九州は廃墟の宝庫とも言える地域です。
日本の中でも大陸や南太平洋に近く、明治時代には鉱山資源の採掘や軍事施設などが数多く造られ、今も廃墟となっているのです。
ほかにも他の地域で見られるようなホテルなどももちろんあります。
今回は九州の廃墟を紹介します。
数あるものの中でもほんの一部ですが、ぜひこれをきっかけに九州の廃墟の世界を調べてみてください。
軍艦島
引用元:https://www.nagasaki-tabinet.com/
軍艦島は長崎県長崎市、長崎港の南西沖合17.5㎞に浮かぶ小さな島です。
正式名称を端島と言います。
1890年に三菱社へ売却されたことを期に海底炭鉱の採掘を目的に本格的に開発が開始され、国内初の鉄筋コンクリート造の集合住宅や小学校などの施設が作られました。
大正時代には当時の戦艦であった「土佐」に外観が似ていたために、「軍艦島」という呼称が定着しています。
生産量のピークであった1941年には43万トンもの採掘量を記録し、戦後も引き続き採掘が続き、最盛期の1960年には人口密度が当時の東京都を超えるほどだったと言われています。
しかし主要エネルギーが石炭から石油へ移り変わると軍艦島も衰退し、1974年には閉山しました。
閉山後は三菱マテリアルが所有しており、2001年に当時の高島町(現在の長崎市)へ譲り渡されました。
設備の老朽化などによって立ち入りが危険なため、一般の立ち入りは禁止されていますが、現在では観光ツアーなども組まれています。
2015年には軍艦島は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産のひとつとして、世界遺産に登録されました。
池島
引用元:https://gurutabi.gnavi.co.jp/
池島は長崎県の西彼杵半島の7㎞沖合に浮かぶ小さな島です。
1959年に三井松島産業(三井松島ホールディングス)の子会社である松島炭鉱株式会社の管轄で営業出炭を開始し、主に近隣の松島に造られた石炭火力発電所へ石炭を供給していました。
池島の石炭は電力供給という形で日本の高度経済成長を支え、最盛期には人口7700人を記録したほか島内に高層ビルなども建設されました。
2001年に閉山後は日本の石炭採掘のノウハウを海外へ伝えるための研修センターなどが作られるなどされましたが、現在は完全に廃墟となっており、島内各地に遺構を残しています。
片島魚雷発射試験場跡
引用元:https://www.travel.co.jp/
長崎県東彼杵郡川棚町の大村湾に面した土地に、旧帝国海軍の遺構である片島魚雷発射試験場跡(川棚魚雷試験場)があります。
もともとは片島という独立した島で、1918年に前身の片島発射試験場が、1942年には海を埋め立てることで半島にして川棚海軍工廠が建造されました。
この施設では主に開発された魚雷を極秘に発射し、それを島の頂上の観測所から確認することで性能の試験を行っており、合格した魚雷は佐世保鎮守府へ送られました。
戦後には多くの施設が解体されましたが、現在もアーチ状の桟橋やレンガの建築物などが残されています。
この施設は2015年に公開された細田守監督の長編アニメ映画『バケモノの子』でも使われたほか、ロックバンドflumpoolのPV撮影にも使われました。
志免鉱業所
引用元:https://y-ta.net/
志免鉱業所は福岡県糟屋郡志免町にかつて存在した炭鉱で、旧日本海軍が主導で開発を進めた「糟屋炭鉱(福岡炭田)」と言われる炭鉱郡のひとつです。
1906年ごろから新原採炭所の第五坑として開発が始まり、次第に採掘の中心として利用されるようになり、1929年には事務所が志免に移転します。
終戦後は海軍から国鉄へと経営権が移行、名称も現在の志免鉱業所へ変わります。
主要エネルギーが石炭から石油へ切り替わると業績が悪化し、1958年国鉄は志免鉱業所の売却を検討、国鉄労働組合が猛反発する「志免闘争(売山闘争)」が勃発しました。
1964年に閉山されます。
閉山後は多くの遺構が残され、特に「志免鉱業所竪坑櫓」は国の重要文化財に指定されています。
古河鉱業大峰炭鉱
引用元:https://shinreimap.com/
