都市伝説 オカルト

【殿堂入り】有名な日本の都市伝説15選

都市伝説とは本来定まった形を持たず、人々の口から口へと『噂』として伝搬していく口伝でした。

その伝搬の過程において、元々が文章化されていないだけに様々な尾ひれがついて変遷することが大きな特徴の一つであり、そこには時代背景の移り変わりが強く反映されます。

中には早過ぎる時の流れの中で消えてしまう伝説も当然あるでしょう。

しかしその一方で、どれほど時が流れても人々の中に残り続ける『都市伝説オブ都市伝説』とでも呼ぶべき物語もあります。

今回は誰もが一度は耳にしたことがある、日本の殿堂入り都市伝説を古典から近代まで15個ご紹介します。

目次

 

都市伝説1 日本三代怨霊・平将門

引用元:https://www.travel.co.jp/guide/article/9868/

崇徳天皇、菅原道真と並ぶ日本最大怨霊の一人・平将門(たいらの まさかど)。

彼と首塚には多くの逸話が残されています。

 

『平将門の乱』勃発

時は平安、地方行政は国司の横暴により治安が悪化していた時代。

その対処として恒武平氏や清和源氏が台頭していました。

将門は平安中期の関東地方の豪族で、恒武天皇の子孫であると言われています。

引用元:http://rekishi-memo.net/heianjidai/tairanomasakado_ran_bushi.html

将門の父の死をきっかけに、一門の中では跡目争いが勃発しました。

骨肉の争いの中で将門は叔父を殺し、従弟の引き渡しを拒んだ常陸の国府をも攻撃します。

その勢いに乗り、将門は次々と他の国府への侵略戦争を始めました。

彼は関東独立を目指し自らを『新皇』と名乗り、時の朝廷と真向から戦う道を選んだのです。

 

将門の最期

こうして良くあるお家騒動に端を発した将門の戦いは国家反逆の戦いとなり、彼は『逆賊』『朝敵』と見なされ最後には藤原 秀郷(ふじわら ひでうじ)に打たれます。

首を刎ねられた将門の遺体は現・茨城県坂東市にある延命院に埋葬されましたが、首だけは平安京に運ばれ都大路の河原で晒されました。


引用元:https://cultural-experience.blogspot.com/

 

怨霊伝説、始まる!

『仕出かしたことのケジメとして首は晒すけれど、身体はちゃんとしたお寺に普通に埋葬するよ』――これは戦国時代の反逆者に対する処遇と比べれば破格の温情かと思われますが、将門的には憤懣やるかたなかったのでしょう。

将門の首は三ヵ月もの間腐ることなく晒され、ある日カっと目を見開くと『胴体と首をつないでもう一戦しよう!』と夜毎叫んで都人を恐怖に陥れました。

武士階級で初めて朝廷に対する戦乱を引き起こした男は、生首になってもスーパーアクティブです。

首だけで東に飛び去り京から遠く離れた柴崎村(現・東京都大手町付近)に落下、現地住民を震え上がらせます。

村人たちは祟りを恐れ、首塚を作って丁重に供養しました。

この首塚こそが現代にまで残る『将門塚』の最初の姿なのです。

 

現代まで残る祟り

時代は流れ流れて大正・昭和時代。

我が国は列強との戦争に関東大震災と大忙しで、大昔の武将を丁重に扱う余裕のない時代を迎えました。

非常時においては今を生きている人間が最優先、それは決して間違ったことではないのですが……三大怨霊として生首ソロ飛行歴まである将門にそういった一般常識は通じません。

以下に将門の祟りと呼ばれているものを四つほどご紹介します。

 

第一祟り 相次ぐ死傷者

最初の怪異は関東大震災で全焼してしまった大蔵省庁舎再建時に起きました。

首塚を壊して仮庁舎を建設した僅か二年の間に、大蔵大臣を始め関係者が相次いで亡くなったのです。

その数、実に14名。

もはや『偶然』で済む数字ではありません。

その他にも怪我人・病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されました。

お国の決めたお役所仕事すら力技で引っ繰り返す、さすが反逆者・将門といったところでしょうか。

 

