「呪い」というもののほとんどは、自分や大切な人に何か不幸なことがあったとき、つい身につけていたものや、他の何かにその不幸を関連付けてしまう、そんな心理によって生み出されたのではないかと思います。
しかし、だからといって超自然的な存在の全てを否定するのは早計です。
世の中には偶然の域を超えて関わった者に不幸をもたらす、呪われているとしか思えないものが確かに存在しているのです。
今回はそんないわくつきの呪われた物を10個ご紹介します。
ホープダイヤモンド
引用元:https://nazo.shakk.net/
45.52カラットという大きさを誇る、世界最大のブルーダイヤモンド「ホープダイヤモンド」は持ち主を次々と破滅させ、人から人へ移り渡る「呪いの宝石」です。
9世紀ごろにインドのデカン高原南部のコーラルという町の川沿いで農夫によって発見され、ヒンドゥー教の寺院に祀られる女神シータの像の目として嵌められたと言われています。
「ホープダイヤモンド」が知られ始めたのは1660年、フランスの行商人ジャン=バティスタ・タヴァルニエが像に嵌められたダイヤモンドを盗み出したことがきっかけとなります。
なんとダイヤモンドを盗んだ直後、タヴァルニエが熱病に罹って死んでしまったのです。
これはダイヤモンドが盗まれたことを知ったヒンドゥー教の僧侶があらゆる持ち主に呪いをかけたためだと言われています。
シュヴァリエが亡くなった後ダイヤモンドはフランス王室へ渡りますがフランス革命の最中に紛失し、1824年に実業家のヘンリー・フィリップ・ホープの手に渡ります。
以後3代に渡ってダイヤモンドがホープ家で管理されたため、このダイヤモンドは「ホープダイヤモンド」と呼ばれます。
ですが1896年にホープ家が破産、その後50年で8回も持ち主が変わった後、現在ではスミソニアン博物館に所蔵されています。
「ホープダイヤモンド」は呪いの宝石として持ち主に不幸をもたらしていると言われていますが、実際には最初の保有者であるタヴァルニエも寿命で死ぬなど、その呪いには脚色された部分が多いと言われています。
ただホープダイヤモンドが青く染まったのは、土中のホウ素によるものだと判明しているのですがダイヤモンドが生成される地下深くにはホウ素がほとんど存在しないことから、生成過程に謎が残されています。
またホープダイヤモンドは紫外線に当てると赤色の燐光を1分以上も放ちますが、その原理も明らかとされていません。
バズビーズチェア
バズビーズチェアは「ザ・バズビー・ストゥープ・チェア」や「デッドマンズ・チェア」とも呼ばれる、座ると死ぬと言われている椅子です。
現在はサースクという町の博物館に置かれているのですが、呪いを防ぐために天井から吊るされるようにして、座ることができないよう展示されています。
椅子の最初の所有者はトーマス・バズビーという男だったのですが、義父のダニエル・オーティを殺害した罪で絞首刑にされてしまいます。
その後バズビーが暮らしていた宿が「バズビー・ストゥープ・イン」というパブとなり、有名な死刑囚の愛用していた椅子と言うことで腰かけた人の多くが亡くなったことで呪いの椅子として有名になりました。
バズビーズチェアに腰かけた空軍飛行士がみな第二次世界大戦で戦死したほか、多くの死者がウィークリー・ワールド・ニュース誌で報道されています。
しかし死者数はまちまちで、報道されるたびに変化するなど不確かな要素が多くなっています。
ルドルフ・ヴァレンチノの指輪
引用元:https://blogs.yahoo.co.jp/
イタリア出身のハリウッド俳優のルドルフ・ヴァレンチノはそのエキゾチックな美貌でサイレント映画時代のスターとして人気を博しました。
『椿姫』、『血と砂』、『荒鷲』などの映画に出演しましたが、ルドルフは1926年に31歳の若さでこの世を去っています。
そんなルドルフの死期を早めたとされているのが、彼の買った指輪です。
