映画や漫画のモチーフとしても頻繁に扱われる海賊。フィクション作品の印象からか弱きを助け強きをくじく、いわば義賊のような自由人といった印象も持たれがちですが、実在した海賊の中には残酷な行為を好み、自分の欲求を果たすためなら何でもやるというならず者や、知的に立ち回ることで地位や名誉を得た者が大勢存在します。
以下に15世紀に始まった大航海時代に実在した海賊を中心に、特に存在が際立つ者をランキング形式で10位から1位まで紹介していきます。
10位 ジャック・ラカム
縦縞のキャリコのズボンを愛用していたことから“キャリコ・ジャック”とも呼ばれたジャック・ラカムは、元々は海賊のチャールズ・ヴェインの下で操舵手として働いていた男です。
1718年に航海中にフランス軍艦と遭遇した際、船長であったヴェインが回避を決定してのに対してラカムは攻撃をするべきだと主張。ラカムを支持した若い乗組員によりヴェインは臆病者の烙印を押されて、ラカムを新しい船長にしようとする派閥に船を降ろされてしまいます。
この時にラカムはヴェインに食料と水を持たせて下船させたのですが、このような計らいは通常海賊の社会では見られないものでした。彼は海賊としては奇特な性格をしており、生涯を通して無駄な殺生を嫌う人間であったといいます。
その後ラカムは船長として海賊団を率いてひと財産を築くのですが、海軍や、政府の依頼を受けて海賊を捕縛するウッズ・ロジャーズらの元海賊組織の目をかいくぐりながら略奪をするのは、割に合わない商売となっていました。
そのためラカムもわずか半年で船長の座を辞して、1719年5月に発令された恩赦を受けてロジャーズの元へ出頭。滞在先のバハマでアン・ボニーという女性と知り合うことになります。
弁護士と女中の間に私生児として誕生したアンは非常に気性の荒い子供で、13歳の時には女中の腹をナイフで突き刺したこともあったといいます。ウッズ・ロジャーズのスパイとして働く夫とともにバハマに来ていた彼女は、颯爽としたラカムに夢中になり2人は愛し合うようになりました。
そして2人は港に停泊中のスループ船を盗んで海賊団を結成、ラカムは恩赦を受けた身でありながら海賊に逆戻りしたのです。
何隻も船を拿捕しているうちにあるオランダ船を捕らえた彼らは、その乗組員のうちの何人かを自分達の船に乗せることにしました。この中にいた華奢で美形の少年にアンは夢中になってしまうのですが、この少年はメアリー・リードというイギリス人女性が男装した姿だったのです。
これを知ったアンはラカムにだけそのことを伝えたうえで、メアリーに正式に仲間になってほしい持ちかけ、2人の女は一流の海賊としてラカムの手下の誰よりも勇敢に激しく闘ったといいます。
当時は女を船に乗せるのは不吉とされ女の海賊というのは非常に珍しかったのですが、ラカムはそれを気にすることなく2人を連れて回りました。
1720年の10月に酒盛りをしていた彼らの船はジャマイカ総督から海賊の捕縛の依頼を受けた船に捕らえられ、後にラカムは絞首刑になるのですが、アンとメアリーだけは最後までヤマネコのように激しく抵抗したと裁判記録に残されています。
妊娠が確認されたため彼女達は死罪を免れ、絞首台に送られるラカムに対して「勇敢に戦っていれば犬のように吊るされないですんだんだよ」とアンは吐き捨てたと言われています。
地位や名声には興味を持たず、酒と女を愛する自由人として生きたラカムは映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の主人公、ジャック・スパロウのモデルではないかとも考えられています。
9位 ジャン=ダビド・ノー (フランシス・ロロノワ)
フランスのブルターニュ地方出身のジャン=ダヴィド・ノーは、出生地からつけられた“フランシス・ロロノワ”という名前で呼ばれた海賊です。
