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【危険】世界最悪のテロ組織・過激派組織10選

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無関係な一般市民を巻き込む無差別なテロは、許しがたい犯罪行為であり、多くの人々にとって恐怖と嫌悪の対象です。

日本のような民主主義国家では当然否定される行為ですが、世界中にはこうした過激な暴力行為に訴えてでも、自分たちの理想や目標を実現しようと考えている勢力が存在します。

注意してニュースを見ていれば、世界各地では頻繁にこうしたテロ事件が起こっていることがわかりますし、中東で日本人が武装勢力に拘束されたり、アメリカで起きた9・11同時多発テロ事件では日本人が犠牲になるなど、日本人が巻き込まれることもあり、我々とまったく無関係な遠い世界の出来事というわけでもありません。

日本の警察や公安も東京オリンピック開催にともない、こうしたテロ行為への警戒を強めています。

現在世界には100を超えるテロ・過激派といわれる組織が存在していますが、そうした組織のなかには目的達成の手段としてテロを行ったことを否定しているものもあり、なにをもって「テロ組織」とするのか、国際的な定義はありません。

ここでは、アメリカやEU、日本の公安調査庁がテロ組織として指定しているものを中心に、過激な活動により世界に悪名を響かせるテロ・過激派組織をご紹介します。

 

アルカイダ

引用:https://www.cnn.co.jp

アルカイダはイスラム法を用いた社会統治の実現を標榜するイスラム過激派組織で、これを達成する手段として「グローバル・ジハード」を主張しています。

アルカイダとは「基盤」という意味で、1988年ウサマ・ビンラディンとイスラム神学者であったアイマン・ザワヒリの二人により創設されました。

ビンラディンはサウジアラビアの王室御用達の建設業者である「サウジ・ビンラディン・グループ」の創設者の息子でしたが、大学時代にイスラム原理主義にはまり、コーランやジハードの研究に没頭するようになります。

ソ連によるアフガニスタン侵攻が起こるとビンラディンは同地の抵抗勢力に参加し、ここでアルカイダを結成しました。

初期のアルカイダでは武闘派のビンラディンが組織の代表をつとめて組織作りや資金集めを行い、知識人であるザワヒリがテロに対する宗教的な理論構築や作戦指導などを行っていました。

やがて活動拠点を母国サウジアラビアに移したビンラディンは、アフガンからの帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑に国際テロのネットワークを構築していきます。

そんな彼の活動方針の転機となったのが1990年の湾岸戦争で、このときサウジアラビア王家がアメリカの圧力に屈して異教徒のアメリカ軍を駐留させるのを見たビンラディンは怒りと衝撃を覚え、強い反米感情を抱くようになりました。

以後、アルカイダはアメリカをメインターゲットとしていくつものテロ事件を起こすようになります。

1998年8月ケニアのナイロビにあるアメリカ大使館にトラックによる自爆攻撃を仕掛け、建物を崩壊させ、213人を殺害、4000人ともいわれる負傷者を出し、同時にタンザニアにあるアメリカ大使館にも連動した攻撃を行いました。

2000年にはイエメンのアデン湾に停泊していたアメリカ駆逐艦「コール」に対してモーターボートを用いた自爆攻撃を行い、ほかにもイエメンのホテル爆破事件やフィリピン航空機爆破事件などを起こし、映画『ブラックホーク・ダウン』で有名なソマリアにおける米軍ヘリ撃墜事件でも武装勢力の攻撃にアルカイダが関わっていたといわれています。

アルカイダの起こしたテロ事件で最も有名なものは、やはり2001年9月11日に起こった9・11同時多発テロでしょう。

これは、アルカイダのメンバーによりアメリカの旅客機4機がハイジャックされ、このうち2機がニューヨークの世界貿易センタービルに、1機がワシントンの国防総省ペンタゴンにそれぞれ突入し、もう1機はピッツバーグ郊外に墜落し、貿易センタービルは崩壊して日本人24人を含む3000人余りが死亡したもので、航空機を用いたテロ事件として世界最悪のものです。

アメリカは同時多発テロへの報復として2001年10月からアフガニスタンへの軍事作戦を行い、これによって大打撃を受けたアルカイダは500人以上のメンバーを失い、残りのメンバーもパキスタンやイランへと逃走しました。

この後もアルカイダはパキスタンで戦闘員の訓練を行いながらテロによる欧米諸国への復仇を企て、2009年にもアルカイダの指示によりニューヨークの地下鉄で自爆テロを行おうとした人間が米当局に逮捕されています。

アルカイダを凶悪なテロ組織として警戒するアメリカは空爆に掃討作戦を行い、2008年以降はアルカイダ幹部が次々と空爆により殺害されました。

そして、2011年5月、アメリカ海軍特殊部隊ネイビー・シールズはパキスタン北部の邸宅に潜伏していたビンラディンに対する強襲作戦「ネプチューン・スピア(海神の槍)作戦」を実行し、最高指導者までもが殺害されるという事態が起こります。

