社会

東京都内の有名廃墟11選

余っている土地があれば高値で取引をされ、どこに行っても人ばかりという印象のある大都市・東京。

世界的に見てもトップクラスの人口密度を誇ることで知られる東京ですが、そんな過密都市にも長年放置されてきた廃墟がいくつかあります。

現在は取り壊されてしまった有名廃墟やいわくつきの建物も含め、東京都内の廃墟を11選紹介していきます。

 

①府中基地跡

府中基地跡は京王線東府中駅から徒歩約10分程の場所に位置する巨大な廃墟で、もともとは旧日本陸軍の燃料廠であった場所です。

建築されたのは1939年~40年の間で、旧日本陸軍の燃料本部に改編された後は石炭から人造石油を精製する研究もこの施設で行われたとされますが、思わしい成果を上げられずに計画は頓挫しています。

1945年に第二次世界大戦が終了してからは基地はまるごとアメリカ軍に接収され、その後は在日米軍の基地として機能していました。当初は軍用車両を補完するための兵器廠として使用されていましたが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると米軍第5空軍部隊の司令部が府中基地に置かれました。

さらに1960年代に入ると太平洋軍電子諜報センターが設置され、施設内では諜報要員の訓練も行われるようになり、次第に米軍の諜報活動の要と変化していきました。

しかし、周辺の都市化が進むと軍用ヘリコプターの騒音や兵士による事件、治安の低下を懸念する声が高まり、府中市は1972年に基地の返還を要求。

そして2年後の1974年の秋に旗降式が行われて基地の大部分は閉鎖、駐留部隊は多摩地域中部に位置する横田基地に移動していきました。

府中市は返還された土地を全て「平和の森」として整備する案を立てていましたが、跡地は当時の大蔵省と自衛隊、自治体とで三分割することとなり、1957年から在留していた自衛隊と米軍が使用していた通信設備も残される運びとなりました。

その後自治体用地とされた場所には学校や劇場などが次々と建設されていったのですが、大蔵省=国が保有した土地だけは開発が進まずに放置され、現在も取り残された状態です。なお、ネットには建物の中に入って撮影した写真もアップされていますが、フェンスの中に入ることは固く禁じられています。

 

②日立航空機立川変電所

日立航空機立川変電所は東京都東大和市に位置し、西武拝島急行線の玉川上水駅から徒歩5分の場所にあります。

建物自体の竣工は1938年で、軍用機のエンジンを作っていた日立航空機立川工場のための変電所でした。立川工場は日立航空機最大の規模の工場で、最盛期には1万4000人もの人が働いていたそうです。

建物は第二次大戦末期に3度に渡って連合軍の空襲に遭っており、B29による爆撃とP51とF6Fの機銃掃射にさらされました。この時の弾痕が現在でも建物の外壁に痘痕のようなへこみを残しています。

戦後は産業機械などの工場設備として使用され、1993年までは現役の変電所として稼働していましたが、それ以降は工場跡を再開発して造られた都立東大和公園内に保存されています。

引用元:https://animals.net/

戦争中にはこの建物近辺で、主に動員学徒から100名を超える死者が出たとされます。現在、日立航空機立川変電所は戦争の悲劇を伝える史跡として東大和市によって保存されており、毎月第2日曜日の午後に建物の1階部分のみ見学が可能です。詳細な公開スケジュールに関しては、東大和市郷土博物館のHPに掲載されています。

 

③旧台東区立下谷小学校

旧台東区立下谷小学校は上野駅から徒歩約5分程、台東区役所の目の前に位置する廃校です。1928年に建造されたRC造3階建て、延べ床面積4300㎡にも及ぶ豪華な校舎は、ツタが絡まる姿で現在も残されています。

この小学校は関東大震災の後に復興小学校として設立されたもので、大規模火災が起きても焼失することのないようにと堅牢なコンクリートで造られました。ちなみに震災前も、この土地には木造校舎の下谷小学校(明治19年開校)がありました。

