みなさんは、ミイラというと、なにを思い浮かべるでしょうか。
やはり包帯を巻かれたエジプトのミイラをイメージする人が多いかもしれません。
しかし、遺体をミイラ化する風習は世界各地の様々な場所にあり、日本でも、仏教で徳の高い僧侶が生きたまま土の中に埋められて瞑想しながら絶命してミイラになる即身仏という修業が行われていました。
ミイラには、人工的に保存処理が行われたものと、死後、火山の灰や泥、氷の中にあったなどの理由から、周囲の環境によって自然にミイラ化したものとの2種類があります。
ここでは、世界各地にある有名なミイラを紹介していきたいと思います。
フランシスコ・ザビエル
引用:www.afpbb.com
フランシスコ・ザビエルは、16世紀スペインの聖職者で、世界各地にキリスト教を広めていたイエズス会の創設メンバーの1人です。
ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、布教のためアジアへと派遣されました。
日本では、1549年にはじめてキリスト教を伝えた人物として、教科書など歴史の授業でもお馴染みの人物として有名ですね。
ザビエルは、日本のことを、「この国の人々は今までに発見された国民のなかで最高」「善良で悪意がない」などと非常に高く評価していました。
実は、ザビエルの遺体は死後、ミイラとなり、現在も保管されています。
日本での布教を終えたザビエルは中国を目指しましたが、その途中で、病を患い、1552年12月、46歳で上川島で亡くなりました。
ザビエルの遺体は、そのままでは運ぶのが大変だったため、遺体を早く腐敗させようと石灰を詰めた棺に入れられましたが、なぜかいつまでも腐ることがなかったといいます。
そのため、そのままでポルトガル領であったインドのゴアにある聖パウロ聖堂に運ばれて、この場所で保管されることになりました。
遺体が腐敗しないことは不朽体(インコラプティブル)と呼ばれ、聖人の証であるとして、ザビエルはキリスト教の聖人の1人に数えられることとなりました。
1614年、ローマのイエズス会総長の命により、ザビエルの遺体の右腕を切断したところ、死後50年以上が経過しているにも関わらず、その手から鮮血が噴き出したといわれます。
これらの出来事から、ザビエルのミイラは、奇跡のミイラと呼ばれます。
この右腕は、ローマにある、かつてイエズス会の本拠地だったジェズ教会に保管され、現在、ザビエルの遺体は多くの部位に分けられ、世界各地で保存されています。
指はザビエルの生まれ故郷であるスペインのナバラ地方のザビエル城に、右腕の上腕は中国・マカオの聖ヨセフ修道院、耳と毛はポルトガルの首都リスボン、歯はポルトガル北部の街ポルトに保管され、胸骨は日本の東京カテドラル聖マリア大聖堂、皮膚は大分トラピスト修道院におかれています。
ザビエルのミイラは、触れた人を苦しみから解放するいくつもの奇跡を起こしたといわれます。
現在、ザビエルの遺体はインド、ゴアにあるボン・ジェズ教会に安置されており、10年に1度、棺の開帳が行われています。
最後に開帳されたのは2014年のことで、ほかにも、ジェズ教会の右腕は、外国に移動して腕の箱に入ったまま展示されることがあり、1999年には日本にも来ています。
ロザリア・ロンバルドのミイラ
引用:spaicy.jp
ロザリア・ロンバルドのミイラは、「世界一美しい少女のミイラ」と呼ばれるイタリアのミイラです。
ロザリアは、1918年に生まれ、わずか2歳にも満たずに亡くなった少女で、彼女の遺体はミイラとなり、イタリアのパレルモにあるカプチン・フランシスコ修道会のカタコンベ(地下納骨堂)内にある、聖ロザリア礼拝堂に葬られています。
ロザリアは、軍人である父マリオ・ロンバルド夫妻の娘として生まれ、1920年に肺炎のためわずか1歳11か月でこの世を去りました。
引用:spaicy.jp
遺体は、父の望みでミイラ化され、マリオは当初、娘のことが忘れられず、毎日のように納骨堂を訪れていました。
が、やがて、見た目は生きていた時のままなのに、二度と目を覚ますことの無くなった娘に、胸を引き裂かれるような悲しみを覚えるようになり、納骨所を訪れることはなくなりました。
カプチン・フランシスコ修道院の納骨堂には、約8000体の遺体が埋葬されていますが、エンバーミングと呼ばれる保存処理がなされているロザリアの遺体は、死後100年が経っても生前と変わらぬ美しさをたたえています。