現在のアルカイダはザワヒリとビンラディンの長男であるハムザ・ビンラディンを指導者として活動しており、実態については不明な部分も多いのですが、組織は弱体化しているとみられています。

アルカイダはなおも声明で欧米に対するテロ活動を呼びかけていて、2017年の声明件数は過去5年間で最多であったといいますが、これは組織としての実態が衰えてきたことの裏返しなのかもしれません。

 

タリバン

引用:http://parstoday.com

タリバンはパキスタンとアフガニスタンで活動しているイスラム過激派組織です。

1979年のソ連による侵攻とその後の内戦による混乱のなかで、マドラサ(イスラム教の学校)を開いていたムハンマド・オマルによって結成されたもので、もとは20人ほどの武装グループでした。

初期にはパキスタン情報部からの支援を受けていたとされるタリバンは、南部のカンダハール州を中心に勢力を拡大し、1996年には首都カブールを制圧してアフガニスタンの大部分を支配下におき、「アフガニスタン・イスラム首長国」の樹立を宣言します。

これがいわゆるタリバン政権と呼ばれるもので、国際的にこれを承認したのはパキスタン、アラブ首長国連邦、サウジアラビアの3か国だけでした。

タリバンの統治はイスラム法に基づく厳格なもので、音楽などの娯楽を禁止したり、公開処刑など過激で残虐な行為も行われ、また、女性は学ぶことも働くことも禁止され、親族男性の同伴がなければ外出さえ許されませんでした。

また、偶像崇拝禁止を徹底するタリバンは世界遺産であるバーミヤンの仏像を破壊し、国際的な非難を浴びました。

元々、タリバンは欧米諸国への武力闘争を目的とした組織ではありませんでしたが、1996年にアルカイダの指導者オサマ・ビンラディンを迎え入れたことでその方針が徐々に変化し、欧米諸国に挑戦的な声明を行うようになります。

一方アルカイダもタリバンの庇護下に入り、ナンバー2のザワヒリがオサマ・ビンラディンを「オマルの一兵卒」と表現し、アルカイダは歴代のタリバン指導者に忠誠を誓っています。

2011年にビンラディンが殺害されたときにはタリバンが追悼声明を出しました。

アメリカや国連は再三に渡りビンラディンを引き渡すよう要求しましたが、タリバンはこれをすべて拒否し、結果としてアルカイダが9・11テロを起こすと、アメリカによるアフガニスタン攻撃を招くことになりました。

10月に攻撃が開始されると、11月にはカブールが制圧され、12月には最後の拠点であるカンダハールが陥落、タリバン政権は崩壊します。

しかし、ムハンマド・オマルら幹部は逃走し、国を追われたタリバンは今度はテロリストとして武力闘争を開始し、自爆攻撃などを多発させていきます。

アフガニスタン東部から南部を中心に、市民を巻き込む自爆テロや大使館、政府施設などを襲撃し、刑務所を攻撃してタリバン戦闘員を脱走させる事件も起こしています。

特に自動車爆弾を用いたテロを積極的に行っており、2008年のパキスタンで起きたトラックによる自爆テロでは110人以上が死亡し、200以上の負傷者を出しました。

2016年におけるタリバンによる自動車爆弾テロが発生件数でイスラム国(384件)に次ぐ世界第2位の261件となっていて、パキスタンのタリバン組織「パキスタン・タリバン運動(TTP)」の100件を加えると世界一の規模になります。

タリバンは冬季にはテロ活動が低調となりますが、気候が安定する春になると特定の作戦名を冠する春季攻勢の開始を宣言し、テロを急増させています。

現在でもタリバンはアフガニスタン全土の13%ほどの地域を統治化においていて、ここでの徴税や麻薬の密売がおもな資金源となっていて、占領地では自爆テロ要員として難民を購入したり、住民を脅したり誘拐した子どもを洗脳するなどして無理やり組織に加入させています。

一時はアフガニスタン政府との和平協議が行われたこともありましたが、交渉はうまくいかず、2018年1月にも首都カブールで100人以上を巻き込む自動車テロを起こすなど、タリバンは現在も対決姿勢を崩していません。

 

イスラム国(ISIL)

引用:http://parstoday.com

正式名称はISIL(アイシル)、IS、ISISなどが使われます。

主にシリア、イラクを中心として活動していたイスラム過激派組織で、日本では組織自身が自称として用いていた「イスラム国」の名称のほうが知られているかもしれません。

イスラム国はもともと、アルカイダ傘下の過激派組織の一派で、アフガニスタンで義勇兵をしていたアブ・ムサブ・アル=ザルカウィによって設立された「タウヒードとジハード団」が起源となっています。

