古来、湖は人の生活を支えてきました。
特に広大な湖はその地域の文化の中心的な存在となり、多くの伝説などが語られるようになります。
今でも日本では琵琶湖などは水源として、関西圏の人々の生活にはなくてはならないものとなっています。
ですが現代では生活様式も変わり、技術が発展すると共に犠牲となって消滅してしまう湖も表れ始めました。
今回はそんな世界の消滅した湖を紹介します。
アラル海
引用元:https://tabisuke.arukikata.co.jp/
アラル海はカザフスタンとウズベキスタンの国境をまたいで存在する塩湖です。
名前の由来はチュルク語で「島が多い」という言葉です。
かつては流域面積がおよそ6万8000㎢と、世界で4番目に大きな湖でした。
チョウザメなどの漁業が盛んで、アラル海を領土に組み込んだ帝政ロシアでは沿岸に魚肉加工工場などを作り、缶詰を製造していました。
ソビエト連邦時代でも、保養地として利用されるなど砂漠地帯のオアシスとして大きな存在感を持っていました。
ですが第二次世界大戦後ソ連は「自然改造計画」と銘打ち、綿花の生産量を上げるための灌漑事業を開始します。
その一環でアラル海へ注ぐアムダリヤ川の中流にカラクーム運河を建設し、アラル海へ水が行かないようにしました。
もともと降水量の少ない地域だったため、1960年代からアラル海の面積は減少を始め、1989年には大アラル海と小アラル海に分裂、現在では大アラル海が更に分裂し、小アラル海とバルサ・ケルメス湖、東アラル海、西アラル海の4つに分裂しています。
塩分濃度も海よりも濃くなり、塩分に強い魚すら住めなくなってしまいました。
アラル海の縮小と消滅は「20世紀最大の環境破壊」と言われています。
現在は再生運動なども行われていますが、一度失われたものはなかなか戻らないようです。
チャド湖
引用元:https://www.afpbb.com/
チャド湖は中央アフリカに位置し、チャド、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンの国境が湖の中央に存在しています。
元々最大水深が7mと浅いため乾季と雨季とで大きく面積が変わりましたが、ここ40年の間に面積が急激に減少しています。
現在では1870年時点より95%以上面積が減少しており、1984年には完全に干上がったこともあります。
原因としては砂漠化が湖にまで及んだこと、そしてチャド湖とチャド湖に流入するシャリ川を利用した灌漑事業が行われはじめたことが主なものとして挙げられます。
このペースで縮小が進むと21世紀中には完全にチャド湖が消滅してしまうと言われており、チャド湖流域監視委員会が対策を進めていますが、国境地域の政情が不安定なためなかなか成果が挙がらないようです。
リエスコ湖
引用元:http://strangesounds.org/
2016年5月29日早朝、チリ南部、パタゴニア地方に存在するリエスコ湖が干上がりました。
前日までは14㎢という広大な面積に水をなみなみと湛えており、一夜にして湖が消滅してしまったのです。
エルニーニョ現象による降水量の減少や、地下水の浸食などで岩盤に地表にまで至る大穴が空く「シンクホール」という現象などが原因として考えられていますが、現在最も濃厚なのが地震活動の影響です。
リエスコ湖は環太平洋造山帯の中でも、1960年に世界最大のマグニチュードを記録したチリ地震の震源である「リキーネ・オフキ断層帯」の真上に位置しています。
湖が消滅した前後で目立った地震活動は確認されていませんが、湖沼の消滅と地震活動には密接な関係があります。
メキシコでは同じく環太平洋造山帯の真上に位置するアトヤック川が消滅しています。
日本でも2016年の熊本地震で水前寺公園の遊水池が干上がったというニュースがありました。
八郎潟
引用元:https://www.asahi.com/
日本で2番目に大きな湖は、現在では茨城県にある霞ヶ浦です。
しかしかつては秋田県にある八郎潟が日本で2番目に大きな湖でした。
八郎潟は総面積27.75㎢(22ha)の船越水道で海へとつながる汽水湖で、冬の間には氷を割って引き網を使う「氷下漁業」が盛んに行われてきました。
