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三国志最強の武将ランキングTOP20

三国志最強の武将として名前が挙がるのは、呂布や関羽、張飛、といった三国志をモチーフにしたゲームや漫画などで高い武力を誇る豪傑かと思います。

もちろんこれらの武将も強いのですが、史実の三国志で勢力に影響するような活躍を見せた武将を選ぶとなると、少し選ばれる人物も異なってきます。

今回は三国志の正史に基づいて、個人の武力だけではなく兵の統率力や政治力などを含めて三国志最強の武将ランキング・ベスト20を紹介していきます。

 

三国志の正史は『三国志演義』とはどこが違う?

横山光輝氏の漫画、川本喜八郎氏の人形の美しさが光る人形劇など、日本で知られる三国志の話は全て劉備玄徳と彼の領土であった蜀を正当な王朝として、他の領土を統治する武将、特に魏の総曹孟徳を悪役や強大なライバルのように描いています。

一方で正史の三国志は皇帝の年代記である『本紀』と臣下の年代記である『列伝』を中心に構成させた紀伝体で、魏書30巻・呉書20巻・蜀書15巻の三部に分かれる全65巻から構成されています。そして正史では晋は魏から王朝を譲られたことから、魏が正当な王朝であり話の中心となっているのです。

では、何故『三国志演義』では魏が悪者のような描かれ方をしているのでしょうか?これは『正史』を記した陳寿が蜀出身で出身地に愛着があったのか、滅び去った蜀に対して共感を誘うような、やや感傷的な記述が多くされていたことが原因と考えられています。

そして『正史』をもとにドラマティックに史実を脚色して羅貫中が14世紀後半に『三国志演技』を記し、莫大な人気を博したのです。

そのため漫画や小説と実際の武将の性格や活躍は少し異なっており、実は劉備玄徳が史実よりもずっと良い人に描かれていたりします。

また三国志のゲームでは最強クラスのはずなのに、実際はあまり武勇伝が残っておらず、史実ではたいして強くなかったのでは?という残念な武将もいるのです。今回は史実をベースに、三国志に登場する最強武将を紹介していきます。

 

三国志最強武将ランキング20位・馬超孟紀(ばちょうもうき)

引用元:http://www.4gamer.net/

馬超は涼州の武将・馬騰の息子であり、父親が長安を攻めて敗れた後に跡を継いで後漢の武将となりました。父の後を継いだ後は涼州で馬騰の軍勢を率いていましたが、36歳の時に韓遂と同盟を組んで曹操に対して反乱を企てて黄河に兵を進めて潼関の戦いを起こします。

この時、馬超は漢中を攻めに向かう曹操を待ち伏せするために潼関に兵を集めて奇襲をかけ、曹操をあと一歩というところまで追い詰めました。

結局は曹操の配下の許褚に阻まれて取り逃がしてしまったのですが、その後、曹操の軍師の賈詡が馬超と韓遂との仲を裂く一計を案じ、これが原因となって馬超は曹操に敗れてしまいます。そして父親の馬騰を含む一族は曹操に皆殺しにされてしまったのです。

以降も馬超は曹操を狙い続けて曹操配下の夏侯淵を破り、劉備玄徳の軍が成都を包囲したと聞くと劉備に手紙を出して蜀の武将となりました。

劉備の配下になった馬超は諸葛亮公明からも「馬超の武勇は人並み外れている」と絶賛され、47歳で病死するまで蜀の将軍として出世を重ねていったとされます。

『三国志演義』では許褚や張飛と一騎打ちをしたという名場面を持つ馬超ですが、これは全て創作であり、史上では若い頃に韓遂の軍の兵士を相手に一騎打ちをして、あっさり首を取られかけたことが記されています。武将になってからは猛将として恐れられた馬超ですが、若い頃から強かったわけではないようです。

 

三国志最強武将ランキング19位・張郃儁乂(ちょうこうしゅんがい)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

張郃はもともと呉の袁紹の配下でしたが、官渡の戦いで食糧庫が襲われた際に袁紹や他の武将と意見が対立して立場が危うくなったことから身の危険を感じて曹操の元に下り、その後は魏の武将として活躍しました。