イラク戦争後に「イラクとイスラム国」に改称し、爆弾テロなど主に駐留米軍を標的とした攻撃を行っていました。

隣国の内戦に乗じてシリアでも勢力を伸ばしますが、組織の一部が「ヌスラ戦線」として分裂し、アルカイダがヌスラ戦線を支持したためイスラム国はアルカイダから破門されてしまいます。

窮地に陥ったかにみえたイスラム国ですが、今度はイラクで勢力を伸ばすことに成功し、2014年6月9日、約1000人の戦力によってイラク第二の都市モスルを制圧しました。

モスルは30000人のイラク軍に守られていましたが、質の低いイラク軍はイスラム国の攻撃の前に総崩れとなり、イスラム国はイラク軍の残していった多数の兵器と占領した市内の中央銀行から多額の資金を獲得します。

この戦利品に後押しされ、その後もイスラム国は快進撃を続け、フセイン大統領の出身地ティクリートやファルージャといったイラクの大都市を支配下に置くと、今度はシリアに侵攻し、北部のラッカをはじめとして広大な領域を支配化におきました。

モスル陥落から19日後に6月29日、このときイスラム国は制式に名称を「イスラム国」に改め、米軍の爆撃で死亡したザルカウィに代わって最高指導者となっていたアブ・バクル・アル=バグダディは7世紀に存在していたカリフ制イスラム国家の樹立を全世界に向けて宣言しました。

バグダディはバグダッドのイスラム大学出身者で、イラク戦争時に「タウヒードとジハード団」に参加するまではモスクの説教師をしており、孤独を好む内向的な人間だったといわれますが、このときのバグダディは以前の彼とは別人でした。

イスラム学の博士号をもつバグダディはイスラム国の活動をイスラム教の教義をもとに正当化する能力に長けており、ムハンマドがメッカを占領したときにも被っていたといわれる黒いターバンを身につけ、自分がムハンマドと同じクライシュ族の末裔であり、全イスラム世界の「正統な指導者(カリフ)」を自称しました。

コーランやムハンマドの言行録「ハディース」を引用しながら自分たちの行いは神によって認められたものであると演説を行うバグダディは、そのカリスマ性から「第二のビンラディン」といわれ、アメリカ国防省が1000万ドルの懸賞金をかける特別手配国際テロリストに指定されました。

バグダディは米軍に逮捕されていた時期があり、このとき収容所で知り合ったフセイン政権時代の元イラク軍人たちを幹部に登用することで、イスラム国はただのテロ組織とは一線を画する軍事のプロフェッショナル組織へと変貌し、これが快進撃の秘密でもありました。

さらに公職追放となっていた旧バース党員の元官僚たちも取り込んで統治機構を整備し、占領地では内戦で破壊されたインフラを復旧したり、住民からはザカート(喜捨)省が税金の徴収を行ったり、独自通貨「ディナール」を発行したりとまさに本物の国のように振る舞いました。

占領地の油田からとれる石油を密売し、その収益は年間600億円といわれ、その他にも人質にした外国人への身代金や麻薬の密売、中古自動車の密貿易等を収入源としていました。

イスラム国を正式な「国家」として承認した国はありませんでしたが、最盛期にはイラクからシリアにかけてイタリア半島とほぼ同じ面積の広大な土地を「領土」として支配しました。

一方で、イスラム国は7世紀のイスラム社会を手本として、イスラムの教義を住民に強要し、従わない者には鞭打ちや火炙りなどの拷問や斬首による処刑など残虐な処罰も厭わず、また、多数の外国人を拘束しては身代金を要求してこれが支払われないと彼らを処刑しました。

イスラム国には斬首を専門とする処刑人が何人も存在していたといいます。

こうした行いには、組織内の旧バース党員や元イラク軍人からも反発が上がるほどでした。

また、イスラム国の大きな特徴としてあげられるのがインターネットやSNSの積極的な活用で、TwitterやYouTubeに斬首などの残酷な動画や画像を投稿したり、ネット上でイスラム国関係の写真やコメントを共有できるオリジナルアプリ「吉報の始まり(The Dawn of Glad Tiding)」やネット機関誌「ダービク」の発行、拘束したイギリス人ジャーナリストを使って占領地や戦闘をリポートさせるネットプロパガンダ番組の配信などを行いました。

2015年1月の日本人拘束事件でも砂漠に座らされた人質2人の映像がネット上にアップされたのが記憶にあるのではないでしょうか。

こうしたSNS戦略により、中東だけでなく欧州でもイスラム系の若者を中心に「IS is cool」という一種のブームが起こり、自国の生活に不満をもつ多くの人々がジハードの義勇兵として中東に渡りイスラム国に参加しました。