彼女のミイラは、当時の遺体保存の専門家だった医師のアルフレード・サラフィアの手によるもので、彼の防腐処理の方法は、2009年に当時のカルテが見つかるまで、長い間謎とされてきました。
ロザリアのミイラに使われた薬品は、アルコール、グリセリン、サリチル酸、塩化亜鉛などで、アルコールがミイラ化を促進し、グリセリンが保湿を行い、サリチル酸が菌の繁殖を防いだと考えられています。
特に、塩化亜鉛が死体の腐敗を抑える高い効果を発揮したと見られています。
ロザリアのミイラは、一般的なミイラと違い、脳や内臓などをそのままにしたままミイラ処理が施されており、こうした遺体が100年も綺麗な状態を維持しているのは、まさに奇跡と呼べるものです。
ロザリアのミイラは、乾燥と腐敗を抑えながら、全身が石のように硬直化しており、サラフィアによるミイラ製造法は、遺体保存を専門とするアメリカの医師たちからも称賛されました。
瞬きするミイラ
引用:news.ameba.jp
このロザリアのミイラには、奇妙な話があり、それが、「瞬きするミイラ」だということです。
ミイラの保存方法を解明するため、研究者たちが1時間に1度撮影を行うカメラを設置したときのこと、撮影された写真のなかに、まるでミイラが瞬きしているように見えるものが残されていました。
ロザリアの保存処理の謎は明らかになりましたが、彼女がなぜ瞬きをしたのかについては、未だにその理由は一切解明されていません。
アイスマン
引用:www.gizmodo.jp
アイスマンは、1991年に、イタリアとオーストリアの国境で見つかったミイラです。
アイスマンが発見されたのは、東アルプス最大の峡谷の1つであるエッツ峡谷の氷河のなかから発見されました。
アイスマンは、発見された場所の名前から、オーストリアの新聞記者によってエッツィという愛称がつけられ、ほかにも、エッツィ・ジ・アイスマン、ハウスラプヨッホの男などの呼び名があります。
アイスマンは、アルプスの登山ルートから離れていた場所を歩いていた観光客によって発見されたもので、最初は遭難者の遺体だと思われていましたが、身に着けているものが現代の人間にしては奇妙だったため、解剖が行われ、その結果、約5300年前の男性のミイラということがわかりました。
アイスマンは、年齢47歳前後で、体重は50キログラム、血液型はO型で、瞳と髪の色は茶色だったことが分かっています。
アイスマンの死因は最初、凍死だと考えられていましたが、左肩に矢による傷が見つかり、失血死ということがわかり、誰かに殺害されたという説が濃厚ですが、他にも、麓で死亡した後、峡谷に運ばれて埋葬されたという説もあります。
アイスマンは、調査の結果、国境のイタリア側に埋まっていたことが分かったため、現在は、イタリアのボルツァーノ県立考古学博物館に保管されています。
普段は、-6℃、湿度99%の冷凍庫のなかで保存されていて、2か月に1度、外に出されて水分を補給されます。
解剖に関わった法医学者や第一発見者などが相次いで死亡したことから、「エッツィの呪い」といわれましたが、アイスマンの発見から調査には数百人の人間が関わっており、これはそのうち、偶然死亡した人だけをとりあげて呪いと呼んだものだといえるでしょう。
奥州藤原氏のミイラ
引用:ja.wikipedia.org
奥州藤原氏は、藤原北家の支流にあたる一族で、東北地方で勢力をもっていた豪族です。
1189年に源頼朝によって滅ぼされるまでは、同地で栄華を誇り、本拠地としていた岩手県の平泉を中心に平泉文化と呼ばれる独自の文化を築き上げました。
その代表的なものが、国宝にも指定されている中尊寺金色堂で、藤原清衡、基衡、秀衡の藤原氏3代のミイラ化した遺体が安置されています。
金色堂には、中央壇、右壇、左壇の3つの祭壇があり、各壇に1対ずつミイラが置かれており、左が秀衡、中央が清衡、右が基衡といわれています。
ほかに、中尊寺には、頼朝の軍によって討ち取られた4代泰衡の首級も納められています。
奥州藤原氏のミイラが、保存処理を行ってミイラにされたものなのか、自然にミイラ化したものかについては、いまだ解明されていません。
遺体からは、脳や内臓が取り除かれており、これはネズミに喰われたとする説もありますが、それならば、全く残っていないというのは不自然であるため、何らかの人工的な処置が施されたのではないかとも見られていますが、棺に入れた遺体が勝手にミイラ化するかということにも疑問が残されており、はっきりとしたことはわかっていません。