第二祟り 大蔵省全焼再び

大量の死傷者を出した大蔵省は、将門の霊を鎮めるために毎年慰霊祭を行いました。

しかし、泥沼の第二次大戦に突入すると人も物もいよいよ窮乏し、慰霊祭も次第におざなりになっていきます。

『お国の一大事に祟りだなんのと馬鹿らしい!』という人も当然いたことでしょう。

しかし、昭和15年の大嵐の日、事件は起きました。

大蔵省に落雷、あっという間の庁舎全焼再び。

ちなみにこの年は、将門没後千年であったそうです。

これを偶然と考えるか、将門のミレニアム・サプライズと捉えるかはあなた次第です。

 

第三祟り ブルドーザー転倒事故

戦後の東京にアメリカのGHQが東京にやってきました。

外国人である彼らは平将門や首塚、祟りのことなど知りません。

彼らは駐車場を作るために将門塚の撤去工事を始めました。

すると、作業中のブルドーザーがいきなり転倒。

乗っていた運転手は亡くなってしまいました。

これも『良くある事故』なのか将門の祟りと考えるかは人それぞれということで……。

 

第四祟り 倒れる日銀行員

日本が高度成長期を迎えると、将門塚の周りの土地はごく一部を残して国によって売却されました。

この土地を買い取ったのが日銀――日本長期信用銀行です。

しかし、日銀では将門塚に面した部屋の行員が相次いで病に倒れたと言われています。

 

こうした一連の出来事を祟りと信じるかどうかはまったくの自由です。

ただ、大抵のことは科学で解決できる昨今ですら、将門塚と隣接するビルは塚に尻を向けないようにフロアレイアウトされていたり、首塚を見下ろす形で窓を作らないなどの配慮がされていると言われています。

 

将門vs成田山

平将門の乱鎮圧の際、朝廷は多くの寺社仏閣に怨霊退治の祈祷をするよう命じました。

この寺社仏閣の中に、全国的に有名な成田山新勝寺もあったのです。

そうした理由から、成田山と将門関係は相性が悪いとされています。

いずれも日本有数のパワースポットですが、参拝の際には神社同士の相性も考慮した方が良いかもしれません。

何でもかんでもとりあえず拝んどきゃオッケ!というものでもなさそうですし、個人的には『触らぬ神に祟りなし』を推しておきます。

 

 

都市伝説2 歴史から生まれた化け猫

引用元:https://tukinekodi.exblog.jp/

『鍋島の化け猫騒動』は、『東海道四谷怪談』と同様歌舞伎や浄瑠璃の演目としても知られています。

ここでは戯曲『鍋島の化け猫騒動』の概要と史実に基づく『化け猫騒動』、フィクションがリアルとして認識された経緯をご紹介します。

 

戯曲『鍋島の化け猫騒動』

物語の舞台は肥前の国(現・佐賀県)。

藩主・鍋島光茂(なべしま みつしげ)の囲碁の相手をしていた家臣・龍造寺又七郎(りゅうぞうじ またしちろう)が光茂の機嫌を損ね殺された。

息子の突然の死を知った母親も、鍋島家を恨み呪いながら短刀で喉を突き自害する。

この時に母親が流した血を舐めた飼い猫が化け猫となり、主の仇を打つため光茂の側室・お豊の方を食い殺し入れ替わった。

以来、家臣の発狂・奥女中の不審死など奇怪な事件が頻発し光茂を苦しめる。

しかし、最後には鍋島家の忠臣が化け猫を倒して佐賀藩を救った。

***

この話を見る限り、むしろ理不尽な死を賜った飼い主の敵討ちに単身挑んだ猫を応援したくなりますね。

囲碁の相手にと呼びつけておいて、ちょっと何か気に食わないからと言って斬り殺す――実話であればかなり人格に問題のあるお殿様と言わざるを得ません。

 

史実に基づく化け猫騒動

・騒動まで

猛将として知られていた龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)が島津との闘いで敗死したことから、龍造寺家の没落は始まりました。

隆信の後を継いだ政家が病弱であったため、隆信の義弟で重臣の鍋島直茂(なべしま なおしげ)が実質的な国政を担い、豊臣秀吉も政家に隠居を命じ鍋島家により多くの所領を与えます。

