると伝わっています。

河童膏は本来傷薬として使われていたのですが、時が下るにつれて離れたものをくっつける=縁結びの妙薬という解釈に変わっていき、現在では縁結びのお守りとして人気があるようです。

 

河童の遺物伝承

薬の製法と並んで、河童が遺したものとして伝わっているのものは3種類あります。1つ目ははもう二度と悪戯はしないという旨を約束させた詫び証文で、次に証文の代わりに刀や壺、石や皿を遺したというもの、3つ目は河童の体の一部、もしくは全部を遺してミイラとして祀るというものです。

河童の遺物伝承について下に紹介していきます。

 

河童の詫び証文


引用:http://tokorozawanavi.com/

河童の詫び証文が残された経緯は、ほとんどが退治や折檻を逃れるために遺したものとされており、こうした一方的な契約を河童に強いることができた人間は神仏の霊威により妖怪を圧倒することができたとされる修験者や武力で妖怪を制圧できたその土地の領主などであることが大半です。

また河童の証文には達筆なものは少なく、その多くは鏡文字であったり判読不明でした。また中には濡らすと読めるものや日光に当てると文字が浮かび上がってくるものも存在し、特に白紙を濡らすと文字が浮き出てくるというものについては水妖のイメージとの親和性が高かったようで、全国に多く見られます。

河童の詫び証文にはそれ自体にも霊力があるとされ、現存していないものについても効力は存続すると考えられています。

 

河童が遺した物品

河童が物品を遺す場合壺や皿といった陶器や膳椀の類であることが多く、金の尽きない壺や火難除けの壺といったように何らかの霊的な効能のあるものが多いとされます。また狸やカワウソ、天狗といった他の妖怪にはあまり見られない皿が遺物として見られることも河童ならではの特徴です。

この他に石を遺すという伝承も多く、これは単なる石ではなく薬効のあるものがほとんどでここでも河童と医療の結びつきが窺えます。また珍しいものでは、東京都台東区合羽橋曹源寺の河童に石垣を造らせたというものもあります。

 

河童のミイラ

河童のミイラとして伝わるものは圧倒的に腕のみのものが多く、次いで全身や頭部などが続きます。河童の頭骨のミイラとして伝わるものには鯨の骨を加工して作ったものも存在しており、野生生物の骨を加工したものと判明した後もその旨を記載して博物館に展示されている例も少なからず見られます。

各地に伝わる河童のミイラの中でも、特に有名なのが大阪市の端龍寺に伝わるものと佐賀県伊万里市の松浦一酒造に伝わるものが挙げられるでしょう。これらはメディアの登場回数が多いものの、平時は水神に対する信仰の対象として手厚く祀られておりご神体としての性質を強く持ちます。

一方で河童の全身のミイラについては関西の興行師が所有しているものもあり、これは見世物興行に使用されていたと考えられます。

河童のミイラには霊的な効能があるという逸話も伝わっており、病や傷を癒す効能や安産の効能があるものが多く見られます。中でも最も強烈なのが宮崎県の北諸県郡三股町に伝わる腕で、戦場でこの腕を見せると戦死したものが蘇生したという言い伝えが残っているのです。

日本には元来野生動物の体の一部を魔除けや除災に使用する風習があり、未確認の希少生物である河童の体であれば相応の呪力や神通力を持つという考えから、このような非科学的な効能が考えられたと推測されています。

 

河童の種類と全国の河童伝説

河童伝説は日本全国に分布し、その土地独自の呼び名や生態を持つ亜種のようなものも多く存在します。その中から代表的なものを紹介していきます。

 

ミンツチ (北海道)

北海道の河童はアイヌ語で『ミンツチカムイ』『ミンツチトノ』等と呼ばれることが多く、人間の3歳児~12歳児程度の大きさとされます。

肌の色は紫色か赤で、足型は鳥のようであったり鎌の形をしているそうです。ミンツチは本州の河童のように人に憑りついたり害を成すこともあるものの、逆に人を守ってくれるという伝承も多く残し、釧路では濃霧の晩などにミンツチと遭遇することが多いと言われています。

またミンツチカムイは大漁をもたらしてくれるとも言われ、漁港付近では水の神様としても知られています。

 

淵猿 (広島県)


引用:https://www.ononavi.jp

広島には淵猿という怪力の河童についての伝承があります。中でも昔、広島県の吉田川の釜淵というところで人間や家畜に害を与える淵猿があり、これを毛利氏の家臣であった荒源三郎という武士が退治したという逸話が有名です。

