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【領土のない国家】マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)ってどんな国?

領土を持たず、国の形態を成していないにもかかわらず主権国家として認められているマルタ騎士団。国交を結んでいないこともあり私達日本人にとっては不明瞭な点も多い存在ですが、マルタ騎士団とは一体どのような国家なのでしょうか?

11世紀から現代まで続くマルタ騎士団の歴史について紹介していきます。

 

マルタ騎士団とは?

マルタ騎士団の正式名称はロドス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会。

国土は持ちませんが活動の拠点となる首都を持ち、場所はイタリア共和国ローマ市コンドッティ通り68番地とローマの一等地です。この場所は1969年以降イタリアから治外法権を認められているため、ローマ市民であっても許可なく立ち入ることはできません。

現在は国土を保有していませんが、かつては国土、主権、国民の国を構成する3大要素を揃えていた時代があったため世界的にもマルタ騎士団を国として認める働きがあり、イタリアやスペインといった国連加盟国を含む100ヵ国以上と国交を結んでいます。更に1994年には国連のオブザーバーとしての機能も持つようになりました。

国民総数は1万3000人超ですがかつてのように武装することはなく、現在は専ら世界各地での医療活動や病院運営を行っています。また騎士団と言っても特定の身分の者のみが入団できる閉じられた団体ではないため、活動の内容も含めて今ではNGOに近い存在と位置付けられています。

マルタ騎士団は切手も発行していますが、万国郵便連合への加盟をしていないためエアメールでの使用はできません。パスポートも存在するとのことですが、所持している人は世界中で500人ほどという調査結果もあります。

マルタ騎士団の紋章は8つの角のあるマルタ十字です。この角はそれぞれ忠誠、敬虔、寛容、勇気、名誉、死の恐怖の克服、貧者・病者の庇護、教会への敬意を表しています。

 

聖ヨハネ騎士団と十字軍の歴史

マルタ騎士団はこれまでに2度その名称を変更しており、11世紀の設立当初は聖ヨハネ騎士団と呼ばれていました。

以下に聖ヨハネ騎士団の設立や活動内容など、その歴史を紹介していきます。

 

聖ヨハネ騎士団の設立

ティルスの大司祭ギョームの残した資料によると、11世紀の半ばにエルサレムに巡礼に来た商人に向けた宿泊施設として修道院を建立したことが、聖ヨハネ騎士団の始まりとされています。

この宿泊施設を使用した南イタリアのアマルフィの商人たちは、修道院を聖母マリアに奉献し『ラテン人の聖母マリア修道院』と名付けました。当時は聖地を巡礼する信者の数が増えたこともあり同敷地内には女子修道院と病院も続いて設立され、この病院の保護聖人に洗礼者聖ヨハネであったことが騎士団の名称の由来となったと考えられています。

 

第一回十字軍

1095年11月27日、教皇ウルバヌス二世はフランス中部クレルモン郊外でエルサレム解放のための第一回十字軍遠征を説き、群衆は涙を流してこれを支持したとされます。そして後のローマ教皇特使となるルピュイの司教アデマールが、遠征の総指揮官に任命されました。またこの時教皇は遠征に参加する騎士や貴族に、シャツ、マント、外衣の上に十字架の紋章を縫い付けるように命じたといいます。

これを皮切りに教皇ウルバヌスは翌年の夏まで8ヶ月に渡ってフランス各地で十字軍遠征を説き、1096年には5つの騎士軍団がサラセン攻撃の前進基地のコンスタンティノープル目指して出陣、1099年にエルサレム解放に成功しました。

第一回十字軍遠征にはまだ騎士団としての機能を持たなかった聖ヨハネ騎士団は参加しなかったのですが、この戦いは騎士とキリスト教の繋がりを強固なものにし、聖なる土地で神のために戦った者は栄誉と称賛を受けるようになったとされます。そしてその流れを継いで以降の十字軍の要となったのが聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団でした。

 

修道会の設立

十字軍がエルサレムを包囲した1099年、ファティマ朝は市内のキリスト教徒を市外に追放しました。しかし、聖ヨハネ病院の関係者には医療奉仕のため残留を命じたのです。

この時の聖ヨハネ病院の管理者であった修道士のジェラール・タンクはイスラムの命令に従うと見せかけて、十字軍に情報や物資を流すスパイ活動を行いました。

後にこの援助活動が発覚して、イスラム軍の拷問によって歩くことのできない身体になったというジェラールですが、エルサレム解放後は十字軍への貢献が認められて『福者』の称号を贈られるとともに、1113年には教皇パスカリス二世により聖ヨハネ病院は独立した修道会として認められることになったのです。

