お城と言えばノイシュヴァンシュタイン城や姫路城など建築的な美しさから観光地として人気がある城が思いつくかもしれません。
しかし、城の設計思想において最も重要なのは、見た目の美しさではなく、何倍もの勢力がある敵の攻撃にも耐えられる軍事的防御力にあります。
通常、城を攻めるには櫓や投石器といった攻城兵器が必要不可欠であり、白兵戦での戦力差に換算して3倍の兵力が必要とされました。それ程までに城攻めというものは困難を極めるものだったのです。
今回は世界中の難攻不落と呼ばれる機能美溢れる城郭や城塞を、歴史上の防御実績を元にご紹介します。
10.マサダ(イスラエル)
引用:https://worldheritagesite.xyz/
10位は防衛に成功した実績はありませんが、徹底抗戦という意味で世界的に有名なマサダです。
元々は死海のほとりにある峻厳な切り立った岩山の頂上にあった小さな砦でしたが、かつてイエス・キリストの出現を恐れて2歳以下の子供達を虐殺したヘロデ王が、統治中に反乱が起きた際に避難する場所としてマサダを城塞に改修しました。
死海の水面から見て標高400メートルもの高さがある岩山ですが、死海は海抜マイナス400メートルなので頂上は海抜0メートルとほぼ同じ高さです。
ヘロデ王の死後、西暦70年にローマ軍の攻撃によりエルサレムが陥落しました。その時に生き残ったおよそ1000人のユダヤ人達はローマ軍の追手から逃れ、マサダに籠城します。
断崖の上に建てられたマサダは地形的にとても攻めにくく、地中海世界で最強を誇ったローマ軍も崖を登っての強襲を図りましたが、マサダから煮えたぎったお湯をかける方法での抵抗にあい、攻めあぐねていました。
ローマ軍は地理的に孤立しているマサダへの道を開くため、持ち前の土木技術を用いて崖の西側を大量の土で埋め、進入路を拓く作戦に出ます。その進入路はおよそ2年後に完成し、ローマ軍が攻め込んでくることは確実となりました。
マサダのユダヤ人達は迫りくるローマ軍を前にして民族の誇りと宗教、自由を守る為に集団自決を図りました。当時、捕虜は奴隷となって売り飛ばされ、神格化されたアウグストゥスを神として崇めるのが当たり前だったのです。
彼らは10人1組でくじを引き、当たった者が残りの9人を殺すという方法を繰り返し、最後の1人は口に短剣をくわえてローマ軍に突撃して非業の最期を遂げました。籠城から3年半後の西暦73年のことでした。
マサダ陥落後、砦内に1000人を養うには充分な量の食料の備蓄が依然として7年分はあったこと、マサダに畑を作り、動物を飼育して食料を得ていたこと、貯水池を作って飲料水を確保していたことにローマ軍は大変驚いたそうです。
現在、イスラエル軍の入隊宣誓式はマサダの山頂で行われ、二度とマサダを、ひいては祖国を失わないという決意を共有し、2000年前の悲劇を繰り返さないと誓うことが慣例になっています。
9.熊本城(日本)
引用:http://jpninfo.com/
熊本城は前身となった千葉城と隈本城に入城した加藤清正によって改修され、完成形を迎えました。
戦国時代が終わり、江戸の世になって「島津を抑える為の城」として改修されたこの城の防衛能力は当時の日本でも有数のものでした。
特に有名な「武者返し」と呼ばれる敵の侵入を防ぐために反り返った石垣は全国屈指の高さを持ち、最も堅固な本丸北側の石垣は20メートルにも及びます。これは現代のビルの7階に相当する高さです。
この熊本城で最も有名なエピソードは時代が下った西南戦争(明治10年、西暦1877年)でしょう。
加藤清正は城内にある大きな銀杏の木を前にして「この木が天守より高くなる頃、何らかの大乱が起こるだろう」と予見しています。それは270年経った明治の世で現実のものとなったのです。
西郷隆盛ら薩摩軍は外交方針の違いをきっかけに辞職、薩摩へ下り、明治新政府に対して武力反乱を起こします。西郷らは薩摩から軍勢を率いる為にまず熊本城に抑えを置き、主力部隊は陸路で東京へ行軍する戦略を採用しました。