ルドルフは1920年にサンフランシスコの宝石店でとある指輪に一目惚れし、購入しようとします。
しかし店主は「この指輪にはよくないジンクスがある」として売却を渋ったのですが、ルドルフに押し切られるようにして販売してしまいました。
ルドルフは1922年の『ヤング・ラジャー』にこの指輪をはめて出演しますが映画は大コケしてしまいます。
更に1926年の『熱砂の舞』でも小道具としてはめて撮影に臨んだのですが、撮影中に急死してしまいます。
ルドルフの死後、指輪は女優のポーラ・ネグリへ渡りますが、間もなくポーラも病気で長期療養を余儀なくされ、続いて第二のルドルフと呼ばれたラス・コロンボへ渡ります。
しかしラスは指輪を受け取った数日後に銃の事故で死亡、ラスの親友であるジョー・カジノが指輪を受け取りますが、トラックにはねられて死亡します。
さらに指輪を盗もうとした盗人が脅しで撃った銃弾が跳ね返って自らに当たる形で死亡、伝記映画を作るためにルドルフ役を演じた俳優が指輪をはめた10日後に血液の病気で死亡するなど、偶然ではあり得ないほどこの指輪は持ち主に不幸をもたらしています。
現在ルドルフの指輪はロサンゼルス銀行の貸金庫に預けられていると言われています。
死の女神
1878年にキプロスのレンブで「死の女神」と呼ばれることになる像が発見されました。
「死の女神」は紀元前3500年ごろにライムストーンを彫って作った像で、豊穣や多産を象徴したものだと考えられています。
この像は発掘された後にエルフォント卿という人が引き取ったのですが、引き取った6年もしないうちに一家7人が全員不審な死を遂げました。
その次に所有したアイバー・マヌッチの家族も4年で死去し、3番目に所有したトンプソン-ノエル卿の家族も4年で途絶えてしまいます。
最後の所有者となったアラン・ビーバーブルック卿も像を購入後に本人と妻、娘たちが相次いで亡くなり、息子たちが像をスコットランド美術館に寄贈することで辛うじて全滅を逃れました。
ジェームズ・ディーンのポルシェ・スパイダー550
引用元:http://enigma-calender.blogspot.com/
『エデンの東』、『理由なき犯行』、『ジャイアンツ』などの作品で知られる伝説的な映画スタージェームズ・ディーンは1955年に24歳という若さでこの世を去りました。
『ジャイアンツ』を撮影した1週間後に、趣味のカーレースに参加するために愛車のポルシェ・スパイダー550でサリナスへ向かう途中に事故に遭ったのです。
ジェームズが「リトル・バスタード」と呼んだ愛車は事故に遭っても無事な部分が多く、ジェームズの専属デザイナーだったジョージ・バリスが買い取ったのですが、このポルシェ550はそれ以来関わった者に不幸をもたらし始めます。
まず買い取ったポルシェ550をジョージのガレージへ運び、運搬車から下ろす際に不意に車体が落下、作業員の足を骨折させます。
1956年、2人の医者がポルシェ550のエンジンとトランスミッションを購入し、それぞれ自分のレースカーへ組み込んでカーレースに出場したのですが、ひとりはタイヤが外れて警官に怪我を負わせ、ひとりはレース中に車体をスピンさせて樹木に衝突して死亡してしまいました。
さらに交通安全キャンペーンのためにポルシェ550のボディがアメリカ全土をツアーすることになったのですが、1959年にはボディを置く警察署のガレージが火災を起こし、サクラメントの高校では展示台からマウントが落下して高校生に重傷を負わせてしまいます。
そしてサリナスへ送る途中で運搬車がスリップして運転手は即死、オークランドではボディが2つに割けて別の事故を誘発、オレゴンでは運搬車のブレーキが壊れ、ポルシェ550のボディごと店に突っ込み、店舗を壊滅させてしまいました。
1959年暮れにはボディは11のピースに分かれ原型を失っていましたが、保有者のジョージは修理しようと考え、貨物列車で輸送しました。
しかし輸送中に、ポルシェ550のボディは消えてしまいました。