この時点でジェラールが運営する病院は西欧各地に多数存在し、その全てが修道会組織に組み込まれました。そして巡礼と居留民の救護活動を主な活動とし、王侯貴族から貧民まで隔てなく献身的に看護にあたったといいます。

そしてこういった当時には類を見ないような医療活動が基となり、この修道会は“救護会・ホスピターラー”と呼ばれるようになったといいます。

 

軍事力の強化

1120年にヨーロッパ中の哀悼の中、貧者の見方であったジェラールが逝去すると修道会の二代目総長として修道士のレーモンが選ばれました。そしてこの頃から修道会は医療活動以外にも巡礼路の警備やエルサレム王の政治顧問の仕事などを行うようになっていきました。

このように修道会の性格が変わった理由としては同時期に台頭したテンプル騎士団をライバル視したため、修道会内部に血気盛んなスペイン人修道士が増えたため、と様々なものが挙げられています。また近年の研究によると慈善活動の延長線上に軍事活動が義務として存在したのではないか、ともされています。

実際13世紀に入ると慈善活動と軍事活動は併存するものとなり『貧者の下僕はすなわちキリストの兵士なり』という聖ヨハネ騎士団の思想は、この先駆けであったと考えられているのです。

そして1146年、シトー会の聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を勧説した際には聖ヨハネ騎士団も参加を勧告されました。

 

第二回十字軍

第一回十字軍遠征後、シチリア、パテスチナ沿岸にはイスラムから占拠したエデッサ伯国、アンティオキア公国、イエルサレム王国、トリポリ伯国という4つの征服地からなる十字軍国家が誕生しました。

そして1145年にトルコのザンギー朝にエデッサ伯国が奪われたことにより、フランス王ルイ七世とドイツ王コンラート三世が先頭となって第二回十字軍が編成されたのです。

この戦いにはエルサレム本部の設営を完了させ、動員可能な騎士数百名を保有していた聖ヨハネ騎士団もテンプル騎士団とともに参加しました。

しかし十字軍側が王族の聖地参拝を護衛するような形で進軍していくのに対して、待ち受けるイスラム側は陣形を整えて武装待機しており、コンスタンティノープルを過ぎて小アジアに渡るや否や連続的な敗戦に見舞われるようになります。

エデッサ伯国奪還に失敗したことを受け、1148年にエルサレムで開催されたアッコン会議で当時唯一の友好的イスラム地方政権であったダマスクスを攻撃する方針を決め、国王たちは聖都ダマスクスを獲得することで十字軍遠征の結果を得ようとしました。

このダマスクク攻撃も太守のウヌールと援軍に駆け付けたトルコマン人により敗戦となり、第二回十字軍遠征は成果を挙げることなく帰路につきました。この敗戦は、後にダマズクスがイスラム勢力に吸収され、領土を拡大する切っ掛けにもなったとされています。

 

1187年エルサレム陥落

11世紀末、イスラム世界を統一したアイユーブ朝のサラディンが率いる部隊が進軍してきた際、聖ヨハネ騎士団はテンプル騎士団とともに1177年にアスカロンで、1778年にエルサレム王国の北の国境地帯にあるヤコブの浅瀬で勝利を収め、その侵攻を食い止めました。

しかし1187年ヒッディーンの戦いで両騎士団はサラディンに敗れ、エルサレム陥落の後に総長を含む200名ほどが捕虜となって処刑されました。

この知らせを受けてヨーロッパではエルサレムを奪還するための第三回十字軍が結成され、聖ヨハネ騎士団はイングランドの獅子心王・リチャード王の指揮下に加わりました。しかし遠征は中心となっていたドイツ国王、フランス国王が進軍中に命を落としたり帰国したりといった厄災に見舞われたこともあり敗戦、エルサレム奪還は失敗となります。

敗戦後に各国の部隊は祖国へ引き上げましたが、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団はシリアに残り、占拠した地域の防衛を行いました。そして各々が警護する十字軍国家に重厚な石造りの要塞を固め、これらの要塞都市はサラディンの攻撃にも持ちこたえといいます。

中でも最も強固であったのが、聖ヨハネ騎士団によってトリポリの北東に築かれたクラック・デ・シュバリエ(上の写真の要塞)と、ラタキアとトリポリの中間に位置するマルガト城です。

聖ヨハネ騎士団の拠点地でもあったこの2つの城は強固すぎてサラディンに攻撃を断念させたほどで、聖地防衛の最後の砦となりました。

 

