幽霊船は、怪奇現象の一つとして世界各地で伝説的な逸話が存在します。
近年では、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』などに登場する「フライング・ダッチマン号」が特に有名な幽霊船の一つとして知られていますが、フライング・ダッチマン号は伝説上の船であり、実在した船ではありませんでした。
しかし、幽霊船の中にはコナン・ドイルの小説の題材にもなった「メアリー・セレスト号」や、日本の良栄丸のようにかつて船が実在し、事故や事件によって幽霊船となり本当に海をさまよっていたものも存在します。
そこで今回は、かつて実在した世界の15の幽霊船をご紹介します。
ベイチモ号
ベイチモ号(Baychimo)は、1914年にスウェーデンで建造された全長70.15メートル、1,322トンの鋼鉄製蒸気貨物船です。
第一次世界大戦までハンブルクとスウェーデンとの貿易路で使用され、その後は、カナダのビクトリア島に住むイヌイットとの毛皮と食料の交易に使用されていました。
1931年10月、交易航海の終わりで毛皮の貨物を積載していたベイチモ号は叢氷に閉じ込められてしまいました。船員達はこのままでは船は沈んでしまうだろうと判断し、最も高価な積荷である毛皮を空輸するために運び出して船を放棄することにしました。
しかし、ベイチモ号は沈みませんでした。
その後、数十年に渡り誰も乗っていないベイチモ号が単独で海に浮かんでいるのが数多く目撃されており、保有会社などが何度かサルベージを試みたものの悪天候などにより失敗しています。最後の目撃記録は船が放棄されて38年後の1969年にバロー岬とポイント・バローの間の海上で叢氷に挟まれていたというものです。
2006年にはアラスカ州政府が、いまだ海上にあるか、沈んでしまったかに関係なく、「北極海域の幽霊船」のミステリーとベイチモ号の居場所解明プロジェクトを開始しましたが、今のところベイチモ号の発見には至っておりません。
レゾルベン号
レゾルベン号は、ウェールズとカナダの間を木材などを運搬する貨物船でした。
1884年8月、イギリス海軍が漂流しているレゾルベン号を発見しました。
海軍が合図を送ってもレゾルベン号からは何の応答もなかったため、海軍の兵士が船に乗り込みました。船内は荒廃していたものの、争いが起こったような形跡はなく、調理場には火がついており、テーブルには食事の準備がされたままでした。しかし不思議なことに、船員と乗客は誰一人発見することは出来ませんでした。
残された唯一の手がかりは船長がこの船に蓄えていた金貨と救命ボートがなくなっていたことでしたが、その後も船員らの行方はわからず、レゾルベン号で何が起こったのかは謎のままです。
ジョイタ号
ジョイタ号(MV Joyita)は、1931年に建造されたスペイン語で「宝石」という名を付けられた大型ヨットでした。
元々アメリカ海軍が保有していた船でしたが、第二次世界大戦後の1948年に売却され、その後はプライベートヨットとして使われていました。
1955年10月、ジョイタ号は船長ダスティ・ミラーを含む乗組員5人と乗客20人を乗せ、サモアのアピア港を出航し、約430km離れたトケラウ諸島に向かいました。
そして、ジョイタ号はその航海で忽然と姿を消しました。
1955年11月、サモアの洋上で発見されたジョイタ号は、船体が多少傾いていたものの十分航海できる状態でした。しかし、船内の様子は異様で、食料や無線、医療品、乗客らの荷物はそのまま残っていて、生活用品も使用されており、ついさっきまで日常生活が行われていたことをうかがわせる状態だったにも関わらず、そこに乗組員と乗客の姿はなく、航海日誌も消えていました。
乗組員と乗客はその後の懸命の捜索もむなしく行方不明のままで、この事件は『太平洋のマリー・セレスト号事件』とも呼ばれ、船長傷病説、保険詐欺説など、失踪した原因について様々な推測がなされましたが結局、真相は解明されませんでした。
ところが、それから4年後の1959年1月、ニュージーランドの海岸に1本のビンが漂着したことで事件は思わぬ展開を見せました。