西南戦争勃発時、熊本城を占拠していたのは新政府が設置したのが熊本鎮台。兵力は4000名足らずで、実戦経験に乏しい農民が徴用されていた上、士気は高いとは言えませんでした。
その熊本城を前に、薩摩軍は簡単に攻略できると踏んだのでしょう。「熊本城など青竹棒でひとかき」と気勢をあげて攻め入っていますが、すぐに侮り難い難攻不落の城塞であることに気付かされます。この堅城ぶりに西郷は「せいしょこおさんといくさしよるごたる(清正公と戦をしているようだ)」と漏らしたと言われています。
それはもっともなことで、熊本城は先述の武者返しの他、地理的に見通しが良い宇土櫓、場内に120か所にも及ぶ井戸、長期の籠城に耐えられるようかんぴょうや芋がらで作られた畳など、戦国の世を生き抜いた者の知恵の結晶と言える城だったのです。
約14000の西郷の手勢を一兵たりとも侵入させない熊本城に薩摩軍が手を焼いているうちに、北方から明治新政府の官軍が押し寄せてきていました。西郷は熊本城攻略を諦め、西南戦争最大の激戦となった田原坂へ軍勢を向かわせます。
しかし熊本城より約15キロメートルも離れた田原坂も、戦術的な意味合いでは熊本城の一部でした。加藤清正はなんと坂道を掘って凹の字型にすることで周囲より低くし、曲がりくねらせて見通しが悪いように整備していたのです。
これにより非常に狙撃しやすい地形になっており、一進一退の大激戦を招くことになりました。使用された弾丸は一日に約32万発ともいわれ、放たれた弾丸同士が空中でぶつかる「かちあい弾」が今もなお多く残されています。この十七日の激しい攻防の後、田原坂は官軍の手に落ちました。
熊本城は攻めきれず、北方の要衝は官軍に占拠されて、次第に薩摩軍の勢いは失われます。そして半年後、鹿児島で西郷隆盛と幹部は自害という結末を迎えました。
西郷隆盛は「明治新政府ではなく加藤清正公に私は負けた」と周囲に漏らしていたと伝えられています。それほどまでに、軍事要塞として完成していた熊本城の軍事的プレゼンスは時代を下ってもなお堅牢ぶりを誇っていたのです。
8.チットールガル城(メーワール王国 現インド)
引用:http://www.chittorgarh.com/
8位はインド北西部に位置する地方に存在したメーワール王国のチットールガル城です。
チットールガル城は高さ180メートルの丘の一帯が一つの城塞都市となっており、周囲は13キロメートルにも及びます。また、メーワール王国の首都でもありました。5世紀には建設が始まり、徐々にその規模を拡大していったとされています。
この地方は歴史的にイスラム圏からの侵攻が絶えず、チットールガル城は通算3回の包囲戦を経験します。
最初の包囲戦は1303年、イスラム王朝であるハルジー・スルターン朝の侵攻によって引き起こされました。
総大将はモンゴル帝国のインド侵入を5回も阻止し、第二のアレクサンドロス大王と呼ばれたアラー・ウッディーン・ハルジー。彼はメーワール王国に侵入し、次々と都市を陥落させ、ついに首都に迫ります。
メーワール王国はチットールガル城で籠城戦に持ち込むことにしました。幸い、籠城に耐えられるよう丘の上に貯水池があり、食料も充分な備蓄がありましたが、ハルジー軍の攻撃は凄まじく、8カ月の籠城の末についに陥落しました。
メーワール王国は国王の生け捕りとハルジー朝の支配により一時的に滅亡しますが、23年後、生け捕りにされた国王の血族であるハンミーラにより奪還され、メーワール王国は再興します。
その後も異民族の侵入や外敵の攻撃を受けますが、更に強大な敵がイスラム世界より現れます。1535年、グジャラート・スルターン朝の君主バハードゥル・シャーによる二度目の包囲戦を強いられたのです。
二度目の包囲戦においてもチットールガル城は何とか持ちこたえていましたが、圧倒的なバハードゥル・シャーの軍勢を前に敗色濃厚となっていました。しかし、ある幸運が外部からもたらされます。
ムガル帝国の皇帝フマーユーンの軍勢がチットールガル北東部の都市グワーリヤルに移動し、軍事介入を匂わせたのです。包囲戦において外部に新たな敵を招くことは挟撃されることを意味します。バハードゥル・シャーはムガル帝国の介入を恐れ、メーワール王国と講和を結び、チットールガル城は事なきを得ました。