1291年アッコン陥落

12世紀末から13世紀になると、ヨーロッパ側の軍事力の要となっていたテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団の両騎士団の間で政権争いやライバル意識が表顕著になっていきました。両者は露骨に対抗心を見せるようになり、政治的、経済的利害をめぐって小競り合いを繰り返すようになっていきます。

また『山の長老』と呼ばれるイスラム教徒シーア派の暗殺者が率いるアサシン集団を互いの領土内に抱えていたことから、これと手を組んで有利に政治を進めようと暗躍していたという疑いも両騎士団にはありました。

このように両騎士団を含むヨーロッパ側が醜態を演じている頃、イスラムではサラディンの再来とも呼ばれる英雄・バイバルスが台頭し、1265年から1268年までのわずかな期間でシリア海岸の主要な十字軍国家を陥落していきました。

そして遂に『キリスト教徒領土の鍵』『イスラムの喉に刺さった鋭い骨』と言われるほどの堅牢さを誇った聖ヨハネ騎士団の要塞、クラック・デ・シュバリエも1271年にバイバルスに落とされてしまいます。

続く1286年にはバイバルスの息子のカラウンが同じく聖ヨハネ騎士団の居城であったマルガト城を落とし、1289年にはトリポリが占拠されました。

そして十字軍側の最後の砦であったエルサレム王国の臨時首都アッコンも、カラウンの後継者ハリールによって1291年に陥落。テンプル騎士団は総長のド・セヴリー以下ほぼ全員が殺害され、聖ヨハネ騎士団も重傷を負った総長ド・ヴィリエと生き残った僅かな騎士がキプロス島まで逃れたといいます。

 

聖ヨハネ騎士団の生活様式

テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団の両騎士団が発展するために必要であったのは、人と物の大量動員でした。そしてそれは12世紀の3分の2の期間に急速に実現されたといいます。当時の全ヨーロッパは各階層をあげて大きな期待を宗教騎士団に寄せていたのです。

以下に聖ヨハネ騎士団の会員募集や入会式、生活様式など普段の暮らしを紹介していきます。

 

聖ヨハネ騎士団の入会資格と入会式

聖ヨハネ騎士団の入会資格としては次のようなものが求められたとされます。

一、未成年でない者

二、他の修道会員でない者

三、未婚の者

四、債務者でない者

五、農奴でない者

これらの条件を満たすものは身分が騎士でなくとも入団ができ、志願者は毎週日曜日に召集される参事会に出頭し、道徳的資格を審査されました。

そして辛い修道会の仕事に従事できるかの説教を受けた後に、現世放棄の誓いを立てた志願者は会員の制服である修道服を受け取り着衣式へ参加します。

聖ヨハネ騎士団の制服は謙譲の精神を表す黒の着衣で、上衣はガルナッシュと呼ばれる前が中央でボタン留めとなった長衣、その上に黒のカーパというマントを羽織ったものでした。またこの両方の胸部に、直径3cm~4cmの白い8角十字架の紋章が縫い付けられていました。戦時にはカーパの代わりに緋色の陣羽織風のサーコートを着用したといいます。

13世紀以降は次第に騎士団の服装も華美なものとなり、1306年の細則によると各会員はシャツ3枚、ブリーチ3枚、ガルナッシュ1着、カーパ1着、マント3着、長靴下数枚、その他上衣などを支給されていたそうです。このような被服貸与状態はかなり恵まれたものであり、会員が死んだ場合には服装品は貧者に与えることと決まりがありました。

 

聖ヨハネ騎士団の構成

騎士以外の身分の者の入団も許可した聖ヨハネ騎士団ですが、会内のヒエラルキーを見ると騎士相当身分とそれ以外の者がはっきり区分されていたことが分かります。

総長をトップとする本部役員による参事会と各管区の長、すなわち騎士団を動かす身分は騎士を中核とし修道士としての身分も持つ者ばかりです。上層部についてはテンプル騎士団とも大差のない構成なのですが、騎士・司祭以外の下位の会員や従業員の構成ははっきりとした違いがが見られました。

下位の会員のほとんどが歩兵などの戦闘員であったテンプル騎士団と異なり、軍事色が薄かった聖ヨハネ騎士団の下位の会員には非戦闘員が多く、そのほとんどが幹部である病院長の下で医療活動を行っていました。また医者は騎士団内で身分が与えられておらず、給料で雇用される関係でした。

また聖ヨハネ騎士団には姉妹修道会として聖ヨハネ女子修道会が併設されていたため、会員には女性の名前も多く見られるという特徴を持ちます。

 