曹操の配下となってからは馬超や張魯などと戦って手柄をあげて漢中での守備を任されました。そして定軍山の戦いで夏侯淵が戦死した後は総大将となり、魏が建国された後は将軍となって街亭の戦いでは蜀の馬謖を破り、陳倉の戦いでは諸葛亮公明の足止めに成功するなど武勇を重ねていったのです。

しかしその後、 祁山攻略戦で司馬懿から撤退する蜀の軍勢を追撃するように命じられたものの諸葛亮に反撃され、231年に戦場で命を落としました。史実でも数多くの見せ場を持つ張郃ですが、『三国志演義』でも劉備の息子である劉禅を抱いた趙雲を追い詰めるという見せ場を任されています。

 

三国志最強武将ランキング18位・徐晃公明(じょこうこうめい)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

徐晃はもともと後漢の役人でしたが、後漢が混乱する中で曹操の配下となった武将です。将軍に任命された後は呂布とも戦い、曹操が袁紹軍と激突した際には文醜や劉備を破って敵軍の食糧輸送部隊を焼き払うなどの活躍を見せました。

その後も潼関の戦いでは曹操を守りながら馬超と戦い、219年に関羽が樊城の戦いを仕掛けてきた時には援軍として駆けつけて関羽の軍を破りました。

曹操からも名称だと称えられた徐晃は主の死後も魏の武将として曹操の息子である曹丕と曹叡に仕え、夏侯尚や諸葛瑾を破り、227年に病死を迎えました。

『三国志演義』では大斧を携えた姿の猛者として描かれていますが、史実では非常に慎重な性格で、勝てなかった場合を常に想定して戦ってきたとされています。

 

三国志最強武将ランキング17位・張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

張遼は若い頃は呂布や董卓といった武将に仕えていましたが、曹操が呂布を破った際に軍勢を率いて降伏し、以降は曹操の配下として活躍した武将です。袁氏との戦いで活躍を見せて曹操から高い信頼を受け、李典や楽進らとともに7000人の兵で合肥の守備を任されました。

合肥を任せる時に曹操は張遼に「賊が攻めてきたら開くように」と言って箱を渡し、その中には「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城を守れ」と書いた紙が入っていたといいます。

そして実際に孫権が10万人の軍勢を率いて攻め込んできた際に僅か800人を率いて撃って出て、孫権軍を混乱させました。そして孫権軍は10日に渡って合肥を包囲して攻撃を続けましたが落とすことができず、遂に退却を余儀なくされたのです。

これを見た張遼は追撃を仕掛けて孫権を捕える寸前まで追い詰め、活躍をたたえた曹操から将軍に任命されました。曹操が死んだ後は曹丕に仕え、病になると仮宮で療養する、天子と同じ食事をとるなど格別な配慮を曹丕から受けていたとされますが、222年に任地で病死を迎えています。

 

三国志最強武将ランキング16位・曹仁子孝(そうじんしこう)

引用元:https://mobile.nexon.co.jp/

曹操の親戚である曹仁は、1000人以上の若者を自ら集めて曹操の配下になりました。そして呂布や張繍との戦いに参加して功績をあげ、官渡の戦いでは袁紹の配下であった劉備を破って樊城を任されることとなります。

そして関羽が攻めてきた際に、包囲された樊城の周囲の水位があがり身動きが取れなくなった時にも味方の兵を励ましながら、見事に城を守り切りました。

曹仁は自分の配下を大切にすることで知られた武将であり、209年に荊州南郡で部下が周瑜軍に襲われて孤立した際には、周囲が引き止めるのも聞かずに僅か数十騎で敵軍に突撃して包囲されていた牛金を救い出し、「まるで天上世界の人だ」と褒めたたえられたといいます。

曹仁は曹操が作った軍令を身の回りに置き、それと照らし合わせながら事を行ったと言われており、曹操の死後に主となった曹丕もこれを高く評価していました。曹丕は弟の曹彰に曹仁を見習うように指導し、曹氏一族の重鎮としても慕われていました。

 

三国志最強武将ランキング15位・姜維伯約(きょういはくやく)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

姜維はもともと涼州の天水郡で魏の役人として働いていました。27歳の時に諸葛亮が祁山に進軍すると姜維は天水郡の太守であった馬遵とともに偵察を任されたのですが、馬遵は任務中に姜維が裏切ったと誤解し、その後彼を追放してしまいました。