この地点で龍造寺家と鍋島家は主従関係でありながらパワーバランスが逆転しています。

秀吉の死後も徳川家康の承認によって鍋島家の肥前支配は続きました。

当時の当主であった政家の息子・高房(たかふさ)は名ばかりの国主という立場に絶望し、妻を刺殺してから自殺を図るも家臣に止められ一命をとりとめます。

しかし高房は精神を病んでいき、再び自殺を図った際に傷口が開き失血死しました。

高房の父・政家も心痛から生来弱かった身体を壊し、息子の後を追うように病死してしまいます。

これにより龍造寺家の本家筋は絶えたかに見え、既に政治の実権を握っていた鍋島家が正式に幕府の承認を得て肥前の国の国主となり、ここに佐賀藩が発足しました。

 

・化け猫騒動

不遇の死を遂げた高房の遺体は佐賀城下の寺に埋葬されましたが、ここからが怪異の始まりです。

『白装束を纏った高房の亡霊が馬に乗って現れ、夜中に城下を駆け巡る』

そんな噂が立つようになりました。

この話が発展し、高房が飼っていた猫が姿を変えて鍋島家に復讐を企てるも、忠臣によって退治されるという『化け猫騒動』の筋書きが出来たと言われています。

 

今も残る猫塚


引用元:https://rekijin.com/

明らかにフィクションである『化け猫騒動』ですが、佐賀県白石町の秀林寺には騒動由来とされる『猫塚』があります。

 

・塚の由来

化け猫を仕留めた忠臣は英雄となったものの、以後何故かその家は男子に恵まれず代々養子を迎え当主にしていました。

不審に思った七代目が化け猫の祟りではないかと考え、七尾の白猫の絵を描いた掛け軸を作って毎年猫供養を行ったところ、男子が産まれるようになり家系が続いたそうです。

猫塚そのものは明治初期に作られたものですが、現在もキャットフードなどをお供えする人たちが絶えません。

***

元になる歴史的諸事情・怨恨→町の人たちのある種無責任な噂→噂についていく尾ひれ→伝説の形成→時を経て作られるメモリアル(猫塚)

『鍋島化け猫猫騒動』は都市伝説というものの『始まり・経過・伝搬・定着』のステップを非常にわかりやすく踏襲した正当派都市伝説の一つと言えるでしょう。

 

 

都市伝説3 各地にあった番町皿屋敷


引用元:https://www.pinterest.jp/

『四谷怪談』に比べると若干知名度は低いかもしれませんが、夜な夜な井戸の中から現れては『いちまぁ〜い、にまぁ~い………一枚足りないぃぃ』と啜り泣く幽霊・お菊さんと言えば、大抵の日本人は何となくでも聞き覚えがあるのではないでしょうか?

ここでは番町皿屋敷の元になった物語、『神奈川県平塚のお菊さん』と『愛知県姫路のお菊さん』の歴史物語を紹介します。

 

『番長皿屋敷』概要

まずは一般的に知られている怪談『番長更屋敷』の概要を記します。

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武家屋敷に奉公に出ていた器量良しの菊。

ある時彼女は家宝である十枚セットの皿を一枚割ってしまう。

それを見た奥方は激怒して彼女を責めたが、主はそれでは手ぬるいとお菊の中指を切り落とした挙句、彼女を井戸に投げ捨げ込んで殺害(自害とするものもある)。

その後、夜な夜な井戸から『一枚、二枚……』と皿を数える女の声が聞こえるようになる。

そして、やがて奥方の産んだ子供には中指がなかった。

噂は広がり公儀の耳にも入り、屋敷の主は所領を取り上げられたものの皿数えの声は止ない。

そこで公儀は僧侶を呼んで読経を依頼した。

僧侶が読経していると『一枚二枚……』と始まる恨みの皿数え。

カウントが『八枚九枚……』となったその時、すかさず僧侶が『十枚』と付け加えると、菊の幽霊は『あら嬉しや』と言って消え去った。

 

アッサリとした物語に思えますが、家宝とはいえ皿一枚の代価として若い娘の指を切り落とし、それでも飽き足らずに自宅の井戸に投げ込むというのはかなり猟奇的ではないでしょうか。

 

平塚のお菊さんと『番町皿屋敷』

平塚にあるお菊塚

深夜のお皿数えで有名なお菊さんが、実は平塚出身であることをご存知でしょうか?