今でもかつて淵猿が棲んでいた地として猿候が淵という地名が残っています。

 

ヒョウスベ (九州)

河童の亜種として有名なヒョウスベは、夏は川、冬は山に生息するとされ、いづれも川底や山奥など人目に触れない場所に潜み秋になるとどこからか現れて落穂を拾うといわれています。そのため宮崎県や鹿児島県には、田の隅に一束くらいの稲を刈り取らずに残しておく風習があるそうです。

ヒョウスベは笑いながら人前に現れ、これにつられて笑ってしまうと病気になって命を落とすと恐れられていました。弱点は猿で、姿を見ただけで動けなくなったといわれています。

 

川天狗 (山梨県、東京都など)

川天狗は川に住んでいて姿をあまり見せず、火の玉に姿を変えたり水底から人を引っ張ったりという悪戯が好きな妖怪です。山梨県の道志川沿いにはクソタマ淵という淵があり、この近辺で水死する者があると青白い火の玉が見られたといいます。この火の玉は川天狗の仕業と考えられており、河原の石を洗って清め、その上に魚を供えると怪異はやむとされます。

また東京都西多摩郡小山内村にも川天狗の伝承があり、この土地の大畑淵に住んでいたものは悪戯をせず一匹で岩に座っていることが多く、仲良くすると熱病の薬の作り方などを授けてくれたそうです。

 

水虎 (青森県、長崎県)


引用:http://listverse.com

鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』によると水虎は河童とは異なる水の妖怪であり、全身が鱗に覆われた姿で描かれています。水虎について言及された最古の書物は中国の『本草網目』で、厳密には同書内で描かれた妖怪と同一のものは日本には存在しません。

しかし河童と混同した形で長崎県や青森県に水虎の伝承が残っており、特に青森県の津軽地方では河童の上位の存在として扱われ、ミズガミ様。オスイコ様、セッコー様といった名前で呼ばれています。

この水虎信仰は明治のはじめに北津軽郡木造町の日蓮宗系の実相寺から始まったもので、当時の住職が水難者の供養として男女の河童像を祀ったことが切っ掛けです。これが各地に広がるようになり。後に民間祈禱師たちの影響もあり、水虎は河童の親分であり竜宮の眷属であると信じられるようになったとされます。

 

川猿 (静岡県)

川猿は静岡県の榛原郡に生息するとされ、川にほとりに現れるといいます。馬がこれに出会うとたちまち倒れて溺死するとされ、付近では馬の疫神として恐れられていました。

人間の子供の姿で現れて人を騙すとされますが、川猿の化けた子供は魚のにおいがするためすぐにそれと分かるそうです。性質は臆病ですが非常に力が強く、川猿と相撲を取ると体中の肉を掻きむしられて重傷を負うといわれます。

また急所は股と目であり、ここに矢が当たれば弱らせることができるとも伝えられています。一方で自分を助けてくれた人間の顔を記憶しており、助けてくれることもあるともされています。

 

河童石


引用:http://www.isashigen.com

河童の中にはヒョウスベのように季節ごとに生息地を移動させるものがあり、この移動の中継として使用したのが河童石であるとされています。

河童石は大分や和歌山。熊本と九州地方に多く見られ、中には石が朽ちるまで悪さをしないと河童が約束した、手形が見られるといった伝承のあるものも存在します。

長崎市本河内水源地下の水神神社境内には河童の霊が宿るという河童石が祀られており、土足でこれを踏むなどすると天罰が下ると恐れられていました。

九州の河童を中心に見られる夏は川、冬は山で過ごすという特質は山の神が春に里に降りて田の神になるという農業信仰に結びつくものと考えらえています。そして九州には河童石以前にも神籠石という田の神が宿るという石が存在していることから、河童石は民俗学的には河童と農神の関りを示すものとして重要視されています。

 

まとめ

河童が相撲を好むというのは、かつて相撲がその年の豊凶をかけて行う神事であったことに由来し、キュウリを好物とするのは初なりの野菜が水神信仰にかかせない供物であったからではないか、と推察されています。

そしてこういった特徴から水神信仰の対象として河童は誕生したものと考えらえており、それに近代までの民間信仰や伝承が複雑に絡み合って生まれたのが現在の河童のイメージであるとされているのです。実在の有無はさておいても、河童は私達日本人の価値観や風俗を最も色濃く反映している妖怪の一つであると言えるでしょう。

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