財閥とは、ある一族による独占的な経営形態をもつ企業グループのことで、多くの場合は持株会社により多角的な経営を行うコンツェルンを形成しています。
日本の歴史に出てくる四大財閥などが有名ですが、世界にも有名な財閥が存在しており、現在も財閥と呼ばれる企業やグループもあります。
日本では戦後の財閥解体で消滅してしまったとされますが、財閥の流れを引き継ぐ企業が現在の日本にも多数存在しているように、財閥は今でも世界の経済や社会に影響を及ぼしているといえます。
ここでは、世界の有名な財閥について紹介していきます。
タタ財閥(インド)
引用:zuuonline.com
インドの経済において財閥の占める存在感は大きく、タタ財閥・リライアンス財閥、ビルラ財閥の3つはインド三大財閥と呼ばれます。
三大財閥の筆頭であるタタ財閥は、他の財閥が相続問題で分裂したのに対して現在も一枚岩のグループを形成しており、インド最大の財閥として君臨しています。
タタといえば、日本でも自動車メーカーの名前として知られているかと思います。
タタ財閥はインド西部の都市ムンバイを拠点にしていて、自動車のタタ・モータースや製鉄のタタ製鉄など100を超える企業で構成されています。
タタ財閥の歴史
タタ財閥が誕生したのは1868年のことで、日本ではちょうど1年前に大政奉還が行われ、明治時代になったばかりのころです。
インドの財閥は1858年からのイギリス植民地時代から存在しており、タタ財閥が生まれたのもイギリス統治時代です。
タタ財閥の生みの親は、ペルシアから渡ってきたゾロアスター教徒の子孫である、ジャムッシェトジー・タタで、彼が29歳のときに起こした綿貿易の会社がグループの始祖となっています。
現在のタタは重工業の分野が強いのですが、初期のタタはイギリス、中国との三角貿易を行う海運企業でした。
現在のタタ・グループ会長であるラタン・タタは、ジャムシェトジーの曾孫にあたる人物で、ちなみに、インドには相続税がないため、これが財閥の発展している原因と思われます。
現在のタタ財閥は従業員70万人を抱え、世界100か国以上でビジネスを行っており、自動車、製鉄をはじめ、IT、電力、食品、不動産、情報通信、化学、レジャー、ホテルなどあらゆる分野に進出しているといわれます。
2018年の売り上げは1107億ドル(約12兆円)で、インドのGDP2兆6,000億ドル(約280兆円)の約4.2%になり、そのうち、タタ・モータース、タタ・スチール、ソフトウェア会社であるタタ・コンサルタンシー・サービジズ(TCS)の3社で売り上げの8割を占めています。
社会への貢献を重んじるタタ財閥
タタ財閥は、汚職の多いインドには珍しく、厳しい企業倫理をもち、社会貢献にも力を入れている企業です。
これは、創業者であるジャムシェードプルが、当時まだまだ発展途上にあったインドで、企業活動を通して社会に貢献していくことこそ自分の使命だという信念をもっていたからです。
タタ財閥の株式はその66%をタタ・グループの慈善団体が所有しており、学校や奨学金の設立、無料で医療が受けられる制度の提供など多くの社会貢献活動や事前活動を行っています。
創業者のジャムシェードプルがヒンドゥー教徒でなかったため、カースト制度の影響も少なく、従業員の登用も公正で給料や福利厚生もよく、以前には世界で11番目に評判のいい企業に選ばれたこともあります。
こうしたことから、外国企業がインドに進出する際にタタをパートナーに選ぶことも多く、スターバックスと提携してタタ・スターバックスを設立しているほか、多くの日本企業にも提携先として選ばれています。
サムスン財閥
引用:moblabs.info
日本でも家電メーカーとしてよく知られているサムスンは、韓国10大財閥の筆頭であり、韓国で最大の財閥です。
韓国には10大財閥といわれる巨大企業が存在し、これはサムスングループ(三星)、ヒュンダイ(現代)自動車、SKグループ(石油・通信)、LGグループ(家電)、ロッテグループ(百貨店、製菓)、現代重工業、GSグループ(石油)、韓進グループ(物流)、ハンファグループ(製造、建設、保険)、斗山グループ(重工業)からなります。
ヒュンダイやロッテといった日本でもよく知られる企業もあります。
財閥の国 韓国
韓国で財閥が発展したのは、朝鮮戦争で大きな打撃を受けた韓国経済が復興し、飛躍的な発展を遂げて「漢口の奇跡」と呼ばれた1960年代のことでした。