金色堂には、藤原氏の遺体のほか、重要文化財にも指定されている白装束と枕、刀剣類、念珠など貴重な副葬品が多数保管されています。
トーロンマン
引用:tocana.jp
トーロンマンは、1950年にデンマークのユトランド半島にあるピート・ボグと呼ばれる泥炭地で発見されたミイラです。
泥炭のなかに沈んでいたことで、遺体には自然の状態で、死体に菌が繁殖せずに腐敗しなくなる死蝋化という現象が起こったもので、このような遺体は湿地遺体といわれています。
トーロンマンは、非常に保存状態の高いミイラとなっていて、発見時は最近起きた殺人事件の被害者ではないかと疑われたほどです。
トーロンマンは、ストーブに使う泥炭を切り出しにきていた近隣の住民によって発見されたもので、紀元前400年前ごろの男性の遺体とみられています。
トーロンマンは、年齢40歳くらいで、最初は縛り首によって殺されたと考えられていましたが、X線撮影により、この説は否定されており、はっきりとしたことはわかっていません。
デンマーク警察は、トーロンマンの指紋分析を行い、これはトーロンマンの拇印は、史上最も古い時代の人間の指紋記録となりました。
トーロンマンは、現在、デンマークのシルケボー博物館にオリジナルの頭部のみが展示されています。
グラウベールマン
引用:ja.wikipedia.org
グラウベールマンもトーロンマンと同じく、デンマークのユトランド半島にある泥炭から見つかった起源前3世紀頃の湿地遺体です。
グラウベールマンは、1952年に泥炭採掘業者によって発見されたもので、30代前後の男性で、何者かに喉を切り裂かれて殺されたとみられます。
グラウベールマンは、湿地遺体のなかでも特に保存状態がよく、「デンマークの先史時代に関する最も素晴らしい発見の1つ」といわれています。
グラウベールマンは、現在、デンマークの第2の都市オーフスにあるモースゴー先史博物館に展示されています。
グアナフアトのミイラ博物館
引用:rocketnews24.com
グアナフアトは、メキシコ中部グアナフアト州の州都で、豊かな銀山に恵まれた街で、スペイン植民地時代からの歴史的市街地と銀山は、世界遺産にも登録されています。
グアナフアトとは、「カエルのいる山がちな場所」という意味があります。
海抜1996mのグアナフアトでは、乾燥した気候と土壌の成分から、天然のミイラが出来上がる条件が整っています。
グアナフアトでの一般的な埋葬方法は、土葬ですが、埋められた遺体の中には自然にミイラ化するものもたくさんあります。
公立墓地では、管理費の支払われていない墓からは遺体が掘り起こされ、そのうち状態のいいものは博物館に展示されます。
この遺体を掘り起こすという習慣は、もともと、コレラが流行していた時代に、疫病の原因を突き止めるためにはじまったとされます。
グアナフアトのミイラ博物館は、すべてのミイラが自然にできたものという点が、世界でも例のない大きな特徴となっています。
このミイラを集めたのが、グアナフアトのミイラ博物館で、約200体ものミイラが展示されています。
引用:flying-traveler.com
博物館のなかには、生まれる前にお母さんが亡くなってしまい、お腹の中で一緒にミイラになってしまったという赤ちゃんミイラも展示されていて、これは世界一小さなミイラといわれます。
博物館には、棺桶の中に入ってミイラと一緒に写真を撮れる撮影コーナーもあります。
ドレスデン爆撃のミイラ
引用:www.businessinsider.com
ドレスデン爆撃は、第二次大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて行われた連合軍によるドイツ東部の都市ドレスデンへの空爆です。
ドレスデン爆撃は、4度にわたる空襲で、のべ1300機、3900tの爆弾が投下された無差別爆撃でした。
この爆撃により、ドレスデンの市街はじつに85%が破壊され、諸説あるものの、25000~150000といわれる一般市民が犠牲になりました。
このとき、防空壕の中では、大規模な火災によって一酸化炭素中毒が発生し、避難していた市民が死亡し、そのままミイラ化した状態で発見されました。
ミイラ化した女性の遺体や、赤ちゃんの乗ったベビーカーを囲むようにして亡くなった人々の写真などが残されています。