また、イスラム国は義勇兵になれない人間に対して自国でのジハードへの参加を推奨していたため、世界各国でもイスラム国に触発されたテロ事件が多発しました。

2015年11月13日パリでサッカー場やロックコンサート会場が襲撃され、自爆や銃撃で130人以上が死傷する大惨事が起こり、フランスのような先進国でも安全ではないという事実は世界に衝撃を与えました。

その後も、ベルギーのブリュッセルでパリ事件の残党による爆破テロ(死者32人)やドイツ南部の野外コンサートでの爆弾テロ(死者15人)やバングラデシュのレストラン襲撃(死者22人)、イスタンブール空港のテロ事件(死者45人)などヨーロッパだけでなく世界中でイスラム国支持者によるテロが相次ぎ、イスラム国はこうしたテロの実行犯たちをダービクで英雄として称揚しました。

また、イスラム国は自動車爆弾によるテロも多く実行し、2016年7月にファルージャがイラク軍に奪還されたことへの報復として行われたバグダッドのカルラダ地区での大型トラックによるテロは死者324人、負傷者223人という自動車爆弾によるものでは史上二番目の規模の被害を出しました。

イラク軍によるイスラム国掃討作戦が本格化すると、自動車爆弾はイラク軍司令部やM1戦車に対する自爆攻撃に使用され、イスラム国ではこのために全体を装甲板で覆った自爆攻撃専用車両を製造していました。

イスラム国の進撃は2015年にアメリカの支援を受けたクルド人部隊にシリアの要衝コバニを奪還されたことで頭打ちとなり、2014年からのアメリカをはじめとする有志連合による対イスラム国「生来の決意作戦」による空爆やロシアからの空爆、アメリカに支援されたイラク軍の反撃により徐々に劣勢となっていきます。

アメリカ軍はイスラム国戦闘員のSNS投稿から部隊の居場所を割り出し、攻撃目標を決定することもあり、この戦闘においてはイスラム国のソーシャルメディアの活用が裏目に出ました。

イスラム国の石油密輸を黙認し、自らもイスラム国から石油を購入していたトルコが国際的な圧力によりとうとう密輸ルートを遮断し、イスラム国の大きな資金源が失われたことも打撃となりました。

2017年7月にはイラク軍によりモスルが奪還され、10月にはイスラム国が「首都」として宣言していたシリア北部の都市ラッカも陥落し、イスラム国は現在イラクからは完全に駆逐され、少数がシリアの山岳地帯で抵抗を続けているのみです。

幹部のほとんども空爆により死亡し、バグダディも死亡したとされ、組織はほぼ壊滅状態となっています。

ですが、2018年には革命後の政情不安が続くリビアで新たにリクルートを行っているという情報があり、断った若者を全裸にして写真を撮って脅し、無理やり組織に参加させるという非人道的なやり方で強引に組織の拡大を続けているようで、組織自体は簡単に消滅することはなく、これからもまたどこかで復活する可能性もあるかもしれません。

 

アイルランド共和軍(IRA)

引用:https://www.independent.co.uk

私たちが普段イギリスと呼んでいる国は正式名称「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」といいます。

イギリスという国はもともと4つの別々の国や地域でした。

2014年のスコットランド独立投票は記憶に新しいと思いますが、それぞれの地域に歴史的に微妙な問題をはらんでいたり、イギリスから独立しようとする勢力が存在したりします。

なかには過激な手段に訴える勢力も存在し、その代表例がアイルランドを中心に活動していたアイルランド共和軍(IRA:Irish Republican Army)です。

9・11テロ以前はハリウッド映画にもよくIRAが登場していました。

北アイルランドは、イギリスと聞いて思い浮かべるハの字型の二つの島の左側の上のほうにあり、こちら側の島をアイルランド島、右側のイギリス本土となる島をグレートブリテン島といいます。

17世紀以降イギリス本土からプロテスタントの入植者が増えた北アイルランドでは、第二次大戦後に南アイルランドが独立したときも一部がイギリス統治下にとどまりました。

しかし、北アイルランドでは3分の2を占めるプロテスタント系住民が少数派のカトリック系住民に対する政治的・経済的な差別を行ったため、カトリック系住民の不満が高まり、

IRAによる南北アイルランドの統一運動へと発展していきました。

1956年から60年代初頭にかけて「ボーダー・キャンペーン」と呼ばれるゲリラ攻撃を行いましたが、テロ攻撃は一般人からはまるで支持を得られず、完全な失敗に終わります。

これにより組織内で方針の違いから内紛が生じ、IRAは武力闘争にこだわる派閥と、政治的にアイルランドの統一を目指す派閥に分裂しました。

武力闘争を支持する一派は「IRA暫定派」として1970年代から90年代にかけて北アイルランド紛争を起こし、警察やイギリス軍、プロテスタント系武装組織に攻撃をかけました。