ジョージは探偵まで雇ってボディを探しましたが、ついに見つかることはありませんでした。
アイスマン
引用元:http://commonpost.info/
アイスマンとは1991年にオーストリアとイタリアの国境にあるエッツ渓谷で見つかった約5300年前の男性のミイラです。
エッツ渓谷で見つかったことから「エッツィ」と呼ばれるほか「エッツィ・ジ・アイスマン」、「ハウスラプヨッホの男」とも呼ばれます。
身長は約160㎝体重は約50㎏、年齢は47歳前後で筋肉質の体型をしています。
アイスマンに関わった7人の人間が奇妙な死を遂げたことから、「アイスマンの呪い」が囁かれています。
第一の被害者は法医学者のライナー・ヘンです。
ライナーはアイスマンに素手で触れた人物ですが、2年後に交通事故で死亡しています。
第二の被害者である、アイスマンの輸送を行ったクート・フリッツは雪崩に巻き込まれて死亡、第一発見者のヘルムート・ジモンも亡くなっています。
死亡した7人の中にはライナーの葬儀に出席する際に交通事故で死亡、その発見者も死亡するなど奇妙な点は確かにありましたが、発掘には数百人単位が関わっていることから偶然の一致に過ぎないとする指摘もあります。
サディ
引用元:https://yukawanet.com/
今からおよそ40年前、フィー・ウェルチさんの母親が、ウェルチさんの妹へのプレゼントとして人形を買いました。
青白い肌ともじゃもじゃの黒い髪の毛が特徴的な人形は「サディ」と名付けられて愛されましたが、子どもが成長するにつれて見向きもされなくなり、ついに処分されてしまいます。
しかし2015年、ウェルチさんがタンスを片付けているとなんと捨てたはずの「サディ」が出てきたのです。
その後ウェルチさんは何度か「サディ」を処分したのですが、そのたびに戻ってきてしまいます。
今では捨てることを諦め、居間に飾ることにしたそうです。
ウェルチさんは「サディ」に対し「この人形が取り憑かれているとは思わないわ。ただ、ちょっと魂を持ってるだけなんだと思うの。彼女は愛されたいだけなのよ」とコメントしています。
ちなみにウェルチさんの愛犬は「サディ」を見るたびに吠えるなど、人には感じられない「何か」を感じているような素振りを見せるそうです。
マートルズ・プランテーションの鏡
引用元:https://flower.yodoyabashift.com/
アメリカ合衆国ルイジアナ州セント・フランシスヴィルにある「マートルズ・プランテーション」は、世界で最も呪われた建物と呼ばれるホテルです。
1796年にネイティブアメリカンの死体が埋まる場所に建てられ、12以上もの幽霊が表れると言われています。
そんなマートルズ・プランテーションの中でも特に恐れられているのが1980年に設置された鏡です。
この鏡にはクロエという奴隷に殺されたサラ・ウッドラフと3人の子どもたちの霊が取り憑いていると言われており、本来は映らない人影や、子どものもののような小さな手が映ると言われています。
SM UB-65
引用元:https://www.haborumuveszete.hu/
第一次世界大戦、第二次世界大戦を通して、ドイツ軍はU-ボートと呼ばれる潜水艦を用いて通商破壊戦を展開していました。
U-ボート部隊は死亡率が高く、そのためかドイツの軍事系怪談では「呪われたU-ボート」の話がよく聞かれます。
そしてその中でも特に一般的なものがUB-65に関するものです。
SM UB-65は第一次世界大戦中の1916年にベルギーのブルージュ造船所で建造された34人乗りのU-ボートです。
UB-65は建造時からいわくつきの代物で、鉄骨の落下事故や有毒ガス、魚雷の爆発事故により進水前から9人もの死者を出しています。
進水後には爆発事故で死んだはずのリヒター二等航海士の幽霊がたびたび目撃され、幽霊をはっきりと目撃した艦長は連合国の爆弾の破片によって首を切断されるという、むごたらしい戦死を遂げました。
