驚異の自然現象

死者100万人超!?世界最悪の洪水・水害ランキング!

近年、日本各地で猛烈な台風や過去に類を見ない集中豪雨等による洪水被害が発生しています。

地球温暖化の影響で海面温度が上昇しており、大規模な積乱雲が発生しやすく、洪水被害は日本以外の世界各地で発生しているようです。

そこで今回は台風や集中豪雨などによる世界最悪の洪水・水害をランキング形式でご紹介します。

 

10位 サイクロン・ナルギス(死者13.8万人)


サイクロン・ナルギス(Cyclone Nargis)は、2008年4月27日にベンガル湾中央部で発生した巨大サイクロンです。

ミャンマー南西部エーヤワディ管区を中心に大雨や洪水が発生、サイクロンへの備えが少なく、社会基盤が脆弱だったこともあり死者・行方不明者は138,000人以上とされています。

国連はこのサイクロンによって150万人が深刻な被害を受けたと推計しており、その被害総額は2004年のインド洋大津波に匹敵すると言われるミャンマーの史上最悪の自然災害です。

 

9位 1991年バングラディッシュ・サイクロン(死者13.8万人)


カテゴリ5に分類されるこのスーパーサイクロンは、1991年4月29日にバングラディッシュ南東部のチッタゴン地区に上陸しました。

最大瞬間風速250km/hという猛烈な強風が町を襲い、満潮時に上陸した台風は最大6.1mの高潮を発生させコンクリートの堤防を破壊。

大規模な洪水と強風によりチッタゴンでは家屋の80~90%が破壊され、2万人が死亡しました。

バングラディッシュ全域では、約100万の家屋が破壊され、被災者は約1340万人、推計13万8000人が死亡しました。

また、作物の90%が洗い流され、多くの農場が荒廃し失業者が増加した他、チッタゴンに拠点を持つバングラディッシュ海軍と空軍も船や戦闘機が破壊されるなどの大きな被害を受けました。

 

8位 1935年長江の洪水(死者14.5万人)


中国湖南省にて1935年7月3日~7日の五日間に2回の猛烈な暴雨を含む1,000mm以上の降水量を記録しました。

6月の梅雨も例年より長かったこともあり長江が氾濫、大洪水が発生し、当時の資料によると田畑・家畜・家などが跡形もなく流されたということです。

洪水による直接的な被害に加え、疫病が発生し累計145,000人が死亡したとされています。

しかし、その後も農作物に大きな被害を受けたことによる飢饉の発生、結核や皮膚炎、マラリア、レプトスピラ症などの蔓延、自殺の増加など、深刻な後遺症を残しました。

 

第7位 2004年スマトラ島沖地震と津波(死者23万人)


2004年12月26日にインドネシア・スマトラ島沖で超巨大地震が発生。

マグニチュード9.1(または9.3)という稀に見る大地震により平均で高さ10m、最大34mもの大津波が発生し、ジェット機並みのスピード(約700km/h)とも言われる大津波がインド洋沿岸を襲いました。

インドネシアのみならず、インド洋沿岸のインド、スリランカ、タイ王国、マレーシア、モルディブ、マダガスカル、ソマリアなど東南アジア全域に加え、4500㎞以上離れたアフリカのソマリアでも9mの津波が観測され、298名の死者が出ました。

この大地震と大津波により死者・行方不明者は約23万人、被災者は500万人に達しました。

津波による被害としては、約22,000人が死亡したとされる1896年の日本での明治三陸地震、36,417人が死亡した1883年のインドネシア・クラカタウ島の噴火をはるかに超える観測史上最悪の惨事となりました。

 

6位 台風ニーナによる板橋ダム決壊 (死者23万人)