ビンの中には、ジョイタ号の乗組員が走り書きした1枚のメモが入っており、そこには「奇妙な物体が我々を連れ去ろうとしている…」という内容が書かれていました。
このことから一部では、ジョイタ号の乗員はUFOに連れ去られたとも言われております。
キャロル・ディアリング号
キャロル・ディアリング号(The Carroll A. Deering)は、1919年にアメリカで建造された貨物船でした。
ディアリング号が難破したのは、ヴァージニア州ノーフォークからリオ・デ・ジャネイロまで石炭を運んだ帰り道のことでした。船にはワーメル船長とマクレラン一等航海士のほか10名の乗組員が乗っていました。
1921年1月9日、補給の為に立ち寄ったバルバドスからハンプトン・ローズに向けて出航しました。出航前、マクレランは酒によって「おれはノーフォークに着く前に船長をやっつけてやるぜ」と暴言を吐いて逮捕され、ワーメル船長によって保釈されていました。
1月28日、ディアリング号はノース・カロライナ州南東部のルックアウト岬沖で稼働中だった灯台船によって目撃されました。
灯台船の管理者であるジャコブソン船長は、外国語なまりのある赤毛のやせた男が「この船は錨を失ってしまった」と叫んできたと話しています。さらにこの時、ディアリング号の乗組員が本来立ち入り禁止であるはずの前甲板を「うろつき回っている」のに気づき、ジャコブソン船長は不審に思いましたが、ディアリング号はそのまま通り過ぎていきました。
そして1月31日、ノース・カロライナ州ハッテラス岬沖で座礁しているディアリング号が発見されました。そこはダイアモンド・ショールズと言われる巨大な浅瀬で、数多くの海難事故を引き起こしてきた有名な場所でした。
すぐに救助隊が編成されましたが、悪天候により船に近づくことができませんでした。2月4日なってようやく船に乗り込みましたが、船は完全に放棄されており、乗組員は全員姿を消していて、航海日誌、航海道具、乗組員らの日用品、救命ボート2隻も見当たりませんでした。
ただし、厨房には食事が残されており、食事の準備中に乗組員が行方不明となる何らかの要因が発生したものと推測されましたが、乗組員の失踪原因が公に説明されることはなく、現在も謎のままです。
シー・バード号
1750年、一隻の船が米ロードアイランド州のイーストンビーチに漂着しました。
この船は、ホンジュラスへの航海へ出てニューポートへ寄航する予定だった「シー・バード号」でした。
船に乗組員の姿はなく、完全に放棄されており、船内には犬と猫がいただけでした。さらに船内を捜索すると、救命ボートがなくなっていましたが、火のついたストーブの上にはコーヒーが沸いており、テーブルには朝食が準備され、さらに船内に入ると煙草の香りまで残っていました。
船には災害や乱闘などの形跡はなく、天候も良好で、陸を目前にして乗組員が船を放棄した理由は謎とされています。
その後、救命ボートや乗組員は発見されておりません。
KAZ II(カズ2号)
全長12メートルのカタマランヨットのKaz IIに乗り込んだ船長のデレク(56歳)、タンスティード兄弟(ペーター(69歳)とジェームス(63歳))の3人は、2007年4月14日にクイーンズランド州からオーストラリア西部へ向けて出港しました。
2007年4月16日、クイーンズランド沖のサンゴ礁で釣りをしていた男性が、乗組員不在のまま漂流中のKaz IIを発見しました。
救助隊が船内を捜索しましたが、ヨットの帆はズタズタに切り裂かれており、エンジンはかかったままで、テーブルには食事の用意がされたままでした。後日、救助隊の隊員はインタビューに対して「乗組員が不在であることを除けばほとんど全てが正常な状態であり、乗組員が居ない理由の兆候は見つからなかった」とコメントしています。
その後、すぐに航空機による空からと、海からの両方で捜査が開始されましたが、結局乗組員は発見されず、2007年5月4日に捜査は断念されました。この船に何が起こったのかは未だ分かっておりません。