1630年代に入ると海賊はカリブ海に浮かぶトルトゥーガ島を拠点とするようになり、島に居住する者は自ら“沿岸の同胞たち”を名乗って、民主的な同業組合を組織するようになりました。
社会の最下層で生まれたロロノワは奴隷として西インド諸島に連れてこられた後エスパニョラ島に逃亡、このトルトゥーガの“沿岸の同胞たち”に加わったとされます。
彼は“沿岸の同胞たち”の中で最も悪名高く、サイコパスとも呼ばれるような異質な残虐性を持っていたことで知られ、その性格は『どんな相手でも、拷問し、白状しないとすぐさまその短剣で八つ裂きにし、舌を引き抜く。』と評されていました。
ロロノワの残虐さと野蛮さを伝えるエピソードは多く、行った拷問の中には頭をコードで縛り、そこに棒を差し込んで目玉が飛び出るまで締め上げるというものもあったといいます。
またある時は拷問相手の男の胸をナイフで切り裂いてまだ動いている心臓を取り出して、それを口に入れてしゃぶりながら、白状しない者には同じことをすると言ってその場にいた者を脅したことさえありました。これには残虐な性質の者が多かった彼の部下たちも流石についていけないと思ったようで、離れていく者も少なくありませんでした。
最初は海上で船を襲っていたロロノワですが、じきに関心は南米北東部沿岸へ向けられるようになり、マラカイボで2週間略奪と捕虜の拷問を続けた後にヒブラルタルに移動。この街を守っていたスペイン軍の兵士500人を殺して、町が降伏した後も1ヶ月の間虐殺を繰り返して金品や奴隷を奪って立ち去ったといいます。
極めてサディスティックな性格だったにもかかわらず豪快さや気風の良さは多くの人を惹きつけ、投資家たちはこぞって彼と契約しようとしたそうです。
ロロノワは依頼されるがままにニカラグアの沿岸を襲ってはスペイン人やインディオを殺害し、村を焼いてまわったといいます。そして最後にはインディオ達に捕らえられ、八つ裂きにされて死体を焼かれ、その灰は2度と戻ってこないようにと風にまかれたといいます。
8位 ヘンリー・モーガン
カリブ海を根城にした海賊のうちで一番有名なのが残酷で知略に富んだ、ヘンリー・モーガンです。
1668年、彼は新世界(現在のアメリカ大陸やオーストラリアなど)で3番目に大きい都市プエルト・ベリョに奇襲攻撃を仕掛けたのですが、最初の砦では降伏をしなかったスペイン兵を一つの建物に閉じ込めて建物ごと火薬で吹き飛ばしたといいます。
そして2番目の砦を落としたのち、最後の砦では住民達の中から神父や修道女といった神職に就く者を集めて城攻め用の梯子を運ばせたのです。この奇妙な作戦の裏にはスペイン人が聖職者に対して深い敬意を持っていたことにつけこんだもので、結局モーガンの計略は失敗し、砦を守る提督は集中攻撃を続けました。
しかし最終的には砦は陥落し市民に対する拷問やレイプ、殺害が行われ、山のような略奪品と奴隷300人を連れてポート・ロイヤルに戻ったといいます。
その後の1670年に彼は生涯最大の遠征部隊を組織して、当時西インド諸島の黄金の倉庫であったパナマへと向かいました。手前の平原でスペインの歩兵と騎馬兵と交戦した後になんとか海賊たちは町に入り込んだのですが、この時既にパナマを海賊に渡したくないと考えたスペイン人により主要な建物は破壊され、町の中はもぬけの殻となっていたのです。
これに怒ったモーガンは、財が詰まった200もの倉庫と最も裕福な住民の邸宅を中心に町の3/4を破壊しつくしました。この時に崩壊した町並みは“旧パナマ市跡”として現在も遺跡として残されています。
当時スペインとイギリスは公式に和平の状態でした。そのためスペイン国王はイギリスに対し、パナマを破壊した海賊を速やかに処罰するように求め、これに応じない場合は宣戦を布告すると脅したといいます。