古河鉱業大峰炭鉱は福岡県田川郡大任町にかつて存在した炭鉱です。
古河鉱業(現在の古河機械鉱業)が経営していましたが、1944年にひとりの朝鮮人労務者が入坑前の検査で窃盗の疑いをかけられ、取り調べで暴行に遭い、死亡する事件を起こしてしまいます。
この死を聞いた朝鮮人労務者は動揺し、指導員に乱暴を働き、窓ガラスや板塀などを破壊する暴動へ発展します。
購買や劇場は火をつけられたと言われます。
大峰炭鉱は1970年に閉山、現在も選炭機やシックナー(鉱石と水分を分離させる施設)、ダイナマイト倉庫など多くの遺構が残っています。
ただ上記の暴行から、心霊スポットなどとも言われます。
力丸花ホテル
引用元:http://puquder.blog56.fc2.com/
力丸花ホテルは福岡県宮若市にある、力丸ダム湖のほとりに建つホテルの廃墟です。
近隣には「力丸十二支苑」という施設や、「力丸スケート場(力丸レークランド)」というスケート場も併設していました。
力丸十二支苑は寺院をモチーフにしたアミューズメント施設だったようで、胎内めぐりなどを楽しむことができたようです。
力丸ダムは1965年に完成、力丸花ホテルは翌年の1966年に完成しています。
そして閉業時期は不明ですが、2005年頃には既に廃業していたようです。
実は力丸ダムや力丸ダムの近くにある力丸峠などは福岡県でも有名な心霊スポットで、この力丸花ホテルも同様に心霊スポットとして名高いスポットです。
川南工業浦崎造船所
引用元:http://blog.livedoor.jp/
川南工業という会社は長崎県西彼杵郡香焼町にかつて存在したもので、1936年から1950年まで造船業務に従事していました。
元々製缶業務を行っていた経験を活かして構造を簡略化、高速生産を可能とした「戦時標準船」の開発が中心で、特に本拠の香焼島造船所では特務艦「宗谷」を建造しています。
浦崎造船所は佐賀県伊万里市にあった造船所で、元々ガラス工場の用地だったものを川南工業が取得し、輸送艦や人間魚雷「回天」の建造に利用していました。
戦後、川南工業は1950年に破産、浦崎造船所は伊万里湾重工業株式会社となりましたが1955年に閉鎖されます。
その後は廃墟として放置されていましたが、2012年に解体されています。
イノチャン山荘
引用元:https://matome.naver.jp/
イノチャン山荘はあの稲川淳二が紹介したことで有名になった佐賀県の心霊スポットです。
佐賀県神埼市神埼町にある山荘で、平屋建てと大浴場、そして管理人の住宅からなる、学生用の合宿所のようなものでした。
1962年から1965年頃に建設されたと言われ、稲川淳二の話ではある日近隣の施設で隔離されていた井上さん(通称イノチャン)が山荘に押し入り、管理人らを無差別に殺害したと言います。
そして今も殺された管理人夫妻や子どもの霊がさまよっていると言われています。
ただ実際にはイノチャンによる襲撃は明確なソースのない、都市伝説にも近い話です。
1980年代に山荘の近くに長崎自動車道が作られ、山荘がほぼ高架下になってしまったことが閉鎖の原因と見たほうが妥当です。
阿蘇観光ホテル
引用元:http://d-landscape.blog.jp/
「廃墟の女王」と言えば兵庫県神戸市にある摩耶観光ホテルですが、いわば「九州の廃墟の女王」とも言うべきものが熊本県阿蘇市長陽村(現在の南阿蘇村)にある阿蘇観光ホテルです。
阿蘇観光ホテルは別名「湯の谷温泉」とも呼ばれ、1939年に国の予算を投じて建設されました。
観光政策などの一環である、いわゆる「国策ホテル」です。
建設後すぐに戦争が勃発しましたが、戦後には駐留したアメリカ軍の保養施設として利用されるなど温泉や風光明媚な自然などで宿泊客をもてなしました。
特に1957年には昭和天皇が宿泊しています。
1964年には漏電が原因で火災が発生、3500平米が全焼しています。
1999年にはホテルを経営していた九州産業交通の経営不振によって閉業が決まり、翌2000年に閉業しました。
閉業後は心霊スポットとして有名になり、稲川淳二に紹介をされたり、ホラー映画『輪廻』のロケ地としても使われています。