ツタンカーメンのミイラ
引用:www.japanjournals.com
黄金のマスクで有名なツタンカーメンは、古代エジプト第18王朝のファラオであり、エジプトのファラオのなかでも最も有名といえる人物です。
ツタンカーメンは、若くして亡くなり、テーベのナイル川西岸にある王墓群である王家の谷に葬られました。
ツタンカーメンの墓は、1922年11月4日、イギリスの貴族カーナヴォン卿の支援を受けた考古学者のハワード・カーターによって発見されました。
ツタンカーメンの墓は、王家の谷にある墓のなかでは希少なことに3000年以上にわたって盗掘を受けておらず、副葬品などもすべて完全な状態で、有名な黄金のマスクもこのとき見つかったものです。
このとき、カーナヴォン卿をはじめ、発掘に関わった人間が次々と死亡し、ファラオの呪いとして世間を騒がせました。
ツタンカーメンのミイラは、もともと保存状態が悪く、さらに、発掘後に包帯が解かれてしまったために、さらに状態が悪化しました。
ミイラが発見された当時は、まだミイラを歴史的な遺物として大切に扱うという常識もなく、包帯を解くときにはミイラにたくさんの傷がつけられ、性器までとれてしまったといいます。
ツタンカーメンのミイラに大きな外傷が見られたため、ツタンカーメンは何者かに暗殺されたのではないかという説もでましたが、後になって、これも発掘のときにつけられたものだということがわかっています。
棺のなかでは保存状態がさらに悪くなることが危惧されたため、2007年から、ツタンカーメンのミイラはプレクシグラス(透明な合成樹脂)のガラスケースに入れられ、現在もこのケース内で保管されています。
ツタンカーメンの墓からは、娘たちのミイラも一緒に発掘されています。
ハトシェプストのミイラ
引用:www.abc.net.au
ハトシェプストのミイラは、1903年に考古学者ハワード・カーターによって王家の谷で発見されたミイラで、エジプトで最も有名な女性のミイラといわれています。
ハトシェプストのミイラは、王家の谷のKV60と呼ばれる小さな墓で発見されたもので、2007年にエジプト考古学庁の調査によって、このミイラは、ハトシェプストのものと断定されました。
ハトシェプストは、古代エジプト第18王朝第5代のファラオで、ハトシェプストとは、「最も高貴なる女性」という意味です。
女性であるハトシェプストが王になったのは、夫トトメス2世の妾腹の子である、トトメス3世がまだ幼かったため、ハトシェプストは、トトメス3世に代わり22年間の間、王の務めを果たしました。
彼女は、公の場では男装し、あごにつけ髭をつけていたといわれ、戦争を避け、平和外交を行うことでエジプトに繁栄をもたらしました。
ハトシェプストは、亡くなった時50歳前後で、癌や歯周病、骨粗鬆症、糖尿病などを患っていたとされ、歯周病による抜歯のために感染症を起こして亡くなったとされています。
ネフェルティティ(年下の女性)のミイラ
引用:natgeo.nikkeibp.co.jp
ネフェルティティは、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであるアクエクアテンの正妻で、ツタンカーメンの義母にあたる人物です。
ネフェルティティという名前は、「美しい人の訪れ」という意味で、プトレマイオス朝のクレオパトラ、ラムセス2世の正妃ネフェルタリとともに、古代エジプト三大美女の1人に数えられます。
ネフェルティティについてはわかっていることが少なく、異国の王女だったという説や、ツタンカーメンの後にファラオとなるアイの娘だったという説などがありますが、はっきりしたことはわかっていません。
ネフェルティティは、ベルリン博物館に所蔵されている、「ネフェルティティの胸像」と呼ばれる未完成の美しい胸像で有名です。
引用:ja.wikipedia.org
この経像は古代エジプトを代表する美術品として、「古代エジプトの文物のなかで最高の賞賛、模倣されてきたイメージの1つ」といわれて、ベルリン美術館でも多くの客を集める人気作品となっています。
ネフェルティティの墓の場所についてははっきりとしたことはわかっておらず、これまでに3回以上、「ネフェルティティの墓」が見つかっています。
このうち、ツタンカーメンの墓の奥の隠された部屋の中にある玄室に眠っていたミイラが、ネフェルティティのものではないかという説が出ています。