国王であったチャールズ2世はモーガンを支持したモディファド総督をロンドン塔に幽閉したのですが、敵国のスペインを破ったとして国民からもてはやされているモーガン本人を罰することはせず、逆にナイトの称号を与えてジャマイカに帰し、海賊を裁くためのジャマイカ副海事裁判所の判事の職を与えました。
両国を脅かす海賊をモーガンが取り締まるということでスペインとイギリスの間の緊張は解けたのですが、公職についてからも海賊たちの戦利品を掠め取るなどして私服を肥やし、やがて国のために働く時間よりも居酒屋で過ごす時間が長くなって公職追放処分を受けることとなります。
晩年は全盛期の面影などないアルコール中毒になり果て1688年に死亡、1692年の津波で墓が流されたために現在は骨すらも残っていません。
7位 バルバロッサ・ハイレッティン
バルバロッサ・ハイレッティンはオスマントルコ帝国の提督で、後に海賊の英雄と呼ばれるドラグート・レイスを副官に持つ海賊でもありました。
イスラムに改宗したギリシャ人家族の出身であったハイレッティンは、兄のアルージとともに北アフリカ西部にスペインの征服が及ぶことを阻止し、強力なイスラム勢力の基礎を築くことに貢献したとされます。
兄弟はエジプトから大西洋岸、地中海南岸までの“バルバリー”と呼ばれた地域の沿岸の主要な港に海賊船の基地を作り上げ、赤髭をたくわえた風貌からバルバロッサ(ロッサは赤の意味)と呼ばれるようになりました。
しかし兄弟仲は決して良好なものではなく、1514年にアルージがスペインとの戦いで片腕を失ったことを切っ掛けに弟が支配権を握り、その後も兄がアルジェリアの大部分を占領するまで覇権争いが続いたといいます。
兄の死後、アルジェリアの支配権を受け継いだハイレッティンはオスマントルコ帝国に使者を出し、アルジェリアをオスマントルコ帝国の領土に加えて欲しいと掛け合いました。そしてその見返りとしてオスマントルコ帝国領アルジェリアの大提督の地位を得たのです。
ハイレッティンは粗野で野蛮なタイプの海賊とは異なり、洗練された教養のある人物で6ヶ国語を操ることができたといわれており、武力制圧だけではなくこのように知略にも長けていました。
アルジェリアを支配するだけでは飽き足らず、中部バルバリー地方を次々手中に収めていったハイレッティンはトルコ海軍の総帥にまで上り詰め、地中海全体の支配者となったといいます。
1538年にキリスト教連合艦隊を地の利を利用した奇襲で撃退したことで更なる名声を得たハイレッティンは、アルジェリアを海賊の自治領として強化、オスマントルコ帝国の海賊たちの独立国家を誕生させたのです。
6位 ジャン・ラフィット
ジャン・ラフィットは海賊の黄金時代が終わりを迎えた後の1780年に誕生した“最後の海賊”とも呼ばれた男です。
ハイチ生まれのフランス人であったラフィットは、ハイチで黒人の反乱がおきた際にニュー・オリンズに移り住み、そこで兄のピエールとともに密輸品と奴隷の貿易に手を出すようになったといいます。
1811年にはニュー・オリンズの南にあるバラタリア湾の島々を拠点に略奪を行っていた総勢3000人からなる海賊組織のリーダーとなっていましたが、彼自身が船に乗ることはなく、倉庫を建ててそれを経営、不法な商品を迷路のような水路を使って移動させることで関税を支払うことなく奴隷や商品の競売を行っていました。
1812年にアメリカとイギリスの間で“1812戦争”が始まると手下の海賊たちはイギリスの軍艦を避けてスペイン船を標的にするようになり、密輸容疑でラフィットも捕縛されます。
しかし翌年の1813年には脱獄。ルイジアナ州知事に500ドルの賞金をかけられるのですが、ラフィットはこれに対してルイジアナ州知事を自分のもとに連れてくれば5000ドルの賞金を出すとやり返したのです。