イギリス本土でも、1984年10月にサッチャー首相を狙って宿泊先のホテルで起こったブライトン爆弾テロでは議員やその家族など30人以上が死傷し、ほかにもロンドンの公共交通機関やシティ地区などで大規模な爆弾テロが起こり、王室や政府から民間人までもが標的となりました。

サッチャー首相は表向き強硬な対決姿勢をとりながらも、和平に向けた秘密交渉を行い、次のメージャー政権では和平合意が達成され、1994年にIRAは停戦を宣言し、その後武装解除が実施され、2005年には武装闘争の終結を宣言しました。

しかし、IRA暫定派から分離した一部の過激派が「真のIRA」「継続IRA」などという組織を名乗り、現在でも散発的なテロ活動を行っています。

 

アル・シャバーブ

引用:http://japanese.newstime.jp

アル・シャバーブはソマリアを拠点に活動している組織で、ソマリア政府の打倒とイスラム国家の樹立を目的として活動しています。

東アフリカの「アフリカの角」と呼ばれる地域に位置するソマリアは、1991年の内戦勃発以来、長いあいだ無政府状態が続き、世界一治安の悪い国といわれています。

アル・シャバーブはアルカイダに忠誠を誓い、幹部の多くがアルカイダによって訓練を受けており、約5000人の戦闘員を有しています。

アメリカの支援を受けている現在のソマリア政府を「背教政府」と非難し、ソマリア政府を支援する国連やアフリカ連合に対しても攻撃を行っています。

また、イスラム法であるシャリーアの厳守を掲げており、宗教的な罪に対する罰を厳格に守っていて、姦通を行ったとして13歳の少女を石打刑により処刑したり(実際にはこの少女はレイプ事件の被害者だったといわれています)、携帯電話を盗んだ若者に対して片方ずつの手足切断という判決を下すなど、アル・シャバーブのもとでは重く残虐な刑罰が執行されています。

2006年に首都モガディシュを占領し、ソマリア中部から南部の広大な土地を支配化としていたアル・シャバーブですが、ソマリア政府軍やエチオピア軍の攻撃、ケニア軍のソマリア派兵によりモガディシュをはじめ占領都市を失いました。

アメリカの空爆により最高指導者をムクタル・ズベイルが死亡するなど現在軍事的劣勢に立たされています。

しかし、依然としてモガディシュにおいて政府要人や国連職員が利用するホテルを襲撃するなどのテロ行為を繰り返し、最近では隣国のケニアでも活動を活発化させています。

2013年9月にはケニアの首都ナイロビのショッピングモールを襲撃。

銃の乱射や手榴弾による攻撃を行い、強行突入した兵士6人を含む67人が死亡、170人余りの負傷者を出しました。

2015年4月にはケニアの国立ガリッサ大学を襲撃して148人が死亡し79人が負傷。

さらに2017年10月にはモガディシュにおいて大型トラックによる爆弾テロを起こして358人の死者を出し、これはアル・シャバーブが反政府テロを始めて以来最大の被害規模で、アル・シャバーブがいまだに高いテロ実行能力を保持していることの証明といえます。

 

ハマス

引用:http://www.afpbb.com

ハマス(ハマース運動)はイスラム主義を掲げるパレスチナの政党で、「イスラム抵抗運動」のアラビア語の頭文字(HAMAS)から名付けられました。

カリスマ的な宗教指導者シャイク・アフマド・ヤシンによって設立され、パレスチナ人によるパレスチナ全土の奪回を目指しているため、ハマスは政党でありながら軍事部門である「エゼディン・アム・カッサム旅団」を有しています。

初期のハマスは同じくパレスチナ解放を目指す組織であり、パレスチナの多数派政党でもあったパレスチナ解放機構(PLO)と対立していて、ハマスがPLOへの対抗勢力となることを期待したイスラエルからの秘密裏の支援を受けていたともいわれます。

ハマスは、教育・医療・福祉などの分野での地道な活動を行いながら貧困層を中心に民衆の支持を集め、1993年PLOがイスラエルと和解しパレスチナ自治政府が誕生すると、イスラエルという国家自体を否定するハマスはこれに反発し、「和平粉砕」を唱えて対イスラエル強硬路線をとります。

ハマスは「殉教攻撃」と称してユダヤ市民の多く集まるバスや飲食店で自爆攻撃を行うようになり、指導者たちは自爆攻撃で死んだ者は「殉教者」として天国にいけると言って志願者を募り、無差別攻撃を繰り返しました。

これに対してイスラエルも報復を行い、2001年ごろからハマスの幹部を標的として次々と殺害する「ターゲッテド・キリング」作戦を実施し、2004年にはイスラエルのアパッチ攻撃ヘリが礼拝を終えてモスクから出てくるヤシンを待ち伏せし、ミサイル攻撃により殺害しました。