韓国政府は日韓基本条約によって日本から受け取った3億ドルの支援金を使って国内投資を行い、同時にアメリカなど海外からの投資や技術提携もあり、韓国経済は工業化を遂げ、同時に財閥企業も形成されていきました。
韓国では財閥企業の売り上げがGDPの4分の3を占めるといわれ、韓国では財閥系企業こそが一流企業とされ、ここに入社できなけば負け組といわれます。
そのため、韓国の若者は一流大学に入り、10大財閥への就職を目指して必死に努力し、勝ち組を目指します。
韓国では財閥の経済への支配力・影響力が強いため、それ以外の企業に入社すると、収入面等で不利になり、その後の人生をも大きく左右するのです。
韓国最大の財閥 サムスングループ
サムスングループは、早稲田大学を中退した李秉喆(イ・ビョンチョル)が1938年に食料品や衣服を取り扱う会社としてはじめた三星商会が起源になっています。
サムスン財閥は、グループの中枢であり家電メーカーとして知られるサムスン電子や電子部品のサムスン電機、電機・電池のサムスンSDI、造船・プラント設備生産のサムスン重工業などの企業で構成されています。
サムスングループだけで韓国の上場企業全体の市場価値の2割ほどを占めていて、サムスンの動向は韓国経済に直接影響を与えるといわれています。
グループ全体の売上高は62兆ウォン(約5兆5800億円)で韓国GDPの約18%、輸出の21%を占めています。
サムスン系列の企業は就職において韓国でも最も人気のある企業であり、競争倍率は20倍に達するという狭き門になっています。
モルガン財閥
引用:www.forbes.com
モルガン財閥は、アメリカ4大財閥の1つに数えられる財閥で、主に金融系の分野で大きな影響力をもっている財閥です。
現在でも、JPモルガン・チェースやモルガン・スタンレーなどにその名を残しています。
モルガン財閥の創始者は、アメリカのコネティカット州ハートフォード出身のジョン・ピアモント・モルガン。
かつて世界最大の銀行家と呼ばれた男です。
金融財閥モルガンの誕生
モルガンは、ドイツのゲッティンゲン大学を卒業後、父がロンドンで起こしていた銀行に入社し、ニューヨーク代理店で勤務することになります。
その翌年の1861年、アメリカでは国家を二分する大戦争である南北戦争が起こりました。
アメリカが1つの国家として存続できるかどうかという一大事でしたが、モルガンはこれを大きなビジネスチャンスとみて、さっそく行動に移します。
彼はイギリス人銀行と手を組んでJPモルガン商会を設立すると、1丁3.5ドルで購入した旧式ライフルに手を加え、1丁22ドルもの価格で北軍に販売することに成功します。
これは後に大きなスキャンダルになりますが、モルガンはこれによって大きな利益を得ることができました。
ちなみに、モルガンはこの時、他の富裕層の人間がそうしていたように、1000ドルを支払うことによって徴兵を逃れていました。
さらにモルガンは、1870年からの普仏戦争ではフランス軍のために資金調達を行い、ここでも大きな利益を上げます。
金融王モルガン
1871年には銀行家のアンソニー・ドレクセルと手を組み、ドレクセル・モルガン商会という金融会社を設立して政府金融の分野に進出、アメリカ政府のために資金調達を行うようになります。
世界恐慌の際には、クリーブランド大統領の要請により、政府のために6500万ドルの資金を調達し、さながらアメリカの中央銀行のような役割を果たすようになり、アメリカ金融界に君臨しました。
ドレクセルの死後、この会社はJ・P・モルガン商会となり、現在のJPモルガン・チェースへと引き継がれています。
さらに、モルガンは当時の有力な産業であった鉄道の分野へも進出し、全米の鉄道開発に投資を行い、多くの鉄道会社の経営に携わって鉄道トラストを作り出し、アメリカの鉄道業界を支配しました。
モルガンは経営不振に陥った鉄道会社を再建するのが上手く、彼のマネジメント方法はモルガニゼーションと呼ばれました。
多くの投資家たちはモルガンの手がける事業に注目するようになり、さらなる資金がモルガンの元に舞い込むこととなりました。
モルガンは、アメリカ最大の電機メーカーであるGE(ゼネラル・エレクトリック)への投資、いくつもの鉄鋼会社へ投資して統合を促しUSスチールを設立するなど、鉄道以外の分野にも積極的に金融を用いて進出し、金属、石油、石炭、ゴム、製紙、食品、海運、通信など複数の企業を傘下に収めて巨大財閥を形成しました。