戦争も終盤に差し掛かった1814年、イギリス軍はラフィットと接触し、アメリカ攻撃の手助けをすれば現金3万ドルとイギリス軍将校の地位を与えると持ちかけました。
彼はこれに応じることなくアメリカ当局に通報をしたのですが信用されず、政府軍によって司令部を焼き払われてしまいます。その後、この時の通報の内容が正しいと確認が取れ、アメリカ軍はラフィートと手を結び1815年にイギリス軍を完全に撃退することに成功しました。
この功績を認められて彼は過去の海賊行為を不問にするという恩赦を受けたのですが、その後も変わらず海賊行為を行って一時姿を消し、ジョン・ラフリンと名前を変えてチャールストンに現れてからは、火薬製造など様々な仕事に手を出して1854年まで生きたといいます。
5位 バーソロミュー・ロバーツ
大航海時代最大にして最後の海賊と呼ばれるのがバーソロミュー・ロバーツです。ウェールズ出身の人間に多いという浅黒い肌を持った彼は“ブラックバート”と呼ばれ、上品な服装を好む美形でした。
最期の戦いの時も真紅のダマスクス織のベストとズボンを身に着け、帽子には緋色の羽を挿し、宝石のちりばめられたロザリオをつけて死んだといいます。
ロバーツの美意識は外観のみではなく部下への規律にも反映されており、ギャンブルで金を儲けることや船上でのレイプを禁止して、神への祈りを奨励したそうです。また多くの海賊と異なり酒を飲まず、紅茶を愛していました。
しかしこれらのエピソードから想像されるような優男であったわけではなく、ロバーツは恐れを知らない勇敢さを持ち、船団を組んでいないときでさえ60人の乗組員と10門の大砲しか乗せていないスループ船一隻で、1200人が乗船する船を沈め、フランスの小戦艦さえも破壊したといいます。
ロバーツは元々海賊に対して憧れを感じていたわけではありませんでした。彼の海賊としてのスタートは36歳と遅く、ロンドンからギニア海岸に向けて奴隷を輸送していた商船に二等航海士として乗船していた折にハウエル・デイビスの率いる海賊船に襲われ、同国出身であることからデイビスに気に入られて彼の船の乗組員となったことに始まります。
行動を共にするようになって6週間後にはデイビスは暗殺されてしまうのですが、僅か1ヶ月半程度の付き合いでありながら彼の部下の海賊たちはロバーツの勇気と知性にほれ込んでおり、デイビスの後継者として海賊船の船長に選ばれます。
その後デイビスの仇を取るためにプリンシペ島のポルトガル居留地を襲い、停留していた船団の中でも最大のものを選んで宝を強奪しました。
これを皮切りに海軍のパトロールをよそにカリブ海で強奪行為を繰り返したロバーツは、3日でイギリス船・フランス船あわせて15隻を拿捕した、彼の海賊旗を見ただけで大抵の船は逃げ出したといった逸話も多く持つカリスマ的な存在へとのし上がり、海賊となってから死ぬまでの4年足らずの間に400隻以上の帆船を捉えたといわれています。
最期は英国海軍のチャロナー・オウグル艦長との戦いで命を落とすのですが、彼の死後気力を失った部下たちは海軍に捕縛され、史上最大規模の海賊裁判が行われました。
4位 黒髭 (エドワード・ティーチ)
カリブ海最大の海賊として名をはせていたのが黒髭です。エドワード・ティーチとも呼ばれますが他にも10以上の名前を持ち、どれも偽名であると考えられています。
出自や国は当時の海賊にとって切り捨ててきたものなので、互いを苗字で呼ぶといった習慣はなく、本名はさして重要な情報ではなかったのです。
黒髭は特別残忍であったわけではないのですが、セルフプロデュースに長けていて“恐怖という名の海賊”“悪魔の落とし子”といった呼び名は今も知られています。