長らく学校として使用されてきましたが、1990年に近隣地区の少子化により清島小学校と合併して下谷小学校は廃校に。台東区役所のクラブ活動や臨時用の駐車場として校庭は解放されていることがありますが、校舎内は関係者以外立ち入り禁止となっています。

2019年現在は土地の有効活用のために上野警察署がこの土地への移転を計画しており、近い将来取り壊しが予定されている廃墟の1つです。

 

④代々木会館(2019年解体中)


引用元:https://www.j-cast.com/

代々木会館は代々木駅の目の前にある地上8階、地下1階建ての複合商業施設でした。

1969年に建設され、都内の一等地にありながらパチンコ店や寿司屋、ビリヤード場、中国書の専門書店、予備校と関連性のない雑多な店が入居しており、その異様さから「代々木の九龍城」と呼ばれることもありました。

1974年に放送された萩原健一、水谷豊主演のドラマ『傷だらけの天使』にも登場した建物ですが、2011年に東日本大震災で建物が傾いてしまったこともあり、2019年6月にはビルの解体が発表されて中に入っていたテナントも全て退去しています。

2019年7月に公開された映画『天気の子』にも登場したことから気軽に行かれる廃墟として再度注目を集めているものの、8月には本格的に解体作業が始まっており、2019年内には更地になる予定です。

 

⑤八丈島オリエンタルリゾート

引用元:http://picdeer.org/

八丈オリエンタルリゾートは八丈島八丈町三根に位置する1968年に創業した巨大リゾートホテルで、設立当初は八丈ロイヤルホテルという名称でした。

この当時、海外旅行というのは庶民には手が届かないもので沖縄もアメリカの占領下にあったため、八丈島や熱海、伊豆などが新婚旅行や社員旅行の花形であり、このような大型宿泊施設を営業しても十分な利益が出ていたのです。

ロココ調を意識した豪華なつくりをしたこのホテルには、かつて国内最大級の規模を誇る宿泊施設として連日多くの宿泊客が訪れましたが、1970年代に入ると早くも客足は低下。

その後はプリシアリゾート八丈、八丈オリエンタルリゾートと名前を変えて再建を図りましたが、円高やバブルの到来と共に海外旅行が身近なものとなり、八丈島そのものが観光地として寂れて2006年に廃業となりました。

八丈島には他にも、八丈オリエンタルリゾートに並ぶ巨大宿泊施設として建設されたものの同じく経営不振で2004年に廃業となった八丈島国際観光ホテルや、温泉源が枯渇したことで廃業に追いやられた八丈島温泉ホテルなど、廃墟となったホテルが点在しています。

 

⑥旧相武病院

旧相武病院は八王子市戸吹町に位置する廃病院で、1971年に開業しました。同病院は1995年に同じく八王子市内に移転したのですが、移転した後も旧病院が取り壊されないことから心霊スポットとして人気が高まり、肝試しの名所として知られるようになりました。

かつては八王子市内にもう1つ八王子中央病院という有名な廃病院があり、この2つの入病院を目当てに県外からも若者が押し寄せてきたために、現在は旧相武病院の周囲には鉄条網が張られて防犯カメラが設置され、建物の中に入ることは固く禁じられています。

他にも同市内には駅の北側に江戸三大刑場と呼ばれた大和田刑場や、中央自動車道の小仏トンネル近くに「真の道」という水子地蔵が無数に並ぶ一画が存在し、八王子市そのものが肝試しの名所になっているという側面もあり、旧相武病院についても取り壊し計画が出る度に祟りが起きた、元は精神病院(現在の同病院には精神神経科や心療内科といった診療科はないため、単なる噂の可能性も高い)で女性の霊が出るといった噂が絶えません。

 

⑦晴海橋梁

晴海橋梁は東京メトロ有楽町線、ゆりかもめ両線の豊洲駅から徒歩約15分の場所にある廃橋です。もともとは東京都港湾局が運営していた貨物船の鉄橋で、1957年に地元・豊洲の石川島重工業が製造したという日本初のローゼ橋(アーチ形の橋の1種)で、建造された当時は大変注目を集めたと言われています。