行き場のなくなった姜維は諸葛亮に降参し、彼の才能を高く評価した諸葛亮は姜維を将軍に任命。その後は諸葛亮の北伐に同行して五丈原の戦いでは魏を撤退に追い込んだとされます。

姜維は諸葛亮のことを尊敬しており、死後は自分が北伐を実行して遺志を継ぐ気でいたものの、周囲からは「あの孔明でさえできなかったことが、他の人間にできるものか」と反対され続け、結局数万の兵を率いて北伐を繰り返したものの失敗の連続でした。

そして263年に鍾会が攻め込んでくると剣閣でこれを防ぎましたが、最終的に劉禅の命令を受けて仕方なく降伏をすることに。その後、魏に捕らわれた後も鍾会の野心を利用してクーデターを起こそうとしましたが、これも失敗して姜維は63歳で戦死を迎えています。

勢いを失くした後の蜀を支えた有能な武将でしたが、共同出撃の約束を破られるなど戦に恵まれず、諸葛亮の死後は思うような活躍に恵まれませんでした。

 

三国志最強武将ランキング14位・郭淮伯済(かくわいはくさい)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

郭淮は曹丕の配下であった武将で、曹操の漢中征討に随行した後に漢中に残って夏侯淵の副官となりました。夏侯淵が劉備と戦った際には病気で前線には出なかったものの、夏侯淵が黄忠に斬られると兵をまとめて張郃を軍主に立てて軍を再生させて混乱を鎮圧。

さらに川から離れた場所に陣営を築いて劉備軍をおびき寄せ、奇襲を企てて進軍を防ぐなどの活躍を見せたのです。

曹丕が魏王になった後は反乱した山賊などを討伐して関中を平定し、さらに皇帝になった後には雍州の刺史としてチャン族を鎮圧。この時に降伏したチャン族の戦士の親族関係や年齢を調べ上げて会見し、心情に寄り添うような質問をしたことからチャン族からの信頼も獲得したと言われています。

このようなことがあったため、郭淮は231年の諸葛亮北伐の際にはチャン族の力を借りて戦いを有利に進めており、続く五丈原の戦いでも諸葛亮の軍の進路を正しく予想して軍を撤退させるなどの機転を見せました。

その後も郭淮は姜維の北伐も防いでおり、255年に亡くなるまで魏の西方防衛担当司令官として活躍を続けました。

 

三国志最強武将ランキング13位・満寵伯寧(まんちょうはくねい)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

満寵は魏の東方防衛担当司令官として呉の攻撃を防ぐ要として活躍をした武将です。赤壁の戦いの後は荊州に残り、孫権が東南から攻め込んで来ることに備えながら、219年に樊城の戦いが起きた際には曹仁と共に関羽を防ぎました。

230年に孫権が合肥を攻撃した時にも満寵は敵軍の偽装撤退をいち早く見抜き、233年には敵に水軍の機動力を使われてしまう合肥城の欠点を見抜いて北方に新しい城を築いて伏兵をしのばせ、ここで孫権の軍を退けるように手配したといいます。

その後も新合肥城を舞台に敵軍を撃退し続け、235年に長江北岸の呉の屯田を襲って撃破。曹芳が即位した238年に都に召喚されましたが、242年に急逝しています。

満寵は武将としてだけではなく政治家としての能力も非常に高く、身分や出自に関係なく法律違反を疑われたものは公平かつ厳格に取り調べを行ったため、民からの信も厚かったそうです。

 

三国志最強武将ランキング12位・孫策伯符(そんさくはくふ)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

孫策は孫堅の長男で、孫堅が董卓討伐に出向いた際に周瑜と意気投合し、後に長江や淮水の兵士からも信頼を獲得しました。孫堅が亡くなった後は孫策を嫌っていた陶謙を避け、父が仕えた袁術の元に身を寄せて配下として活躍を見せます。

袁術のもとで孫策は陸遜の一族である陸康を退けて長江流域を制しました。このことが原因となって袁術は逆に孫策を恐れるようになり、彼を出世させなかったといいます。

孫策はそれでも袁術に申し出て江東に出撃して領土を広げてきましたが、袁術が皇帝を称するようになると、孫策は漢王朝を裏切った主君を見限り、以降関係を絶つようになりました。そして袁術が亡くなった後には劉勲を滅ぼして、袁術の領土を得て後継者としての地位を確立。

