オカルト

実在した不老不死の男・サン=ジェルマン伯爵の謎

古来から不老不死は人々の心を惹きつけてやまないものでした。

国や時代を問わず、様々な民話にも不死の秘薬を求める話は見られますが、実在する不老不死の人間なのではないかと様々な文献に登場するのが、サン=ジェルマン伯爵です。

不死の秘薬・エリクサーを所持し、テレパシーで人の心を読み、あらゆる学問について膨大な知識を持ち、時代を超えて時の権力者の前に現れるというサン=ジェルマン伯爵。

今回はそんな謎めいたサン=ジェルマン伯爵の逸話と、実像について紹介していきます。

 

サン=ジェルマン伯爵の生い立ち

サン=ジェルマン伯爵が誕生したのはおそらく1691年、あるいは1707年と考えられており、死亡は1784年2月27日であることが確認されています。

伯爵の前半生については、ほぼ知られていません。出生については、スペインの王妃マリアナ・デ・ネオブルゴ(1667年~1740年)と、その愛人との間に生まれた私生児であるという仮説が最も有名です。

この説は、サン=ジェルマン伯爵が一時期とても資産を持っていたこと等の理由付けができることから有力視されていますが、歴史的な裏付けはありません。

伯爵本人は、自らの出身を度々ラーコーツィ家の出身であると主張していました。ラーコーツィ家はハンガリーの大貴族でしたが、フェレンツ2世(1676年~1735年)の代に、ハプスブルク家に対して独立戦争を起こして失敗し、没落した家柄です。

しかし伯爵自信が語ったこの身の上は、彼が生きている間に嘘であることが判明しています。伯爵は1774年にフェレンツェ2世の息子と称して、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯カール・アレクサンダー(1736年~1806年)に取り入ったのですが、その後にフィレンツェ2世の息子は全て他界しているという情報がカール・アレクサンダーの耳に入り、伯爵はその地を去らねばならなくなっているです。

何故サン=ジェルマン伯爵が自らの出自について虚偽の発言をしたかについては、名前が知られているものの実体のない貴族であったからではないか、と考えられています。この他にもポルトガル貴族やユダヤ系の出自であるという説もありますが、どれも歴史的な裏付けはありません。

 

謎の多い音楽家


引用:https://www.discogs.com/

サン=ジェルマン伯爵の存在が知られるようになるのは、1740年代の半ばからです。彼は少なくとも数年間はロンドンで生活していたと考えられていますが、その頃は作曲家兼ヴァイオリン奏者として生活をしていました。

この頃の伯爵はとても裕福であったようで、無報酬でイタリアの歌集を制作したり、自作の曲を出版するなど、精力的に音楽活動を行っていました。

しかしイギリス国内で反カトリックの風潮が高まると、イタリアの音楽家たちと交際をし、カトリック国であるフランス風の名前をした伯爵は、1745年に投獄されてしまいます。これを切っ掛けにイギリスを去ったと考えられていますが、彼の作品はロンドンで好評を博していたようです。1758年まで、つまり彼がイギリスを去ったのちも伯爵の楽曲は出版され続けました。

現在でもサン=ジェルマン伯爵の作曲した楽譜は入手可能で、ドイツのhaan engels社から出版されているそうです。

 

フランス社交界に現れた謎の男


引用:http://www.chateauversailles.fr/

イギリスを後にしてから、しばらく伯爵の足跡は不明となります。この時期はインドにいて修行をしていた、という説もありますが文献などは残っていません。

サン=ジェルマン伯爵が再びヨーロッパに現れたのは、1758年の春のことです。そしてその時には彼の肩書は音楽家ではなく、卓越した知識と技術を持った錬金術師となっていたのです。

実際のところ伯爵は、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、スワヒリ語、アラビア語、中国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語等、計12ヶ国語の言語を使いこなしており、自然科学についても豊富な知識を持っていました。

しかし博識さ以上に彼を神秘的な存在たらしめたのが、その外見です。推測される生まれ年から考えると、この時彼は既に50代~60代後半であったと考えられます。しかし彼の見た目は若々しく、40歳代に差し掛かっているかどうかといった印象しか与えなかったというのです。

伯爵自身自らの風貌について、若返ることはできないが若さを保つ術を心得ているという発言をしており、これに魅了された人間は少なくなかったといいます。特に彼の若さは貴族階級の婦人たちをの関心をひいたようで、フランス国王の公式の妾であったポンパドゥール夫人に大層気に入られ、そこからフランス宮廷にまでコネを作りました。