USスチールは世界で初めての10億ドル企業(企業としての評価額が10億ドルを超える企業)となり、株式の時価総額は一時14億ドルにもなりました。
こうした巨大企業はともすれば、トラスト(独占)と見られて反発を受ける可能性がありましたが、モルガンは反トラスト法に否定的なマッキンリー大統領に多額の寄付をするなど、経済界にとって都合のいい人物を政治家にするためのロビー活動も行っていて、そのあたりも抜け目のない人物だったといえます。
一方、モルガンは芸術を愛し、博物館や美術館の後援者になっていたほか、大学や病院、職業訓練学校を支援するなど、社会貢献活動にも積極的であったことで知られます。
第二次大戦後は、独占資本や財閥に対するアメリカ国民の反発がさらに大きくなっていったため、モルガン財閥の活動範囲もだんだんと縮小していきましたが、モルガンの名は今でも複数の企業に残っており、彼がアメリカ経済と社会の発展において大きな役割を果たしたことは事実と言えます。
ロックフェラー財閥
引用:money-academy.jp
20世紀に社会・産業において大きな役割を果たした自動車、航空機、船舶は、いずれも石油を使用して動かす乗り物です。
ほかにも鉄鋼や電気などあらゆる工業分野でも石油はなくてはならないものです。
20世紀はまさに石油の世紀と呼べるもので、石油を支配するものこそが経済を支配できる時代でした。
アメリカ屈指の大財閥であるロックフェラー財閥を築いたジョン・ロックフェラーは、石油によって巨万の富を得た石油王といわれる人物です。
ニューヨーク州でフランス系移民の子として生まれたロックフェラーは、経理の仕事を行った後、知人とともに会社を設立しましたがやがて決裂。
ロックフェラーは、石油の精製事業を買収して自らの会社を起こし、これが彼の人生の転機となります。
ちょうどその頃、アメリカでは南北戦争が終わり、鉄道とともに西部の開発が始まっていて、これには大量の石油が必要とされたのです。
石油帝国の誕生
ロックフェラーが設立したスタンダード・オイル社は急成長を遂げ、アメリカでも屈指のガソリン・ケロシンの生産量を誇る企業になっていきます。
ロックフェラーはアメリカで初めて、財産が10億ドルを超える資産家になりました。
ロックフェラーは、ライバル企業の買収には多少強引な手を使うこともためらわず、まず相手に自分の帳簿をみせて、自分がどれほどの人物かということを見せつけ、それでも抵抗する相手は倒産に追い込むことさえしました。
1872年には、クリーブランドでたった4か月のあいだにライバル企業26社のうち22社を吸収合併し、「クリーブランドの虐殺」と呼ばれました。
スタンダード・オイルはアメリカの石油市場を席捲して巨大なトラストを形成し、ピーク時には全米の90%の石油をコントロールし、アメリカだけでなく世界の石油産業を牛耳る石油帝国を築き上げます。
同時に、ロックフェラーは古い石油の流通システムを自社の合理的なものに置き換えるといった経営の効率化を行い、利益を拡大させていきました。
さらに、ロックフェラーは南北戦争で北軍に資金提供したのをはじめとして、軍需産業へも進出し、チェース・マンハッタン銀行、メトロポリタン美術館といった金融、電機のウェスティングハウス・エレクトリックと、鉄鋼、自動車、鉄道、航空機、食品、化学とあらゆる分野の企業を傘下におさめ、モルガンと肩を並べる大財閥へと成長しました。
ロックフェラー家は副大統領になったネルソン・ロックフェラーのように政治家も多く輩出しています。
モルガンとロックフェラーは、もとはライバル関係にありましたが、20世紀後半からはお互いに手を組み、世界に影響力をもつ超大国アメリカの経済を握る存在して、パックス・アメリカーナと呼ばれるアメリカの覇権を実現していくことになります。
ロックフェラー財閥は慈善活動に力を入れていることでも知られ、ロックフェラー自身も若い頃から収入の10%を教会に寄付していました。
社会貢献を行う世界最大規模の慈善団体であるロックフェラー財団を設立し、公衆衛生や医学、芸術などの発展のために、30億ドルを超える基金によって資金提供を行っています。
なかでも、発展途上国の食糧不足を解消するために、収穫量の多い新しい品種の開発を行う「緑の革命」で有名です。
