通常私達が生活している地上からは、地下の世界がどのようになっているのか見えません。また、気にすることも少ないかもしれません。
しかし世界の名だたる大都市の中には、その地面の下に巨大迷路のような都市を抱えている所もあり、そこで独自の生活をしている人々さえ存在するのです。
世界中に点在する地下都市の中から特に巨大なもの3つと、日本にもある巨大な地下空間について紹介していきます。
フランス・パリの地下都市
紀元前1世紀の頃からパリの地下では石灰岩などが採掘され、採石場の拡大とともに地下空間も拡大していきました。
そして現在、確認されているだけでもパリの地下には全長約300kmにも及ぶ通路網が存在するのです。
この通路網は全てが繋がっているわけではなく、いくつもの完結した迷路になっています。
そして、中でも最大規模のものがセーヌ川の左岸に存在する、5区、6区、14区の地下に広がるグラン・レゾー・シュッドです。
グラン・レゾー・シュッドは、セーヌ川を北端に、南端はパリ郊外を通り越してバニューまで続くといいます。
『オペラ座の怪人』や『レ・ミゼラブル』など、数々の文学作品にも影響を与えてきたパリの巨大地下都市の成り立ちについて、時系列順に紹介していきます。
石灰岩の採掘場(カリエール)
肥満王と呼ばれたルイ6世の時代に、パリの地下採掘場が巨大化しました。この時代にはグラン・シャトレとプティ・シャトレの要塞やサン・ヴィクトル修道院など、大規模な建設授業が多く行われたため建材の需要が増えたのです。
この流れはフィリップ2世の治世の代、つまりパリが裕福な時代を迎えると一層本格化していきます。ノートルダム大聖堂の建材の大部分も地下の採石場から切り出されたもので、ピエール・ド・パリと呼ばれたパリの石材は、他の都市でも需要がある程有名なものとなっていったのです。
12世紀に入ると坑道はさらに拡大され、内部は馬車が通れるほどに広げられました。そして採石場も大規模のものでは天井高4m~8mのものも生まれたといいます。この頃の地下空間を支えたのは、石灰岩を円柱状を切り出す回転支柱と呼ばれる技術で、このおかげで地下の洞穴はアラゴ大通り近辺まで広げられました。
16世紀に入ると残された支柱からも石灰岩を採掘するようになり、代わりに石を積んだ柱で天井を支えるようになります。こうしてこの後も1873年まで地下の炭鉱での採掘は続けられたのですが、炭鉱として稼働していた頃から、地下の洞穴は盗賊や、ならず者のたまり場でもありました。
また地下空間はしばしば悪魔や地獄といったものに結び付けられることもあり、1384年にパリにペストが大流行した際には、大勢の人々がサン・マルセルの採石場に集まり、魔術的な儀式で厄払いをしたといいます。
その反面キリスト教の信者にとって地下は、神々や迫害された同胞が逃れた聖地のイメージもあったようです。かつて地下の採石場には、キリスト教初期の殉教者である聖ドニに関連した礼拝堂が2箇所存在しました。
1つは6世紀に建立されたもので、11世紀にはベネディクト会がそこに修道院を開設。以降は長きに渡ってパリ市外で死亡したフランス国王の通夜は、この地下教会で行われたといいます。
もう1つの地下教会は聖ドニが最期を迎えたという、モンマルトルの丘の地下にあります。こちらは聖ドニが処刑寸前に最後のミサをあげた礼拝堂という触れ込みで、ベネディクト会が観光地化し、17世紀初頭には教会の大きな収入源になっていたそうです。
カタコンブ・ド・パリ
パリの地下都市の中で、特に有名なのが“カタコンブ・ド・パリ”です。
18世紀半ば頃、花の都パリの市民たちは悪臭に頭を悩ませていました。悪臭の原因は死体の腐敗臭です。当時パリ市内の墓地や教会は死体で溢れかえっており、埋葬そのものも非常に雑なものでした。