ハマスはこれに暴力の応酬でこたえ、2006年ごろからカッサム・ロケットと呼ばれる「新兵器」を大量製造して攻撃を行いイスラエル市民に不安と恐怖を与えています。

カッサム・ロケットとは水道管や金属パイプなどを特定の長さに切断し、そこに少量の爆薬と推進剤を封入した簡易な構造の手作り兵器で、金属製の簡易発射台から最大15km先まで飛ばすことができ、ハマスに協力する民家などで家内工業的に生産されています。

イスラエルは報復としてハマスの根拠地であるガザ地区への空爆、地上部隊の投入による攻撃を行っています。

2007年にPLOと対立したハマスはガザ地区を武力で制圧しており、現在に至るまでガザ地区は現在に至るまでハマスが、そしてヨルダン川西岸地域はPLOが支配するという構造が続いています。

ハマスはパレスチナ市民のあいだでは広く支持されていて、2004年のパレスチナ地方議会選挙において過半数を獲得し、さらに2006年のパレスチナ評議会選挙でも132議席中76議席を獲得するなど圧勝し、対立するまではPLOとの連立政権も運営していました。

そのため、現在でもガザ地区においてハマスのもつ影響力は大きく、彼らをテロリストと非難するイスラエルもハマスが弱体化することでさらに過激な組織が台頭してくるのは困るというのが本音であり、単にハマスを潰してしまえばいいというわけでもありません。

このように、パレスチナ自治区では微妙なパワーバランスが成り立っていて、ハマスに対しても欧州・アメリカではテロ組織として扱っていますが、エジプト・トルコ・ロシア政府などはハマス指導者との対話を行っていて、その評価は様々です。

 

ボコ・ハラム

引用:https://www.cnn.co.jp

ボコ・ハラムはアフリカのナイジェリアを活動拠点としているイスラム過激派組織で、正式名称は「宣教及びジハードを手にしたスンニ派イスラム教徒としてふさわしき者たち」です。

イスラム法シャリーアの導入を目指して武力闘争を行っており、1990年代にモハメド・ユスフによって設立された当初は「ナイジェリアのタリバン」を自称していました。

治安当局のほか、キリスト教会やボコ・ハラムに批判的なイスラム教徒、国連施設、一般市民と自分たちの気に食わないものはすべて攻撃対象としていて、市場やバスターミナルなど人の多く集まるところでの自爆テロも頻繁に行っています。

ボコ・ハラムは数千人のメンバーを擁するとされ、2015年からはイスラム国に対して忠誠を誓い「イスラム国西アフリカ州」を自称してからは支配地域を急拡大させています。

ボコ・ハラムの悪名が広く知られるようになったのはなんといっても2014年4月に起きたナイジェリアの公立中学校襲撃事件でしょう。

この事件では276名の女子学生が誘拐され、後日ビデオ声明により、彼女らをイスラム教徒に改宗させたうえで「花嫁」として売り飛ばすという奴隷宣言を行ったことは世界に衝撃を与えました。

ボコ・ハラムの残虐行為は襲撃や爆破テロにとどまらず、村や街を焼き討ちしたり、乳児をつれた母親を利用した自爆テロや占領地での殺人・拷問・強姦など留まるところを知らず、本家のイスラム国を凌ぐとまで言われる残忍さを見せ、2014年だけで6600人以上の人々がボコ・ハラムに殺害されたとされます。

こうした状況にナイジェリア政府もボコ・ハラム討伐へと動き、2015年からの掃討作戦によってボコ・ハラムは多くの占領地を失い、壊滅状態になったとされました。

しかし、2018年7月にはボコ・ハラムがナイジェリア軍の基地を襲撃し、一時的に基地を制圧、戦闘により兵士数百人の行方不明者を出すという事件を起こしており、いまだ高い戦闘能力を保持しているとみられ、その危険性は変わっていません。

 

アブ・サヤフ

引用:https://poste-vn.com

アブ・サヤフはフィリピン南部を拠点として活動するイスラム武装勢力で、フィリピン南部及びミンダナオ島および北部・中部のかつてスールー王国の支配下にあった地域にイスラム法に基づく国家を建設することを目的としています。

アブ・サヤフは1991年にアブドゥラジャク・アブバカル・ジャンジャラニによって設立され、主にキリスト教会や聖職者を標的としたテロを繰り返していました。

設立時にはビンラディンの義弟を通じてアルカイダから資金援助を受けており、アルカイダ構成員から爆弾製造の訓練も受けていたとされます。

1998年にアブドゥラジャクが治安部隊によって殺害されると、後継者を巡ってバシラン州とスールー州の二つの勢力に分裂し、このころからイスラム独立運動そっちのけで強盗や身代金目的の誘拐を繰り返すただの犯罪集団となり下がり、絶頂期には4000人ほどいた構成員も2000年ごろには100人以下にまで減少します。