ロスチャイルド財閥
引用:ja.wikipedia.org
ヨーロッパの名家としても名高いロスチャイルド家は、イギリスで金融業を中心とした大財閥を築いている世界最大のユダヤ系金融一族です。
ロスチャイルド家の家訓は、「調和・誠実・勤勉」。
ドイツ語読みではロートシルト家といい、18世紀に貴族相手に資金貸付を行う宮廷ユダヤ人マイヤー・アムシェル・ロートシルトを出発点として、彼の5人の息子たちによって発展していきました。
ロスチャイルド5家の創設
引用:note.com
ロスチャイルド家の紋章には5本の矢をもつ腕が描かれていますが、これは5人の兄弟たちのことを指しています。
長男のアムシェル、次男のザロモン、三男のネイサン、四男のカール、五男のジェームズは、マイアーの死後、アムシェルが父の事業を引き継ぎ、あとの4人はそれぞれ別の国で事業を立ち上げ、ロスチャイルドの5家を創設しました。
アムシェルのフランクフルト家、ザロモンのウィーン家、ネイサンのロンドン家、カールのナポリ家、ジェームズのパリ家をそれぞれに築き、ヨーロッパ中で事業を拡大させていきます。
彼らは5つの家同士で迅速な情報伝達を行えるよう、伝書鳩や独自の駅伝網を整備し、手紙でのやり取りでは情報が漏れないよう、なかにヘブライ語を混ぜるなどして、早くに情報を掴むことでライバルに対して優位に立つことができました。
ワーテルローの戦いでナポレオンがイギリス軍に破れたときにも、これを先んじて知ったロンドン家のネイサンはイギリス公債によって大きな利益を上げました。
当時のイギリスは公債によって戦費を調達していたため、イギリス公債の値上がりを早期に予測できた上、ネイサンは事前にイギリス公債を売りに出して価格を暴落させるという工作も行っていました。
このように、ロスチャイルド家は戦争に関連したビジネスで巨額の利益を上げていることが多かったため、死の商人と非難されることもありました。
ロスチャイルド家は、結婚政策にも熱心で、ベアリング家やギネス家といったイギリスの他の財閥とも親戚関係を築き、さらにはロシア帝国のロマノフ家とも婚姻を行っています。
アメリカのモルガン財閥とも関係が深く、アメリカに渡ったロスチャイルド家の人間はアメリカン・ロスチャイルドと呼ばれます。
ロスチャイルド家はワインとも関係が深く、ボルドーワインのうち最高の格付けを得ている5大シャトーのうち2つがロスチャイルド家の所有で、ワインの銘柄にもロスチャイルドの名を刻んでいます。
現在も、ロスチャイルド家は、エドモンド・ド・ロスチャイルド銀行やロスチャイルド・グループをはじめとする金融分野の巨大グループにその名を残しています。
ロスチャイルド家は、実業家時代のドナルド・トランプ大統領を支援していたともいわれます。
ロスチャイルド家と陰謀論
引用:www.jgs-media.com
あまりに巨大な財閥であり、歴史的にヨーロッパの政治や社会に大きな影響を及ぼしてきたことから、ユダヤ人陰謀論の黒幕とされることも多く、イルミナティや300人委員会の当主はロスチャイルド家の人間が務めているといわれます。
他にも、ソ連の独裁者スターリンが実はロスチャイルド家の血を引く隠し子だったという話や、ロスチャイルド家は日本の天皇家と関係が深く、当主が交代するたびに天皇に挨拶にくるといった様々な真偽不明の伝説があります。
オルガリヒ
引用:ja.wikipedia.org
オルガリヒとは、ギリシア語で「寡頭制」を意味する言葉からきたもので、ソ連崩壊後にロシアやウクライナといった旧ソ連諸国で形成された新興財閥のことを指します。
オルガリヒの成り立ちには2種類あるといわれ、1つがソ連時代に政府のもとで編成された企業集団からできたもの、そしてもう1つが、ゴルバチョフ時代に経済の統制が緩められた際に規模を拡大することに成功した企業から生まれたというものです。
前者は石油や天然ガスといたエネルギー関連や軍需産業の企業が多く、後者には金融系の企業が多いのが特徴です。
オルガリヒと呼ばれているも企業には、世界最大の天然ガス企業であるガスプロム・グループ、ロシア最大の石油企業ルクオイル・グループやジブネフチ・グループ、ロシア最大の金融業アルファ・グループなどがあります。
オルガリヒには、ロシアの88%、全世界の23%の生産量を誇るガスプロムのように、その分野で独占的な地位を占めている企業が多数あります。