騎士の日常生活

宗教騎士団の生活様式は修道院の聖務日課に準じて定められました。そのため定時の祈りを区分として日課が定められており、これは聖ヨハネ騎士団も例外ではありません。騎士たちは一日の夜明けから就寝(だいたい21時から22時)までの時間を8定時で分け、それぞれの提示に祈りを捧げたとされます。

食事は日に2回、半数ずつ2度に分かれて交代でとることが決められており、一回目の食事は15時前後、二回目の食事は19時~20時にとっていました。食事に関しては禁欲的な方針は取られておらず葡萄酒も食卓に供され、食事風景は怒号が飛び交うこともある騒がしいものであったという記録もあります。更に聖ヨハネ騎士団では毎日30人ずつの貧者を集めて修道院の食堂で食事を与えていました。

睡眠については役職者には個室が与えられていましたが修道騎士たちはベッドを並べた相部屋で就寝し、聖ヨハネ騎士団では1人あたり4枚のシーツが支給され、騎士はリンネル製のシャツを着てシーツの間に入って眠ったといいます。

また騎士ではある者の聖職者でもあった宗教騎士団ではスポーツや狩猟などの娯楽は固く禁じられ、特に生殺与奪に関わるハンティングは一切行ってはならないとされました。

外部世間との交流も制限されており外出や外泊は上長の許可を必須とし、私信も検閲を受け、来信は上長の前で音読させられたといいます。特に異性との交際には極めて慎重な配慮が加えられ、身体的な接触を禁じる細則も存在しました。

 

ロードス騎士団の誕生

1295年、聖ヨハネ騎士団の新総長にギョーム・ド・ヴィヤレが就任すると、騎士団は地中海にとどまってイスラム勢力と戦うという方針を明らかにしました。

ド・ヴィヤレは1305年の没年までに修道会内部の綱紀粛正やキプロスの整備などといった新しい騎士団の基盤を作り上げたといいます。そして彼の死後、後を継いだ甥のフルーク・ド・ヴィヤレは1307年から1309年の間に小アジアのロードス島をビザンツ帝国から奪い、ここを騎士団の新たな拠点と定めました。

この頃から、聖ヨハネ騎士団はロードス騎士団と呼ばれるようになります。

 

テンプル騎士団とロードス騎士団

13世紀末までの十字軍が聖地防衛やキリスト教徒解放といった明確な意図を持っていたのに対し、14世紀以降のヨーロッパの軍事力はトルコ人の攻撃から身を守るためのみに使われるようになっていました。そしてこのような消極的な立場に追い込まれたキリスト教世界は反撃の一手として、テンプル・聖ヨハネ両騎士団に併合するように求め、また騎士団に新たな十字軍計画を提示するよう要求しました。

この時に聖ヨハネ騎士団が提示した案をもとにロードス島の占拠に成功したのですが、両騎士団の合併はテンプル騎士団側の拒絶により実現せず(聖ヨハネ騎士団側の回答内容を表す資料は残っていない)、更にテンプル騎士団は嫌疑不明の異端審問に掛けられて1314年に最後の総長ジャック・ド・モレー以下騎士団幹部が火刑に処されることとなり、事実上の解散を迎えます。

テンプル騎士団が廃絶したこともあってロードス騎士団はほぼ唯一の騎士団として西欧の希望を担うことになり、トルコとの闘いの要となっていきました。

 

マルムーク海軍とオスマン・トルコとの戦い

15世紀に入ると地中海におけるマルムーク海軍の台頭と陸上のオスマン・トルコ帝国の進軍を防ぐため、ロードス騎士団もロードス島を防衛するだけで手いっぱいとなり、教皇の招集に応じることが困難になっていきます。

1440年、1442年、1444年と2年おきにロードス島を襲ったマルムーク海軍は総長ラスティックによって撃退され、1455年と1480年のオスマン・トルコ艦隊による襲撃も、総長ジャン・ド・ミーとピエール・ドービュイッソンにより退けられました。

この激戦中に当時の教皇ピウス二世は全ヨーロッパに十字軍の結成を呼び掛けましたが実現には至らず、1522年に遂にオスマン・トルコ帝スレイマンの艦隊による5ヶ月の包囲を受けて、ロードス騎士団は本拠地を明け渡すこととなりました。

その後1571年に、ようやく教皇と西欧諸国、ロードス騎士団の連合艦隊がレパント沖でトルコ海軍を破り、騎士団はドイツ皇帝カール5世からマルタ島、ゴゾ島、そして北アフリカのトリポリ要塞を領土として与えられたのです。そして以降、騎士団はマルタ騎士団と呼ばれるようになっていきました。

 