2000年ごろからフィリピンの大都市で爆弾テロが相次ぐようになり、リゾート地区が襲われて外国人観光客が犠牲になる事件も発生します。

これを受けてテロとの戦いの一環としてアメリカに支援されたフィリピン政府の掃討作戦が行われると、アブ・サヤフはミンダナオ島に逃れます。

2001年にはアメリカ軍も含めたミンダナオ島のテロ組織掃討作戦が行われ、アブ・サヤフはこの戦いでほとんど壊滅したとみられていました。

しかし、アブ・サヤフは完全に消滅したわけではありませんでした。

2004年にはマニラ島の首都圏で停泊していた旅客船スーパーフェリー14号を爆破し、死者・行方不明者116人というフィリピン史上最悪のテロ事件を起こしました。

現在のアブ・サヤフはなおもバシラン州とスールー州の二つに分かれていて、スールー州側の活動は主に身代金目的の誘拐ですが、バシラン州のほうは2014年にイスラム国の指導者バグダディに忠誠を誓い、フィリピン軍に対する攻撃を繰り返しています。

2017年5月にはイスラム国の黒い旗を掲げた1000人を超えるアブ・サヤフの戦闘員が南ラナオ州のマラウィを制圧し、結果的には撃退されたものの、奪還しようとしたフィリピン軍との間で激しい市街戦を繰り広げて、軍や民間人にも多数の死傷者を出しています。

 

ヒズボラ

引用:https://www.newsweekjapan.jp

ヒズボラは、レバノンにおいてイスラエルの殲滅を掲げて活動を行うイスラム教シーア派の武装・政治組織です。

ヒズボラは武装組織であるだけでなく政党でもあり、他党とも連携してレバノンでは政治活動も行っていて、2018年には連立派閥がレバノン議会で過半数を獲得するなど政治的な影響力も強めています。

レバノンはイスラエルとシリアに挟まれた地中海に面する中東の国家で、第二次大戦中に独立を果たすと、順調な経済発展を続けていました。

しかし、イスラエルの独立に伴い、多くのパレスチナ難民が流入し、2度にわたる内戦が生じます。

これに乗じてパレスチナの独立派組織PLOの戦闘部隊がレバノンに侵入、レバノン国内からイスラエルを攻撃するようになります。

これをみたイスラエルはレバノンに地上部隊を投入し、南部にあるPLOの拠点を直接潰さなければイスラエル北部の安全は確保できないと考えるようになります。

1982年6月6日午前11時、「ガリラヤのための平和作戦」と名付けられたイスラエル軍による大規模なレバノン侵攻作戦が開始されます。

作戦は順調に進み、8日目にはレバノン南部のPLO拠点はほぼ粉砕されました。

しかし、イスラエルと協力関係にあった民兵組織がリーダーをテロによって殺害された報復にパレスチナ難民キャンプで民間人を虐殺するという事件が発生。

さらには、国連決議によりただちにレバノンから撤退するよう勧告を受けたにも関わらず、イスラエルは首都ベイルートとレバノン南部への駐留を続け、レバノン国民はイスラエルに対する激しい怒りと敵意を燃やしていました。

なかでも、イスラエル侵攻で特に大きな被害を受けたレバノン南部に住むイスラム教シーア派の人々は、イラン・シリアからの援助を受け、ついには「ヒズボラ(神の党)」という新たな過激派組織を結成してイスラエルに対する攻撃を開始しました。

1982年11月にレバノン国内のイスラエル司令部に対する自動車爆弾テロでは、7階建ての建物が破壊されて102人が死亡し、これは自動車爆弾により100人以上の死者を出した史上初のテロ事件となりました。

さらにヒズボラはレバノンに駐留しながらイスラエルを退去させることもできない、アメリカを中心とした国連の多国籍軍に対しても怒りをぶつけました。

1983年10月ベイルートのアメリカ海兵隊宿舎に爆発物を満載したトラックが突入して大爆発を起こし、建物内にいた兵士約350人のうち7割にあたる241人が死亡する大惨事となりました。

アメリカ軍はレバノンからの撤退を決定し、ヒズボラはその後もイスラエルに対する闘争を続けます。

イスラエルに捕えられたレバノン人の解放を要求したトランスワールド航空機のハイジャック事件は乗客の解放まで17日にもおよび、29人の死者を出したアルゼンチンのイスラエル大使館への自動車爆弾テロやイスラエル軍施設に対する数々の爆弾テロ事件を起こします。

2000年にイスラエルがレバノンから撤退したあともヒズボラはイスラエルへの攻撃をやめませんでした。

2006年にはレバノン南部で大規模な軍事行動を行い、戦闘員の練度の高さや最新型の装備兵器により対戦車ミサイルでメルカバ戦車に損害を与えるなどイスラエルは苦戦を強いられることとなりました。