さらに、ガスプロムの株式の55%をロシア政府が保有しているというように、政府との距離も近く、中央から地方に至るまで政治家や官僚機構との癒着が指摘されています。
テレビや新聞といったメディアにもオルガリヒの息がかかっており、ロシアの政治には彼らの意向が大きな影響を及ぼしているといわれてきました。
1996年には彼らの意志によるメディア操作でエリツィン大統領を再選させることに成功したといわれます。
政治と企業の癒着は腐敗を招き、国民のなかにはオルガリヒに対する批判的な世論が強まっていきます。
こうしたオルガリヒと政府の蜜月関係を変えたのがプーチン大統領です。
プーチンは自分の意に沿わないオルガリヒに対しては攻撃的な政策をとり、ガスプロムに財務資料の提出を要求したり、ルクオイルを脱税容疑で捜査したりと介入を強め、モスト・グループ総帥ウラジーミル・グリンスキーのように逮捕される者も出ました。
こうしてオルガリヒに対して圧力を強めたプーチンは、これまで政府を利用していたオルガリヒたちを手なづけ、逆に今度は自分のために利用できるようにしたといわれます。
2007年の世界金融危機の際には、苦境に立たされたオルガリヒに対して、プーチン大統領がどの企業を政府の資金によって救済するか決定しました。
現在のオルガリヒたちはすっかりロシア政府に従順になり、プーチン大統領のコントロール下に置かれるようになったといわれ、最近ではプーチンの知人や親族がオルガリヒ化しているとも指摘されるようになっています。
2014年のクリミア紛争やシリア内戦に対するロシア政府の介入にもオルガリヒが関与しているとされ、アメリカのトランプ大統領は2018年4月に、「混乱や憎しみの種を撒く勢力」と非難してオルガリヒに対する制裁を行いました。
日本の四大財閥・十五大財閥
引用:ja.wikipedia.org
日本の歴史における財閥とは、戦前に持ち株会社による巨大なグループを形成して経済界に大きな影響力をもっていた企業の連合体で、多くは創業者の一族が実権を握っているのが特徴です。
日本には多くの財閥が存在していましたが、一番有名なのは三井・三菱・住友・安田の4つ財閥で、これらをまとめて「四大財閥」といい、さらに鮎川・浅野・古河・大倉・中島・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹をくわえて十五大財閥という括りで呼ばれることもあります。
引用:www.mitsuipr.com
日本の敗戦によりGHQによる財閥解体が行われ、各財閥は戦前のような力をもつことはなくなりましたが、四大財閥を筆頭に新たな企業グループを形成していて、三井や三菱といった旧財閥系の企業は現在の日本経済においても大きな地位を占めています。
三井財閥
引用:ja.wikipedia.org
三井財閥は江戸時代に起源をもつ財閥のなかでも最古といえる存在で、伊勢の商人である三井高俊が創業した越後屋三井呉服店(現在の三越)がはじまりとされます。
三井呉服店は、呉服は御用聞きによる訪問販売でツケ払いという当時の常識を破り、店頭に商品を並べての定価販売という方式で庶民の支持を受け、成長を遂げると、幕府の公金を扱う両替商もはじめて御用商人となり、一気に豪商の仲間入りを果たしました。
明治時代以降は、三井銀行や三井物産を創設して、やがて日本最大の財閥へと成長します。
三井財閥は、政治家の井上馨、実業家の藤原雷太、山本条太郎、小林一三といった優秀な人物を多数輩出したことから、ライバルである三菱が「組織の三菱」と呼ばれたのに対して、「人の三井」といわれました。
三菱財閥
引用:ja.wikipedia.org
三井、住友とともに日本三大財閥と呼ばれることもある三菱財閥は、明治時代に土佐藩出身の実業家・岩崎弥太郎によって創業された三菱商会がもとになったもので、他の2つに比べれば歴史の浅い財閥といえます。
菱形を3つあわせた三菱のマークは、土佐藩藩主である山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせた意匠です。
岩崎は、政府と関係の深い御用商人である政商として成功した人物で、三菱商会も明治政府の保護を受け、海運事業を独占し、西南戦争の際には軍事輸送を一手に引き受けました。