そのような呼ばれ方をした理由として、まず彼の特徴的な外見が挙げられます。黒髭は見る者を圧倒するような身の丈に、落ち窪んだ目、たてがみのような黒髪と長い顎髭を何本も編んでリボンで結び、闘いの場では弾薬帯に3対のピストルをさして、硝石に浸した火縄を編み込んだ毛束や帽子の下に結び付けて火を点けていました。
火縄がくすぶりながら燃えている様子はまるで地獄からの使者のようで、見る者を恐怖させたといいます。
外見同様に黒髭は気質が荒く、それはしばしば部下にも向けられました。ある時、部下と酒を飲んでいた黒髭は何の警告もなくテーブルの下で二丁の拳銃の安全装置を外して、蝋燭を消して発砲、同席していた部下は膝を撃ち抜かれて歩行困難になってしまいます。
部下達は理不尽な仕打ちに抗議をしましたが、それを黒髭は「時々こういうことをしなくちゃ、お前らも俺がどういう人間か忘れちまうだろうが」と一蹴したというのです。
荒唐無稽ではありましたが黒髭は捕虜に対する残虐な拷問は好まず、1718年にチャールストンの港を占拠した際には停泊していた船の乗組員を人質にとり医療品を要求したという話も残っています。
このことが原因で黒髭は世界から注目を集めるようになり、同年の11月に英国海軍のロバート・メイナード中尉が彼を打ち取るまでカリブ海での彼の治世は続きました。
メイナードとの闘いで黒髭は負傷し、首から泡立って噴き出す血をまき散らしながらピストルを撃ち続け、その姿はゾンビや野獣のようであったといいます。
最後に倒れた黒髭の首は証拠品としてメイナードの船の下に吊るされてヴァージニアへ運ばれ、肉を剥いでハンプトン川の河口に吊るされました。こうしてその生涯は幕を閉じたのですが、現在でもハンプトンでは“黒髭祭り”が開催されているなど、今なお人気の高い海賊でもあります。
3位 ベンジャミン・ホニゴールド
ベンジャミン・ホニゴールドは実際に海賊として活動した期間は1716年~1717年と短いものの、その間に黒髭を部下に従えてキューバ沖からアメリカ沿岸まで手あたり次第、獲物を狩ったとされています。
また、イギリスの海賊首領トマス・バロウと自ら“ニュープロヴィデンス提督”と名乗り、ニュー・プロヴィデンスに海賊共和国を設立しました。この地には有力な船長たちが集まり、酒と女が待つ海賊の天国であったといわれています。
最も武装した船を操る海賊として恐れられたホニゴールドですが、他の海賊と比べて穏やかな性格であり、降伏をした船に帽子1つを要求して人質を解放するなど、およそ海賊らしくないエピソードも持つ人物です。
これは酔った部下に帽子を海に落とされてしまったためとされていますが、ホニゴールドは必要以上の物品を民間の船から奪うことを快く思っておらず、砂糖やラム酒などだけを奪って去っていたこともあるといいます。
このような行いから略奪と金を湯水のように使う海賊生活に憧れて乗船した部下からは見切りをつけられてしまうのですが、1718年には同年の9月5日までに出頭して海賊から足を洗うと誓えば、これまでの行為は不問にするというジョージ1世の恩赦を受け入れて、やはりかつては海賊であったウッズ・ロジャーズとともにカリブ海の海賊の巣を一掃することに尽力しました。
2位 鄭 一嫂 (テイ・チー)
清の時代に活躍した史上最強の女海賊と呼ばれる鄭一嫂は、元々は娼婦の出でした。代々海賊を生業としていた鄭一族の鄭一に26歳の時に見初められ、彼のもとに嫁いでからは、海賊活動に協力するようになっていきます。
一嫂が一族に入ってから、彼らの海賊団である紅旗艦隊は200隻から600隻へと増え、1807年には広東で活動をしていた他の海賊と戦艦1700隻、5000人もの海賊からなる共同体が作られました。
同年の航海で夫が死亡した後、一嫂は艦隊のリーダーに若い捕虜のチャン・パオを指名しました。部下たちに対して的確で威厳のある指示を出せるうえ、鄭一族に対して絶対の忠誠心を持つ者から夫の後継者を選ぶ必要があったのですが、一族の鄭乙とホモセクシャルの関係から養子縁組をしている彼であれば条件を満たし、自分の地位を固める役にも立つと計算したのです。