しかも物語の真偽はともかくとして、実際に女性の遺骨まで発掘されているのです。

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―平塚に伝わるお菊さんの物語―

お菊は平塚宿役人・真壁 源右衛門(まかべ げんえもん)の一人娘だった。

お菊は行儀見習いのために江戸の旗本・青山主膳(あおやま しゅぜん)の屋敷で奉公に勤めていたが、主人が恨むことあってお菊を惨殺したという。

また一説によると、主膳の家来がお菊を見初めるも彼女は言うことを聞かなかった(反抗と言うよりお断り)。

可愛さ余って憎さ百倍、家来は家宝の皿を自分で隠しておいて『お菊が失くした、盗んだ』と主膳に告げ口。

お菊は主膳により24歳にして手打ちにされる。

彼女の死骸は罪人のそれとして長持ちに詰められ、江戸から平塚宿の家族のもとに送り返された。

父親は深く悲しみ娘の遺体を先祖の墓に埋めるも、罪人の例にならい墓標は立てず代わりに栴檀の木を植えた。

***

ここまでが平塚に伝わるお話です。

そして昭和27年秋。

戦災地復興の区画整理のために真壁家の墓所も移転されることになり、空襲で焼け野原となった栴檀の下を掘ったところ女性の頭蓋骨が出て来たのです。

やや小ぶりで歯並びの整った、いわば骨格美人な頭蓋骨は小柄で器量良しであったというお菊の特徴と一致しています。

ただし、似たような『皿屋敷物語』はもっと以前からあり、また全国区各地50か所近くに散布しているため、平塚のお菊さんの物語がオリジナルかは疑わしいとする声もあります。

 

姫路のお菊さん『播州更屋敷』

平塚のお菊さんより古い時代のお菊さんが、こちら姫路の『播州更屋敷』に登場するお菊さんです。

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1504年、姫路城の城主であった小寺則職(こでら のりとも)。

小寺家を追い落とし取って代わろうと画策する青山鉄山(あおやま てつざん)。

鉄山の不審な動きを危惧した小寺家から、鉄山の動向を探り報告するよう命じられ奉公に入っていたのがお菊。

ある日いよいよ主である則食に毒を盛ろうとする鉄山を彼の息子が制止するも、父の怒りに触れた息子は幽閉されてしまう。

息子はかねてより親しくしていたお菊に事の次第を知らせ、お菊の働きもあって主家の小寺家を守ることが出来た。

しかし、この後小寺家と青山家の形勢は逆転、姫路城主の座には鉄山がつくことになる。

この時の祝宴に使うはずだった家宝の皿を、青山家の家来の一人がわざと隠してお菊に盗みの罪を擦り付けた。

その家来はお菊に懸想するも相手にされず、彼女を逆恨みしていたのだ。

哀れ家宝窃盗の濡れ衣を着せられたお菊は鉄山に松の木に吊るされ、散々に暴力を振るわれ井戸に投げ捨てられてしまった。

これ以後、井戸からは夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえてきた。

***

概要は平塚のお菊さんと大差ないのですが、松の木に括り付けて折檻死させた挙句、亡骸を家族に返すこともせずに井戸に投げ捨てているのでより惨い印象があります。

 

姫路のお菊さんの史跡

お菊神社

引用元:https://reki4.com/

お菊の仕えた小寺則職が病に臥せった時、十二所神社に詣でて則職は全快したと言います。

その後お菊は非業の死を遂げますが、彼女の霊が則職を導き鉄山一味を滅ぼしました。

則職は生前・死後に渡るお菊の忠義に報いるため、十二所神社内に祠を建て慰霊したそうです。

 

姫路城内のお菊井戸

引用元:http://www.tabian.com/

お菊が投げ込まれたとされる井戸ですが、実はこの井戸は中に横穴があり非常時における脱出用であるため、人を近寄らせないために故意に気味の悪い噂を流したという説もあります。

 