1975年にフィリピン沖で発生した台風ニーナ(昭和50年台風第3号)による板橋ダムの決壊は、世界史上最悪のダム決壊被害とされています。

湖南省一帯では1,631㎜という記録的な豪雨に襲われ、河川が急激に増水し、総貯水容量6億7500m3という巨大な板橋ダムを含む62基のダムが数時間内に次々と決壊し、約600万の建物が崩壊し、1,100万人が被災、26,000人の溺死者を出しまし、堤防の決壊により60,000万人が死亡しました。

更にその後の食糧問題や感染症等により最終的な死亡者数は231,000人に上りました。

ここまで見ると天災と思われますが、実はこれらのダムは中国政府が進めた「大躍進政策」により、突貫工事で作られた欠陥ダムであり、放水設備が殆ど無いなど、設計そのものにも大きな問題がありました。

この災害は専門家達が中国政府に対して度重なる忠告をしたにも関わらず、政府が黙殺した結果発生した人災だったと言われています。

中国政府は国家機密としてこの事故の報道を禁止してきましたが、2005年の法改正により関連データが公にされました。

しかし、死傷者数や災害範囲などのデータは改ざんされているものだとされています。

 

第5位 1737年カルカッタのサイクロン(死者30万人)


カルカッタ・サイクロンは、1737年10月7日にインド東部のカルカッタ(現コルカタ)で発生したスーパーサイクロンです。

カルカッタ南部に上陸したサイクロンは、猛烈な強風により最大10m以上の高潮を発生させ、20,000隻もの漁船を破壊し、犠牲者は沿岸部の町を中心に30万人にも上りました。

カルカッタ市内でも、嵐と洪水により、からぶき屋根と土で作られていた民家は、ほぼ全てが破壊され、20,000人だった人口の1/7にあたる約3,000人以上が命を落としたそうです。

 

第4位 1839年インドのサイクロン(死者30万人)


1839年11月25日に、インド南東部のコリンガで発生したスーパーサイクロンです。

高さ12mもの高潮が発生し、港町だったコリンガの建物は一掃され、2万隻もの船が破壊されました。

犠牲者は30万人にもおよび、生き残った人たちは壊滅状態となったコリンガの港町を放棄し、近隣の町へと移住したとされています。

 

第3位 ボーラ・サイクロン(死者30万~50万人)


ボーラ・サイクロンは1970年11月12日に東パキスタンのボーラ地方(バングラデシュ)とインドの西ベンガル州を襲った超大型のサイクロンです。

ベンガル湾沖で発生したサイクロンは勢力を強めながら北上し、カテゴリー3相当のハリケーンとなって東パキスタンに上陸しました。

サイクロンは最盛期には最低中心気圧966hPa、最大風速51m/sに達し、ベンガル湾の標高が低い島々では、高潮により潮位が最大10mも上昇したとされ、沿岸部の村々では家屋の85%が全半壊し、9000隻の沖合漁船が破壊されるなど壊滅的な被害を受けました。

ベンガル湾の沿海部はサイクロンに対して非常に脆弱であることで知られており、最も被害が大きかったタズムッディンでは人口の45%以上に上る8万人以上が命を落としました。

このサイクロンによる被害は、全体で死者30万~50万人、被災者360万人、被害総額8,640万米ドルと推定されています。

また、この時ラジオでサイクロン襲来が放送されていましたが、高潮に関する警告は無く、住民も意識していなかったそうです。

推定では該当地域住民の90%がサイクロン接近を認識していましたが、避難施設に退避したのは僅か1%ほどに過ぎなかったとされています。

その後、東パキスタンの政治指導者と国際社会は、被害発生後にパキスタン政府の救助活動が消極的だった事を激しく非難しました。

この結果、翌1971年には東パキスタンと中央政府間の政争が激化して遂にバングラデシュ独立戦争が勃発し、同年12月には第3次印パ戦争へと拡大し、結果として新国家バングラデシュが建国されることになりました。

 

第2位 黄河洪水(死者90万-200万人)