このミイラは、1898年に発見された「年下の女性」と呼ばれるミイラです。
このミイラの近くにあったかつらが、王族のみが使用できたタイプのもので、片方の耳に2重にピアスが開けられていることなどがネフェルティティではないかと考えられる根拠になっています。
ラムセス2世のミイラ
引用:http://labaq.com/
ラムセス2世は、エジプト新王国第19王朝のファラオです。ラムセスという名前は、「ラーによって生まれた者」という意味の「ラー・メス・シス」をギリシア語読みしたものです。
24歳で即位してから、90歳で亡くなるまで66年にわたって統治を行いました。
ラムセス2世は何人もの王妃や側室をもち、養子も含めると111人の息子と69人の娘がいたといいます。
ラムセス2世は、カデシュの戦いでヒッタイトに勝利をおさめ、リビアやヌビア、パレスチナへと遠征してエジプトの勢力圏を広げ、首都をテーベからペル・ラムセスへと遷都しました。
ラムセス2世のミイラは、1881年に発見されたもので、現在はカイロのエジプト考古学博物館に所蔵されています。
死亡年齢は伝承通りに88~92歳とされ、平均寿命が34~40歳だった当時としては奇跡的なまでの長寿であったことがわかっています。
かつて、ミイラに発生したカビをとるため、ラムセス2世はフランスに送られたことがあります。
このときは、ラムセス2世のミイラは、儀仗兵の捧げ銃のもと、国王への礼をもって迎えられました。
このとき、エジプト人としてパスポートが作られ、職業欄にはファラオと記載されたというエピソードがありますが、これはさすがに作り話のようです。
人魚のミイラ
引用:morunuma.keymary.net
人魚や河童など、現在では空想のなかにしかいないとされる生き物も、かつてはその実在が信じられていた時期もあり、昔はそうした架空生物のミイラも存在していました。
もちろん、実際にはいない生き物ですから、そのミイラは造り物であり、ニホンザルとコイをつなぎあわせて人魚のミイラにしたり、ニホンザルとエイをつなぎ合わせて、河童、鬼、龍といったように、様々な幻獣たちのミイラが生み出されました。
日本各地にある、河童の手のミイラと呼ばれるものはほとんどがニホンカワウソのものとされています。
こうしたミイラは、妖怪への人気が高まった江戸時代に多く製作されるようになり、幕末から明治にかけては日本土産の一種として海外へも盛んに販売されるようになりました。
18世紀のヨーロッパには、驚異の部屋(ブンダーガンマー)と呼ばれる世界の珍しい品々を集めた展示館があり、そこでは、日本から持ち込まれた龍、ろくろ首、鬼のミイラに加え、ヨーロッパで製作されたキメラ、バジリスクなどのミイラが展示されていたといいます。
引用:ja.wikipedia.org
日本で作られたミイラは、外国で見世物として人気を博し、近代に入ってからも博物館や展覧会での目玉になることもありました。
なんと、大英博物館にも日本製の人魚のミイラが保管されています。
日本で作られた人魚のミイラは、当時イギリス領だった南太平洋のフィジー島で捕獲されたものという触れ込みで、「フィジー・マーメイド」と呼ばれました。
オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している人魚のミイラをレントゲン撮影してみたところ、猿の上半身とサケの下半身をつなぎ合わせたものであることが分かりました。
内部にはミイラを固定するために金属の棒が入れられており、ふくらみの少ない部分には綿が入れられ、防腐処理をするためにヒ素が塗られるというまさに職人技の一品で、当時の日本にはこうしたミイラを作る専門の細工師がいたのです。
まとめ
以上、世界の有名なミイラを紹介してきました。
有名なエジプトのミイラだけでなく、世界各地には様々なミイラが存在し、ミイラ化の風習のあった地域も多く、自然にミイラ化した遺体もたくさんあったことがわかります。
なかには、何前何百年という時間が経っているにも関わらず、生きていたときのような状態を保っているものもあり、まさに神秘や奇跡という言葉が頭に浮かびます。
こうしたミイラを調査することで彼ら自身や彼らの生きていた時代についても知ることができます。
物言わぬミイラたちは、現代の我々にたくさんのことを語りかけているのです。