高度成長期の時代には、国鉄の蒸気機関車や東京都所有のディーゼル機関車が長蛇の貨物を牽引して、この橋の上を1日に何往復もしていました。

積み荷は石炭やコークス、塩、麦、果物や穀物などの食料が多く、晴海橋梁はまさに庶民の生活に欠かせないものを運搬する道だったのです。また、その頃の豊洲には現在のような高い建物はなく、造船所や低層の工場が軒をそろえていたために、晴海橋梁はまるで天空に架かっているような現像的な存在だったと言います。

しかし、貨物船の最盛期は米軍から東京湾岸の主要な港が返還された1950年代から60年代にかけての10年足らずの短い期間だけで、1970年代に入るとコンテナ船が増加して、港湾地域の物流もトラックによるコンテナ輸送が主流となっていきました。

これにより鉄道貨物の地位は低下して貨物船は段階的に廃止され、1989年には全線が役目を終えることとなって晴海橋梁も廃橋となったのです。

引用元:https://toyokeizai.net/

建設時には最先端の技術が使われ、天空の橋と謳われた晴海橋梁の周りには現在高層ビルが立ち並び、使われなくなった橋がやけに小さく、ポツンと佇んでいる様子が見られます。

 

⑧奥多摩工業 日原寮

奥多摩工業氷川工場はJR中央線の奥多摩駅下車、徒歩約10分程度の奥多摩の山中にそびえたつ石灰工場です。この工場が建設されたのは1946年。奥多摩工業が石灰や石炭の採掘、販売を開始すると同時に建てられ、以降増築を繰り返してきたために何層にも分れた奇妙な建造物になってしまったそうです。

奥多摩工業の前身は奥多摩電気鉄道という会社で、青梅線の御嶽~奥多摩駅間を建造していました。開通直前に国策により線路は国有されたため、鉄道会社として奥多摩工業が機能したことはなかったのですが、かつては青梅線や南武線を走った石灰貨物列車の多くが、氷川工場から出発していったと言われています。

そのため奥多摩工業氷川工場で働いていた工員の数は相当なものだったようで、周囲には同社の独身寮や複数の家族寮が現存しています。しかし、独身寮は窓ガラスも完全に割れて廃墟になっており、家族寮の方には数世帯の入居者が残っていると言われているものの、こちらも老朽化が進んで廃墟同然の様相を呈しています。

まるで山の中の軍艦島のような風情が味わえると廃墟愛好家、工場愛好家から人気の高い場所ですが、工場は現在も稼働しているため敷地内に入ることは固く禁じられています。

 

⑨清華寮(解体済み)

清華寮は東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅徒歩5分程度の場所にあった巨大廃墟で、およそ3000㎡にも及ぶ敷地にRC造の地下1階、地上3階建てのビルが存在していました。

もともとは台湾総督府の財団法人が戦前に施工した台湾人留学生用の寮で、清華寮には50人程度の学生が入居していたと言います。しかし、2007年に煙草の火の不始末が原因で2階の208号室から出火、死者2名を出したうえに建物の約7割が焼けるという火災を引き起こしてしまいました。

その後、住民は退去したものの建物自体は文京区の一等地にありながら取り壊されることもなく、2013年4月まで放置されていました。

ここまで手付かずの状態であった背景には、この土地は1927年に国有地を台湾総督府が買い上げたものであり、戦後に台湾総督府が消滅すると正式な所有者が不在となってしまったという事情があります。

持ち主が不在となった清華寮は長らく治外法権、不法占拠状態が続き、台湾と中国の間で所有権をめぐって主張が対立。双方との仲をこじらせたくない日本政府は問題の解決を先送りにしてきたのです。

しかし2013年にようやく関東財務局に所有権が移り取り、壊しが開始されて現在は更地となっています。2017年には渋谷区にある不動産会社が跡地を買い上げており、今後はマンションなどが建てられるのではないかと予想されています。

 