一嫂はチャン・パオをリーダーに任命した後に彼と愛人関係を経た後に夫婦となり、実質的なリーダーとして紅旗艦隊を取り仕切っていきます。
複数の海賊の共同体をまとめるために、一嫂は鉄の掟と呼ばれる厳格な綱領を発令しました。
上司の命令に従わない者は首をはねる、いつも食料を供給してくれる村人から盗みを働いた者は極刑に処す、脱走もしくは無断欠勤をした者は片方の耳を落とす、女性の捕虜をレイプした者は極刑に処す、といった簡潔な綱領は絶対のものであり、西洋の海賊達はあまりの厳しさに驚いたともいわれています。
そして、この掟による結びつきこそが彼らの勇敢な攻撃や必死の防御、劣勢にもひるまない勇気のもとになったと西洋では考察されています。
更に一嫂は大規模な海賊連合がビジネスとして海賊活動が行えるように財政組織と軍事組織を整備し、身代金についてもレートが定められ、通行保証料の販売などで売り上げを確保できるようにしました。
こうして一嫂は巨万の富を築いた後、1810年に清政府の和解を聞き入れて35歳で紅旗艦隊を解散、寿命が尽きるまでいくつかの遊興施設を経営しながら裕福な暮らしをしたといいます。
1位 フランシス・ドレイク
“ドラゴ”(悪魔)の呼び名でも知られるフランシス・ドレイクは、イギリス出身の海賊にして海軍提督であり、イギリス人で初めて世界一周を成功させた人物でもあります。
1570年代初頭からに西インド諸島周辺やカリブ海でスペイン船やスペイン人の町を襲っていたドレイクは、1577年に11月に5隻の小型の船に146人の乗組員を乗せてイギリスのプリスマを出港して、世界一周へと挑みました。
船団はスペイン沖からアフリカ大陸西岸を南下、出会ったスペイン船やポルトガル船を襲いながら南米の東岸地域を下っていきました。
しかし南米大陸のマゼラン海峡目前までたどり着いた頃、航海の目的も行先も知らされていなかった乗組員達は不安を抱くようになり、反逆を企てる者も出てきたといいます。ドレイクはこれを厳しく処罰し、船長の威厳と何があっても前進する強い姿勢を誇示したのです。
その後もペルーで採掘した金銀を乗せた船を襲うなどしながら太平洋を横断して、1580年の9月に再びイギリスのプリスマに到着しました。この航海の間にドレイクは丁子などの香辛料を格安で大量に仕入れ、これを売りさばくことで彼の資産は60万ポンドにも膨れ上がったといいます。ちなみに当時のイギリスの国家予算が20万ポンドですので、いかに大金を手にしたかが分かります。
彼の世界一周には投資家が大勢ついていたのですが最大のスポンサーはなんとエリザベス女王で、30万ポンドの配当金を受け取った女王陛下はドレイクにナイトの称号を与えました。
そしてスペインからドレイクの海賊団の身柄引き渡しを要求された際もこれを無視、そこからイギリスとスペインは険悪になり、海賊行為の応酬も行われるようになったといいます。
1588年にはドレイクはスペインの無敵艦隊も撃破し、海賊でありながらイギリス海軍のトップの地位に就任しました。1595年にはパナマへの進軍を女王へ申し出たのですが、航海中に流行り病で死亡、遺体は鉛の棺に納められて水葬されました。
まとめ
現在も南シナ海などには海賊が存在しますが、場所が海であるというだけでやっていることは単なる窃盗や強盗に過ぎず、時に歴史を動かしたり、国のために戦ったりといったようなかつての海賊の面影は全く感じさせないものです。
例えばドレイクが配当としてエリザベス女王に渡したお金が東インド会社設立の資金になったりと、近代以前の海賊の行為は歴史の動きに関係があるものも多く、その生き方はフィクションの海賊に劣らないドラマに満ちたものでありました。