卑弥呼の里
引用元:https://departure.amebaownd.com/
卑弥呼の里は熊本県阿蘇市産山村にかつて存在した複合アミューズメント施設です。
1981年に開園したもので、資料館やイベントのできるような施設、更には野球やテニスなどのグラウンド、更には「古代の館」、「祭の館」などと言われる施設などがあったようです。
1年目にはシンガーソングライターの南こうせつや伊勢正三を招いてコンサートを開いています。
卑弥呼の里では中核施設として「産山リゾートホテル」、「阿蘇やまなみ山荘」などと言われる宿泊施設を建設していたようですが、途中で工事が頓挫しています。
都井岬グランドホテル
引用元:http://koikoi2011.blog.fc2.com/
日本在来の馬として知られる「御崎馬」の産地である宮崎県串間市の都井岬に都井岬グランドホテルの跡地はあります。
客室数65、最大収容人数227人を誇る大規模ホテルで、1970年に開業しました。
1960年代、新婚旅行で宮崎県へ行くことが流行し、都井岬でもこの都井岬グランドホテルを始め、多くのホテルができました。
ただブームが終わりを迎えると観光客数が激減し、ホテルのほとんどが閉業を余儀なくされています。
都井岬グランドホテルも2000年に閉業しました。
閉業後は宮崎県でも名の知れた心霊スポットとなりましたが、特に幽霊にまつわるような話はなく、単に肝試しスポットとしてよく行かれているようです。
ダルマの里
引用元:https://xn--9oqx67ab2fnkbmy2he6h.com/
ダルマの里は宮崎県小林市の生駒高原にかつて存在したテーマパークです。
「日本一怪しい公園」として『探偵ナイトスクープ』に取り上げられたことがあるので、もしかしたら覚えている人もいるかもしれません。
自分で「怪しい」と言うように、園内にはダルマのような奇妙なオブジェがいくつも並び、独特の雰囲気を漂わせています。
最初は生駒高原の中でもより山奥にあり、「猿飛仙人村」(「笑顔だるまの里」とも)という名称だったと言われています。
しかし山奥では集客に悪影響だったために県道沿いへ移転し、「七転び八起き村」を開業しました。
そのため猿飛仙人村は「初代ダルマの里」、七転び八起き村は「2代目ダルマの里」と言われます。
移転後は地下水をくみ上げ、動力として利用する独自のアトラクションを目玉としていましたが、肝心のポンプが故障し、修理費用もかかるために再度移転します。
それがダルマの里です。
ダルマの里は2004年に閉業し、既に解体され、「みやまどり苑」というレストランでそのオブジェの一部を見ることができます。
他にも初代ダルマの里、2代目ダルマの里はまだ残っているため確認が可能です。
ダルマの里の経営をしていた城たいが氏は詩画家作家や造形作家として活動しており、現在も京都で「酒蔵たいが」を経営しています。
また城氏はダルマの里についても触れた『七転び八起きが人生だ―手造り公園「だるまの里」の物語』という著書を発表しています。
寒川集落
引用元:http://nippon-sumizumi-kanko.com/
寒川集落は宮崎県西都市にかつて存在した集落です。
古くは1597年頃にまでさかのぼることができる歴史のある村で、林業やシイタケ栽培などが村の主な産業でした。
しかし1960年以後林業や農業は壊滅したうえ住民の高齢化に伴って自家用車の普及率も低下、村外への買い物もままならない「限界集落」となってしまいます。
そこで1986年に村側が集団離村を西都市に陳情、1989年3月に住民が市営住宅へ移転したことで寒川集落の歴史が幕を閉じました。
市は寒川集落の集団離村に対し、条件として「かまどと畳を上げること」、すなわち二度と帰村しないことを条件にしたと言われています。
現在も寒川集落には寒川小中学校などの木造建築が残されています。
2007年には寒川集落をテーマに限界集落の現実を記録したドキュメンタリー映画『寒川』が製作されました。
曽木第二発電所
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曽木第二発電所は鹿児島県大口市にある水力発電所跡です。