盟友であった周瑜とも義兄弟となって、献帝を迎えるために許都を襲撃しようとしていましたがその途中に重傷を負い「自分には領土を広げる才はあるが、能力があるものを率いて江東を守れるのはお前だ」という遺言を弟の孫権に残して死去しました。

 

三国志最強武将ランキング11位・呂布法線(りょふほうせん)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

三国志の中で最も有名な武将の1人でもある呂布。弓と馬術の達人で、『三国志演義』の中では最強の武将として描かれています。

呂布は当初并州の刺使・丁原に仕えていましたが、董卓にそそのかされて丁原を裏切って主を殺して董卓の元に移りました。暫くは董卓の元で活躍を見せた呂布でしたが、些細なことで槍を投げつけられてから彼を恨むようになり、今度は王允に誘いに乗って董卓を殺害。

その後は袁紹のもとに身を寄せて愛馬の赤兎馬とともに袁紹の敵を退けたものの、またしても主君と対立して逃亡しています。

194年には曹操を撃破してそのまま首を取ろうとしますが、折り悪く戦場となった濮陽ではイナゴの大量発生と日照りが続いて両軍ともに食糧不足となって撤退を強いられ、呂布は曹操を取り逃してしまいました。

そして曹操を討つために劉備の元に身を寄せるのですが、敵の袁術にそそのかされて劉備を裏切って袁術と組み、最終的に曹操に下邳城で捕らえられて絞首刑にされています。

処刑に際して呂布は曹操に「自分を配下にすれば天下が取れる」と命乞いをしたものの、処刑に同席した劉備から「こいつは必ずあなたを裏切ります。」と進言されて曹操は処刑を決断したとされます。

 

三国志最強武将ランキング10位・関羽雲長(かんううんちょう)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

『三国志演義』の中でも主役級の活躍を見せる人気の武将・関羽は、史実でも張飛と共に劉備に仕えており実際の兄弟以上の固い絆で結ばれていました。

198年に呂布に敗れた劉備は曹操の配下になりますが、裏切って逃げたことから関羽は曹操軍に捕らえられてしまいます。もともと関羽を高く評価していた曹操は彼を将軍に任命して豪華な邸宅や贈り物を与え、自分に対する忠誠心を高めようとしました。

そして曹操が部下の張遼に関羽の本心を探らせたところ、「曹操殿には感謝している。しかし、自分は劉備殿と一緒に死ぬ心づもりだ。主君を変えることはできない」と正直に語り、これを聞いた曹操は関羽の忠義心に深く感心したといいます。

曹操への恩返しとして関羽は白馬の戦いで敵将の顔良を討ち、与えられた贈り物の全てを残して劉備の元へ去っていきました。

関羽を評価していたのは曹操だけではなく、孫権も自分の娘を嫁に勧めるなど彼を身内に引き込もうと画策していました。しかし関羽はこの縁談を断っており、これが原因で孫権は樊城の戦いにおいて曹操に手を貸して関羽を追い詰めたと言われています。

最終的に樊城の戦いに敗れて処刑された関羽ですが、彼に首を受け取った曹操は武勇に敬意を示して敵将とは思えぬほど手厚く弔いました。現在でも中国国内では武勇と忠義を兼ね備えた関羽は英雄として人気が高く、各地に彼を祀る関帝廟が建てられています。

 

三国志最強武将ランキング9位・鄧艾士載(とうがいしさい)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

鄧艾は蜀や漢を滅ぼしたとして有名な魏の武将です。司馬懿に才能を高く評価されて出世し、武勇だけではなく運河の開発など国づくりにおいても才覚を見せて、魏そのものを強化にも尽力しました。

もともと鄧艾は幼少期に父を亡くしたことから貧しかったうえ、役人になったものの生まれつきの吃音のせいで低い職にしかつけず、高山や沼地を見ると陣営に役立つように測量などをしていたのですが、この行為が周囲からは全く理解されずに馬鹿にされ続けていたそうです。しかし、それを見た司馬懿が鄧艾の非凡さに気付いて、彼を都の官僚として重用したのです。