たくさんの『お菊さん』とその意味

今回は比較的有名な平塚と姫路の『お菊さん』を紹介しましたが、これらよりもさらに古い時代にも類型の物語は存在します。

そしてお菊井戸は日本のあちこちに存在し、井戸の数だけ『皿屋敷物語』も存在します。

このことから考えられることは二つあります。

一つは歌舞伎や浄瑠璃として人気になった物語故に、各地において微妙な変化をつけた『皿屋敷』が生まれたということ。

もう一つは『家宝と言えどもたかが皿一枚』の価値が、奉公女中一人の命よりも重くて当たり前の時代、日本全国で似たような話が特に珍しくもなく起きていたということ。

もし後者であるとすれば、この狭い日本の中に50か所近くもの『皿屋敷』、50人近くもの『お菊さん』がいたことになります。

皿を失くした・割った、杯を失くした・壊した、食物に不注意で針を混入させた。

主の気紛れ、家来の横恋慕、正妻の嫉妬。

どの話も現代人の感覚では『え?殺すほどの話じゃないよね?』となるものばかりです。

 

 

都市伝説4 お菊人形


引用元:http://www.nazotoki.com/

皿を数えるお菊さんの次は人形のお菊さんのお話です。

購入当初オカッパヘアだった人形が、ある日ふと気づけばスーパーロングヘアに!

一言で概要を語るならばこういうことです。

こちらも非常に古くから語り継がれている都市伝説であり、現物ありきで女性週刊誌に取り上げられ、後にかなり信憑性のある科学的考察がシッカリとなされているという点でレアなので少し詳しく紹介します。

 

二転三転の伝説

1962年、『週間女性自身』に掲載された北海道放送の馬淵豊の記事によって、お菊人形の物語は初めて世に紹介されました。

次にお菊人形が取り上げられたのは、6年後の1968年『ヤングレディ』誌上においてで、こちらの記事も馬淵豊によるものでした。

同一記者が書いた同題材の記事であるにもかかわらず、その内容にはかなりの差異があります。

髪の伸びる人形の持ち主の名前が『菊』であったり『清』であったり、人形の髪が伸びていることに気づくのが寺の住職だったり女の子の家族だったり、女の子を可愛がっていたのが兄だったり父親だったりと、その辺りはかなりグダグダです。

1970年に北海道新聞が完成形を報道したことで、お菊人形の伝説は現在伝わっている形に定着したと言えましょう。

 

完成形『お菊人形』

1970年に完成定着した物語を紹介します。

***

大正七年――北海道に住む鈴木永吉はオカッパ頭の日本人形を、当時三歳だった妹・菊子への土産として買い求めた。

菊子は人形をたいそう気に入り、とても可愛がり大切にした。

ところが菊子は翌年風邪をこじらせ、幼くして亡くなってしまう。

妹の死を深く悼んだ永吉は仏壇に人形を祀り、菊子を偲んで朝晩拝んだ。

すると、奇妙な現象が起こり始める。

人形の頭髪が少しずつ伸び始め、オカッパ髪が肩にかかるほどに伸びたのだ。

家族は『菊子の霊が乗り移った』と信じた。

昭和13年、永吉は樺太に移住。

永吉は菊子の遺骨と人形を北海道栗沢町の萬念寺に預けた。

終戦後、幸運にも故郷に戻ることの出来た永吉は寺に預けた人形と対面し驚く。

人形の頭髪が更に伸びているではないか!

やはり人形には菊子の霊が宿っているのだろうか……

***

『女性自身』版と『ヤングレディ』番がいい具合に混じりあった形に収まりました。

 

髪が伸びる科学的理由

無機物であるはずの人形の髪が、人間のように伸びるなんて有り得ない……と思うところですが、実は大いに有り得るのです。

秘密は日本人形の製法にあります。

日本人形の頭髪は頭にUの字で接着されています。

つまり、10㎝の髪の人形ならば実質20㎝以上の長さの髪を二つ折にしているということです。

このUの字を接着するニカワが古くなったり、接着の仕方が甘かったりすると徐々に頭髪がズレていきます。

ズレた頭髪は、片側が短く片側が長くなるため、髪が伸びたように見えるのです。

そのため、お菊人形の髪は伸びても倍の長さ以上にはなりません。

それ以上伸びたら抜け落ちてしまうからです。

ただし残念なことに、お菊人形は萬念寺の意向により詳細に調べることが出来ていないため、本当にこの植毛方法による理由で髪が伸びているのかは謎に包まれたままなのです。

 

 

都市伝説5 実話・累ヶ淵


引用元:http://onboumaru.com/

『四谷怪談』『番長更屋敷』と並ぶ日本三大怪談がこの『累ヶ淵』です。

ビジュアル的な派手さや知名度は低いものの、この物語は1690年出版の『死霊解脱物語聞書』に1612年〜1672年の60年間にも渡る実話として描かれているのが大きな特色です。