ヒズボラはこのころからロケット弾による攻撃を本格化させ、イスラエル領内に200発以上のロケット弾が撃ち込まれました。

さらにはレバノン沖で海上封鎖をしていたイスラエルの最新鋭コルベット「ハニット」がヒズボラの対艦ミサイル攻撃により大破炎上させられ、イスラエルに衝撃を与えました。

2006年8月には停戦が成立して現在に至っており、ヒズボラはこの戦いをイスラエルに対する「歴史的勝利」と誇示し、イスラエルの空爆で家を失ったレバノンの人々に対して1人当たり1万ドルという破格の復興支援を行いました。

自国に対する脅威を取り除くはずが、逆に新たな脅威を作り出してしまうというイスラエルにとって不本意な結果に終わったレバノン侵攻は、武力のみに頼った安全保障政策の限界を示しているといえるでしょう。

 

クルディスタン労働者党(PKK)

引用:https://blog.goo.ne.jp/aya-fs710

クルド人は人口3000万人余りといわれ、独自の国家をもたない世界最大の民族集団です。

クルディスタン労働者党はイラクを活動の拠点としてクルド人による独立国家(クルディスタン)の樹立を目指す武装集団で、以前はクルド労働者党と名乗っていました。

PKKは主に麻薬の密売を資金源としていて、規模はおよそ4000~5000人といわれています。

クルド人はトルコの人口の10~15%を占めていますが、オスマン・トルコの時代から抑圧される立場にあり、クルド語の教育は長い間認められず、過去には強制移住が行われたこともあります。

このため、PKKはこれまでトルコを主な標的としてテロ行為を行ってきました。

2007年にはトルコの首都アンカラの商業施設で自爆テロ事件(死者5人、負傷者100人以上)を起こし、2008年トルコ南東部のディヤルバクル県でトルコ軍部隊を標的とした自爆テロ(死者5人、負傷者100人以上)など、トルコ軍や警察を標的に一般市民をも巻き込むテロ行為を繰り返していて、2010年イスタンブールで起きた警官を狙った自爆テロでは32人が死亡し、うち日本人1人も犠牲となりました。

なお、PKKはテロによって民間人にまで被害者を出した場合は「クルド解放の鷹(TAK)」の組織名を語って犯行声明を出すことがあります。

これに対してトルコ軍もPKKに対して報復のための空爆を実施しており、2013年には両者のあいだに一度停戦が実現し、PKKの戦闘員がトルコ領内からイラクへと撤退をはじめましたが、その後もPKKとトルコのあいだには武力衝突が絶えず、2015年からトルコ政府は再び空爆を行い、PKKの拠点に対する攻撃も積極的におこなっています。

これに対する報復として、2015年のイスタンブールの空港での爆弾テロをはじめ、アンカラ市内やイスタンブールのサッカースタジアム、イズミル県の裁判所などで爆弾テロを続発させていて、これらはすべてTAKの名で行われています。

彼らは外国人観光客に対しても「我々のターゲットではないが、トルコはもはや安全な国ではない」と巻き込むことも厭わないような警告を発しています。

一方、現在シリアにおいてはPKKの姉妹組織である「民主統一党(PYD)」が対立するイスラム国との戦闘を優勢に進めており、地上部隊の投入を厭う欧米諸国との事実上の同盟軍のような関係になっていて、シリアにおけるクルド人地域の多くを支配下においています。

PYDはここにクルド人による自治区を建設しようとしているようですが、これには隣国のトルコが警戒を強めていて、イスラム国との戦いではPYDが支配地域を広げるのを妨害するためトルコ軍を投入し、PYDより先にイスラム国占領地域を奪還するなどしています。

トルコはいまだクルド人国家の建設を認める気などないようで、今後もクルディスタンをめぐるクルド人とトルコの確執は続いていくようです。

 

まとめ

以上、世界最悪のテロ・過激派組織をご紹介しました。

こうした組織が生まれる背景にはその国特有の歴史や宗教・民族問題、貧困など簡単には解決できない問題があり、それらをなんとかするには暴力に頼るほかないと彼らが考えてしまう事情もあります。

もちろん、無関係な人々を巻き込むテロ行為は許されるものではありません。

しかし、テロとの戦いとしてこうした組織を討伐しても、その背後にある根深い問題に手をつけない限りは過激派組織がなくなることはないでしょう。

こうした組織は、定まった活動場所をもたないため、壊滅させたようにみえても、どこか仲間を増やしいずれどこかで復活する可能性があり、また新たな組織もいくつも生まれていくため、世界からテロ・過激派組織を消滅させるのは、簡単なことではないといえます。




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