しかし、それから33年後の1567年、チットールガル城は最後の包囲戦を迎えます。皮肉にも、前回の包囲戦で助け舟を出してくれたムガル帝国皇帝フマーユーンの子息であるアクバル大帝により服属を求められ、それをメーワール王ウダイが拒んだことによりムガル帝国の大軍がチットールガルを包囲したのです。
この当時、メーワール王国は何度も危機を脱して生き抜いた伝統ある王朝になっており、インド北西部において最も力を持つ国になっていました。ムガル帝国は版図拡大を目指しており、メーワール王国を服属させれば周辺国家も後に続くとアクバル大帝は考えたのです。
包囲は1567年11月から翌1568年2月まで続き、籠城の末にチットールガル城は陥落します。陥落の際、凌辱を恐れて女性達は一人残らず自害し、兵士は最後の一兵卒まで玉砕したという記録が残されています。
一方の国王ウダイは落ち延び、メーワール王国は後継都市ウダイプル(ウダイの町)を建設し、首都としますが、その亡命政権もついに1614年にムガル帝国に降伏します。
アクバル大帝の子息であり第四代ムガル帝国皇帝ジャハーンギールはメーワール王国の勇猛さを称え、チットールガル城を再建せず放棄する代わりに、降伏したメーワール王国を保護しました。
度重なる包囲戦に見舞われたチットールガル城ですが、城内の至る所にみられる寺院や史跡は驚くほどに保存状態がよく、ジャハーンギールの配慮により当時の状態をほぼ完全な状態で残しています。
7.カルカソンヌ城(フランス)
引用:https://lifepart2.com/
狂暴な巨人達からの防衛の為に町全体を三重の防壁で囲った町を舞台にした有名な漫画がありますが、カルカソンヌはその縮小版ともいえるかもしれません。とはいえ、カルカソンヌは現存する城塞都市としては欧州最大の規模を誇ります。
カルカソンヌの歴史は古く、紀元前3世紀にケルト人達が砦を建設し、後にローマ帝国支配下で城塞都市としての基礎が築かれます。6世紀には西ゴート王国による増築がなされ、更に13世紀にはカペー朝フランス王ルイ9世の治世において隣国のアラゴン王国への防衛の為に城壁が二重になり、今の形になりました。
元々、カルカソンヌが位置するプロヴァンス地方は大変肥沃な土地であり、また、交通の要所でもありました。その為、近隣諸国や諸侯の垂涎の的となり、この地の支配者は防衛設備を強固にせざるを得なく、増築に増築を重ねた結果、巨大な城塞都市となったのです。
カルカソンヌという名前の由来には興味深いエピソードがあります。カール大帝がカルカソンヌに包囲戦を仕掛けた際、カルカソンヌ城内の備蓄は窮乏していたにも拘わらず、時の支配者である女帝カルカスは小麦で太らせた豚をカール大帝の軍勢に投げつけ、まだ余裕があるとアピールしました。
これによりカール大帝は城内の備蓄にはまだまだ余裕があると判断し、カルカソンヌを攻略を諦めることになりました。この際に「女帝カルカス(Carcas)が勝利の鐘を鳴らした(sonner)」とこぼしたことに城の名前の由来があると言われています。
カール大帝の軍勢の攻撃に耐えた二重の城壁は総延長3キロメートルにもなり、鉄壁を誇りました。英国との百年戦争において二度の攻撃を受けましたが、この城壁に阻まれ、カルカソンヌは陥落することなく耐えることができました。
百年戦争終結後はスペイン王国の侵入の可能性から最前線の要衝となっていましたが、17世紀半ばにピレネー条約によりスペインとフランスの国境が決まったことにより、カルカソンヌの存在意義は失われ、次第に荒廃していきました。
しかし、19世紀になると歴史的な価値が認められたことにより整備され、現在ではモン・サン・ミシェルに次ぐ人気の観光地としてフランス国内だけでなく世界中から人々が訪れる場所になっています。
6.大坂城(日本)
引用:https://matcha-jp.com/