『聞書』とは現代風に言うとルポタージュを意味しています。

 

子殺しと妻殺しの物語

歌舞伎や落語として今も語られる、昔々の『本当の』お話。

***

舞台は茨城県常総市羽生町、法蔵寺裏手当たりの鬼怒川沿岸にある累ヶ淵。

器量が悪い上に足の不自由な娘・助を抱えたシングルマザー『すぎ』。

彼女の再婚相手は与右衛門。

与右衛門はすぎの連れ子で醜い助を酷く嫌った。

すぎもまた新しい夫の機嫌を損ねては堪らないと助を疎み、ついには我が子を鬼怒川に突き落として溺死させる。

やがてすぎと与右衛門の間に娘が産まれたが、その顔はすぎが手に掛けた助に瓜二つ。

娘の名は累(るい)であったが、村人たちは助の霊と重ねて累(かさね)と娘を呼んだ。

助の祟りなのかすぎと与右衛門は早々に世を去り、累は流れ者の男と夫婦となった(累の家は土地持ちだったから、醜くても結婚できた説あり)

しかし、この結婚は早々に無残な形で破綻する。

器量が悪く性格も面倒臭い累を疎ましく思った夫は、累を鬼怒川に突き落とし、踏みつけ、頭を押さえ首を絞めて殺害した。

そこはかつて累の異父姉・助がすぎに殺されたのと同じ場所であった。

累を殺した夫は、六人もの後妻を迎えるも累の怨念が祟ってか次々に怪死を遂げる。

ようやく六人目の後妻が娘・菊を産むも、累と助の怨霊は菊にもかわるがわる取憑いた。

この三代に跨る強烈な怨霊を調伏するために出向いたのが祐天上人(ゆうてんしょうにん)である。

祐天上人は悪霊化した累と助に戒名を与えて成仏させ、60年に及ぶ恨みの連鎖を断ち切った。

***

怨霊以前に、住民全員顔見知りであろう村の中で、隣人の殺人を薄々知りながら淡々と暮らしている普通の村人たちが恐ろしい話です。

弱い立場の女子供が殺されることが珍しくもなく、『実害がない限りよそんちのコトには関わらない』という当時の村の体質がわかる物語でもあります。

 

今も残る史跡と祟り?


引用元:https://www.twgram.me/

法蔵寺には、今も助・累・菊の三人のお墓があります。

こちらのお寺には、累曼荼羅・祐天上人が調伏に使った数珠も保管されています。

悲劇の始まりとなる子殺しに手を染めたすぎの実家跡もありますが、何もない空き地になっているそうです。

空き地の向かいで商店を営む老婆の証言によると――

・空き地は明治以降住む者がいない。

・駐車場や空き地になっていることが多い。

・東京から資材が持ち込まれて家が建ちかけたが、基礎まで作ったのに途中で中止された。

などなど、詳しいことはわからないまでも、曰く付きの土地として地域住民から見られているようです。

 

 

都市伝説6 口裂け女


引用元:https://xn--u9jv84l7ea468b.com/

昭和で最も有名な都市伝説、誰もが知っている『口裂け女』。

今更ですが、有名な都市伝説と謳う以上、彼女を外すわけにはいきません。

ロングヘアにマスクに赤いコートがトレードマークの口裂け女は、子供たちの間から広まり新聞沙汰にまでなり、親や学校が集団下校などの対策を取った本格派です。

 

出没型怪異口裂け女・概要

大きなマスクで顔を隠した長い髪の赤いコートを着た若い女性が、学校帰りの子供に『私キレイ?』と訊ねる。

『きれい』と答えると、女性は『これでも?』と言いながらマスクを外す。

するとその口は耳元まで大きく裂けている。

『きれいじゃない』と答えると、包丁や鋏で切り殺される。

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口裂け女の風貌や武器、行動には諸説あるのですが、ベースとなるのはこれ。

非常にシンプルで行動にこれと言った理由がないこと、その理不尽さが人の形をした怪異そのもので怖いとも言えます。

 

口裂け女のバリエーション

基本的には1979年に小学生の間で爆発的に噂話が広がり、彼らが夏休みに入った八月を境に急速に沈静化したと言われている口裂け女ですが、そのルーツは思いの他古く、バリエーションも豊富です。