何重にも死体を重ねて埋葬しているため地表近くに人骨が露出していることも多く、市が立てば子供が頭蓋骨を拾ってきてボール代わりにしたり、犬が掘り起こした人骨を食べたりという悲惨な状況だったそうです。
そして医師たちが腐敗臭による健康被害を懸念しだした頃、国民議会が教会側の反対を押し切り、特に悪臭の酷かったイノサン墓地の閉鎖を決定したのです。
墓地に埋葬されていた骨や遺体は地下採掘場の廃坑となったスペースに移されることとなり、夜な夜な松明を持った作業員達が、墓地から遺骨を掘り返す作業に従事しました。
この作業中、イノサン墓地周辺は遠方から駆け付けた野次馬や、奇病で亡くなった人の遺体を求めてやって来た王立医学アカデミーの馬車などで賑わっていたそうです。
更に他の墓地もイノサン墓地に倣って遺骨を地下に移すことを決めたため、4年間もの間、パリ市民は墓から掘り起こされた人骨が、聖歌と祈祷に見送られながら運ばれていく様を見続けたといいます。
荘厳な雰囲気でパリを出た遺骨の山ですが、遺骨を収納するトンブ・イソワールに到着した途端、地下の空洞に雑多に投げ込まれ、平民、貴族関係なくカタコンブの労働者によって適当に空いた空間に配分されました。
また、この不気味なカタコンブはフランス革命の頃には隠れた歴史の舞台となります。革命派の夥しい数の遺体を、秘密裏に処理するのに使用されたのです。
行政側は採石業者に坑道を使用して遺体を運び、指定した地下墓地に到着したら石灰を撒いて腐敗効果を抑制するように指示を出していました。ちなみに一連の遺体処理にかかる材料費と10人の労働者の日当の総額として、行政が支給したのは、1120リーヴル程だったといいます。
フランス革命中、地下採石場は運営を中止していました。この時期は地下に逃げ込んだ王族や貴族がいるという噂を聞きつけた革命派が地下に潜り、とても通常の営業ができる状態ではなかったのです。
しかしナポレオンが革命に終止符を打つと、パリには地上のみならず地下にも新しい風が吹き始めました。19世紀の初頭にはカタコンブも綺麗に整備され、なんと一般公開されるようになったのです。
特にこの見世物はパリの上流階級の心をつかみ、家族そろって週末にカタコンブ見学をすることが流行したといいます。そしてカタコンブは、現在でもパリの地下採掘場の中で唯一公式に立ち入りが許可された場所として、観光客で賑わいをみせています。
現在のパリの地下都市
現在、パリの地下採掘所のほとんどの場所は立ち入り禁止区域になっています。しかし“カタフィル(洞窟愛好家)”と呼ばれる若者たちを中心に、無許可で地下に潜り込む人は後を絶ちません。彼らにとって地下都市は、ギャラリーであり、酒場であり、現実から逃亡できる世界なのです。
しかしカタフィル達の隠れ家となっている地下都市も、地盤沈下が危ぶまれる箇所はコンクリートの注入を行い、再利用できそうな場所はショッピングモールや駐車場にするなど、現実的な利用をされつつあります。
とはいえパリの地下迷宮は、1774年に大規模な陥没事故が起きた際にルイ16世の命で地図を作り始めてから200年以上経過した現在もなお、その全貌が把握できていないのです。
トルコ・カッパドキアのデリンクユ
カッパドキアには36もの地下都市があり、中でも最大の大きさを誇るデリンクユは2万人もの人を収容できるという巨大都市です。
カッパドキアの地下都市は、いつ何のために作られたのか全く分かっていません。
そのため発祥に諸説あるのですが、以下に代表的な考察と、現在把握されている構造について紹介していきます。
なぜ地下都市が築かれたのか?