マルタ騎士団と地中海

ロードス島を拠点としていた頃、騎士団は物資を得るためにオスマン領アナトリアと交易をしていました。そのためオスマン帝国との正面衝突は避ける必要があったのです。

しかし、マルタに拠点を移した後はオスマン帝国に攻撃的に接しても失うものはなくなりました。穀物などの物資はシチリアから入手できるようになったからです。

しかしその一方でロードス島と違い、マルタは立地で優れたものの小石だらけの不毛の土地でした。岩盤からなるこの島の住民は資源の不足を補うために伝統的に海賊行為を行っており、マルタ騎士団もこれに倣って海賊行為を常とするようになったのです。

 

海賊としてのマルタ騎士団

騎士団の海賊行為は一見粗野で暴力的なものでしたが、地中海において長い歴史を持つ法原則『コンソラート・デル・マーレ』にのっとって行動を行動をしていたとされます。

そして自らの海賊行為も異教徒を断罪するという天職を遂行する手段であり、イスラム教徒やユダヤ教徒の船から略奪をすることは正しい行為であると主張していました。

また騎士団の略奪行為は私的なものと公的なものの区別がはっきりなされており、公的な海賊行為は修道会の船によって行われました。そして隊商航海と呼ばれたこの公式な航海で得た利益は全て修道会の財政として組み込まれ、報酬として参加者には資産ではなく名誉と称賛が与えられたといいます。

16世紀に入るとマルタ騎士団に志願する者は、それぞれが最低半年は続く隊商航海に3度に渡って参加することが義務付けられていました。そしてヨーロッパではマルタ騎士団の隊商航海の様子がパンフレットや小冊子として伝えられ、異教徒の船から略取した戦利品とともにその武勇伝が吹聴されたことで、騎士団の数はロードス騎士団時代から2倍へと膨れ上がったのです。

しかし私人の船による私的な海賊行為はそれ以上に盛んであり、地中海全域のキリスト教徒がスポンサーとしてマルタ騎士団へ航海の依頼を出したとされます。いつしかオスマン帝国への反抗ではなく、海賊行為のために海上戦力の強化を図るようになったマルタには多くの荒くれ者が引き寄せられるようになり、島の秩序は徐々に崩れていきました。

またこの頃のマルタには人口比ではヨーロッパ最多のイスラム奴隷がおり、地中海のイスラム教徒からは恐怖の対象として見られていました。

 

マルタ騎士団の歴史

引用:https://www.timesofmalta.com

マルタに到着してから1年も経たないうちにマルタ騎士団はオスマン領のギリシア南部の町モドンを攻撃し、イスラム社会に対して十字軍継続を宣言しました。

そして1565年にオスマン帝国の進軍に遭った際もスペインの援軍を得て、5ヶ月に及ぶ戦いの末これを退けることに成功しました。その後、ヨーロッパ大陸の前線基地として各国の支援を受けてマルタに要塞を建設。当時の総長であったジャン・ド・バレットから名前をとってヴァレッタと名付けました。

しかし16世紀に入るとキリスト教世界では宗教改革が行われると各地の宗教騎士団の領土は没収されるようになり、17世紀にはマルタ騎士団もロシアやフランスの海軍の統治下に置かれるようになりました。

こうして独立した騎士団としての機能を失ったマルタ騎士団は、1798年にエジプト遠征で物資の補給に停泊したナポレオンにあっけなく領土を引き渡し、マルタを占拠されてしまいます。

その後は一時期ロシアの皇帝パーヴェル一世を総長に立ててロシアに身を寄せ、1822年に当時フランスからマルタを奪っていたイギリスが参加したベロナ会議で、領土を失ってもマルタ騎士団を国家として機能させることが約束されました。

そして1834年には活動の本拠地を現在のローマ市内に移し、現在に至るまで存続を続けています。

 

まとめ

中世に活躍した宗教騎士団については敵地での略奪行為や拷問、暴力行為の酷さもしばしば議論の対象となります。この行為の根底には『人間を殺害するのは良くないことであるが、異教徒は人間にカウントしない』というこの時代の宗教騎士団に顕著にみられる思想があり、マルタ騎士団も例外ではありませんでした。

しかしテンプル騎士団やドイツ騎士団が存続できなかったこと対して、マルタ騎士団が現在まで主権国家としてある一定の権力を保持している理由に、対象がキリスト教徒に限られるものであっても慈善事業を行い続けたことが挙げられています。修道会という側面を持ち続けたため、各国からの攻撃を逃れ、保護され、現代まで続いた稀有な宗教騎士団がマルタ騎士団であると考えられているのです。



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