日本は記録が取れているもので紀元700年から約1300年間の歴史があります。
神話を含めるのであれば世界で最も古い国でもある日本、今回はそんな日本の歴史の謎を紹介していきたいと思います。
邪馬台国のはどこにある?
邪馬台国は弥生時代後期に日本に存在していた国です。
女性の支配者として知られている卑弥呼が治めていたとされています。
邪馬台国についての記述は中国の魏志倭人伝の中に僅かに出てくるだけです。
そのため現在でも邪馬台国の位置は分かっていません。
現在邪馬台国についてわかっていることは
帯方郡→狗邪韓国 7,000里
→対馬 1,000里
→一大國(壱岐) 1,000里(帯方郡より9,000里)
→末蘆国(唐津)1,000里
→伊都国(糸島半島)南東へ陸行 500里(帯方郡より10,500里)
→奴国 東へ陸行100里
→不弥国 東へ陸行100里
→投馬国 南へ水行20日
→邪馬台国 南へ水行10日、陸路1月
総距離帯方郡→邪馬台国 12000里
となっています。
一里は約70mとされています。昔の地名のためわかりにくいかも知れませんが、不弥国は今の福岡県ということまではわかっています。
問題はここからです。
投馬国の位置をどこに取ったとしても南へ水行10日、陸路1月を行なった場合、日本から遠く離れた赤道付近にまで到達してしまい、この記述にはなんらかの誤りがあると考えられています。これが邪馬台国の位置をいまだに特定できない原因です。
邪馬台国研究の歴史
邪馬台国の位置についての研究は江戸時代に始まりました。
江戸時代の学者「新井白石」はこの南へ水行10日、陸路1月という記述は無視して、邪馬台国という名前に注目しました。邪馬台国は「やまたいこく」と読み、この音に近い大和国「やまとのくに」が邪馬台国であると主張し、邪馬台国近畿説を唱えました。
しかし白石はその後もう一つの「やまと」を発見します。それが九州の「山門」これにより、現在でも続く邪馬台国は九州説が唱えられました。
魏志倭人伝の距離や日程についての記述について、昭和を代表するベストセラー作家である松本清張は「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」と説いています。
つまり、魏志倭人伝が全くのフィクションだとは考え難いが、実際に魏の使者が邪馬台国に行ったかどうかは疑いの余地があり、当時の日本人である倭人から伝え来たものであるとすれば、国家防衛上の理由から正確な距離や場所は教えないことも考えられます。
当時にどれくらい正確な日本の地図があったかを考えると、距離と方角をもとに推測するのは限界があると考えられています。
邪馬台国近畿説
引用 http://www7a.biglobe.ne.jp
邪馬台国近畿説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの複数の説が存在します。
この中では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が有力とされています。
邪馬台国九州説
引用 http://www7a.biglobe.ne.jp
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立しています。
邪馬台国を決定付ける証拠
未だにどこにあるのかわからない邪馬台国ですが、魏志倭人伝には邪馬台国の王に魏の王が金印を授けたと言われています。この金印が出土すれば決定的な証拠となります。しかし未だにこの金印はどこの遺跡からも発掘されていません。
平将門の呪い
平将門の怨霊は日本三代怨霊にも数えられる有名な怨霊です。
930年代、朝廷は堕落し、世の中は乱れていました。
そんな中、関東で力をつけていた平将門は反乱を起こし、国を興して自ら天皇と名乗りました。「平将門の乱」です。
しかし反乱は失敗に終わり、将門は他の豪族たちに討たれて死んでしまいます。
首を落とされ、京都で晒し首にされました。
しかしこの首、腐ることなく目を見開いたまま夜な夜な大声を上げていたそうです。
よほど無念だったのかある日とうとう、光を放って宙を舞い、失った体を求めて東の方角へ飛んで行きました。これを見た兵士の一人が弓矢でこの首を撃ち落としたところ、首は
首は何か所かに落ちたといわれています。現在の大手町は首が落ちたといわれている場所の一つです。
平将門の怨霊伝説
千代田区大手町一丁目、東京の都市の真ん中に平将門の首塚があります。
大正12年(1923)に起きた関東大震災では大手町の首塚付近に建てられていた大蔵省庁舎が全焼し、大蔵省の仮庁舎が建築のため首塚も含め取り壊されました。
その後仮庁舎は完成しましたが役人の多くが病気や怪我で苦しみ、首塚を取り壊したことによる平将門の呪いだと噂が流れました。
この平将門の呪いを恐れ大蔵省の仮庁舎を取り壊し首塚を新たに設置しますが、その後も大蔵省関係者が亡くなり、また大蔵省に落雷が落ち、2度目の炎上を大蔵省庁舎は受けてしまいました。
さらに終戦を迎えた1945年GHQが焼け野が原であった首塚周辺に、駐車場を造る計画を建てました。
しかしその工事を行っていた際、ブルドーザーに乗っていた日本人2人が車体のバランスが崩れたためブルドーザーから転落し亡くなります。
この事故も平将門の呪いだと噂されるようになりました。
そのため現在でも平将門の首塚は取り壊されることなく残されています。
本能寺の変
本能寺の変とは1582年6月21日早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件とされています。
その後光秀は中国大返しを行なった豊臣秀吉に撃たれますが、この本能寺の変には様々な説が唱えられています。
恨み説
最も一般的に信じられている説です。光秀が信長対する恨みから起こしたという説。信長が光秀の恨み買う理由としては以下のようなものが挙げられます。