フランス国王ルイ15世への謁見が叶ったサン=ジェルマン伯爵は、自分のポケットからダイヤモンドを数粒取り出して、王に献上したといいます。そして王がこのダイヤモンドはどうしたのかと尋ねると、錬金術で生成したと答えたのです。

また別の時には、自分にはダイヤモンドの傷を消す技術があると公言したうえで、ルイ15世が所持していた傷のついたダイヤモンド(6000フラン相当)を預かり、数週間後に傷一つない綺麗な状態のダイヤモンドを王に献上したともいいます。

このような出来事を通してルイ15世は伯爵をいたく気に入り、パリの社交界に招くようになりました。社交界デビューを果たした伯爵はダイヤモンドなどのプレゼントや巧みな話術で、あっという間に貴婦人たちの人気を一身に集めるようになったとされます。

伯爵の神格化

パリの社交界に現れていた頃の伯爵の発言や逸話については、様々なものが知られています。

「自分はネブカトザネル大王の築いたバビロンの都を見たことがある(紀元前)」

「イエス・キリストのカナの婚礼に立ち会った。彼の死も見ている。」

「スペイン国王フェルディナンド5世(1474年 ~ 1504年)の大臣をしていたことがある」

「シバの女王に会ったことがある(紀元前)」

彼が若さを保つ秘薬を持っていたことから、パリの宮廷では伯爵は途方もない時間を生きているのではないか?という噂や、伯爵は何度も生まれ変わっていたのではないか?という噂話が持ち上がるようになりました。

当時の彼の様子については歴史に名を残している著名人たちも証言を残しており、稀代のプレイボーイ、ジャコモ・カサノヴァも伯爵について「非常に物知りで、いくら話を聞いていても飽きない。彼は自分は何でもできると言うが、それを納得させるだけの不思議な力があった。齢300歳を超えていると発言している点については胡散臭さを感じるが、非凡な男であるのは確かだ。」と述べています。

また、フランスの哲学者であり文学者、歴史家でもあるヴォルテールは、1760年4月にフリードリヒ2世に送った手紙の中で「彼は不死であり、全てを知る人物である」と、サン=ジェルマン伯爵のことを語っています。

一方でその頃からパリでは、伯爵のことを胡散臭いペテン師であるという見方をする者も少なからず存在しました。例えばマイロード・ガワーという芸名の物まね芸人などは、伯爵に扮して自らの年齢を大袈裟に吹聴する芸を持ちネタにしており、これが笑いを誘ったといいます。

この芸人の物まねのネタの中には、伯爵に扮して「自分は2000年以上も生きている。イエス・キリストに会った時に“気を付けないと悲惨な死を迎えることになる”と忠告してやった」と言うものもあったそうです。この言葉は後年、サン=ジェルマン伯爵が言ったことだと誤解されて伝わることもありましたが、実際は物まね芸人が伯爵を揶揄したネタだったのです。

しかし伯爵自身も何故かこれを否定することがありませんでした。そのうえ伯爵の従者にもユーモアのある人物がおり、ある人に「あなたの主人は本当にイエス・キリストと同時代を生きたのか?」と聞かれた際には、「その質問にはお答えいたしかねます。なにしろ私はあの方にお仕えして、まだ300年しか経っていないのですから」と答えていたといいます。

このようなジョークや噂話も、伯爵が若さを保つ秘薬を持っていると発言していることや実際に若く見えることなどから、伯爵自身が語った話であるとまことしやかに伝えられるようになりました。つまり、生前から神格化された存在として扱われ始めていたのです。

伯爵の存在を神秘的なものとしたのはジョークや噂話だけではなく、彼の名前を悪用しようとする者たちによっても促進されました。例えば伯爵にもらった若返りの薬が強すぎて服用した老女が胎児になってしまった、というような記述が見られる伝記も伯爵の生前に出版されています。

このように彼の名前を利用しようとする人物は後を絶たず、19世紀には伯爵の知人が書いたという回顧録が数多く出版されていました。そしてこれら全てが伯爵の存在を謎めいたものにする後押しをした、と考えらえています。

 

ルイ15世とサン=ジェルマン伯爵


引用:https://www.chambord.org/

ルイ15世に気に入られたサン=ジェルマン伯爵は、住居として当時無人であったシャンボール城を譲り受け、そこに従者とともに移り住んで王侯貴族のような暮らしをしていました。そこで伯爵は錬金術の研究や音楽、絵画などの芸術活動を行っていたといいます。