・江戸時代

1754年美濃国郡上藩(現・岐阜県群上市八幡町)での農民一揆の後に処罰された農民の怨念が、特に犠牲者の多かった白鳥村(現・群上市)に今なお残っていて、これがいつしか妖怪伝説となり時を経て口裂け女として甦った説。

明治以前の日本の法律は農民に対して異常に厳しく、一揆で捕まれば女性と言えども酷い拷問を受けました。

グロテスクな話をすれば、生意気な口を利いた農民の女性の口を見せしめで裂く程度は充分にあり得ます。

何せ『牛裂き』だの『逆さ磔』だの『蓑踊り』がまかり通っていた時代ですから。

 

・明治中頃

滋賀県信楽に実在したおつやという女性が恋人に会うために山を越えて町へ行く際、女の一人身では何かと物騒だからと狂気のコスプレを敢行。

白装束に白粉を塗った顔、乱れ髪に蝋燭を立てた頭、三日月形に切った人参を咥えた口、更には鎌を握った手。

完全に目を合わせたら駄目な人です、これ。

口裂け女というよりは、物凄くアクティブな丑の刻参りと間違われれそうなこの話は、岐阜県にも残っているそうです。

 

・1968年

岐阜県で1968年8月18日に発生した飛騨川バス転落事故現場から白骨化した頭蓋骨が発見されました。

それを復元したところ、口が耳まで裂けていたため口裂け女はその亡霊だとする説。

白骨復元で骨格的にわかるほどの裂けっぷりということは、顔の皮一枚や肉がこそげたというレベルではないはずです。

むしろマスクで隠せるのか疑問なくらい顔面損壊していたのではないでしょうか。

 

・1970年代

大垣市で座敷牢に幽閉されていた精神病を患う女性が、口紅を顔の下半分に塗りたくり夜毎外出していたのを目撃した人が驚いたという説。

座敷牢に閉じ込めているのに夜毎外出……座敷牢がザル過ぎで意味がありません。

ただ、何らかの事情で精神を患った女性が異様なメイクをして出歩くというのは、今でも時々白塗りの方を見かけることがあるのでリアリティがあります。

そのためか、精神病と口裂け女を結びつける説はこの後も多く見られます。

 

・1990年代

整形手術や医療ミスなどの話題がテレビや週刊誌、ネット上で増えるに伴い口裂け女の噂は再燃しました。

整形手術に失敗し理性を失くし恨みと憎しみに駆られた女性が正体説です。

プチ整形が流行り、ネットが普及してかつては出回らなかったような写真や動画を誰もが自由に送受信できるようになったことが大きな理由の一つでしょう。

また、かなり荒唐無稽な印象は受けますが、CIAが噂の伝搬の仕方を調査するために流した情報説などもあります。

 

・2001年

韓国にまで噂が広がった口裂け女は、どうやら日本の統治時代から話があったようです。

日本が韓国を統治していた頃、雪の夜にマスクを下三人の女性が家を訪ねて来て『誰が一番キレイ?』と尋ねます。

一人を選ぶと残り二人に殺されてしまい、マスクを外せば三人とも口が裂けています。

口が裂けているいない以前に、知らない女三人が突然夜に家庭訪問してきて『誰が一番キレイ?』と質問してくる地点でホラーです。

こういった女性の訪問を受けたなら、無言でドアを閉めて警察に通報すべでしょう。

***

年代もルーツもここでご紹介したのはほんの一部に過ぎませんが、とりあえず口裂け女のホームグラウンドは岐阜県ということは間違いなさそうです。

一説によると、当時岐阜県で塾通いが出来るのは裕福な家の子供だけであったため、一般家庭で親が塾に行きたがる子供を諦めさせるために『夜遅くに子供が出歩くと口裂け女に襲われるよ』と脅かしたところ、想定外に子供たちが恐怖心を募らせてしまったとも言われています。

また、口裂け女は一人ではなく三姉妹説もあり、各人口の裂け方に個性があるようです。

 

対処法

噂が広まり様々な設定が口裂け女に付け加えられていくと、彼女から身を守る方法も出てきました。

・べっこう飴を与えると喜んで貪り食うから、その間に逃げる。

ボンタン飴でも可。

・ポマードと唱える、もしくは投げつける(口裂け女はポマードの臭いが嫌い)