対蜀漢戦線でも鄧艾は姜維を破り、内乱につけこんで勢力を分断するなどの戦略を立て、司馬懿の跡を継いだ司馬遷も鄧艾の意見を重んじたといいます。

武将として高い戦略性と指揮能力を見せる一方で「農業の充実こそが軍事での勝利の基本」として、高い政治意識を持っていたという鄧艾。その後も政治と並行して諸葛亮の子を討ち取り、劉禅を降伏させるなどの活躍を見せましたが、呉の討伐に向かう時期について司馬昭と意見が対立して、失脚に追いやられてしまいます。

そして衛瓘によって暗殺されてしまうのですが、現在でも低い身分から立身出世したこと、そして吃音に苦しむ人にとって中国で鄧艾は大きな支持を得ています。

 

三国志最強武将ランキング8位・杜預元凱(とよげんがい)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

杜預は魏の名太守であった杜畿の孫で、司馬昭の妹を娶ったことから司馬一族と関係を築き出世に成功した武将です。

263年に蜀漢討伐隊として鐘会に随従したものの、彼がクーデターを起こす前に知恵を働かせて離脱し、裏切り者の巻き添えを食わずに上手く立ち回りました。そして西晋になってからは中国史上初の律令である『泰始律令』の編纂に関り、黄河に橋を建設するなど政治にも積極的に関わっています。

その後、司馬炎が呉を滅ぼす意向を見せた際は反対を押し切って荊州に赴任して戦いの準備を進め、司馬炎が呉平定戦を開始すると荊州南部を攻め取りました。

そして他の武将が猛暑に怖気づいて「進軍は一旦やめて冬になってから戦おう」と兵を引くように司馬炎に進言したのに対し、杜預は「今、わが軍は竹を割くような勢いがある」と主張して攻撃を続け、これがきっかけとなって呉は滅亡。この時の杜預の発言が由来となって「破竹の勢い」という故事成語が生まれました。

このように呉を滅ぼした最高司令官であった杜預ですが、本人は弓も馬術も苦手だったようです。しかし博学多才で多くの学問や兵法に通じていたことから戦略にも長け、政治家としても武将としても活躍を見せた知将です。

 

三国志最強武将ランキング7位・陸遜伯言(りくそんはくげん)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

陸遜は江東の豪族の家で生まれで、孫権に才能を見出されて孫策の娘を娶り、荊州で関羽を捕える際にも活躍を見せた武将です。

その後、蜀の皇帝である劉備が関羽の敵を討つために呉に攻め込んできた時には孫権から総指揮官に任命されていた陸遜は、夷陵の戦いで劉備軍を火攻めで打ち破りました。

この頃の呉の武将には孫氏との血縁者が多く、プライドが高くて勝手な行動を取るものが目立ち、指揮官と言っても陸遜に従う者は少なかったそうです。しかし劉備を破った計略のほとんどが陸遜が立てたものだったため、将軍たちも以降は彼に大人しく従うようになったとされます。

陸遜は軍事だけでもなく政治にも長け、呉の軍事・内政・外交全てを支えた名将であり、孫権も蜀や漢に手紙を出す際には必ず陸遜にチェックをさせて、誤解を招くような文言がないか校閲を頼んでいたと言われています。

244年に陸遜は荊州の丞相に任命されましたが、孫権に跡取り争いに巻き込まれ、中傷を真に受けた孫権から疑いの目を向けられて憤死。報われない最期を迎えた陸遜でしたが、史実『三国志』の中では諸葛亮とともに単独で立伝されている呉の大黒柱です。

 

三国志最強武将ランキング6位・陸抗幼節(りくこうようせつ)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

陸抗は陸遜の息子です。20歳の時に父が死んだことで呉の武将になり、陸遜の配下の5000の兵を率いることとなりました。孫権は自分の後継者問題で自分に隠れて暗躍しているという疑いを陸遜にかけていたため、跡を継いだ時から陸抗の立場は危ういものでした。

しかし陸抗は自ら孫権に会いに行き、父親の無実を丁寧に訴えることで関係を改善。最終的に亡き陸遜への疑いも晴れ、孫権は「陸遜に申し訳ないことをした」と涙を流して詫びたと言われています。

このように誠実な人柄の持ち主であった陸抗ですが武将としても頭角を見せるようになり、春秋の戦いで魏を破って将軍に命じられた後は内乱に対しても気を配りながら、荊州方面の司令官として蜀漢に対しての防衛を固めました。