イギリスにいた頃は音楽で生計を立てていたサン=ジェルマン伯爵ですが、美術にも通じており、特に絵の具や染料の調合の腕は素晴らしく、この時代に使われていなかったような色を生み出していったそうです。また美術品や絵画への造詣も深かったため、筆致を見るだけで誰の作か言い当てることができたといいます。

しかし、このように国王の寵愛を受けてフランスでの生活を謳歌していた伯爵ですが、フランス革命が起きる頃にはこの国を後にしているのが分かっています。

理由として考えられているのが、1760年、イギリスと交戦中であったフランス政府が軍資金を借り入れるために、伯爵を裕福なユダヤ商人の元に派遣させたことです。この時、フランス政府は予定した金額を調達することのみを期待していたにもかかわらず、恐らくルイ15世からの密命により、伯爵はイギリスの同盟国であるプロイセンとの和平工作を始めてしまったのです。


引用:https://bvpa.org/

この和平工作が原因で、同盟国であるオーストリアとの関係が悪くなると判断したフランスの外務卿ショワズール公爵は、伯爵の逮捕を命じました。このことを知り身の危険を感じた伯爵は、よりによって敵国であるイギリスに亡命したといいます。

ショワズール公爵はこの伯爵の行動に激しい怒りを覚え、彼に対する中傷文をフランス語、英語、ドイツ語の新聞に掲載しました。そしてこれにより、伯爵の社会的な信用には傷がついたと予想されます。実際、この後の伯爵は放浪の身でした。

さて、国王の密命を受けたということからサン=ジェルマン伯爵は薔薇十字団の一員だったのではないか、という説が誕生したとも考えられています。薔薇十字団は17世紀の初頭のヨーロッパで存在が知られるようになった秘密結社で、不老不死による人類の救済を目的とするフリーメーソンの第18階級の団体とされています。

 

放浪生活

亡命先のイギリスで、伯爵は軟禁状態におかれました。当然イギリスでの生活に嫌気がさした彼はヨーロッパに舞い戻り、ブリュッセルで権力者に取り入ろうとします。しかし、ショワズール公爵による中傷が功を奏したのか、既に伯爵がうさんくさい山師、ペテン師であるという噂が広まっていたために、パトロンを見つけることができませんでした。

その後ロシアに向かった伯爵は1762年にエカテリーナ2世のクーデターに参加したという説もあります。しかし、これについては歴史的な裏付けはありません。

プロイセンからロシア、イタリア、そしてドイツへと伯爵は旅を続けましたが、もはや謎めいた錬金術師として彼を見てくれる貴族はいなかったといいます。

例えば伯爵のことをペテン師と呼んでいたプロイセンのフリードリヒ大王は、1777年に自らを売り込む伯爵からの手紙を受け取っ手、弟にこう言い放ちました。「金を作り出せるというのなら、自分のために金を作ればよいではないか」

一時は国王の庇護を受けて城まで貸し与えられていた伯爵ですが、放浪生活の果てにデンマークのアルトナに現れた時は、全盛期の時の輝きは見る影もないような姿であったといいます。しかしここで、彼はパトロンを見つけることに成功するのです。

それがデンマーク領シュレヴィヒ公国およびホルシュタイン公国総督であった、カール・フォン・ヘッセン=カッセルです。彼はドイツの名門であるヘッセン=カッセル家の出身で、デンマーク王女と結婚していた人物で、当時のデンマークで最も権力を持つ人物の1人でした。

そのような人物がヨーロッパ中に伝播していた伯爵の悪評を知らなかった、というのは不思議な話ですが、ヘッセン=カッセル総督はフリーメイソンのメンバーでもあったため、神秘的なことや超自然的なものへの関心が高い人物でした。そのため、自然科学や錬金術についての知識が豊富であった伯爵のことを気に入り、パトロンを申し出たのです。

 

エッカーンフェルデでの生活


引用:https://www.ndr.de

1779年にシュレスヴィヒのゴットルフ城に居を構えていた総督は、そこからほど近い港町のエッカーンフェルデに伯爵を招きました。彼の染料に関する知識を利用して、当地の陶器産業を興隆させようと考えたのです。

エッカーンフェルデは港町と言ってもとても規模が小さく、伯爵が全盛期を過ごしたパリと比べると、裏びれた、もの悲しい町でした。この地に移住した伯爵は、女性の召使を1人あてがわれて染料の研究を始めたといいます。