中国第2の長さを誇る黄河(全長約5,464km、河口の川幅17-18km)で発生した大洪水です。

黄河は、下流域が膨大な土砂の堆積によって周辺地域よりも川底が高くなった川であり、古来よりたびたび氾濫し、大きく流路を変えてきた歴史を持っています。

その為、黄河の治水は歴代王朝の重大な関心事の一つであり、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)には堤防を建設しました。

それ以降、数世紀にわたって、黄河流域の農民たちは堤防を拡大し氾濫を防いでいましたが、数世紀にわたる泥の堆積と、連日の大雨により1887年9月28日に河南省鄭州市(ていしゅうし)で堤防が決壊、大規模な洪水が発生しました。

その地域は、低地の平原だったため、洪水は中国北部中にすぐさま広がり、その範囲は5万km2(九州全土の面積:36,750km2)にも及んだとされています。

この大洪水による犠牲者は、死者90万人とも、死者200万人とも言われる他、数百万人が家を失い、その後の伝染病(パンデミック)と食糧不足による飢餓により、二次被害でも膨大な数の死者が出たとされています。

 

第1位 1931年中国大洪水(死者100万-400万人)


1931年中国大洪水は、中国で1931年7月~8月にかけて発生した一連の大洪水です。

記録に残っている自然災害の中では確実に史上最悪の自然災害であり、100万人~400万人もの人が亡くなったとされています。

洪水発生前の1928年~1930年にかけて中国では酷い干ばつが発生しました。1930年末の冬からは異常気象となり激しい冬の嵐に見舞われ、春の雪解けと豪雨によって川の水位が大幅に上昇していました。さらに例年は2個/年ほどしか台風が発生しない地域に、1931年7月だけで7個の台風が襲来しました。

それにより、中国・アジア最長(6300km)の河川である長江と、長江・黄河に次ぐ第三の大河である淮河(わいが)が氾濫を起こし史上最悪の大洪水となりました。

同年7月、長江沿いの4つの気象観測所が月間降水量600㎜以上という異常な数字を記録、長江と淮河の洪水は当時の中国の首都・南京市に壊滅的な被害が発生し、水死者だけで14.5万人に上りました。

さらに8月には、深夜に淮河・高郵湖(かおゆーこ)近くの堤防が決壊し、周辺民家は完全に破壊され、就寝中だった住民約20万人が水死しました。

これらの洪水により食糧不足による飢餓と、コレラやチフスといった感染症が蔓延するなど二次的な被害を受けた人の数は2500万~5000万人にも上り、数百万人が死亡しました。

 

参考 黄河決壊事件(死者100万人超)


黄河決壊事件は、日中戦争初期の1938年6月に中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で人為的に起こした黄河の氾濫です。

日本軍は日中戦争開始より中国中心部への進軍を急速に進め、1938年6月までに中国北部全域を制圧。

6月6日に河南省の中心地である開封市を占領しました。

その状況を打破するため、中国国民党軍は開封市の陥落直前に約8kmに渡って黄河の堤防破壊を行い、雨期に入る開封一帯を水没させるという強硬策を決行。

氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる11都市と4,000村の54,000km2の領域に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われていますが、この惨状の中で日本軍には犠牲者・被害共にほとんどありませんでした。

日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築き、日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万人とされています。

また、中国国民党はこの事件を「黄河決壊事件は日本軍が引き起こしたものである」と発表していたそうです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

日本では東日本大震災による津波の被害や、西日本豪雨による洪水被害が大きなニュースとなっていますが、世界の歴史をひも解くと、それらとは桁違いの被害が出た洪水が多々ありました。

地球温暖化の影響により、今後は大規模な洪水被害が増えると予想されています。

国や都道府県などは大規模な洪水が起こるたびに「想定外」と言っていますが、もはやそれは通用しません。

一刻も早く堤防補強の対策を実施し、被害を最小限に留めるための準備を整えてくれることを願うばかりです。



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