1909年に牛尾大口金山へ電力を供給するために造られ、曽木の滝を活かして発電していました。
しかし1940年、鶴田川の治水を目的に鶴田ダムが建設され、大鶴湖へ沈没することが決まったために曽木第二発電所は閉鎖が決まりました。
その後しばらくは放置されていましたが、1999年には保存への機運が高まり、2004年には補強工事が行われます。
そして2006年には登録有形文化財に、2007年には近代化産業遺産にそれぞれ登録されました。
現在曽木第二発電所はダム湖の湖底にあり、ダムの水位が下がる5月から9日の間のみ姿を表します。
通常は立ち入り禁止ですが、夏期には特別に曽木第二発電所へ入ることができるツアーが組まれているそうです。
ムー大陸博物館
引用元:https://matome.naver.jp/
ムー大陸といえばオカルトなどで語られる、太平洋の南中央部にあったとされる大陸です。
プレートテクトニクスが定説となった今、学術的にはその存在は否定されており、当然博物館にも収蔵するようなものはありません。
しかしそんなムー大陸にまつわるB級スポットとして、かつて鹿児島県指宿市にあったのがムー大陸博物館です。
ムー大陸博物館は仏教系の新興宗教団体である「平等大慧会」が運営していた博物館で、正式な名称は「寶台寶物館」と言い、多寶佛塔という施設と共に運営されていました。
運営側の説明によると、3000万年ほど前に存在したムー大陸の一角に博物館にある寶台があったとのことで、ムー大陸にまつわるとされるオカルト的なものや、珍しい石などを展示していました。
2007年11月頃に休業中という看板を出して営業を休止、以後もそのままになっているようで、現在も完全に閉業したとも、長い休業状態にあるとも判断のつかないような状態となっているようです。
豊後森機関庫
引用元:http://kusumachi.jp/
豊後森機関庫は1934年の国鉄久大線の開通と共に完成した大型の扇型機関庫です。
大分県玖珠郡玖珠町の久大線の拠点駅である豊後森駅の東側に造られました。
国鉄久大線は1920年に建設が始まり、1933年には豊後森機関区が設けられています。
1970年には全線の無煙化が完了し、車体の前後がないディーゼル車へ移行したため車体の向きを転回させる機関庫は不要となり、1971年には機関区が撤廃、豊後森機関庫も役割を終えました。
戦時中には軍事物資を輸送するための路線としても使われ、豊後森機関庫は1945年8月4日にはアメリカ軍の戦闘機の機銃掃射によって3名が死亡したことがあります。
2001年には保存委員会が組織され、2009年には中心的な施設である機関庫と転車台が「旧豊後森機関区の関連遺産」が近代化産業遺産に、2012年には機関庫と転車台がそれぞれ「旧豊後森機関庫」および「旧豊後森機関庫転車台」として国の登録有形文化財に登録されました。
志高ユートピア
引用元:https://matome.naver.jp/
志高ユートピアは大分県別府市の志高湖湖畔にかつて存在したテーマパークです。
1968年に開園し、西日本でも唯一の本格的なレーシングカートのコースを売りにしていました。
近隣には「ラクテンチ」という遊園地があり、志高ユートピアともリフトやロープウェイでつながっていましたが、志高ユートピアはラクテンチより高めの年齢層を対象にしていたようです。
志高ユートピアには他にも巨大迷路「ランズボローメイズ」やスペースコースターなどのアトラクションがあったほか、園内でフラミンゴも飼育していました。
2003年に志高ユートピアは閉園、長く主要施設は残されていましたが、2018年には完全解体され、ソーラーパネルを置いた太陽光発電所になっているようです。
レキオリゾートホテル
引用元:http://haikyorou.pro.tok2.com/
1990年代、リゾートや「海洋博」などのイベントで沖縄へ旅行に行くブームが到来し、沖縄県ではこのブームを見越して多くのホテルが建設されました。
ですがその多くがブームの終焉と共に業績不振に陥り、閉業を余儀なくされました。