その後も現在の三菱重工業のもととなる長崎造船所や三菱倉庫、三菱造船に三菱製紙、キリンビールなど多くの企業を創設し、幅広い分野に進出していきました。
第二次大戦時には軍事分野の需要拡大によって、飛躍的に事業を拡大していきます。
戦後は財閥解体によっていったんバラバラになったものの、重化学工業に強い三菱系企業は日本の高度経済成長を支え、現在も多くのグループ企業が存続しています。
住友財閥
引用:ja.wikipedia.org
住友家は世界の財閥のなかでも最も古い歴史をもっている由緒ある家柄で、もともとは平家の血を引き、室町将軍に仕えていた備中守忠重が住友姓を名乗ったのがはじまりとされます。
その後、江戸時代に住友家の血を引く蘇我理右衛門が銅精錬業をはじめ、やがてその利益をもとに両替商も開いて事業を拡大させていきました。
明治以降は金属・機械・化学工業・鉱業などに重点をおいた投資で発展していき、重化学工業中心で商業部門を持たないことが大きな特徴でした。
終戦時の住友財閥は、投資先企業は120社で、資本金総額は100億円にも上っていました。
戦後は、財閥の協力体制を維持するために白水会が設立されてグループとしての結束を残し、現在は三井系企業との業務提携を多く行っています。
安田財閥
引用:headlines.yahoo.co.jp
明治時代、富山出身の安田善次郎によって創設された財閥で、金融部門に特に強く、日本最大規模の金融資本をもっていたことから金融財閥と呼ばれることもあります。
戦後は富士銀行を中心とした芙蓉グループを形成し、企業グループとしては一応の復活を果たしましたが、一族による経営体制はなくなりました。
現在はみずほフィナンシャルグループに引き継がれています。
鮎川財閥
引用:www.projectdesign.jp
現在の日産自動車にその名をとどめる日産コンツェルンは、創業者・鮎川義介の名前をとって鮎川財閥とも呼ばれます。
第一次大戦後の不況により経営不振となった久川財閥を引き継いだ鮎川によって創設されたもので、名前の由来は日本産業からきています。
日本の満州進出に伴い、満州重工業開発株式会社を創設して勢力を拡大していきました。
現在も、日産のほか、日立製作所、ジャパンエナジー、SOMPOホールディングス、日本水産、ニチレイなど多くの企業がその系譜を引き継いでいます。
浅野財閥
引用:jaa2100.org
コークス販売で成功した浅野総一郎が設立した浅野セメントが起源となった財閥で、渋沢栄一の支援を受けて発展していきました。
傘下に銀行を有していなかったため、資金調達などの面で安田財閥に依存しているという特徴がありました。
戦前は三井・三菱・安田・住友に次ぐ5番目の財閥でした。
戦後は安田系の富士銀行などとともに芙蓉グループを結成し、太平洋セメントやジャパンマリンユナイテッド(旧浅野造船所)などがその流れを汲みますが、戦前から会社名に浅野の名を付けない企業が多かったため、他の財閥と比べて知名度は低くなっています。
古河財閥
引用:http://media-ir.com/
明治時代の1875年に古河市兵衛によって創設された古河本店が起源となっている財閥で、足尾銅山の鉱山開発事業の成功によって発展を遂げました。
現在では、古河電気工業、富士通、横浜ゴムなどの企業がその流れを引き継いでいます。
大倉財閥
引用:ja.wikipedia.org
1857年に大倉喜八郎が開いた大倉屋という乾物店がもとになっていて、その後貿易商となった大倉は、大久保利通や伊藤博文などとの交友関係をもとに財閥を築いていきました。
大倉組商会は日本人による初めての貿易商社で、1874年には日本企業として初となる海外支店をロンドンに開設しています。
現在も、帝国ホテルやホテルオークラ、日清オイリオグループ、日本無線、日本化学工業などの企業がその流れを引き継いでいます。
中島財閥
引用:ja.wikipedia.org
中島財閥は、中島飛行機株式会社として大正時代に中島知久平によって創業された航空機・エンジンメーカーがもとになったものです。
中島飛行機は高い技術力をもち、独自機体やエンジンの開発を行い、第二次大戦までの日本の軍需産業を支え、当時は東洋最大で世界規模の航空機メーカーでした。