昭和31年に戦後の食糧問題を解決するために八郎潟の干拓事業が計画され、干拓のノウハウを持つオランダに協力を仰ぐことで20年の歳月と約852億円の費用を投じて、およそ17haの大干拓地が造成されました。
干拓地は「大潟村」と名付けられ、全国各地から選りすぐられた入植者によって「日本農業のモデル」を確立するべく農業に従事しました。
残った八郎潟は「八郎潟調整池」と名前を改められ、日本で18番目に大きな湖となりました。
「八郎潟残存湖」、「八郎湖」とも呼ばれ、水門によって水道もせき止められた淡水湖となっています。
2007年12月、八郎潟調整池は湖沼水質保全特別措置法の指定湖沼として認定されました。
アクレオ湖
引用元:https://www.msn.com/
チリの中部、首都のサンティエゴから南西に約70㎞行ったところに、アクレオ湖という湖がありました。
面積はおよそ12㎢で、南半球の避暑地として毎年夏場には数千人が訪れ、水泳や水上スキー、キャンプなどを楽しんでいました。
湖の周辺には専用のレジャー施設やレストランなどもあり、賑わっていました。
ですが干ばつと灌漑事業での湖水の利用によって2011年ごろから水位が下がり始め、2018年5月9日に完全に干上がってしまいます。
チリ政府は合同プロジェクトを立ち上げて水位を保全しようとしましたが、残念ながら功を奏することはありませんでした。
ポオポ湖
引用元:https://gakushuu.xyz/
ポオポ湖はボリビア中西部のアルティプラーノ山地の標高3700m地点にある塩水湖で、ボリビア第二の湖です。
チチカカ湖とつながるデスアグアデル川からの水が主な水源となっていますが、平均水深が3mと非常に浅いため季節ごとに水位が大きく変動し、しばしば消滅もします。
1986年に最大水位を記録したのちに、干ばつと灌漑事業、採鉱への水の使用によって水位が減少していきます。
2002年には湖岸がラムサール条約に登録され、保護対象となりますが2015年までにポオポ湖は完全に干上がってしまいました。
ポオポ湖の近辺は鉱業地帯であり、特に銀や錫がよく産出されました。
インカ帝国が支配していた13世紀ごろから盛んに採掘が行われ、湖の水を採掘に利用したほか、風化作用によって湖水にヒ素や鉛、カドミウムなどの重金属を溶かし込みました。
世界保健機関の定める基準値よりも遥かに多くの重金属が含まれているため、ポオポ湖の水は飲用には適さなかったようです。
ロプノール
引用元:https://www.chinaviki.com/
3世紀、中国と地中海世界をつなぎ、絹などの交易路として知られるシルクロードの要衝に「楼蘭」という国がありました。
中国の歴史家・司馬遷が著した歴史書『史記』の「大宛列伝」には「楼蘭姑師、邑有城郭、臨塩沢」(かつて楼蘭という国があった。村は城郭に囲まれ、塩湖に臨む位置にあった)という記述があります。
この塩湖こそがロプノールです。
19世紀後半、プルジェルワスキーやリヒトホーフェンと言ったヨーロッパの歴史家たちは楼蘭およびロプノールの位置について一大論争を引き起こしました。
1900年、スウェーデンの探検家ズヴェン・ヘディンやイギリスの探検家オーレル・スタインらの探検により、楼蘭の遺跡が発見され、ロプノールの位置も明らかとなりました。
発見当時ロプノールは既に干上がっており、湖が縮小するとともに水源を失い、4世紀ごろまでに楼蘭が滅亡したことが判明します。
ロプノールの水源となるタリム川は高低差の少ない砂漠を流れるため、外的要因によって簡単に流れが変わってしまいます。
堆積作用の進行により川の流れが変わり、ロプノールが消滅してしまったのです。
同時にタリム川は風化作用によって堆積物が削られており、堆積作用と風化作用によって1500年周期で湖の位置が変動することが分かりました。
ロプノールはこの現象から「さまよえる湖」と呼ばれるようになります。
ロプノールは1921年ごろから再び楼蘭の近くに移動しましたが、現在では完全に干上がってしまっています。
原因としては乾燥化の進行とタリム川上流にダムを建設したことが考えられています。