熊本城、小田原城と並び難攻不落として音に聞くのが大坂城(大阪という地名は明治維新後に新政府によって正式に改められたもので、当時は大坂と表記されました)です。
現在の大阪城は再建されたものであり、築城当時と比較しても規模は縮小してしまいました。しかし、豊臣秀吉の存命中は総構えと呼ばれた外堀から内側は非常に広大であり、それを再現しようものなら大阪市の繁華街はすっぽりそのまま含まれてしまうほどでした。
防衛力に関しても外堀と内堀の二重の堀があり、城内には全国から集めた膨大な量の食料備蓄だけで数年は籠城することができるようになっていました。豊臣秀吉は武将としては水攻めや兵糧攻めを得意としていただけに、消耗戦に強い城を構想したとも言われています。
大和川や淀川という天然の水堀とも言える立地は水攻めに強いだけでなく、軍勢が攻め入ることを非常に難しくしていました。一方の南側は川に面していなかった為、真田幸村により真田丸と呼ばれる出城、つまり小さな城が築かれました。
徳川幕府軍と豊臣軍が衝突した大坂の陣において、真田丸の健城ぶりと真田幸村の奇策によって幕府軍は大損害を被り、徳川家康は軍勢による力押しで大坂城を落とすことを断念します。かといって籠城戦に強い大坂城ですから、やむなく幕府からの講和の申し入れがなされました。
残念ながら大坂夏の陣の講和により内外の堀は埋められ、その防衛力は永遠に奪われてしまい、後の大坂冬の陣にて大坂城は陥落し、天守閣は炎上してしまいます。この日をもって豊臣家は滅亡し、本格的に江戸の治世が確立されました。
5.アレッポ城(シリア)
引用:http://fotolector.diariovasco.com/
アレッポ城はダマスカスの北方約300キロメートルに位置し、大変古い歴史を持っています。
建設されたのは、なんと紀元前10世紀! 中国大陸では周が勢いづき、ギリシアではスパルタが建国していた時期です。
キリスト教国とイスラム教国の衝突である十字軍の侵攻や12世紀~14世紀に渡ってユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国の攻撃にも耐え抜いた防衛実績を誇ります。
アレッポ城は城下町から約50メートルほど高い丘の上に造られ、度重なる戦いを経て城塞化が進み、アイユーブ朝の始祖サラディンが十字軍の攻撃に備えて改築した当時の姿で現在に残っています。
アレッポ城が建つ丘は人が登るには急すぎるほどの斜面で、その周りを堀が囲んでいます。かつては堀には水を張っていたとされており、更に丘の上には高い城壁が頑として佇み、地上からの侵入を阻んでいます。
城へ入ることができるルートは石橋を通る城門のみ。さらに地下には巨大な食糧庫と退避用シェルターがあり、長期の籠城も可能な設計となっていました。
十字軍、モンゴル帝国、ティムール帝国の攻撃にも耐えたアレッポ城ですが、2012年から2016年まで続いたシリア内戦において破壊される危機に瀕してしました。
シリア軍はアレッポ城の城壁が砲撃を防ぐことを期待してアレッポ城を軍事基地として使用し、反政府軍の砲撃により城塞は深刻なダメージを負いました。その後も原因不明の爆発により城壁が崩壊し、現在も損傷が進行しています。
4.セゴビアのアルカサル(スペイン)
引用:http://vivalifestyleandtravel.com/
白雪姫のお城のモデルになった城として有名なセゴビアのアルカサルは古代ローマ帝国の建築技術、イスラム建築の細微さカトリック文化が融合する世界的にも珍しい、大変優美な城郭です。
一方で南と北、そして西を100メートル程の高さの断崖に囲われた天然の要塞ともいえる立地により、この城を攻めるのは大変困難でありました。かつて存在していた東側の跳ね橋を上げてしまえば、完全に侵攻不可能な要塞になったのです。
長らく王族の居城であったこの城も、幾度かの戦乱を経験します。16世紀に発生したコムネロスの反乱により、反乱軍による攻撃を受けましたが、断崖絶壁の上という立地が有利に働き、陥落することはありませんでした。