UB-65の呪いを重く見た軍当局は司祭を招いて悪魔祓いの儀式を執り行いましたが再びリヒターの幽霊は表れ、砲手は幽霊がいると叫びながら海へ投身、装填手は波にさらわれ、機関主任は悪天候の際に転倒して骨折するなど事故は相次ぎます。
そして1918年、UB-65はアイルランド西岸クリア沖で原因不明の爆発を起こし、ついに撃沈しました。
UB-65の最期を見ていたアメリカ海軍の潜水艦は、沈みゆくUB-65の近くで潜望鏡で腕組みをする海軍士官の姿を見たと証言しています。
リヒターがUB-65を撃沈させることでついに呪いを成就させた、ということなのかもしれません。
ツタンカーメンの呪い
引用元:http://www.gibe-on.info/
紀元前14世紀の古代エジプト第18王朝を治めた幼いファラオツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)の墳墓は、「王家の谷」と呼ばれるナイル川西岸の岩窟墓群の中にありました。
1922年11月4日に、イギリスのカーナヴォン卿の支援を受けたハワード・カーターによって発見されたツタンカーメンの墳墓は盗掘などをほとんど受けず、有名な黄金のマスクを始めとする副葬品のほとんどが無事でした。
しかし発掘によって明らかとなったのは副葬品だけではありません。
ツタンカーメンの墳墓の発掘に関わった者が発掘作業直後から続々と急死し始め、「王家の呪い」、「ツタンカーメンの呪い」の存在がにわかに語られるようになったのです。
最初の犠牲者は調査隊に支援を行い、墓の開封にも関わったカーナヴォン卿です。
カーナヴォン卿は発掘の翌年に謎の熱病に罹って亡くなってしまいます。
さらに発掘に関わった考古学者のアーサー・メイス、墓の開封に立ち会ったアラン・ガ-ディナー、ジェイムズ・ブレステッド、ハーバート・ウィンロック、アーサー・キャレンダー、リチャード・べセルも次々に死亡しました。
新聞社はこぞって「王家の呪い」を取り上げ、アガサ・クリスティが「王家の呪い」を下敷きに「エジプト墳墓の呪い」という短編を発表するほか、アーサー・コナン・ドイルは「王家の呪い」の原因としてあらかじめ墓荒らしを退治するために致死性のガスかカビのようなものを仕込んでいたのではないか、という推理を披露しています。
その後、ミイラの検査に立ち会ったダグラス・デリーとアルフレッド・ルーカスが亡くなるなど、1922年の発掘に関わった調査隊のうち、1930年までに22人が死亡し、それ以後も生き残ったのはたったひとりとなりました。
ツタンカーメンの墓の入口に「偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」と書かれた碑文があったという流言が流れたことも、「王家の呪い」という噂を広めています。
しかし実際はそのような碑文は確認されておらず、コナン・ドイルが提唱したようなガスやカビも見つかっていません。
カーナヴォン卿も原因不明の熱病ではなく、発掘以前に蚊に刺されたことによる熱病から肺炎を併発したことによって亡くなったことが明らかとなっています。
さらに発掘隊の隊長を務めたハワード・カーターも亡くなっておらず、死亡したとされる人物の中にも、実際は亡くなっていない者が多数いました。
死亡者も平均年齢70歳以上と高齢であり、そもそも発掘に関わった人間が早死にするという事実は確認できませんでした。
ツタンカーメンの墳墓、および副葬品へかけられた「王家の呪い」の存在はどうやらでたらめと言ってよさそうです。
まとめ
この記事では世界中の「呪われた物」を紹介しました。
実際には呪いなどというのは偶然や誇張によって作られたものがほとんどかもしれません。
ですが今回紹介した中や、あるいはもっと他に、本当に超自然的な「呪い」が存在する可能性は決して否定できないのも同様に確かです。
もしかしたら、いずれ呪いの連鎖の中に巻き込まれることもあるかもしれません。
注意しておく必要はあるでしょう。