・手に『犬』と書いて見せる/『犬が来た!』と叫ぶ。

いかにも子供が考えそうなものばかりなのが特徴です。

 

社会現象

パニックになる程怖がる子供たちのために、学校や親が集団下校を指導したことは先にも述べましたが、それ以外にも口裂け女はとんでもない事件の引き金となっています。

1979年6月、姫路在住の25歳の女性が口裂け女を模倣し、包丁を持ってうろついているところを逮捕されました。

罪状はシンプルに銃刀法違反容疑。

幸い彼女による被害は発生していませんが、子供の噂話がある意味『本物』を生んでしまった笑えない事例です。

 

 

都市伝説7 トイレの花子さん


引用元:https://aquero.livejournal.com/

口裂け女と同じくらい有名な都市伝説『トイレの花子さん』、別名『三番目の花子さん』。

小学生の間で噂が広まったことも口裂け女と同じですが、一番大きな違いは花子さんは学校に住み付いているいわば地縛霊であることです。

赤い吊りスカートに白いブラウス、オカッパに切りそろえた髪がトレードマークの花子さんには、日本全国で様々な説が囁かれています。

ここではその一部をご紹介します。

 

全国区怪異花子さん・概要

校舎の三階にあるトイレの扉をノックして、『花子さんいらっしゃいますか?』と尋ねる。

この行為を一番手前の個室から奥までそれぞれ三回ずつ行う。

すると三番目の個室から小さな声で『はい』と返事が返ってきて、そこの扉を開けると花子さんにトイレに引きずり込まれる。

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花子さんの伝説には諸説あり、地域や学校によってかなり差異があるので一律にまとめにくいのですが、一応これがもっともメジャーな花子さんの学校における活動です。

この他にも

・時間帯によって花子さんの反応が異なる。

・花子さんと遊ばないと追いかけられる。

・男子トイレにはヨースケさんがいる。

・トイレの中から血塗れの(あるいは白い)手が出て来て引きずり込まれる。

・花子さんから抽象的な質問が投げかけられ、その答えによって殺される。

・このように花子さんは日本全国の女子トイレに住んでいるが、彼女らは全員従姉妹同士である。

 

などなど、極めてバラエティに富んでいます。

学校と言う小さな閉鎖的コミュニティで、子供ならではの想像力を働かせていった結果かもしれません。

出没型の口裂け女と違って、花子さんは自分からアプローチしなければ基本安全なのですが、怖いもの見たさの心理でついやってしまうものなのです。

 

花子さんの起源

花子さんはその起源においても非常に多くのバリエーションが存在します。

1950年代に『三番目の花子さん』として登場した彼女は、1980年代から『トイレの花子さん』として一躍有名人(?)となり、1999年には映画化や漫画化までされました。

ここでは花子さんの起源とされる物語の一部をご紹介します。

 

①福島県の学校の図書館の窓から転落死した少女の幽霊。

②生前父親から酷い虐待を受けていた少女の霊。

③変質者にトイレで殺された少女の霊。

➃学校にいる時空襲で亡くなった少女の霊。

⑤心中を迫る母親から逃げて校舎三回の三番目のトイレに隠れていたが、捕まって殺されてしまった少女の霊。

 

③と⑤以外はトイレと無関係であることが特徴です。

➃に関しては、もしかしたらトイレで用を足している時に空襲にあって死亡。

子供故に自分が死んだこともわからずに、今も友達と遊びたい一心でトイレにいるのかもしれません。

 

トイレと怪異

日本には文化的にトイレと怪異を結び付ける要素が多々あります。

今ではほとんど見かけませんが、昔は汲み取り式便所(いわゆるボットン便所)が主流であり、実際幼児がトイレに落ちる事故が時折発生していたと祖父母の代の人たちは言います。

北海道などでは糞尿が凍結して剣山状態になっているため、落ちると『くさーい』では済まないため、なかなかにスリリングな場所であったそうです。

また、当時の便所は『御不浄』と呼ばれ、母屋と離れた場所に独立して設置されていたり、長く薄暗い廊下の果てにこれまた更に薄暗く存在していました。

そうした事情から子供はもとより大人ですらも、内心薄気味の悪さを禁じえない場所だったのです。

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