⑩旧国立公衆衛生院(改築済み)

旧国立公衆衛生院は、東京メトロ南北線、都営地下鉄三田線の白金台駅から徒歩5分程度の距離に位置する、ゴシック様式の立派な廃墟でした。

1938年に施工されたこの建物の設計は、三菱第13号館や東京大学の安田講堂を手掛けた内田祥三氏が担当しており、高さ約36mにもなる5階建てのビルに3階分の塔屋を乗せた外観は一際モダンで威厳があり、完成当時は周囲を圧倒していたと言います。

この建物を所有していた国立公衆衛生院とは、関東大震災の復興期に設立された公衆衛生の専門家を育成するための機関でした。

国立公衆衛生院では国民が身体的にだけではなく、文化的、社会的にも高い水準で生活ができるように様々な研究や調査が行われており、1970年代には既に将来的には都市部にも空き家や廃墟が増えてマンションやビルが空洞化する、という予測を立てていた研究者もいたそうです。

2002年には国立公衆衛生院は国立保健医療科学院に改組されて機能も和光氏に移転し、ゴーストタウンの研究をしていた国立公衆衛生院の建物自体が廃墟となってしまいました。

引用元:http://www.diaprc.co.jp/

しかし、旧国立公衆衛生院には閉鎖当時から港区による再開発計画が持ち上がっており、大規模な保存改修工事を行った後に2018年元旦からは「ゆかしの杜」という名称で、港区郷土歴史館や子育て支援施設、がんの在宅医療支援施設などを含んだ区民のための建物として生まれ変わっています。

補強はされていますが、建築物として高い評価を獲得していた内装や建材は旧国立公衆衛生院時代のものをそのまま利用しており、港区民以外にも開放されています、

 

⑪ホテルまつき(解体済み)

ホテルまつきは新宿歌舞伎町のゴールデン街に存在した地下1階、地上5階建てのラブホテルです。2016年1月7日に2階の従業員の住居スペースにあった神棚から出火、大規模火災が発生して60代の女性宿泊客が死亡したうえ、ホテルも閉業。しばらく廃墟として放置されていました。

ホテルまつきのある一帯はラブホテル街なのですが、この一帯では殺人や原因不明の火災が発生することが度々あり、まつきが出火した2日後にはすぐ近くにあるラブホテル、ゴールデンゲイトでも原因不明の火災が発生しました。さらに2017年末には解体予定のホテルまつきに隣接したホテルアランド新宿で、女性の変死体が発見されるという事件が起きています。

このように事件の多い歌舞伎町二丁目のラブホテルですが、ホテルまつきは1981年に起きた新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件の事件現場の1つという噂がかねてから流れており、心霊現象が起こるとマニアの間では有名な場所でした。

なお新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件とは、新宿歌舞伎町2丁目内にある3件のラブホテルで別々に発生した殺人事件の総称です。4ヶ月の間に3人の女性が殺害され、それぞれの事件に関連性があると目されたものの、プライバシーを重視するラブホテルで発生した事件であったために犯人に繋がる情報が全く浮かび上がらず、1996年に未解決のまま時効が成立しています。

実際に事件が発生したのはホテルまつきでもゴールデンゲイトでもなく別のホテルだったのですが、年代を感じさせる外観と2016年に起きた火災のせいで、いっそう噂に拍車がかかってしまった模様です。

 

まとめ

東京都内にある廃墟のほとんどは自治体や国、所有者によって厳重に管理されており、公開されている時期を除いては中に入ることは固く禁じられています。

そのため現在散策ができる廃墟は、上で紹介した奥多摩工業氷川工場周辺にある廃村となった旧倉沢集落など限られた場所になるのですが、やはり罪に問われる可能性があるうえに建物自体が脆くなっているので、家屋の中に入るのは大変危険です。

また廃墟周辺は陽が落ちると人がまばらになるため、恐喝や暴行の現場になることも多くあります。廃墟に訪れる際には、たとえ都内であっても安全に配慮して向かってくださいね。



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