また陸抗は敵将であるはずの羊祜と戦いのうちに信頼関係を築くようになり、陸抗が病気で苦しんでいる際には羊祜が薬を贈り、そのお礼として陸抗が羊祜に酒を贈ったという逸話を持ちます。口に入れるものを敵将に贈るというのは正気の沙汰ではないのですが、2人は互いを尊敬していたために躊躇わずに薬や酒を口にしており、双方の部下を大変に驚かせたといいます。

「呉最後にして最強の将」と称えられるほど軍事にも政治にも尽力した陸抗でしたが、生まれついて病弱であったために「長江上流からの西晋の攻撃に対する防衛を怠らないように」という遺言を残して49歳で病死を迎えました。

 

三国志最強武将ランキング5位・司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

司馬懿は司隷河内郡の名門である司馬一族の出身で、若い頃から優れた才能の持ち主として知られていました。曹操も荀彧の勧めにより司馬懿を配下にしようとしましたが、どうしても曹家の部下になるのが嫌で当初、司馬懿は仮病を使って面会を断ったといいます。

しかし曹操は一度では諦めずに、その後も司馬懿を口説きにかかり、あまりの強引さに根負けして30歳の時に司馬懿は曹操の配下に加わりました。

司馬懿は樊城の戦いで曹操軍だけでは関羽に敗戦してしまう可能性が高いことから、都を北に移すべきかと考え始めた曹操を説得して孫権に援軍を要請するなどの根回しをしており、最終的に樊城の戦いでの勝利の立役者ともなっています。

軍師としてあまりにも有能だったことから曹操は司馬懿の裏切りを非常に恐れていたといいますが、彼の死後に跡を継いだ曹丕はいっそう司馬懿を取り立てるようになり、曹丕が死んだ後は曹叡を支えて呉から領土を守りました。

司馬懿は諸葛亮と2回戦っており、2度目に五丈原の戦いでは最中に諸葛亮が病死したことによって決着はつかず仕舞いでした。『三国志演義』では諸葛亮の戦略に敗れる人物として描かれていますが、史実では2人がまさに好敵手の軍師であったと言えます。

曹叡の代までは曹家に仕えた司馬懿ですが、次の曹爽の代になると対立をするようになり、彼を処刑して魏の最高権力者となりました。そしてその覇権は子の司馬遷や司馬昭に引き継がれていきます。

 

三国志最強武将ランキング4位・劉備玄徳(りゅうびげんとく)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

『三国志演義』などでは人徳はあるものの、本人は戦ができない凡人であり、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲といった名将に恵まれたことで勝利を収めてきた人物という印象が強い劉備ですが、実際は漢王朝の子孫であるものの貧しい育ちで領土も持たず、傭兵のような生活が長かったために武将としてもかなり強かったと考えられています。

何度も曹操に負けていますが討ち取られることなく、赤壁の戦いとその後の漢中戦以外では毎回見事に曹操から逃げ切っており、史実からも劉備が要領の良い人間であったことが窺えます。

『三国志演義』でも史実でも、とにかくカリスマ性の高い魅力的な人物として描かれている劉備は、曹操からも「天下の英雄と言えば私か君くらいだろう」と言われる程、認められていました。

実際には曹操が荊州に攻め込んできた際には妻子を置いて逃げる、曹操の配下になるも裏切って袁紹の下に行き、袁紹が曹操に攻め込まれると見捨てて劉表の元に行くという一貫性のない行動も多々見られた劉備。

病死を迎える際には諸葛亮に「息子の劉禅に才能がないようだったら、君が皇帝になって蜀を治めるように」と頼み、子供達には「徳の無い私を見習ってはいけない。諸葛亮を師として父として手本にするように」と遺言を残したといいます。

 

三国志最強武将ランキング3位・周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

周瑜は孫策と孫権に仕えた呉の名将です。孫策と仲が良かったことから彼に協力して江東の支配を固め、孫策が死んだ後は孫権に仕えました。この時、有能な周瑜が真っ先に孫権を主君に選んだことから他の配下もこれに従うこととなり、お陰で跡目争いも起こらなかったと言われています。