1.丹波八上城の波多野氏を攻めた際、光秀は母を人質として送り、降伏すれば命を助けると約束したのにもかかわらず、信長は波多野一族の処刑を命じ、光秀の母は、殺されてしまった。
2.安土城に徳川家康がやってきたとき、接待役の光秀に不手際があったとして、信長は光秀を多数の面前でさんざん殴り倒した。
3.武田家を滅ぼしたとき、祝宴の席で光秀が「長年、骨を折ったかいがあった」との発言をした時信長が聞きとがめ、激昂して光秀をなじり、暴行に及んだ。
秀吉、光秀密約説
天下を取ろうとした秀吉と光秀があらかじめ密約していたとする説です。
織田家のナンバーワンの秀吉とナンバーツーの光秀が組んで、疎ましくなった信長を討つ計画を立て、光秀が実行した。しかし、秀吉に約束を破られてしまった。
あるいは、密約とはいかなくとも、秀吉とそれなりの連携があったというような説です。
野望説
光秀も武将なので天下がほしいと思っていました。
そんなとき信長わ、殺す絶好のチャンスが訪れ、自らの野望を果たそうとしたために謀反を起こしたという説です。
下剋上の時代でもあり有力武将でもあった光秀が天下を狙うのは当然だと、言われてみればなるほどと思わせる説です。
本願寺教如(きょうにょ)説
本願寺教如が本能寺の変の首謀者であった、という説です。
大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られています。
1580年3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結びました。
大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かいました。
教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していました。
親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。
したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれないという説です。
しかしこの説は根本的に史料解釈の誤りや曲解があると主張する歴史学者もいます。
南欧勢力黒幕説
イエズス会が信長の暗殺に関わったという説です。
イエズス会が当時もっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟でした。
そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていました。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在でした。
南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進していきました。
南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったといいます。
そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らでした。
ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になって行きました。
信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったといいます。
周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことです。
そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていきました。
そしてイエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画し、これが本能寺の変の発端になった、というものです。
結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功したました。
秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りでした。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論です。
この説は一部の学者からそもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどないと言われています。
明智光秀制度防衛説
1573年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立しました。
しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったといいます。
信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとしました。
「室町幕府」の重大な危機であったため、光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという説です。
光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功しましたが、家康を逃がしてしまいました。
その原因は、細川幽斎の裏切りです。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。
こうして山崎の戦いで光秀は敗れて、「室町幕府」は滅亡しました。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになります。
しかし信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、史料的な根拠がない。