総督はたびたび伯爵の元を訪れ、何時間も教えを受ける程、伯爵に心酔していたといいます。というのも、この時70歳を超えていたであろう伯爵の外見は相も変わらず40代そこそこにしか見えず、若さを保つ秘薬を持っているという伯爵の言葉に総督はすっかり魅了されてしまったのです。

しかし、肝心の陶器工場の方はなかなか軌道に乗らず、それどころか伯爵はエッカーンフェルデの気候が合わなかったのか、リウマチを発症してしまいます。

勿論、博識であった伯爵は自ら薬を考案しては試していきましたが、どれも効果はありませんでした。リウマチは21世紀の現在でも根治が不可能な病気ですから、いかに博識な人物であっても対処ができなくて当然と言えます。

こうして世間を騒がせ続けたサン=ジェルマン伯爵は、1784年にこの世を去り、エッカーンフェルデの聖ニコライ教会に埋葬されました。

 

不死の男の最期

死後確認されたサン=ジェルマン伯爵の財産はごく僅かで、葬儀の代金も総督が立て替えたとされています。

ダイヤモンドを贈り物にしていた伯爵のフランス時代を知る人が見れば、実に寂しい最期です。

さて、総督は兼ねてから伯爵に神秘的な知識、特に不老不死についての知識を問うことが多くありました。

そのため自らの死期を悟った伯爵は、総督に対して自らの知識を書き記したものを残すという約束をしていました。

しかしやはりと言おうか、伯爵の遺物の中にはそのような書簡は見当たらなかったといいます。しかし総督は、これは何者かに盗まれたせいだと考えたそうです。

実際は伯爵が何も残していかなかった、晩年の評判通りのペテン師であったために遺せるものが無かった、という考え方もできます。

しかし、総督はあくまでも伯爵のことを神秘的な錬金術師と信じていたのでしょう。

伯爵の埋葬された聖ニコライ教会は町の中心地にあるものの、伯爵の墓石は1872年に嵐による記録的な高潮によって教会が被害を受けた際、流されてしまいました。

そのためか、聖ニコライ教会はヨーロッパ全土を賑やかしたサン=ジェルマン伯爵が眠る土地として観光の名物になるつもりは全くない様子で、エッカーンフェルデの街自体も伯爵に対しての関心が非常に薄いといわれています。

街中で伯爵の名前が見られるものと言えば、薬局に“サン=ジェルマン茶”という名称の下剤が販売されていることくらいで、これは薬草の知識が豊富であった伯爵が考案したレシピに基づいて作られた下剤だそうです。

 

サン=ジェルマン伯爵は本当に死んだのか?

1784年にこの世を去り、現在は流されているとはいえ墓石も建立されていたサンジェルマン伯爵。しかし、彼は没後も度々目撃情報が報告されているのです。

まず1789年、マリーアントワネットに向けて、サン=ジェルマン伯爵が送り主の手紙が届いたといいます。

これはルイ16世の退位を薦める内容のものであり、王妃は取り合わなかったことで国王共々革命派に捕らえられています。

そして翌年の1790年、フランス革命の年には、革命広場で伯爵の姿を見たという人物がいるのです。

また1815年にはナポレオンの前に赤い服をまとった伯爵が現れた、という逸話も残っています。

ちなみに生前の伯爵は黒い服を好んで着ていたとされ、これがきらびやかな服装の男性が多かったパリの社交界では、逆に人目を惹いていたそうです。

この後もイギリスのチャーチル首相の前に現れてドイツと交戦する上での心得を授けた、1984年から日本に滞在しているといった噂が絶えず、あまりにも目撃情報の時代や場所にばらつきがあることから、サン=ジェルマン伯爵はタイムトラベラーなのではないか?という都市伝説まで誕生しました。

更に自分は伯爵の生まれ変わりだと主張する人物(有名なものが上の画像のリシャール・シャンフレー)も現れました。しかしどれも真偽のほどは不明です。

 

まとめ

サン=ジェルマン伯爵の若さの秘訣ですが、彼が丸薬とパンしか口にしなかったという有名な逸話から、絶食健康法が効果的だったのではないかという指摘もあります。

また芸術的なセンスに秀でていたことから、若く見せる化粧やセルフプロデュースを心得ていたのではないか、とも考えられています。

サン=ジェルマン伯爵の正体がペテン師であったとしても非凡な才能を持っていことは間違いなく、没後200年経ってなおその存在が神聖視されるだけの魅力を持つ人物であるのも、紛れもない事実なのでしょう。

未だに新しい目撃証言が続く伯爵は、ある意味不死の存在と言えるのかもしれません。



-オカルト

Copyright© 雑学ミステリー , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.