デリンクユの最深部は地下70m~85mに達するとされ、どのように掘削作業が進められたのかという文献も残っていません。紀元前8~7世紀頃にフリュギア族の手で築かれたのではないか、という説が有力です。
フリュギア族には地下に穴を掘り住まいや貯蔵庫として使用する習慣があったことが分かっており、後の世代の人々がフリュギア族の作ったトンネルを、深く複雑に拡大していったと考えられているのです。
またデリンクユの地下7階には十字設計の教会が残っており、付属する学校や礼拝堂も発見されています。このことから6世紀~7世紀にアラブ人が侵攻してきた時には、隠れ家として利用されていた可能性が高いと考えられています。
人目につかない地下は、信仰が迫害されたり弾圧を受けたりした際の避難所としては最適だったのでしょう。デリンクユは現在地下8階層まで確認されていますが、実際はまだ探索できていない深部が存在すると予想されています。
そして現在把握されているだけでも井戸が52本、非常用のトンネルが5ヶ所存在し、トンネルのうち一つは1万5千人の人を収容できる別の地下都市、カイクマルに繋がっていた可能性があるそうです。
デリンクユの構造
デリンクユを含むカッパドキアの地下都市の換気システムは非常に優れており、上階に続く縦穴の下が空気のシャフトの役割を果たしていました。
そのため下層へ降りて行っても酸素が欠乏することが無く、この空気シャフトのおかげで地下都市を作ることができたと考えられているのです。
また現在8階層まで発見されているデリンクユには炊事場などの生活の場も確認されており、規模から考えて複数の世帯で共用していたと予測されます。火を使う場所は安全のために最小限にとどめる必要があったことから、炊事場は共用だったのでしょう。
トイレと思われる穴も存在するものの、同じカッパドキアの地下都市であるタトゥラリンやゲルヴェリのように排泄物を始末するような仕組みがないため、用を足す際は外に行っていた可能性もあります。
地下一階にはワイン置き場や家畜小屋の跡地が見られることから、非常用の食糧庫として使われていたと考えられます。下層階は非常用の避難場所であった可能性が高く、あちこちに石の扉や大きな岩が配置されています。
岩の扉は内側からは動かせても外側からは動かせない仕組みになっており、いざとなれば籠城が可能な作りになっているのです。また、下層階には武器庫と思われる部屋も存在します。
2015年にはデリンクユを上回る可能性がある地下都市が発見されたこともあり、カッパドキアでは地下都市を観光の目玉にする働きが見られます。
また、同じくトルコのイスタンブールには東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによって建設された地下宮殿(貯水池)も存在し、こちらも映画『007 ロシアより愛をこめて』の撮影に使用され、観光名所として人気を獲得しています。
ニューヨーク ザ・フリーダム・トンネル
ニューヨークのリバーサイド・パークの下には秘密の地下都市がある。そんな噂がニューヨークでは都市伝説的に囁かれていた時期がありました。
リバーサイド・パークの下にある地下都市、ザ・フリーダム・トンネルは1980年に廃線になった線路の跡地です。現在はこの線路を再利用する働きがあるため立ち入り禁止となりましたが、かつてはこの廃線を使用した地下都市で、数千人もの人間が暮らしていました。
メトロの下の地下都市
ニューヨークのホームレス、いわゆる“モールピープル”と呼ばれる地下生活者が生活するトンネルは、メトロの更に下に存在し、中には地下7階という深さのものまでありました。打ち捨てられたトンネル内は真っ暗で、そこで暮らすホームレス達は路上のホームレスにさえ忌避される存在だったそうです。
ニューヨークの地下生活者の数は、1991年の調査時では少なくとも6031人。
保健衛生局員によれば地下に潜った人間の平均寿命は3年~5年程度で、死因はナイフや銃弾、高圧電流など外的要因の他、肺炎をこじらせるなど適切な医療を受けられないための病死が挙げられるそうです。
またニューヨークのモールピープルには、その大半がドラッグやアルコールで精神を病んでいるという特徴があったといいます。これが原因で行政も社会復帰が難しいと判断し、長らくモールピープルに手を出さずに見て見ぬふりをしてきたのではないか、と考えられているのです。