こうしたホテルは売却も進まず、予算面や権利問題から解体ができずに廃墟化が進行します。
沖縄県名護市の山中に造られたレキオリゾートホテルもそのひとつです。
レキオリゾートホテルは1988年から1993年頃に建てられたホテルで、プールなども備えた大規模なリゾートホテルでした。
「レキオ」というのは沖縄の古い名称である「琉球」がなまったもので、琉球を訪れた外国人が使っていた呼称だったと言われています。
ただし1990年代後半にレキオリゾートホテルも閉鎖、その後は管理もされず窓ガラスが破られたり落書きがされたりと荒廃しました。
現在もレキオリゾートホテルは残され、ホテル内には無数のグラフィティアートを見ることができますが、名護市の山中はハブなどが出るために立ち入りは大変危険です。
中城高原ホテル
引用元:https://okinawa-repeat.com/
1955年、沖縄県中頭郡中城村の中城城址は琉球政府文化財保護委員会によって重要文化財に指定されました。
そのため中城城址を管理する中城公園組合は観光の振興を目的に、中城城跡公園内に中城観光ホテルの建設を決定し、実業家の高良一という人に依頼しました。
1970年代前半に建設を開始し、計画では大小17棟、延べ床面積は11000㎡にも及ぶ大型の施設で、宿泊施設のほか展望台やプール、沖縄で初となる遊園地やゾウを飼育する動物園などを併設する予定でした。
本来は沖縄海洋博が開催される1975年7月20日に合わせての開業を予定していましたが、開業直前に建設していた企業が倒産し、ホテルへのアクセス道路が文化財保護区域へ設定されたことで工事が中断されます。
それ以後、中城高原ホテルは廃墟として放置されるようになり、地元の住民からは「チャイナタウン」と呼ばれるようになりました。
閉業については諸説あり、「開業前に死亡事故が起きたために開業を取りやめた」、「1972年の沖縄の返還に際して数か月だけ営業した」、「数か月だけ営業したが子どもがプールで溺死した」などという噂が流れており、心霊スポットとしても語られています。
ほかにも廃墟に不法滞在した住民と在沖縄米軍との間で銃撃戦が発生したなどという噂もあります。
中城高原ホテルが長く放置された背景には、ホテル内にある文化財や中城城址公園内に生息する希少な動物の保護などが難しいということがありましたが2019年5月には解体が決定しています。
燐鉱石貯蔵庫跡
引用元:https://www.arinoki.com/
沖縄県の沖縄本島から東、およそ360㎞先にあり、行政的には沖縄県島尻郡に属する北大東島はかつて燐鉱石の採掘事業で大きく賑わっていました。
1900年に玉置半右衛門という実業家を中心に北大東島への入植を開始、1910年には燐鉱石の露天掘りを開始しました。
当時は北大東島には行政は置かれず、玉置商会が行政を管轄していました。
通貨も独自の「大東島紙幣(玉置紙幣)」を流通させるなど完全な社有島であり、日本でも唯一の企業植民地でした。
しかし燐鉱石の採掘事業は技術力と人手不足により翌年1911年には一旦頓挫し、玉置商会は東洋精糖へ島の所有権を売却します。
燐鉱石の採掘事業が再開されたのが1918年のことです。
第一次世界大戦の勃発によって燐鉱石の価格が急騰し、東洋精糖が設備工事へ着手、翌年には燐鉱石貯蔵庫などが完成して事業が再開されます。
最盛期には本土や沖縄本島、台湾などから4000人もの出稼ぎ労働者が訪れ、年間で2万トンもの採掘量を記録しました。
戦後もGHQの管轄下で採掘事業は継続、大型機械によって採掘量は増えましたが燐鉱石の質の低下を招いたうえ、鉱床も尽きたために1950年代までに事業が終了しています。
現在はこの燐鉱石貯蔵庫に加え、トロッコや赤煉瓦造りの乾燥工場、トンネルなども残されています。
まとめ
今回は九州の廃墟を紹介しました。
九州は明治・大正期に造られた近代産業遺産も多く、廃墟として残る今も、日本の富国強兵政策の名残などを見ることができます。
歴史的に見れば戦争も続き、最終的には太平洋戦争へとつながっていく難しい時代です。
しかしそれとはまた別に九州の廃墟を訪れ、今の日本の礎を築いた人への思いを馳せてみるのもいいのではないでしょうか。