主に陸軍向けに一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」、二式戦闘機「鍾馗」、一〇〇式重爆撃機「呑龍」などの開発・生産を手掛け、海軍からの注文も受けるようになり、零戦のエンジンも製造していました。
超大型爆撃機「富嶽」やジェット戦闘機「火龍」の開発も行っており、終戦までに30000機近い航空機を製造しました。
戦後は12社に解体されたうえ、航空機の研究・製造を禁止されて軍需産業からははいじょされたため、スバルとなって自動車産業へと進出しました。
野村財閥
引用:ja.wikipedia.org
野村徳七がはじめた両替店がもとになっており、第一次大戦後の好景気をバネに成長しました。
1918年には大阪野村銀行(現:りそな銀行)を、1922年には野村合名会社(言:野村證券)を設立し、金融資本を中心として財閥になりました。
東南アジアやブラジルにおけるプランテーション、フランス領ニューカレドニアにおけるニッケル生産など海外での事業にも力を入れ、満州にも進出していました。
現在は野村グループなどがその系譜を引き継いでいます。
渋沢財閥
引用:www.saitama-np.co.jp
第一銀行を興したことで知られる渋沢栄一により設立された持ち株会社のことで、グループからは現在のみずほ銀行や王子製紙などが生まれています。
渋沢自身は日本を発展させるために様々な産業や企業を育成することを第一に考えていて、自分の一族が主体となって財閥を形成することにあまり興味はありませんでしたが、渋沢が多くの分野で活躍をおさめるとともにその影響力や資産も増大することになり、GHQによって財閥と位置付けられました。
神戸川崎財閥
引用:ja.wikipedia.org
川崎正蔵男爵が、1878年に松形正義らの援助を受けて設立した川崎造船所がルーツとなっている財閥です。
昭和の金融恐慌の際に後継者の経営の失敗による部下の離反によって財閥としての実態はほとんど失ってしまいます。
しかし、ここから独立したことにより、川崎汽船、川崎重工業、JFEスチールといった現代まで続く有力企業がいくつも生まれました。
理研コンツェルン
引用:ja.wikipedia.org
渋沢栄一によって設立された財団法人がもとになっているもので、現在の理研グループの前身となっています。
今のリコーもこの流れを引き継ぐ企業です。
日窒コンツェルン
引用:ja.wikipedia.org
日窒コンツェルンは、野口尊(したがう)によって1906年に創業された曾木電気株式会社がもとになっているもので、1908年に日本窒素肥料となりました。
石灰窒素や硫酸アンモニウムの製造によって事業を拡大し、朝鮮にも進出して巨大財閥を形成し、創業者の名前から野口財閥とも呼ばれました。
ダムの近くに工場を建設し、水力発電によって供給される豊富な電力によって肥料・火薬を製造するという手法が特徴的で、朝鮮南部の興南には世界屈指の化学コンビナートをもち、朝鮮半島北部の水資源にも注目して鴨緑江周辺の開発を行いました。
敗戦によって主要拠点の朝鮮をはじめとする資産の80%を失い、財閥解体を前に日窒コンツェルンは崩壊しましたが、その流れは現在のチッソや旭化成、積水化学工業、積水ハウスなどに引き継がれています。
日曹コンツェルン
引用:ja.wikipedia.org
日曹コンツェルンは、中野 友禮(なかのとものり)が1920年に創設した日本曹達がもとになった昭和稀の新興財閥です。
中野は大学時代に食塩電解法によるソーダ製造の特許を取得し、その技術を元に会社を設立、ソーダ生産企業を次々と傘下におさめて事業を拡大していきました。
1930年代になると、急速な成長の反動から借入金の増大などにより業績が悪化、中野は対人することになり、戦後にGHQの指令により解体されました。
現在も、日本曹達は会社として継続しており、ほかにも興人、三菱伸銅などが流れを引き継いでいます。
まとめ
以上、世界の財閥を紹介してきました。
日本が近代化していくなかでいくつもの財閥が生まれてきたように、海外でも財閥といわれる一族や企業が生まれ、新興国では今でも新たな財閥が生まれています。
こうした財閥は、その国の経済にとってなくてはならないものになっていることもあります。
財閥は歴史のなかに登場する過去の存在ではなく、現代の社会にも影響を及ぼしており、そうした意味では、今でも大きな存在感をもつものといえるでしょう。