中国科学院は1959年までは確かにロプノールの存在が確認されましたが、1972年には既に消滅しており、1962年に消滅したと推定しています。
波根湖
引用元:http://sanbesan.web.fc2.com/
波根湖はかつて島根県大田市の東部にあった湖です。
湾の入口に砂州ができ、海と隔離されたことで成立したためしばしば海水が流入する汽水湖でした。
戦国時代には当時の島根県を治めていた尼子氏の水上兵力であった尼子水軍の拠点となり、交通の要衝として栄えました。
波根湖は東西1.6㎞、南北0.8㎞と広大な湖でしたが、成立経緯から水深がとても浅く近世には干拓が繰り返し行われてきました。
昭和16年(1941年)に計画され、一時中断を挟んだ後昭和26年(1951年)に完了した干拓事業によって波根湖は完全に消滅してしまいます。
干拓地は事業完了後も塩害や酸害に悩まされ、幾度も工事を行っています。
波根湖の干拓事業は後に八郎潟の干拓に応用されるなど、全国の干拓事業のモデルケースとなりました。
フォルサム湖
引用元:https://www.sacbee.com/
フォルサム湖はアメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメントを流れるアメリカンリバーの上流にフォルサムダムを建設した際に作られた貯水池です。
水力発電や飲料水、灌漑用水の確保などに使われ、湖畔にはカリフォルニア州立の保養施設が建っています。
2013年、カリフォルニア州をおよそ500年ぶりと言われる大干ばつが襲った際、46.3㎢もの広さを持つフォルサム湖もほとんど干上がってしまいます。
湖に沈んでいたものが露わになったほか、湖底でサイクリングができるほどでした。
この干ばつによって、フォルサムダム建設時に水没したモルモンアイランドという集落が再び顔を覗かせました。
カラチャイ湖
引用元:https://jp.rbth.com/
カラチャイ湖はロシアのチェリャビンスク州、カザフスタンとの国境にほど近い場所にある湖です。
「イレンコの熱い湖」、「テチャ川」とも呼ばれています。
アメリカで環境問題に取り組むワールドウォッチ研究所はこのカラチャイ湖を「地球上で最も汚染された場所」と称しています。
1945年、カラチャイ湖の周辺に核開発施設「マヤーク」が建造されました。
マヤークでは核兵器に使う核分裂性物質が製造され、発生した放射性廃棄物をカラチャイ湖へ投棄していました。
当時のソ連では放射能に対する知識が未発達で、今ほど放射能汚染が脅威に思われていなかったのです。
1957年9月には「キシュテム事故」と呼ばれる爆発事故が発生して放射性物質が飛散し、周辺地域を汚染します。
1960年代に入るとチェリャビンスク州で干ばつが発生し、カラチャイ湖が干上がります。
放射能汚染された湖底の泥が風化して舞い上がると、更なる健康被害を発生させました。
マヤークでの事故や放射能汚染は総称して「ウラル核惨事」と呼ばれるようになります。
西側諸国にウラル核惨事の実態が明かされたのはキシュテム事故の発生したおよそ30年後、1989年に行われたグラスノスチでのこととなりました。
既に対応は後手となり、放射能汚染の進んだカラチャイ湖では奇形の魚が発見されるなど事態を収束させるすべはありませんでした。
湖からはあの悪名高いチェルノブイリ原発事故で放出された量の2倍以上の放射線を放出しており、ソ連当局は石棺処理(コンクリート建造物)によって湖を封鎖しました。
石棺処理自体は1960年代に開始され、2015年に全工程が完了しました。
放射性廃棄物自体は移動できておらず、現在カラチャイ湖はロシアの当局によって監視されています。
まとめ
今回は世界の消滅した湖について紹介しました。
湖は昔から水源として、生活の潤いを担ってきました。
しかし今では干拓や灌漑、果ては放射性廃棄物の投棄など、人間の生活の都合により多くの湖が消滅、ないし大きく水位を減少させています。
当然、農業を発展させるうえでは必要な犠牲かもしれません。
これからの技術発展はこうした犠牲があることを常に思い返し、極力同じ轍を踏むことのないようにする必要があります。
消滅した湖がある、ということは忘れないようにしていきたいものです。