また、19世紀初頭のナポレオン軍の侵攻の際、スペイン独立戦争が勃発します。その際にも堅固な城塞の防衛力を活かし、砲兵アカデミーがアルカサルに設置されました。この際にもアルカサルはナポレオン率いるフランス軍に占領されることはなく、セゴビア市民の独立の象徴となっています。
3.ドーヴァー城(イングランド)
引用:https://en.wikipedia.org/
島国日本は大陸から海で隔てられ、歴史的に島国であるが故に防衛を海に向けてきました。
一方の英国は欧州大陸から本土までの距離は最も短いドーヴァー海峡でわずか34キロメートルであり、対馬のような防衛拠点となる大きな島はありません。よって、このドーヴァー城は古くから英国の防衛において大きな役割を担ってきました。
その役回りから、ドーヴァー城はイングランドの鍵とも称され、歴代の王たちが国費で増築を繰り返し、イングランドで最大の城郭にまで成長させてきました。秘密のトンネルや複雑な防衛設備を備え、海を臨む小高い丘の上に張り巡らされた城壁は幾度もイギリスを侵略者から守ってきたのです。
ドーヴァー城は帝政ローマ期にローマ人が建造した砦を前身とし、フランスの小ブリテン(ブルターニュ地方)を失ったジョン王が海岸線の防衛の為に多額の資金を投入しました。程なくして失政に失政を重ねるジョン王に反旗を翻す諸侯の攻撃を受けましたが、ドーヴァー城はその攻撃を跳ね返しています。
ジョン王の子息ヘンリー3世はドーヴァー城の防衛能力を確固たるものにするため、更に国費を投入し、現在の姿にまで発展させます。その後、17世紀のピューリタン革命によりドーヴァーは会議軍の支配下に入った為、以後100年程は特に役割を持たされることもなく放置されることになりました。
しかし、1793年に起きたフランス革命によってその軍事的プレゼンスは復活を遂げます。フランス革命政府と対立関係にあった英国は国境線の防衛の要としてドーヴァー城に着目し、再び整備したのです。
更に、フランス革命の混乱の末にナポレオンのクーデターにより帝政が樹立され、イギリスはアレクサンドロス大王とカエサルの後継者が自国に攻め入る危機に直面していました。先述の通り、対岸のカレーからは34キロしか離れていない為、水際の防衛の最前線になっていたのです。
また、第二次世界大戦中は秘密軍事司令基地としても使用されました。ヒトラーは連合軍はドーヴァー海峡を渡ってフランスに渡ってくると信じて疑わず、フランス側からドーヴァーへ砲撃する計画もあったと言われています。連合軍はヒトラーの予想に反してノルマンディーに上陸した為、ドーヴァー城は事なきを得ました。
2.クラック・デ・シュヴァリエ(シリア)
引用:https://www.reddit.com/
クラック・デ・シュヴァリエとはフランス語で「騎士の城」を意味します。中世の西欧における築城技術の粋を集めて建設されたと伝えられています。
その前身となったのは高さ650メートル程の峰に建っていた砦ですが、十字軍の隊列に並んだ聖ヨハネ騎士団によって1144年に大改修され、当時のカトリック勢力の中で最大最強の城となりました。
強大なイスラム勢力の度重なる攻撃に三度耐え、1271年のマムルーク朝による四度目の包囲戦に敗れるまでは陥落することはありませんでした。
その防衛設備はカトリック勢力最強の名に恥じず、外壁は30センチもの厚さ、7つの守備塔も厚さ10センチの壁で頑強な防御力を誇り、築城された12世紀には堀に囲まれていました。
また、跳ね橋が取り付けられており、これを上げてしまえば堀と高い外壁が敵勢を阻み、進入を妨害する造りになっていた他、仮に外壁を突破されても攻城兵器による内壁への攻撃を阻害する為、あえて外壁と内壁の間隔を狭くし、直角の曲がり角を多く取り入れる工夫もなされていました。
更に、聖ヨハネ騎士団により内装も十字軍によりゴシック様式に統一され、神への祈りを捧げる礼拝堂、瀟洒なホール、そして長さ120メートルにも及ぶ巨大な食料貯蔵庫を二つも備えており、包囲されても5~6年は耐えうるとされています。