また、細川幽斎が光秀を裏切り、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたという事に対しては根拠がないとして否定的な見解が多数を占めています。
徳川埋蔵金
引用 https://blogs.yahoo.co.jp
徳川埋蔵金は、江戸時代末期の1867年に江戸幕府が大政奉還の際に、密かに地中に埋蔵したとされる幕府再興のための軍資金です。
埋蔵金は金塊あるいは貨幣とされています。
事の発端は1868年4月に江戸城が無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していました。
ところが城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まりました。
その後、埋蔵金研究者達により徳川埋蔵金は赤城山に眠っており、以下のようなものであると定義されました。
1.幕府の将来を憂慮した大老井伊直弼により莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが企画された。
2.井伊直弼が横死した後、軍学者であった林鶴梁によって埋蔵が実施された。
3.埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両。この額の根拠は、勝海舟の日記にある「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない。」との記述が元と思われています。
4.埋蔵に際しては中国の兵法の1つである「八門遁甲」が施され、各所に偽計が張り巡らされている。
徳川埋蔵金の存在を示す証拠
徳川埋蔵金の存在を示す証拠として以下のようなものが挙げられています。
1.明治23年に源次郎の古井戸から出たとされる東照権現の黄金像と銅製の燈明皿
2.大義兵法秘図書「たいぎへいほうのひずしょ」 (明治24年 児玉惣兵衛宏則なる人物が書き残したとされる)
3.意味不明な文字や絵図が刻まれた3枚の銅板 (双永寺の床下から出たとされる)
4.直径が20メートルもある巨大な石灰の亀(二代目義治が山中で発掘したとされる)
5.亀と同じ大きさの石灰の鶴(昭和38年に亀の近くで発見したとされる)
6.萬四目上覚之帳「よろずしめあげちょう」 (源次郎が保管していたとされる)
徳川埋蔵金の真相
現在までのところ上記に述べられているような大金は発見されていません。
また埋蔵金はそもそもないとする埋蔵金架空説も唱えられているため真相は分かっておりません。
松尾芭蕉の謎
松尾芭蕉と言えば「おくのほそ道」で知られる江戸時代前期の俳諧師です。そんな松尾芭蕉には多くの謎があります。
まず、松尾芭蕉が『おくのほそみ道』内で日本を旅している時の年齢が46歳でした。
当時でいえば46歳は高齢であったのにも関わらず、松尾芭蕉は1日に48キロ歩いたとされています。毎日フルマラソンよりも長い距離を歩いていたことになります。現在ほど道路が整備されていたとは言いがたい道で、1日に48キロも歩いて旅をしていたたいうの考えられません。
また当時の日本は今ほど自由に移動できるわけではなく、幕府が各所に設置した関所を通らなければなりませんでした。また関所を通るには幕府が発行した許可書が必要で、この許可書は簡単に手に入るものではありませんでした。
松尾芭蕉服部半蔵説
これらの謎を総合的に考えて唱えられたのが松尾芭蕉服部半蔵説です。
服部半蔵は江戸幕府を開いた徳川家康に仕えていました。
徳川家康は、日本で初めてのスパイ機関である忍者部隊を作ったとされており、その長を務めていたのが服部半蔵でした。
関ヶ原の戦いに勝利して、天下を手に入れた家康は功労者の半蔵にいくつかの褒美を与えました。
今でも東京にある半蔵門はそんな服部半蔵の功績を称えて徳川家康が名付けました。
さらに家康が半蔵に、何か欲しいものはないかと聞くと半蔵は
「自由にしてほしい」
と家康に申し出ます。
それを家康は認め、服部半蔵に変わる名前として松尾芭蕉を名乗り、自由に全国を回りました。
元忍者であれば一日に48キロ進むこともでき、関所を通ることも家康の権利で可能ということになります。
松尾芭蕉の旅の目的
松尾芭蕉の旅の目的が『かごめかごめ』の唄を日本全国に広めるためだったという説があります。
『かごめかごめ』の唄といえば、
“よあけの晩に鶴と亀が滑った”
で有名な唄ですが、この唄の本当の意味が徳川埋蔵金のありかを示した唄だったという話があります。
では、徳川家康に仕えていた服部半蔵が松尾芭蕉と名乗って日本各地を旅しながらかごめかごめの唄を広めたのは何故かということになります。
それは、埋蔵金がある=徳川家に財力があることを各地の大名に示し、反乱しても無駄だと思わせるためだったからと言われています。
日本各地を旅しながらも、徳川家康の恩を忘れず、徳川家の力を全国に示すために唄を広めていたことから、松尾芭蕉の徳川家康に対する忠誠心がとても強かったということがわかります。
忠臣蔵、赤穂浪士討ち入りの真相
赤穂浪士討ち入りとは1702年12月14日から15日にかけて、47人の赤穂浪士たちが主君の仇を討つべく吉良邸に討ち入る、という事件です。
事の発端はこの前の年の3月、赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸幕府の礼式を取り仕切る高家筆頭の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を江戸城内松之廊下にて切りつけるという大事件が起きます。
浅野には即日切腹が申し渡され、赤穂藩取り潰しの沙汰が下る一方、吉良はお咎めなしという結果に終わりました。
喧嘩両成敗と言われていた当時、赤穂藩の家臣たちにとってこの判決は受け入れがたいものでした。