モールピープル達の生活
引用:https://occultpassion.tumblr.com/
地下に集まった人たちは独特のコミュニティを形成し、選挙によって市長やスポークスマンを選んだといいます。モールピープルのコミュニティは根城とするエリア毎に複数存在し、コミュニティ内に子供がいることさえありました。
地下にいる子供の多くは母子家庭で、母親が地下に降りてきた際に一緒に連れてこられたケースが大半だったそうです。そして驚くべきことに子供たちは地下から通学しており、それをクラスメイトや学校には内緒にしていたといいます。
子供を連れて夫や恋人からのDVから逃げて、地下に潜り込んでしまったという母親も少なからず存在しました。子供だけでも地上へ連れて行こうと福祉局は援助プログラムを用意しましたが、子供と離されるのを嫌がった母親達はこれを拒んだそうです。
引用:https://occultpassion.tumblr.com/
モールピープルのコミュニティの形態は様々で、一見それらしい形の無いものから、養子縁組のような関係を結び、家族以上に強固な絆を形成するものまで存在しました。
そしてコミュニティ同士がゆるく繋がった連合を形成していることもあり、各コミュニティから選ばれた“運び屋”が薬や古着、炊き出しであるスープ・キッチンのスケジュールの情報などを交換しあうのです。
このようなコミュニティはモールピープル達に安らぎと自信を与え、ネズミの死骸さえ食べる程過酷な環境で生活をする彼らの支えになった一方で、地上の生活に戻る妨げになったとも考えられています。
お金を貯めたらニューヨークを去る、地下にいるのは一時的としっかり目標を定めている一部の人々以外は、コミュニティの人間関係が快適過ぎて、地上の生活を嫌悪するようになってしまうのです。
引用:http://www.pmpress.org/
また、モールピープル達の中には仕事を持つ者も少なくありませんでした。彼らの中には地上のファーストフード店などでアルバイトをしている者もいましたが、拾った空き缶や空き瓶を回収所に売って日銭を稼ぐ者が大半でした。そして、そうして得た金をドラッグにつぎ込んでしまう者が多かったといいます。
一方でしっかりとしたリーダーのいるコミュニティでは、ドラッグの使用が禁じられていることもあったそうです。ドラッグを常用するホームレスは行政からも目をつけられるようになり、取り締まりの対象になることがあります。そのような危険を回避するためにドラッグや暴力に対する厳しいルールを設け、守れない人間は追放するのです。
またコミュニティの中には他のコミュニティのモールピープルを襲ったり、窃盗を生業とするものもあったといいます。地上と似たような社会の構造が、全盛期のニューヨークの地下都市には存在していました。
ニューヨークの地下都市の終焉
ニューヨークのホームレス管理プログラムは、1982年からあったといいます。しかし1990年以前は警官やソーシャルワーカーが地下トンネルに入ることは少なく、保線作業員が襲撃された時や、危険な場所にホームレスがいるのを見つけた時などに限られたそうです。
しかし1990年に入ると状況は一変し、90年から91年にかけてマンハッタン中で7000人以上の地下生活者が地上のシェルターに移されたといいます。
これに対し警察側は、廃線内でホームレスが火を起こすことなどでメトロで火事が起こる可能性があり、ニューヨークの市民の安全を守るために法律違反者を取り締まる必要があったと述べています。ニューヨークにはモールピープル達を支援する団体も数多くあったため、これらによるバッシング対策の発言でしょう。
現在もごく僅かなモールピープルが残って地下生活を続けていますが、ニューヨークの地下には以前のような賑わいはなく、独立した社会も存在していません。
日本の地下都市計画
バブル絶頂期の1980年代、都市部の開発地域の過密化や地価の高騰などから、地下に新たな土地を求める動きがありました。大手のゼネコンなどによって地下50mの深さに都市を作る計画が盛んに立てられたのです。