クラック・デ・シュヴァリエは西欧世界の集中型の城の手本となり、十字軍の遠征から帰還した西欧の諸侯はこの城を模倣した城を各地に建てる程の影響を与えました。
また、イスラム勢力から見ても称賛に値する城塞であったようです。サラディンはクラック・デ・シュヴァリエを一目見ただけで攻略は不可能と諦め、その機能性を高く評価しています。
シリアに建つこの城もアレッポ城同様、シリア内戦により深刻な損傷を被りました。
2013年、反政府軍がクラック・デ・シュヴァリエを占拠し、それを殲滅しようとするアサド政権の空爆によって塔が破壊され、天井にも穴が空くほどの被害だったとのことです。
未来に引き継ぐべき人類の遺産が適切に保護されることが望まれます。
1.コンスタンティノープル(東ローマ帝国 現トルコ)
引用:http://belshaw.blogspot.com/
最後にご紹介する歴史上最強の城はこれまで述べてきたような特定の城郭ではなく、都市そのものを千年以上に渡って強大な勢力から守り続けてきた、コンスタンティノープルのテオドシウスの城壁です。
テオドシウスの城壁はその名の通り、東ローマ皇帝テオドシウス二世によって建造され、西暦413年に完成しました。
この城塞はかつて世界最大の人口を有し、世界の富の3分の2が集まる中世一の大都会であったコンスタンティノープルを丸ごと囲っており、その規模は先述のカルカソンヌの比ではありません。
また、その守備力は群を抜いて凄まじく、フン族の王アッティラ、ササン朝ペルシア、ウマイヤ朝、ロシア、オスマン帝国のいずれの襲撃にも耐え、1453年5月29日の東ローマ帝国最後の日にオスマン帝国に突破されるまでは無敗を誇っていました。
引用:https://www.realmofhistory.com/
城壁は外周部に高さ数メートルの低城壁、10メートルの外城壁、そして17メートルの内城壁の三層構成となっており、更に幅20メートル、深さ7メートルの堀が低城壁を囲うという比類なき堅固な造りになっていました。
よって、投石器で攻撃を仕掛けようにも三層の厚い城壁を破壊することはかなわず、直接攻撃を仕掛ける為に櫓を設置しようとして堀を埋める作業をすれば城壁側から丸見えになってしまい、弓矢や石による攻撃を受けることになります。攻める側から見れば文字通り手も足も出なかったのです。
また、当時の東ローマ帝国はギリシア火薬というナパーム弾のような火炎放射兵器を保有していました。陸海を問わず使用され、海上ではサイフォンの原理で燃える液体を敵艦に向けて海面に放出して使用されましたが、陸上では擲弾に混入させて城壁から投下することで防衛上の相乗効果を生み、攻守一体となって何度も東ローマ帝国を滅亡の危機から救ってきました。
その世界最強の城塞に守られたコンスタンティノープルもオスマン帝国が用いた大砲と奇策、東ローマ帝国の衰退により1453年に陥落します。それでもオスマン帝国側は城壁の一部しか破壊できませんでした。
1453年にコンスタンティノープルが陥落し、オスマン帝国の首都となりイスタンブルと名を変えた後も、その恐るべき守備力に何度も手を焼いたオスマン帝国によってテオドシウスの城壁は修復され、その後も都市を守る城壁として機能し続けました。
人類の歴史において、千年以上も断続的に数々の強大な敵の攻撃に晒されてもなお無敗を誇り、一つの都市を守り抜いた城壁は他に類を見ません。
現在、テオドシウスの城壁は歴史的な価値が認められ、世界遺産に登録されています。
まとめ
城は兵器の進歩、ことに火器の出現と発達に伴って軍事的優位性が低下し、20世紀初頭には塹壕やトーチカに置き換わり、その役割を終えました。
現在、世界中に城郭が残されていますが、時代を超えて人類の歴史の生き証人となっているものばかりです。
しかしながら、一部の地域では内戦や戦争において今なお使用されており、損傷や崩壊が懸念されています。
今に残る城郭や城塞が、過去に果たしてきた役割と共に、可能な限りそのままの姿で次の世代に語られ、残っていくようにしたいものですね。