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭に赤穂の浪士たちは、長い時間をかけて周到に計画を練り、赤穂浪士に仇討の兆しなしと周囲が油断した頃に事を起こします。
未明、火消の扮装で雪降る中を一路吉良邸へ向かい、事前に集めた吉良邸の情報をもとに討ち入りを果たします。
赤穂浪士討ち入りの謎
一つ目の謎として何故浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけたのかという謎があります。
江戸城内で事件を起こすことがどれほどの大罪かは分かった上での行動となれば余程のことがあったと思われます。
吉良上野介が陰湿ないじめを浅野内匠頭に対して行なっていたという説もありますが、これは後から脚色されたと考えるのが妥当とされており、未だ謎のままです。
二つ目の謎として何故浅野内匠頭の赤穂藩は取り潰しの上、浅野内匠頭は切腹であったのにも関わらず、吉良上野介はお咎めなしなのかということです。
喧嘩両成敗という大原則の元、斬り付けられたとはいえ江戸城内で不祥事を起こした吉良上野介にも何らかの処罰が下るのが当時の情勢からすれば一般的です。
なぜ吉良上野介がお咎め無しなのかは未だに明らかになっていません。
三つ目の謎として吉良上野介は本当に死んだのか?ということがあります。
吉良が本当に打ち取られたのかどうか、影武者だったのではないか、との見方もあります。
浪士たちは誰も、吉良の顔を知らなかったと言われているため本当に吉良上野介を打ち取ったのかと言われています。
坂本龍馬の謎
坂本龍馬は幕末に薩長同盟を結ばせ、倒幕を後押しした重要人物であり、日本初の会社、亀山社中を作ったり、日本初の新婚旅行をしたりと様々なことで歴史に名を残していますが、謎が多い人物でもあります。
薩長同盟の謎
坂本龍馬は土佐藩を脱藩したただの浪士でした。そんな龍馬がなぜ当時犬猿の中であった薩摩藩と長州藩の中をとり持てたのか?という謎があります。
この謎については龍馬の裏にはトーマス・グラバーがいたという説があります。トーマス・グラバーは幕末に長崎にやってきた武器商人で、フリーメイソンメンバーであったとも言われています。
そしてグラバーがフリーメイソンだとするならば、坂本竜馬は上手く利用されていただけかもしれないと言われています。
坂本竜馬は、亀山社中という日本で最初の商社を設立します。
貿易をして海外から商品を調達して、それを売りさばくというもので、最初に買い付けたのが7800挺のライフル銃です。
そして軍艦ユニオン号を仕入れては長州に売却をしています。
これらの武器や軍艦を取り寄せるように仕向けたのが、グラバーだといわれています。流石の坂本竜馬とはいえ、海外とのパイプがないのにこんな大きな資金を動かせるハズが無いというのが一つの根拠とされています。
グラバーのバックアップがなければ、坂本竜馬の動きには制限がかかります。そして坂本竜馬が仲介して設立した薩長同盟の背後にも、当然グラバーの影があると考えられています。
また1863年に長州の伊藤博文や井上馨などの5人を欧州に密かに渡航させたのは、グラバーの手回しによるものということがわかっています。
実は坂本竜馬も秘密裏に渡欧していたのではないかと推測されており、そこでフリーメイソンの技術力や知識などを吸収したと言われています。
渡航から帰ってきた坂本竜馬は、それ以前とでは思想も行動力も考え方も何もかもが変わっていたという証言があるようで、明治維新への流れというのは裏でフリーメイソンが操っていたという可能性が残されています。
またグラバーがどうして日本で明治維新が発生するように、バックアップをしていたかというと、簡単にいえば「お金儲け」のためだと言いわれています。
当時のフリーメイソンは、今よりもビジネスに力を入れていたようで、グラバーも日本へは開港ビジネスの目的でやってきたと言われています。
坂本龍馬暗殺の謎
坂本龍馬は、1867年に京都の近江屋にて暗殺されてしまいます。この暗殺の犯人は今でもわかっていませんが、いくつかの説が挙げられています。
- 土佐藩説
龍馬の活躍を快く思わない藩士という説をはじめ、大政奉還の功績で名をあげた家老、後藤象二郎が、大政奉還が龍馬のアイデアだったことを隠すために殺害したなどの説があります。 - 薩摩藩説
武力で徳川幕府を討ちたかった薩摩藩としては、龍馬による大政奉還という平和的手段は、徳川の勢力を残す不本意なものであり、「龍馬は裏切り者」とみなして暗殺に至ったとする説。西郷隆盛が黒幕」という説まであります。 - 紀州藩説
龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の船が衝突した事故で、龍馬は沈没したいろは丸の賠償金を紀州藩に支払わせました。「御三家が下級武士に負け、恥をかかされた」とする紀州藩が、これを恨んで犯行に至ったという説。実際に海援隊は紀州藩を疑い、行動を起こしています。 - 幕府説
実行犯そのものが京都の警備にあたっていた京都見廻組か新選組という説が根強いことから、この説が有力とされています。特に京都見廻組だった今井信郎や渡辺篤が証言や記録で「自分たちが襲った」としており、新選組より京都見廻組の方が有力視されています。ただ暗殺に参加した人数など共通点があるものの、今井が後に証言を修正したり、現場の状況と矛盾する点などがあるとして、信憑性について賛否両論があるのも事実です。
その他にも龍馬とともに亡くなった中岡慎太郎犯人説や、そもそも暗殺場所が近江屋ではないとする説などがあります。
万人を納得させる決定的な証拠・証言がないことだけでなく、龍馬に敵が多かったことや、政局が混乱した幕末期だけに親しい人間による裏切り行為も否定できない時代背景が複雑に絡み、未だに龍馬暗殺の犯人はわかっておりません。
まとめ
今回は日本の歴史の謎を紹介してきました。
過去に起こったことなので今では残されているものから推測するしかありません。
そのわからないということが多くの人を歴史のミステリーに引き寄せるのかもしれません。