リュボーフィ・オルロワ号
リュボーフィ・オルロワ号は、北極や南極の探検クルーズ船として、活躍していたロシアのクルーズ船でした。
しかし、2年分の債務不履行によりカナダ当局に差し押さえられてしまい、2012年にスクラップとして27万5000ドル(約2800万円)で売却され、解体のためカナダのセントジョーンズ港からドミニカ共和国へ他の船に牽引されることになりました。
その牽引の途中、大西洋上で嵐に見舞われてしまい、乗組員は全員救助されたものの船は放棄されました。カナダ沿岸警備隊は、ニューファンドランド島沿岸の石油掘削装置への接近を危惧して、翌週まで同号の位置を監視しました。そして、再度船を確保し、国際水域まで曳航しました。そこでカナダ当局は、強い風と海流で外洋に流され直接的なリスクは消失したと判断、船の解放を命じました。
それ以来、行方不明の状態が続いていましたが、1年後イギリス近海で漂流しているオルロワ号が目撃されました。早速イギリス沿岸警備隊は捜査を開始し、レーダーでそれらしい物体を発見。探索機を向かわせ、周辺を捜索しましたがオルロワ号の姿を発見することはできませんでした。
オルロワ号は現在も幽霊船として広い海のどこかを漂流しているのでしょうか?その運命は謎のままです。
メアリー・セレスト号
1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された世界で最も有名な幽霊船の一つです。
1861年にカナダで建造された全長103フィート(約31メートル)の2本マストの帆船だった「アマゾン号」は、建造中からおびただしい数の事故が発生したと伝えられるいわく付きの船でした。数回にわたり所有者が変わり、1869年に「メアリー・セレスト号」と改称されました。
1872年11月7日、船長ベンジャミン・ブリッグズとその家族、船員の10名が乗ったメアリー・セレスト号は、工業用アルコールを積み、ニューヨークからイタリア王国ジェノヴァへ向けて出航しました。
1872年12月4日、メアリー・セレストは、カナダ船籍のデイ・グラツィアにアゾレス諸島の近くを漂流しているところを発見されました。
デイ・グラツィアの乗組員がメアリー・セレストに乗り込んで調べたところ、船には誰も乗っておらず、ポンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していましたが十分航行可能な状態でした。
前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、方位磁針(羅針盤)は破壊されていて、3つの手すりに謎めいた血痕があり、手すりには大きな傷が残されていました。救命ボートもなくなっており、船は故意に放棄されたものと思われました。
また、1700樽のアルコールはほとんどが無事で、6か月分の食料と水も残されていました。航海日誌の最後には11月24日にアゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれており、翌日にはアゾレスのサンタマリア島に到着できる位置にいたことがわかりました。
メアリー・セレストはデイ・グラツィア号の乗組員によってジブラルタルまで航行され、修復されたということです。
それから1年後の1873年初頭、スペイン沿岸に2隻の救命ボートが漂着したことが報じられました。1隻には1人の遺体とアメリカ合衆国国旗が、もう1隻には5人の遺体がありました。これがメアリー・セレストの乗組員の残留物であるか否かについては全く調査されなかったそうです。
メアリー・セレストの乗組員らの消息は全くわかっておらず、最大の謎は「航行が十分に可能な状態であるにも関わらず、なぜ船が放棄されたのか」という点です。
更に、彼らの運命を巡っては、多くの推測が出されておりますが、誰もそれを証明することはできず、未だ全ては謎とされています。
次のページでは、太平洋を遺体と共に11ヶ月漂流していた日本の幽霊船「良栄丸」などをご紹介しています。