そして曹操が大軍を率いて江東に攻め込んできた際には、孫策に3万の兵を預ければ曹操を破って見せると進言して出兵。赤壁の戦いで劉備軍と協力して、曹操軍を火攻めにして撃退したのです。

その後は曹仁との激突の末に江陵を奪い、長江流域に兵を進めて「天下二分の計」を考案。しかし、この準備中に急逝しています。『三国志演義』の中では諸葛亮のライバルとしても扱われている周瑜ですが、史実『三国志』呉書では孫氏の呉政権最大にして最後の英雄と紹介されており、司令官・戦略家として秀でていたとされます。

ちなみに周瑜は史実『三国志』の中でわざわざ容姿が良かったと記述されており、さらに音楽の才能にも恵まれていたそうです。

 

三国志最強武将ランキング2位・諸葛亮公明(しょかつりょうこうめい)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

諸葛亮は幼い頃に後漢の役人であった父親が死んだため、兄の諸葛瑾とともにおじの諸葛玄に育てられて、劉表の統治する荊州で生活をしていました。

諸葛玄が亡くなった後は誰にも仕えずに農業をしながら独学で学問を続けていましたが、その非凡さは徐庶の目に留まり、彼が27歳の頃に劉備と会いました。そして初めての面会で劉備に曹操や孫権と直接戦争するのではなく、荊州と益州を手に入れて国力を充実させ、その後に天下を目指すべきだという「天下三分の計」を授けたといいます。

そしてその7年後に劉備が荊州と益州を手に入れると軍師将軍となり、成都を守るようになりました。そして関羽の弔い合戦として呉を攻めた劉備が大敗した後に死を迎えると、涙ながらに劉禅を支え続けることを劉備に誓い、蜀と呉の間を取り持って南方の反乱を無事に鎮圧します。

47歳の時には北方の魏の軍勢を討伐する北伐に出るようになりますが、この頃の魏と蜀の間にはかなりの戦力の差があり、4度に渡る北伐の中でも、諸葛亮は戦果をあげることができませんでした。そして5度目の北伐に出た折、司馬懿が率いる軍勢と100日以上にらみ合いを続ける最中に病が原因で急逝しました。

『三国志演義』や後に続く創作物語の中では伝説的な軍師として描かれることの多い諸葛亮ですが、史実では劉備が軍を起こす前から魏・呉・蜀の三国で中国を分割することを進言し、実際にそのように物事を進めていることから、政治家としても傑出した才能を持っていたと評価されています。

 

三国志最強武将ランキング1位・曹操孟徳(そうそうもうとく)

引用元:http://www.gamecity.ne.jp/

若い頃から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評価されてきた曹操。20歳前後で後漢の役人になると出世を重ね、黄巾の乱で黄巾族と戦った後に董卓から洛陽に来るように誘われますが、董卓の残虐さに疑いを持っていたことからこれを断って一度は故郷に帰りました。

しかしどうしても董卓の非道さが許せず、190年に兵を集めて董卓討伐に乗り出し、その後は220年に亡くなるまで毎年のように自ら兵を率いて戦地に向かい、呂布、袁術、馬超、張魯といった武将を倒してきました。

曹操は若い頃から武術に長けていただけではなく屯田制や戸籍制度などを確立して、いつでも兵を集められるように法整備も行ったとされます。

さらに自身が最高司令官として戦えるほど戦略・戦術に詳しかったために、参謀の意見を取り入れながらも最終的には自身で判断を下すことができたのです。

このように万能で隙がなく見える曹操ですが、時折迷信じみたことを口にしており、例えば張魯を攻撃する際には「この土地には化け物が棲んでいるというから、早く帰りたい」と訳の分からないことを言いだして家臣を困らせるなどしていたそうで、意外と人間味のある一面も持ち合わせていたようです。

 

まとめ

『三国志演技』や創作物では頭も切れて強いものの、悪役として描かれることが多い曹操ですが、正史の三国志では「非常の人、超世の傑」と紹介されており、他の武将とは比べ物にならない程、傑出した存在であったとされます。

また創作では見せ場の多い趙雲が正史ではあまり活躍することがなかったりと、少し残念な描かれ方をしていたりもします。三国志のゲームなどは好きだけれど正史に目を通したことが無いという方も、史実の三国志についても調べてみてはいかがでしょうか。

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