例を挙げると10kmごとに地下都市をつくり、格子状のネットワークを形成して東京全土を覆うという清水建設の“アーバン・ジオグリッド構想”、30万㎥の大空洞を3箇所形成し、そのうえにサブターミナルと採光ビルを建築する東急建設の“ジオトラポリス構想”などがありました。
これらの都市構想はどれもSFのような近未来都市を描いており、実現に向けた実験プロジェクトも行われていましたが、バブルの崩壊とともに計画は収縮。ほぼ全ての計画が、現在は中止となりました。
またこれらの計画とは別に、第二次世界大戦中には日本の中枢機関を全て地下に移すという計画があり、現在もその跡地が残っています。日本最大の幻の地下施設、松代大本営について以下に紹介していきます。
松代大本営
引用:https://www.nagano-cvb.or.jp/
長野大本営は、幻の大本営の別名で知られる戦争末期造営の大規模地下壕です。長野県松代市に計画され主要地下施設は『象山、舞鶴山、皆神山』の3つで、中でも最大規模を誇るのが象の鼻のような姿をした象山地下壕です。
象山地下壕は20m間隔で伸びた20本の本坑と、それを繋ぐ5本の連結抗で算盤の目のように形成されており、その総延長は5.9kmにも及びます。
長野大本営は日本の国家機能を丸ごと移転させるためにつくられていた地下施設で、象山地下壕が完成した暁には、政府各省庁、NHK、中央電話局などが入る予定でした。
しかし、何故首都から離れた長野県松代市に大本営が置かれたのでしょうか?国家機能を地下に移転させる計画が持ち上がったのは、米軍にサイパンを占領され、東京を含めた日本各地への本格的な空襲が始まった太平洋戦争末期の1944年頃のことです。
当時の首脳部は本土決戦を視野にいれていましたが、東京は防空も手薄で海からも近かったため、地上戦の要の地としては不向きとされました。そこで日本各地に専門家を派遣して、国家機能を移転させる候補地を選定したのです。
松代が最終候補としなった理由は、本土で最も海から遠い場所にあること、北・西・南を3000m級の北アルプスに囲まれていること、高知のため気流が不安定で空爆がしにくいこと、地盤が強いことなどが挙げられます。
松代大本営の工事が始まったのは、1944年11月11日の午前11時。それから翌年の8月15日の終戦まで工事は続けられ、延べ300万人、実数にして4万5000人もの人々が、松代大本営の増設に動員されました。
現場作業を請け負ったのは現在の鹿島建設と、西松建設。もちろん地元の住民には何を建設しているかは明かされず、表向きは軍の倉庫をつくっていると偽装されていました。
象山地下壕から南へ1.5kmほど離れた場所にある舞鶴山地下壕には、軍の本営だけではなく天皇、皇后の御座所が置かれる予定でした。天皇御座所は現在も宮内庁が管理しているため、入って見学をすることはできません。
しかしガラス窓から中を覗くと2間に仕切られた七畳半の和室があるのが分かり、一見すると質素ですが、柱は木曽檜、天井には秋田杉が用いられており、風呂場には総檜造りの浴槽まで備えられているといいます。
更に地下15mには空襲の時に両陛下が避難できるよう、10t爆弾にも耐えられる半円形のコンクリートに囲まれた御座所が存在し、備蓄食料を始めとして最低でも4ヶ月は生活できるような設備が整えられていました。
現在、地下御座所は大坑道に設置された地震計の記録室として使用されており、国連の要請で秘密裏に行われる地下核実験の探知にも活用されているそうです。
まとめ
上で紹介した以外にパレスチナのガザ地区にも、巨大な地下トンネルが存在することが知られています。
このトンネルはイスラエルの経済封鎖によって地上の物資の流れが制限されていることから、ガザ地区とエジプト間でも密輸の経路として掘られたものです。
1982年から使用が始まったというガザのトンネルは、大半が粗末な作りで崩落事故も多いといいます。更にイスラエルからの空爆で埋まってしまうことも多く、そのたびに別の経路で新しいトンネルがつくられます。
ガザの人達にとって地下トンネルは命綱であり、なくては暮らしていかれないものなのです。
地下都市というとロマンのある空間を想像しがちですが、実際にはガザのトンネルのように何かから逃れるため、必要に迫られてつくられたものが多く、歴史の暗部の象徴的存在でもあるのです。